森井友人

 はじめまして。

 筆名ですが、森井友人(ゆうじん) 申します。私は、九州に在住する五十代前半の一市民、一介のドストエフスキー・ファンに過ぎません。と言っても、つい最近までこの「ドストエーフスキイの 会」の存在も知りませんでした。従って、会員でもありません。その程度のファンですので、むしろ一介の文学好きと自称すべきかもしれません。会員ではあり ませんが、ドストエフスキー好きは拒まずという会の開放的な方針の下に、今回このホームページに登場させて頂くことになりました。この間の事情は、後で申 し述べる所存です。

 その前に、まずもって断わっておかなければならないことが二点あります。第一点は、私のこの点検作業はもともと昨年10月に単独で行われたものであって、昨年12月下旬に公開された木下先生とNN氏による新訳の「検証」を受けたものではないということ。第二点は、私はロシア語の読めない一読者であるということです。

  こう打ち明けると、原語の読めない者にどうして点検でき、ましてや誤訳が云々できるのかと訝しむ方も多いと思います。ところが、それができるのです。ま た、できるところに新訳の問題の所在があると私は考えています。それは取りも直さず、丁寧に読んだ一読者が気づくことのできる誤訳・悪訳を、訳者や編集者 が見逃しているという事実、また、書評者や文化人もそれに気づかず推奨しているという事実を、証することになるのです。言い換えれば、訳者、編集者、 書評者(中には専門家もおられます)は、一読者ほどにも丁寧に訳稿や訳書を読まずに、出版し書評しているのではないか、ということです。

  これが、今回私が提起したい問題点です。ただし、関係の方々を責めるのがこの「点検」公開の目的ではありません。訳文に不備はあるものの、新訳が大勢の読 者に受け入れられたのも事実です。新訳で初めてこの大作を読み通したという方も多いと思います。ドストエフスキー・ファンとしてこれはうれしいことです。 受け入れられた最大の要因は、他ならぬドストエフスキーの魅力そのものにあったとファンの私は見ていますが、それだけではないとも感じています。様々な工 夫を凝らした新訳自体の魅力も大きかったに違いありません。ただし、不備があるのもまた事実です。文庫という性質上、長く読み継がれることが想定されます。私の願いは、先の「検証」やこの拙い「点検」をカンフル剤として、新訳が、訳者や編集者によって徹底的にチェックし直され、不備を正され、その上で、 読み継がれることです。

 それでは、今回この「点検」を私が公開するに至った経緯をお話することにします。

 

 評判の新訳を楽しもうと、全巻を購入して読み始めたのが、昨年10 上旬のことでした。亀山先生の著訳書は以前にも拝読したことがあり、また、新訳に対する識者の評や世評も非常に高いものでした。そこで、迷わず全巻まとめ て買いました。ところが、読み始めてみると、すいすい読めるという評判に相反して、これが読みにくい。訳文が頭に入ってこない、言い換えれば、文脈が読み 取りにくいのです。最初は、こちらの頭の調子が悪いのかと思ったのですが、途中でいくらなんでもこれはおかしいと思い、原訳・江川訳を引っ張り出して確認 したところ、やはり誤訳・悪訳です。そう判断したのは、この二つの先行訳だと、その箇所の意味がすっきり通るからです。それまでも引っかかりながら読んで いたので、ここで私は改めて初めから読み直すことにしました。さて、その気になって読んでみると、あちこちに誤訳・悪訳が目に付きます。これまでも誤訳に 気づいた訳書はあります。しかし、今回はその数がちょっと多すぎます。正直なところ、唖然としました。一文ごとに3冊の訳本を逐一照合しながら読んだわけ ではありません。新訳で違和感を覚え、疑問に感じた箇所、とりわけ意味の通じない箇所を突き合わせただけです。その多くが、誤訳ないし不適切な訳と判断さ れました。原典と突き合わせたらどうなるのだろうとも思いました。また、誤訳にもまして、とにかく文脈が読み取りにくいのが気になりました。

 こうして照合しながら第1巻第2編の終わり(241) で読みました。脱落も偶然に1箇所発見しました。もっとあるかもしれません。その後、試しに第5巻のエピローグにざっと目を通したところ、そこにも意味の 通じない訳文があります。この両者の間にはまだ千数百ページが残されています。そこで私は完全に力尽きました。信頼できないテクストを、疑いながら読むほどつらいことはありません。それ以上読み続けることができなくなりました。率直に申しあげて、全巻買った一購買者としては怒りを、一ドストエフスキー・ ファンとしては義憤を覚えました。しかし、これだけの誤訳です。しかも、第1巻が出て1年以上が経っています。とっくに誰かが指摘しているに違いないと考 えて、インターネットで検索してみました。ところが、見当たりません。ただ、第3巻末に「有罪」を「無罪」と取り違える誤訳があったらしく、それは、ネッ ト上で指摘されて、既に増刷の際に訂正されていました。しかし、それだけです。それ以外に誤訳を指摘したサイトは見当たらないのです。悶々として数日過ご しました。そして、このままでいいはずがないと決心し、もう一度確認した上で、出版元に電話したのが、1030 のことです。直接の編集者の方とお話しすることができました。私は、第2編まで、およびエピローグの明らかな誤訳を7〜8箇所、脱落を1箇所、そして、日 本語の不備を1箇所ほど告げました。丁寧に話を聞いてくれました。私は、気づいた誤訳・悪訳は他にもかなりあること、全巻では膨大な数に上ると見られるこ と、また日本語にも問題があること、よって全面的な再点検が必要であることを語り、これまでにこのような指摘はなかったかと尋ねました。すると、「初めてだ」との返事でした。「誤訳はこれまでも増刷の際に直しており(第3巻のことでしょうか)、原文との検証作業は今も続けている(順序からして、ちょっと不思議です)、貴重な意見として訳者に伝える」というのが編集者の回答でした。

 読書家の友人にも相談しました。彼は、新訳は読んでいませんでしたが、ネットに詳しく、思いもかけず、amazon 読者レビューへの投稿を勧めました。インターネットが開通してまだ1年余りで、アドレスはあるもののメールすらやったことのない私には抵抗がありました。 匿名で批判するのも嫌でした。といって、実名を出す勇気は小心者の私にはありません。それに、私の指摘を受けて出版社が何とかするのでは、という淡い期待 もありました。

 こうして、12 を迎えました。書店で確かめたところ、相変わらずそのままで増刷しています。急には難しいとしても、脱落箇所さえ補われていません。ネット上にも、噂はあれども、実際の批判や検証はありません。指摘が訳者に伝えられていない可能性もあります。このままではいけないとの思いはいよいよ募り、1212日に私は、思い切ってamazonに投稿しました。事実を述べているとは言え、匿名で批判することに対する居心地の悪さに胃が痛くなり、掲載後、一時削除しましたが、友人に促されて再投稿しました。(自動的に最初の投稿の日付になるようです。) それが、現在yuzinの名で載っているレビューです。今から見ると、少しぶっきらぼうすぎる嫌いがありますが、ここに私の考えがコンパクトにまとめられています。文意が通りにくいとするレビューが他にあることも知りました。

 そうした折に、昨年末、私はネット上に「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する」を発見したのです。胸のつかえが降りる思いでした。専門家は何をしているのだと歯がゆい思いをしていただけに感慨ひとしおでした。肩の荷が降りる思いでもありました。

  「検証」を読んだ感想を一言でいうと、非常に参考になった、これに尽きます。ドストエフスキー理解が深まったとも感じました。もう一つ感じたのは、ドスト エフスキーへの愛でした。NN氏は、商社の仕事をこなしながら、検証の労作業に取り組まれたわけです。また、木下先生は、作業の監修をされると同時に、批判する側の責任を引き受け、その後に予想される荒波をかぶる覚悟で公開に踏み切られたのでしょう。その根底に、ドストエフスキーへの並々ならぬ愛があると 私は感じました。もちろん、亀山先生も同じ愛情をお持ちであることは言うまでもありません。だからこそ、とにかく読み通せる訳書を作ろうとなさったので しょう。その工夫はよかった。ただ、基礎固めとチェックに甘さがあったのは否めません。そして、それはかなり重大なことと思われます。

  さて、この「検証」と、公開された木下先生ご自身の気骨に感じるところのあった私は、「前文」末の「亀山訳に魅せられ、愛読した読者にこそ、この検証作業 を捧げたい」とう言葉に注目し、自分のレビューに、「検証」の存在を知らせる追記を付すことにしました。寄せられたレビューから判断して、amazonの来訪者の多くがそういう読者であろうと推測できたからです。そういう読者に「検証」を見てもらいたいと考えました。これは、決して皮肉ではありません。初 読者が多く、作者と作品への飾りのない賛辞は、ファンにとってうれしいものです。今回、新訳によってドストエフスキーの凄さに目覚めた読者も多いことで しょう。これは新訳の最大の功績です。彼らのドストエフスキーに対する熱は冷めてほしくない。けれども、実状はやはり知られなければなりません。でない と、翻訳の質の向上は望めません。これは、私のような原語の読めない外国文学好きには困りものです。また、書評者にも(仮に今回のブームに寄与するところ があったにしても)もっと責任をもって仕事をしてほしい。実状を知った上で、それでも、ドストエフスキーは面白い、深い、凄いと感じて、特に若い読者が、 よりよい再読へ、また、別の作品へと向かってくれること。これが、五十の峠を越した一ドストエフスキー・ファンの願いです。そのためにも、新訳の改訂は必要と感じます。

  1月の初め、私は、全く面識のないまま、木下先生に手紙を出しました。一つには、「検証」の存在を勝手にレビューに書き込んだ断りを入れるためです。この ことで、万が一にも先生にご迷惑がかかるようだったら、追記をすぐに削除する旨お伝えしました。(その後も、会のホームページの閲覧数の増加率に変化がないのを見て、心配するがものはなかったと悟りました。)手紙を出したもうひとつの理由は、私の点検作業が少しでもお役に立てばと思ったからです。先の「検 証」は網羅的なものでなく、実際の誤訳はもっと多いだろうと「前文」に語られていますが、その通りです。私はあの後、昨年11月に第3編にもざっと目を通していました。偶然にも、私の点検作業は「検証」と同じ第1巻の全体を対象にしていたことになります。これももとより網羅的なものではないのですが、この第1巻で私が誤訳と判断したおよそ30箇所のうち、「検証」と重複するのは7箇所だけです。この他に、「検証」が取り上げていない悪訳や日本語の不備が相当数あります。その内容をお知らせしたいと考えた私は、手っ取り早い方法として、新訳第1巻を新たにもう1冊買い求め、該当箇所に朱書して、これを一覧表とともに同封することにしました。

  この手紙を出して、これで後は専門家に任せればよいと、気が楽になりました。ところが、それで終わりになりませんでした。手紙を読まれた木下先生から電話 があり、私の点検作業を「検証」に活かしたいとのこと。そして、その方法を検討する中から、今回のこの「一読者による点検」の形が浮かび上がってきまし た。私の作業は、学問的に価値のあるものではありません。これに意味があるとすれば、それは、この点検がまさにロシア語の読めない一読者によってなされた 点にあると考えます。それによって、今回の翻訳、出版、書評の仕事の質を問い、一ドストエフスキー・ファンとしての願いをストレートにぶつけることもできるからです。

  多くの読者が、誤訳・悪訳に気づかなかったのも不思議です。この点について考えてもらう契機になるのではないかとも考えました。これについては、背景とし て、書評者や文化人の推奨、そして、メディアの取り上げ方もあると思われます。これらを集中的に浴びて、読者は、大げさに言えば、一種のマインド・コント ロールの状態にあった、また、今もある、のかもしれません。かくいう私も、そうだったわけです。これは、自分を誇ろうというのではありません。私はただ理 解しようとゆっくり丁寧に読んだだけです。他にも気づかれた方はきっとあると推測しています。逆に言えば、読者の多くは、物語に引き込まれて読むのに加速 がつき、細部が気にならなかったのだろうと考えられます。これはよくあることです。(しかしながら、細部は文学の命でもあります。)それにしてもやはり不 思議です。著名な文化人でさえ気づかずに直接・間接に推奨したのですから。一考に値する現象だと思います。

  ところで、そもそも、なぜこの誤訳・悪訳が生じたのか。その原因については、推断すべき具体的材料を持ち合わせませんので、行きすぎた臆測は差し控えます。ただ、少し急ぎすぎたのでは、とは思います。訳出、校正、出版を併行して進めるのはかなり苦しいのではないでしょうか。これは、新訳に限ったことでは ありません。読者としては、全部訳し終わってしばらく間を置いた後、さらに全体を見直してから出版してほしいものです。チェックに問題があったのも確かで しょう。

  最後に、もう一つお断りしておきたいことがあります。それは、タイトルは便宜上「新訳の点検」となっているものの、この「点検」は基本的に、あくまで新訳 第1巻に係るものであるということです。点検していない残りの部分について論議するものではありません。ましてや、亀山先生の他の仕事に係るものでは全く ないということです。ショスタコービチの好きな私は、先生による関係の訳書に随分お世話になりました。また、『ドストエフスキー 父殺しの文学』は資料が 豊富で重宝させていただいています。学長としてのお仕事も激務と拝察しております。拝察してはおりますが、最初に述べましたように、機を見て、新訳の改訂 作業に取り組んでいただけたら、と願っております。それまでのことは私の云々すべきことではありますまい。

  点検作業は、どうしても他人の欠点をあげつらう形にならざるをえず、決して心地のいいものではありません。それに、本来なら、これは出版社の責任でなされるべきものですし、さらに本来なら、出版前に徹底的になされるべきものです。「検証」にしろ、「点検」にしろ、万やむをえず行われるものとご了解ください。その中に、ドストエフスキー理解に寄与するものが少しでもあれば、幸いです。ドストエフスキーへの愛がすべてを大きく包んでくれることを願っていま す。

  以下、「点検」本体の体裁について説明します。次の順で並んでいます。

  1 新訳の訳文

  2 森井の疑問(なぜ、その箇所に疑問を感じて先行訳を参照したかを中心に)

  3 原訳(新潮文庫2004年改版、初版=1978)

  4 江川訳(集英社版世界文学全集第45巻、1979年刊、現在絶版)

  5 ロシア語原文

  6 NN氏による解説

 

  ここで原訳、江川訳を掲げたのは、それによって翻訳の優劣を論じるためではありません。これは、私が実際に参照したものであり、また、これによって、読者 自身に判断していただけると考えたからです。しかし、最終的な検証は原文との校合作業に委ねられなければなりません。今回もNN氏にその労をとっていただくことになりました。タイトルの「点検」もこれに由来します。私が行ったのはあくまで点検、もっと正確には照合作業あり、上の1〜4がこれに当たります。 その後の5〜6がNN氏による検証部分です。作業もこのように分担され、互いの手元にある私の訂正入り新訳第1巻を介して行われました。以下の「点検」で は、ここから49箇所が引用され、合わせて56例について問題を指摘しています。その後私は新訳を読み返しておらず、これら全ては昨年1011月に拾い出されたものであり、後で追加したものは1例もないことを付言しておきます。

全体の校閲は、ロシア文学・ドストエフスキー文学の専門家である木下先生にして頂きました。

付記

 前書きをここまで書き、作業もほぼ終了した時点で、新たな事態が発生しましたので、ここに報告しておきます。

 2月上旬、書店に寄って、新訳第1巻の増刷第20(130日発行)を手に取った私は、238頁の脱落が補われているのに気がつきました。これだけは直してほしいと気になっていた箇所です。さらに、「検証」でもまた私のレビューでも取り上げている7475頁の誤訳も訂正されています。第19(110日発行?)にはなかったことです。これはうれしいことです。他の箇所がどうなっているか知りたくなった私は、この第20刷を買い求めました。確認してみると、昨年10月末に直接編集者に指摘した7箇所(脱落含む)の全てが直されています。ただし、1箇所(180)は2例を含み、内1例はそのままで訂正されていません。また、別の1箇所(92)は、驚いたことに、より悪くなっています。

続いて私は「検証」とも照合してみました。「検証」には全部で74箇所が取り上げられていますが、その内の26箇所で指摘に従って訂正が入れられていました。中には、並置されている米川・原・江川の3訳がそろって誤訳(不適切訳)となっているのに、新訳だけが正しくなっている箇所(178416)もあります。しかし、8箇所については、直されてはいるものの、なお不十分です。残った48箇所についても、見解の相違ではなく、明らかな誤訳のケースもあるのに、なぜそれを訂正しないのか不思議でした。ともあれ、この両者(私の指摘と「検証」)で重複する1箇所(7475)を含めて、合計32 所に不十分とはいえ手が入れられています。それ自体は決して悪いことではなく、歓迎すべきことです。少しでもよくしようとされたのでしょうし、そもそもそ のための指摘でもあるのですから。ところが、さらに調べていって少し悲しくなりました。というのは、今回この「点検」で取り上げている49箇所(56)の内、昨年直接指摘した7箇所と、「検証」の指摘に副って直されたもので「点検」とも重複する4箇所(4145203325頁、これも4つとも不十分です)を除いた38箇所については、全く手が着けられていなかったからです。第20 を、最初に買った第9刷と逐一比べたわけはありません。しかしながら、「検証」および昨年の私の指摘を下敷きにして、それに限って訂正を施したことはほぼ 確実と思われます。これは残念でした。というのは、昨年直接指摘した際に、編集者も私が挙げた箇所以外は訊いてこなかったし、こちらも私のようなロシア語 の出来ない一読者よりプロに任せた方が確かだと思っていたからです。また、訂正ないし改訂するからには、訳者、編集者、出版社が自らの責任において、全巻 にわたって網羅的かつ徹底的にチェックするものという期待がありましたし、社会的道義的にそうする義務があるのではないかと感じてもいたからです。じつの ところ、第1巻はこれでまだましになったとして、(私は読んでいないものの)2巻以降はどうするのだろうと心配になりました。(第5巻エピローグの、編集者に指摘した箇所は、その巻がまだ増刷されていないからでしょう、いまだ直っていません。)色々な意味で、この「点検」はやはり公開されなければならないようです。

 第119刷を手にされて関心をお持ちの方もおられると思いますので、以下に、私が確認した第20刷訂正箇所のページ一覧を掲げます。@についてはこの「点検」の本体を、Aについては先の「検証」の該当ページをご参照ください。*印付きは私が不十分と判断したものです。(但し92頁はより悪くなっています。)

 @昨年直接指摘したもの

74*92159160161*180238

A「検証」で指摘されたもの

*22*41457482122125138*162178184*203*204

215218219259269*295*312314318*325354380416

 なお、@の7箇所、および、「点検」と重複するAの4箇所については、「点検」本体の各該当箇所末に「森井追記」として第20刷での訂正状況を報告しています。

   さて、思わぬ事態で、長い前文がますます長くなりました。いよいよ、点検です。前述のように、疑問箇所、特に意味の通らない箇所を先行訳と照合したわけで すが、中にはその過程でたまたま目に入って気づいたものもあります。それから、最初の「著者より」に関しては、この部分から既に読みにくさを感じていた私 は、その原因を探りたいと考えて、ここに限って、全文を先行訳と比べてみました。その結果と、ご承知おきください。また、第3編については、もはや力及ばず、ざっと目を通して気づいたもののみが挙げてあります。なお、先の「検証」と重複する7箇所についても、上記報告も兼ね、また、観点の違うものもありま すので、日本語のみ訳書のみで分かる例として、そのまま載せました。

 <凡例>

・各訳書の後の数字は引用の始まったページを表します。従って、問題箇所そのものは次のページにある場合もあります。

・読者の便を考慮して、新訳の所々に(  )書きで説明を補いました。

 例えば、彼(=アリョーシャ)、など。

・先行訳の引用は、簡略化のため一部を省略したものがあります。

       「森井の疑問」には、疑問以外のコメントの入ることもあります。

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