点 検

 

新訳『カラマーゾフの兄弟』第1巻

 

 

 

 

 

著者より

  新訳10

わたしにいわせると彼(=アリョーシャ)はたしかにすぐれた人物なのだが、そのことを読者にしっかり証明できるのか、じつのところきわめて心もとない要するに彼は、たぶん実践家ではあっても、あいまいでつかみどころのない実践家なのである。

森井の疑問

第一文と第二文の関係がつかみにくい。第二文は本来、第一文の「心もとない」理由を説明しているのではないか?

原訳10

わたしにとって彼はすぐれた人物であるが、はたして読者にうまくそれを証明できるかどうか、まったく自信がない。要するに、彼はおそらく活動家ではあっても、いっこうにはっきりせぬ、つかみどころのない活動家である、という点が問題なのだ。

江川訳 7

私にとってこそ確かに注目すべき人物に相違ないのだが、そこのところをうまく読者に証明できるかどうか、私にはまったく自信がない。問題は、おそらくこの男もいわゆる活動家の部類に属する人間なのだろうが、それがなんともあいまいな、明確さを欠いた活動家だという点にある。

 

Для меня он примечателен, но решительно сомневаюсь, успею ли это доказать читателю. Дело в том, что это, пожалуй, и деятель, но деятель неопределенный, не выяснившийся.

解 

(by N.N.)

 原文の第二文はДело в том, что ヂェーラ・フ・トーム・シトー という慣用表現で始まっており、その意味は「何処に問題が存するかというと、それは……」で、以下に問題の所在の説明が続きます。当該個所で名詞Дело ヂェーラ(問題)が受けているのは第一文全体です。新訳では、指摘のとおり、二つの文の論理的な脈絡が不明確。この理路をはっきりと示すためには「彼は、たぶん実践家ではあっても、あいまいでつかみどころのない実践家であるということが問題なのだ」というような(若しくはそれに準じる)修正が必要でしょう。

 

 

 新訳10

しかし風変わりであったり変人であったりするというのは、たしかにそれで世間の注意を引くことはあっても、むしろ害になる方が多い。とくに@昨今の混乱をきわめる時代、Aだれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、B何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代はなおさらである。

森井の疑問

 先行訳では明快に感じられる@・A・Bの3フレーズのつながり(論理の流れ)が、新訳でははっきりしない。これは、新訳で@、そして、A〜Bと区切り、両者を同格として訳しているからではないか。@の訳し方に難点がありそうだ。

原訳10

しかし、変人ぶりや奇行は、世の注目をひく資格を与えるというより、むしろ損なうものである。特に、Aだれもが個々の現象を総合して、@全体の混乱の中にBせめて何らかの普遍的な意味を見いだそうと志しているような時代にはなおさらのことだ。

江川訳 7

しかし変わっているとか、変人癖があるとかいうのは、むしろマイナスに働く要素であり、わけてもA世人一般が個別を総合して、@全般的な混迷の中にBせめてなんらかの共通の了解を見出そうと努めている現代にあっては、なおさらそうである。

 

Но странность и чудачество скорее вредят, чем дают право на внимание, особенно A когда все стремятся к тому, чтоб объединить частности B и найти хоть какой-нибудь общий толк @ во всеобщей бестолочи.

解 

(by N.N.)

 「全体にわたる混沌の中で(“во всеобщей бестолочи ヴァ・ヴスェオープシチェイ・ビェースタラチィ”)、だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代においては、(風変わりであったり変人であったりすることは)なおさら(害になる)」というのが原文本来の意味で、ここのポイントは、《普遍化を指向する時代》の趨勢と、これに逆らうものとしての《奇人性・変人性》の対比です。

 しかし、下線部を「昨今の混乱をきわめる時代」と変に意訳(?)してしまっては、肝心の対比の焦点が暈けてしまいます。

 

 

  新訳11

しかしここでひとつやっかいなのは、伝記はひとつなのに小説がふたつあるという点である。おまけに、肝心なのはふたつ目のほうときている。                        

重要なのは第二の小説であり、これは、すでに現代、つまり現に今の時代におけるわたしの主人公の行動である。

森井の疑問

 同一義の語句が近接して反復されているのは奇異に感じられる。原文にこのような冗語的反復はないのではないか。

原訳11

だが、困ったことには、伝記は一つだが、小説は二つあるのだ。重要な小説は二番目のほうで、これは、すでに現代になってからの、それもまさに現在のこの瞬間における、わが主人公の行動である。

江川訳 8

ところが困ったことに、私の場合、一代記のほうはもともと一つなのに、小説は二つになっているのである。中心になるのは第二の小説で──これは、わが主人公の現代における、つまり、今現在の時点における活動を扱っている。

 

<…> но беда в том, что жизнеописание-то у меня одно, а романов два.  Главный роман второй ― это деятельность моего героя уже в наше время, именно в наш теперешний текущий момент.

解 

(by N.N.)

 指摘のとおりです。原文では Главный роман второй グラーヴヌイ・ラマーン・フタローイ (大事なのは第二の小説であり)” とあるだけです。反復はありません。

 

 

  新訳12

@ そうは言っても、この小説が「全体として本質的な統一を保ちながら」おのずとふたつの話に分かれたことを、わたしは喜んでいるくらいだ最初の話を読み終えた段階で、読者のみなさんはこれから先、第二部を読みはじめる価値がはたしてあるかどうか自分で決めることになる

A むろんだれにも、なんの義理もないのだから、最初の短い話の二ページ目で本をなげだし、二度と開かなくたってかまわない。しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何が何でも終わりまで読み通そうとするデリケートな読者もいる。たとえばロシアの批評家というのは、押しなべてそういう連中である。

B というわけで、そういう読者が相手だと、こちらとしてもじつにやりやすい。だが彼らの律儀さや誠実さをありがたく受け止めるにしても、わたしとしてはやはり小説の最初のエピソードでこの話を放り出してもよいよう、ごくごく正当な口実をみなさんに提供しておく。

森井の疑問

@ 第一パラグラフにおいて、第二文は、第一文で「わたし」が「喜んでいる」、その理由を説明しているはずである。ところが、これを受ける第二文は「読者のみなさんは自分で決めることになる」となっている。これは、「喜んでいる」理由としては表現がいささか奇妙ではないか。

A 第一パラグラフにある「最初の話」(つまりこの小説)および「第二部」(書かれなかった続編)との対比から判断して、第二パラグラフに「最初の短い話」とあるのも、実はこの最初の小説のことを指しているのではないか。それとも、第一編第一章の短い話のことなのか。 

B ここで突然「みなさん」と呼びかけられたのでちょっと驚きました。

みなさん」とは通常、読者一般を指す。ここで話題になっているのは、批評家めいた読者のことである。ここは「彼らに」、ないし、せめて「批評家のみなさんに」とすべきではないか。

原訳12

@ とはいえ、わたしは、自分の小説が『全体としては本質的な統一を保ちながら』ひとりでに二つの話に分かれたことを、むしろ喜んでさえいるほどだ。最初の話を読めば、第二の話にとりかかる価値があるかどうか、あとは読者が自分で決めてくれるだろう

A もちろん、だれ一人、何の義理もないのだから、最初の話の二ページくらいで本を投げだし、二度と開かなくとも結構だ。しかし、公平な判断を誤らぬため、どうしても最後まで読みとおそうとする親切な読者もいるのである。早い話、ロシアの批評家はみなそうだ。

B だから、そういう読者に対しては、やはりこちらも気が楽である。その人たちの律義さや誠実さにもかかわらず、やはりわたしは、この小説の最初のエピソードで話を放りだせるような、きわめて正当な口実を与えておくことにしよう。

江川訳 8

@ それはともかく、私は自分の小説が《全体としての本質的な統一を保ちながら》おのずと二つの小説に分かれたのを、むしろ喜んでいる。第一の物語を読んだ読者なら第二の物語をひもとくに値するかどうかは、もう自分で決めてくれるだろう

A むろん、だれがなんの束縛を受けているわけでもないのだから、第一の物語の 二ページ目あたりで本をほうり出し、それっきり二度と開いてみなくても、それはいっこうにかまわない。しかし、なかにはすこぶる慎重な読者もいて、公平な 判断を誤らぬために、どうあっても最後まで読み通そうという場合もあるわけで、たとえば、わがロシアの批評家諸君などは例外なくその口である。

B まあ、こういう読者が相手なら、私もだいぶ気が楽というものだが、彼らがもっとも几帳面であり、良心的であることをゆめ疑うものではないとしても、やはり彼らに対しても、小説の最初のエピソードのあたりで大威張りで本を投げ出せる口実を与えておくことにしたい

 

@Впрочем, я даже рад тому, что роман мой разбился сам собою на два рассказа «при существенном единстве целого»: познакомившись с первым рассказом, читатель уже сам определит: стоит ли ему приниматься за второй? AКонечно, никто ничем не связан; можно бросить книгу и с двух страниц первого рассказа, с тем чтоб и не раскрывать более. Но ведь есть такие деликатные читатели, которые непременно захотят дочитать до конца, чтобы не ошибиться в беспристрастном суждении; таковы, например, все русские критики. BТак вот перед такими-то все-таки сердцу легче: несмотря на всю их аккуратность и добросовестность, все-таки даю им самый законный предлог бросить рассказ на первом эпизоде романа.

解 

(by N.N.)

@ 引用訳文の第一パラグラフは、原文でも二つの文で構成されているが、「. (ピリオド)」ではなく「: (コロン)」で繋がれており、結果的には一つの文となっています。新訳ではコロンの代りに句点を打って、二つの文として訳出しているわけで、そのこと自体に問題はありません。問題は原文の「: (コロン)」が正しく訳出されているか否かです。文脈に照らすに、この「: (コロン)」は「前文の後に説明・理由の文を接続詞なしで続ける」という用例であるのに、新訳の第二文には第一文の理由説明としてのニュアンスが出ていない。また、「決めることになる」という第二文の末尾は、原文にはない原著者の押しつけがましさを感じさせることにもなりかねず、文体の視点から見て不適切と思われます。「決めてくれるであろう」というように、理由説明のニュアンスは示しつつも、原文にない他のニュアンスは付与せぬよう工夫すべきでしょう。

A 第一パラグラフの「最初の話」と「第二部」は、原文では первый рассказ ピェールヴイ・ラスカース(第一の物語)” второй (рассказ) フタローイ・(ラスカース)(第二の物語)”であり、文中では、そこで果たす機能により格変化しているものの、表現は統一されています。第二パラグラフの「最初の短い話」の原語も первого рассказа ピェールヴァヴァ・ラスカーザ(第一の物語)”で、これは最初の小説のことです。「短い」という語はどこにもありません。但し、この形容詞が唐突に現れた理由は察しがつきます。ロシア語では「小説」を意味する言葉が三つあります。 роман ラマーン(長編小説)”、“повесть ポーヴェスチ(中編小説)”、“рассказ ラスカース ( 短 編小説)”。このうち三つ目の「 短 編小説」を意味する рассказ ラスカース 「物語」を意味する рассказ ラスカース と全く同じ単語で、その意味解釈は文脈に委ねられます。「話」の前に「短い」という不可解な形容詞が現れたのは、おそらくこの単語の語義を巡る混乱によるものでしょう。

B 最終パラグラフ第二文の最後にある「みなさんに」の原語は“им イーム”で、これは三人称複数代名詞 они アニー(彼ら)”の与格形、「彼らに」という意味。問題はこの「彼ら」が何を指しているか? それが「読者のみなさん(読者一般)」でないことは明らかなので、「みなさんに」というのはやはりおかしい。と言って、「批評家のみなさんに」とするのも拙い。「彼ら」が指しているのは「公平な判断を誤らないため、何が何でも終わりまで読み通そうとするデリケートな読者」のことであり、「(ロシアの批評家(たち)」はその一例として挙げられているに過ぎない。 ここは、ごく普通に 彼らに としておくのが一番よいと思います。

 

 

 

 

 

1

 

第1編 ある家族の物語

 

1 フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ

  新訳19

彼女(=アデライーダ)にしてみれば、たぶん女性の自立を宣言し、社会的な制約や、親戚、家族の横暴に反旗をひるがえしたかったのだろう。そこで彼女は、たとえ一瞬にせよ、【たんに居候の身にすぎないフョードルが、よりよい未来へ向かう過渡の時代に生きるこのうえなく勇敢でシニカルな男性のひとりである】という、おめでたい空想のとりこになった(そのじつ、彼は腹黒い道化でしかなかったが)。

森井の疑問

第二文に違和感を持った。【   】内が「おめでたい空想」、つまりアデライーダの思考の中身である。そこだけ読んでいただきたい。この文では、「たんに居候の身にすぎない」と、フョードルの最終的な正体をすでに見破っているにもかかわらず、彼を夢想の対象としていることになり、矛盾する。先行訳は第二文のみ掲げる。主語は、アデライーダである。

原訳17

あるいはまた、フョードルなどという男は本当は意地の悪い道化以外の何物でもないのに、心に甘く媚びる想像力に説き伏せられて、あの人は居候の地位に甘んじてこそいるものの、やはり、よりよい明日をめざすこの過渡的な時代のもっとも勇敢な、嘲笑的な人間の一人なのだと、ほんの一瞬にせよ、思いこんだのかもしれなかった。

江川訳12

そして、得手勝手な空想のおもむくまま、実際にはたんなる腹黒い道化にすぎないフョードルのことを、ほんの一瞬にせよ、いまでこそ居候に身を落としているが、実は、万事が進歩へと向かいつつあるこの一大転換期にあって、もっとも勇気のある、もっともシニカルな男性のひとりに相違ない、と思いこんでしまったのだろう。

 

Ей, может быть, захотелось заявить женскую самостоятельность, пойти против общественных условий, против деспотизма своего родства и семейства, а услужливая фантазия убедила ее, положим, на один только миг, что Федор Павлович, несмотря на свой чин приживальщика, все-таки один из смелейших и насмешливейших людей той, переходной ко всему лучшему, эпохи, тогда как он был только злой шут, и больше ничего.

 説

(by N.N.)

 該当箇所の逐語訳を試みると「お節介な空想が、ほんの一瞬とはいえ、彼女に思い込ませた」となる黒字イタリック表記部分が先ず最初にあって、続く【   】内が彼女の思い込みの内容を示すという構文になっています。【フョードル・パーヴロヴィッチは、その居候という身分にも拘らず、やはり、すべてのよきものを目指す過渡的な時代における最も大胆且つ嘲笑好きな人間のひとりであるということを】 というのがその内容。これはアデライーダの意識を伝える言葉です。イタリック表記部分全体を整理すると、「余計な空想に唆された彼女は、身分こそ居候だ が、フョードル・パーヴロヴィッチは、やはり、すべてのよきものを目指す過渡的な時代における最も大胆且つ嘲笑好きな人間のひとりであると、ほんの一瞬と はいえ、思い込んでしまったのだった」というほどの意味になります。

 「たんに居候の身にすぎないフョードルが」という訳は、本来アデライーダの意識を写している登場人物の言葉を、語り手の客観的な言葉に移し替えてしまっており、そのため、文意に大きな齟齬が生じています。

 

 

 

3 再婚と二人の子供たち

  新訳30

二度目の妻となったソフィア・イワーノヴナは、これまたたいへん若い他県の出身者で、フョードルが仲間のユダヤ人と、小口の仕事でそこに立ち寄ったさいに見つけた相手だった。

森井の疑問

あれ、アデライーダも他県の出身者だったっけ、と一瞬思いました。いや、いや、17頁に、最初の妻はこの土地の名門の出身、とあります。せめて「若い」の後に、読点があればよかった。

原訳27

二度目の妻は、ソフィア・イワーノヴナという、これも非常に若い女性で、他県から迎えたのだが、彼はユダヤ人かだれかと組んである小口の請負仕事でその県に寄ったのだった。

江川訳17

この二度目の妻というのが、やはりたいへんに年若い女性で、ソフィア・イワーノヴナといい、フョードルがあるユダヤ人と組んで、つまらぬ請負仕事のために他県へおもむいたとき、そこで見つけたのだった

 

Взял он эту вторую супругу свою, тоже очень молоденькую особу, Софью Ивановну, из другой губернии, в которую заехал по одному мелкоподрядному делу, с каким-то жидком в компании.

解 

(by N.N.)

 訳語へのきめ細かな配慮が足りない例です。

 ご参考までに、節の順序どおりに原文該当箇所を逐語訳すると―「彼が迎えた二人目の妻は、これまたたいへん若い女性で(тоже очень молоденькую особу トージェ・オーチン・マロージェンクウユウ・アソーブウ、ソフィア・イワーノヴナといい、他県の出身者で(из другой губернии イズ・ドゥルグーユウ・グウビェールニィ、その県へ彼が出掛けたのは一つの取るに足らぬ請負仕事のためで、どこかのユダヤ人風情も仲間として同行していた」となり、原文では、語の配置からして、「これまた(“тоже トージェ”)」が「たいへん若い女性(“очень молоденькую особу オーチン・マロージェンクウユウ・アソーブウ”)」だけに掛かるのか、それとも「他県の出身者(из другой губернии イズ・ドゥルゴーイ・グウビェールニィ)」にも掛かるのか、読者が困惑することはありません。

 

 

新訳31

しかし、そもそもよその県の話であるし、まして養育者の家に残るぐらいなら川に身投げしたほうがましとまで思いつめた十六の娘(=ソフィア)に、なにが理解できたというのか。こんな次第で、哀れな娘は慈善家から貧乏人の男(=フョードル)に乗り換えたのである。

森井の疑問

これは変である。なぜなら、フョードルは最初の結婚の時こそ確かに貧乏だった。けれども、アデライーダの二万五千ルーブルに及ぶ持参金をせしめて、今や彼は資産家である。原文に「貧乏人の男」に相当する語のないことは、「検証」の該当ページで触れられています。

原訳29

(…)というわけで、哀れな少女は恩人を女から男へ取りかえたのだった。

江川訳18

(…)こうして哀れな少女は、ただ恩人を女性から男性に取り替えただけのことになった。

 

Но дело было в другой губернии; да и что могла понимать шестнадцатилетняя девочка, кроме того, что лучше в реку, чем оставаться у благодетельницы. Так и променяла бедняжка благодетельницу на благодетеля.

解 

(by N.N.)

 言及のとおり、これは先の「検証」でも取り上げた個所で、原文に「貧乏人の男」に相当する語はなく、あるのは「男の慈善家(благодетеля ブラガヂェーチェリャ)」です(尚、その前の「慈善家」も、正確には「女の慈善家 [благодетельницу ブラガヂェーチェリニッツゥ] )。

 

 

新訳41

そしてこの青年(=イワン)は、そんな父親の家にひと月ふた月と一緒に住んで、たがいに申し分なくうまくやっている。この「うまくやっている」ところが、わたし(=語り手)ばかりか、ほかの多くの人たちをとくに驚かせたのである。

 ところで、先にも述べたフョードルの先妻の遠縁にあたるピョートル・ミウーソフが、住みなれたパリから戻り、郊外にある自分の領地に当時たまたま居合わせていた。わたしの記憶では、前々からひどく関心を寄せていた@この青年イワンと知り合ってだれよりも仰天したのが、ほかならぬミウーソフだった。A彼はイワンとは、いささか内心の苦痛を覚えながら、ときどき知識を競いあった仲だったからである。

森井の疑問

@でミウーソフが何に「仰天した」 かは、「検証」で明示されている。青年イワンに驚いているのではない。新訳でいえば、前の段落の内容、つまり、イワンのような知識人がフョードルとうまく やっていることに誰にもまして驚いているのである。それがうまく把握されず、ここで改行を入れ、「ところで」と話を変えてしまったのであろう。

もう一つ気になるのは、Aである。これを読んだとき私の頭は少々混乱した。ミウーソフは当地でイワンと知り合ったばかり。なのに、二人は「ときどき知識を競いあった仲だった」とは妙である。「ABとは〜した仲だった」とは、通常、両者の間にそれ以前に親交があったことを意味するはずである。

原訳37

ところで青年はそんな父親の家に落ちつき、ひと月、ふた月いっしょに暮らしているのだが、どちらもこれ以上はとても望めぬくらい仲よくやっているのである。最後のこの点にはわたしばかりでなく、他の多くの人たちも、とりわけおどろかされた。すでに述べた、先妻の縁でフョードルの遠い親戚にあたるミウーソフが、たまたまこのころ、もうすっかり定住していたパリから戻ってきて、また郊外の自分の領地で暮らしていた。今でもおぼえているが、かれは大いに関心をそそられたこの青年と近づきになり時にはいささか内心の苦痛をおぼえながら知識を競い合ったこともあるほどなのでだれにもましておどろいていた。

江川訳23

ところが、いざその青年がそんな父親の家に帰省して来て、一、二ヶ月いっしょに暮してみると、この二人がこれ以上望めぬくらい折り合いがいいのである。このことは、私ばかりでなく、ほかの多くの人たちにとっても意想外の驚きであった。すでに前にも一言したが、先妻との関係でフョードルの遠い親戚筋にあたっていたピョートル・ミウーソフが、もう永住の地と定めていたパリからふたたび当地を訪れ、ちょうど折から郊外の領地に居合わせたが、私の記憶では、その彼がだれよりもこの事実に驚いていたようである。もっとも、いたく彼の関心を惹いたこの青年と知り合って以後、彼はどうかするとこの青年と知識を張り合っては、ひそかに心を痛めていたようでもある。

 

И вот молодой человек поселяется в доме такого отца, живет с ним месяц и другой, и оба уживаются как не надо лучше.  Последнее даже особенно удивило не только меня, но и многих других.  Петр Александрович Миусов, о котором я говорил уже выше, дальний родственник Федора Павловича по его первой жене, случился тогда опять у нас, в своем подгородном имении, пожаловав из Парижа, в котором уже совсем поселился.  Помню, он-то именно и дивился всех более, познакомившись с заинтересовавшим его чрезвычайно молодым человеком, с которым он не без внутренней боли пикировался иногда познаниями.

解 

(by N.N.)

  読みやすさを優先して随所に原文にはない改行を施しているのは今回の新訳の特徴。ここではその是非は問わぬとしても、原文にはない接続詞を補って、話題を転換するのは頂けない。引用原文に   表 示したのがその部分で、接続詞はありません。無論、改行もなし。そのまま次の文が始まって、ミウーソフの驚きの対象は、他の人びとと同じく、思いがけない 父子の折り合いのよさであること、しかも彼はそのことに誰よりも驚いたということが極めて自然に理解できるように叙述されています。

  「ときどき知識を競いあった仲だった」という訳については、文脈から切り離して、これだけを語学的な見地から見れば、間違いとは言えません。「ときどき知識を競い合った仲だった」、「ときどき知識を競い合ったものだった」、「ときどき知識を競い合ったこともある」等々と、微妙にニュアンスを異にする、複数の訳が考えられます。しかし、現に一読者を当惑させている以上、件の叙述の流れの中では、やはり不適切な訳だったということでしょう。

森井追記

 新訳第20刷(2008130日発行)でこの箇所に訂正が入れられている。「検証」での指摘を受けてのことと思われるが、なぜか非常に中途半端である。以下のとおりである。

(訂正前)@この青年イワンと知り合ってだれよりも仰天したのが、ほかならぬミウーソフだった。A彼はイワンとは、いささか内心の苦痛を覚えながら、ときどき知識を競いあった仲だったからである。

(訂正後)@この青年イワンと知り合ってだれよりも仰天したのが、ほかならぬミウーソフで、Aイワンとはその後、いささか内心の苦痛を覚えながら、ときどき知識を競いあった仲だったからである。

この箇所は昨年10月 に私が編集者に直接指摘したものには入っていない。にもかかわらず、なぜか上述の「疑問」の線に副って上記のように直されている。けれども、訂正はこれき りである。これは「検証」の引用が新訳のこの部分に限られていたからであろう。しかしながら、肝心なのはミウーソフの仰天の対象であり、これを新訳が誤読 していることは「検証」にも明記されている。ところが、今回の訂正はご覧のとおりである。上記訂正では、ミウーソフが仰天しているのは相変わらず青年イワ ンその人のままである。

 

 

 

4 三男アリョーシャ

 新訳45

(母ソフィアは)どうかこの子をお守りくださいとお願いするかのように、両腕にかかえた赤ん坊を聖像の方へ差し出している┄┄。と、とつぜん乳母が駆けこんできて、@驚いた顔の母の手から幼児を奪いとる。そういう光景なのだ!

 アリョーシャは、Aその瞬間の母の顔もはっきりと覚えていた。B思い出せるかぎり、母は狂乱しながらも美しい顔をしていたと彼は話していた。

森井の疑問

最初に気になったのは、後段の方である。Bの「〜できるかぎり(では)」という表現は、その行為の精一杯の限度を示す。これは、Aと矛盾する。「はっきり覚えていた」のなら、楽々と思い出せたはずで、精一杯の努力は要らないはずである。

この時、@が目に入って、先行訳との違いに気づきました。─先行訳では、驚いた(おびえた)のは乳母の方である。意味はどちらも通るが、文脈上、ソフィアの神がかった行動を目にして、赤子を案じた乳母が驚いた(おびえた)とするのが自然ではないか。こう感じていたが、「検証」で確認できました。

原訳41

(…)そこへ突然、@乳母が駆けこんできて、怯えきった様子で母の手から彼をひったくる。こんな光景なのだ! アリョーシャがA母の顔を記憶にとどめたのも、その一瞬にだった。その顔は狂おしくこそあったが、B思いだせるかぎりの点から判断しても、美しかったと、彼は語っていた。

江川訳25

(…)と、ふいに@乳母が駆けこんできて、おびえたように母の手から彼をもぎとる。これがその光景であった! アリョーシャはAその瞬間の母の顔を覚えていた。彼の話では、これは、取り乱してこそいたが、B思い出しうるかぎりでは、実に美しい顔であったという。

 

... и вдруг вбегает нянька и вырывает его у нее в испуге.  Вот картина!   Алеша запомнил в тот миг и лицо своей матери: он говорил, что оно было исступленное, но прекрасное, судя по тому, сколько мог он припомнить.

解 

(by N.N.)

  「覚えていた」の原語は“запоминл ザポームニル” で、“запомнить ザポームニチ (覚える、記憶に留める、記憶する)” という完了体動詞の過去形。完了体動詞の過去形には「或る動作が完了して、その結果がいまだに残っている」というニュアンスが含まれます。しかし、「はっきりと」の意味合いまでも含まれるかというと、これはさに非ず。「はっきりと記憶に留める」と言う場合には何らかの副詞、たとえば “хорошо ハラショー (よく)” なりを補って “Хорошо запомни! ハラショー・ザポームニィ!(よく覚えておけ!)” などと表現します。当該個所には何の副詞もなく、「はっきりと」は翻訳の際に補われたものです。「はっきりと覚えていた」のすぐ後に続く文が「思い出せるかぎり(原文は “судя по тому, сколько мог он припомнить スージャア・パ・タムー、スコーリカ・モーク・オン・プリポームニチ”)」と始まっているのは確かに不自然。不適切な語の補いの例です。

  「驚いた顔の母」という誤訳については、言及のとおり、先の「検証」で詳述しております。

森井追記

 @は、「検証」の指摘に従って新訳第20刷で訂正されている。

(訂正前)と、とつぜん乳母が駆けこんできて、@驚いた顔の母の手から幼児を奪いとる。

(訂正後)と、とつぜん乳母が駆けこんできて、@おろおろと母の手から幼児を奪いとる。

ただし、今回初めて指摘するA・Bは手つかず。矛盾したままです。

 

 

 新訳48

 同じ年頃の子どもたちとすごしていても、アリョーシャは決して目立ってやろうなどと考えたりはしなかった。だれか人を恐れるということがなかったのはおそらくそのためだろうが、いっぽう他の少年たちは、【アリョーシャがそんな自分の強さを誇ることなく、どれほど勇敢で強い人間かということが自分にもむしろわかっていないらしいこと】をすぐに見抜いた。

森井の疑問

【   】内が、少年たちが見抜いた内容である。問題は下線部で、このままでは、「少年たちは、アリョーシャがそんな自分の強さを誇ることがないことを すぐに見抜いた」という構文になる。これは妙である。なぜなら、それは事実として外に見えることであり、わざわざ「見抜く」必要がないからである。むしろ 事実は逆で、少年たちは最初、おとなしいアリョーシャが人を恐れないのを見て、その意味を量りかね、これは自分の強さを誇っているのだろうかと、疑ったは ずである。だが、すぐにその意味するところを見抜くのである。見抜いたのは、アリョーシャが自分の強さを誇っているのではないらしいこと、それどころか、自分の勇敢さに気づいてさえいないらしいこと、である。

原訳44

同じ年ごろの子供たちの間で、彼は一度も自分を目立たせようとしたことはなかった。ことによると、彼がだれのことをも決して恐れなかったのは、そのためかもしれないが、一方、子供たちは、彼が決して自分の大胆さを得意がっているわけではなく、自分が大胆で不敵であることを理解していないような様子をしているだけなのだと、すぐにさとった。

江川訳26

同年輩の少年の間では彼はことさら自分を目立たせようとはしなかった。彼がだれに対しても怖れを抱いたことがないのは、おそらく、これが大きな理由であろうが、それでいて、仲間の少年たちは、彼がけっして自分の勇気を鼻にかけているのではなく、自分が大胆で勇敢なのに気づいてさえいないようなのを、すぐに悟ってしまったものである。

 

Может, по этому самому он никогда и никого не боялся, а между тем мальчики тотчас поняли, что он вовсе не гордится своим бесстрашием, а смотрит как будто и не понимает, что он смел и бесстрашен.

解 

(by N.N.)

 明らかな誤訳です。引用原文の赤字表示部分は、その直前の節 ― “мальчик тотчас поняли マーリチキィ・トーットチャス・ポー二ャリィ (しかし少年たちは直ちに理解した)” ― を受けて、その理解の内容を示しています。ここで鍵となるのは、イタリック表記した “вовсе не ヴォーフスィエ・ニェ” と “а ”です。これは英語の “not …, but …” に相当する “не …, а …” という構文であり、“не ニェ” の前にある副詞 “вовсе ヴォーフスィエ(全く)” は強調なので、“вовсе не …, а … ヴォーフスィエ・ニェ 〜、ア 〜” で「全く〜ではなく、〜である」という意味になる。新訳ではこの構文が見落とされています。「【彼(アリョーシャ)はおよそ自分の強さを誇っているのではなく、 大胆で強そうに見えるけれども、自分ではどうやらそのことがわかっていない(のである)らしいということ】を少年たちは直ちに理解した」というのが本来の意味です。

 

 

 

5 長老たち

新訳73

(…)長年にわたって長老は、心を打ちあけるために自分のもとを訪れ、助言や癒しを求める人々を、ひとりのこらず受け入れてきた。しかしあ まりに多くの懺悔や悲嘆や告白を自分の魂に引き受けたため、しまいには未知の人間が訪ねてきても、この顔をひと目見るなり、いったいその人がなんのために 来たのか、何を必要としているのか、そして、どのような苦しみに良心を苛まれているのかさえ、言い当てることができるほど繊細な洞察力を身につけたとい う。そして、訪ねてきた人がまだひとことも口をきかないうちから、その秘密を察していることで相手を驚かせ、当惑させ、ほとんど怯えさせてしまうことも あったという。

森井の疑問

 こ こは文脈上、明らかに順接である。長文を区切ったときに、接続詞の必要を感じ、次の「あまりに多く」の句にひきずられて、「しかし」とやってしまったので はないだろうか。「そして」であれば、問題なかったと思われるが、この後、「そして」が二度出てくるので、少し苦しい。

原訳67

(…)長老はもう永年にわたって、心の秘密を告白しにやってきて彼から忠告や治療の言葉をきこうと渇望している人たちを、ことごとく近づけ、数 知れぬほどの打明け話や嘆きや告白を自分の心に受け入れたため、しまいにはもうきわめて鋭敏な洞察力を身につけ、訪れてくる見ず知らずの人の顔をひと目見 ただけで、どんな用事で来たのか、何を求めているのか、どんな悩みが良心を苦しめているのか、それまで見ぬくことができるようになり、訪問者が一言も口を きかぬうちに相手の秘密を言いあてて相手をびっくりさせ、うろたえさせ、時には怯えに近い気持さえひき起させたという。

江川訳38

(…)多年、彼のもとへ心の懺悔にやって来ては、ぜひとも彼の助言や心癒す言葉を聞きたいと願う人々に、だれかれの別なく接し、さ まざまな懺悔や、悲嘆や、告白をおのれの心に受け容れてきたので、ついには、彼を訪ねて来る未知の人をひと目見るだけで、その人がなんのためにやって来た のか、なにを必要としているのか、さらにはどのような悩みに良心を責められているのかさえ見抜けるほどの、まことに鋭敏な洞察力をそなえるにいたった、と 言われていた。

 

Про старца Зосиму говорили многие, что он, допуская к себе столь многие годы всех приходивших к нему исповедовать сердце свое и жаждавших от него совета и врачебного слова, до того много принял в душу свою откровений, сокрушений, сознаний, что под конец приобрел прозорливость уже столь тонкую, что с первого взгляда на лицо незнакомого, приходившего к нему, мог угадывать: с чем тот пришел, чего тому нужно и даже какого рода мучение терзает его совесть, и удивлял, смущал и почти пугал иногда пришедшего таким знанием тайны его, прежде чем тот молвил слово.

解 

(by N.N.)

  原文は、 で示した当該個所でもまだ文が切れない、非常に長い文です。新訳ほどではないにしても、翻訳上、原典の長文を短文に切る場合は無論あります。とは言え、切った後に文意に齟齬を来す接続詞を補うのはやはり頂けない。

 

 

新訳74

病気の子どもや身内の大人たちを連れて修道院をたずね、自分に手をあててお祈りを唱えてほしいと懇願する人々を、アリョーシャは見てきた。

森井の疑問

民衆の長老への心酔ぶりを語る場面である。「検証」でも取り上げられており、「自分に」が「彼ら(=病人)に」の誤りであるのは論をまたない。代名詞の指し示す語を取り違えているのだろうと推測がつく。

ところで、この 明白な誤訳になぜ気づかなかったのか。(実は、私も最初に読んだ時には見落としていました。その気で読み直して気づきました。)その理由をちょっと考えて みたい。それは、この箇所を読むとき、読者は頭の中で誤訳を正しく変換しているからだと思われる。物語の流れに乗って、ある速度をもって読むとき、この場 面で、病人を連れてきた健康な人たちに長老が手をあてている情景は誰も思い浮かべないだろう。みんな正しく、病人に手をあてる長老の姿を描いていたはずで ある。案外、こんなところに、多くの読者が誤訳・悪訳に気づかなかった原因の一端があるのかもしれない。これは、訳者や編集者がゲラを読む時もきっと同じ であっただろう。とすれば、なぜ最初にこの誤訳が生じたのか。それが謎である。

原訳70

病気の子供や成人した肉親を連れて訪れ、長老が彼らの頭に手をのせて祈祷を読んでくれるよう哀願する人たちの多くが(…)

江川訳39

病気の子供や身内の大人を連れてきて、病人に手をあてて祈祷を捧げてほしいと頼みこむ人たちのうち(…)

 

Он видел, как многие из приходивших с больными детьми или взрослыми родственниками и моливших, чтобы старец возложил на них руки и прочитал над ними молитву, <…>

解 

(by N.N.)

 「疑問」で言及のとおり、「検証」で詳述してありますので、そちらをご参照下さい。

森井追記

 これは、昨年10月末に私が編集者に直接指摘した箇所でもあり、第20刷では以下のように正しく訂正されていました。

  (訂正前)自分に手をあてて  →  (訂正後)彼らに手をあて

 

 

新訳79

長兄ドミートリーは、深い尊敬をこめて弟のイワンのことを口にしていたが、その話しぶりには何か特別な思いがこもっていた。ドミートリーからアリョーシャは、最近になって二人の兄弟を並々ならぬ強い絆で結びつけた、ある重要な事件の一部始終を知ることになった。アリョーシャの目に、弟イワンに対するドミートリーの絶賛ぶりが特異なものと映ったのは、ほかにもわけがあった。それはイワンと比べ、ドミートリーはほとんど無教養といってもよいぐらいの男で、二人をそばに並べてみると、人柄も性格もまるで好対照をなすように見え、たがいにこれほど似ていない兄弟というのは他に考えにくいほどだったからだ。

森井の疑問

 ほかにもわけがあった」というからには、「それは」以下で示されるわけ以外に、もう一つ別のわけがあるはずである。ところが、それがどこにも見当たらない。これも、文を途中で区切ったときに、余分なものが入り込んだのであろうか。試しに、「ほかにも」をのけるか、あるいは、「ほかにも」以下の下線部を飛ばして読んでみていただきたい。ちゃんと意味が通ります。

原訳72

長兄ドミートリイは この上なく深い敬意をこめて弟のイワンのことを批評し、イワンについて話すときは何か一種特別な、まごころのこもった口調になるのだった。最近この二人の 兄を傍目にもわかる固い絆で結びつけた、ある重大な事件の詳細を、アリョーシャがきき知ったのも、この長兄からである。弟のイワンについてのドミートリイの感激しきった批評は、イワンにくらべてドミートリイがほとんどまったく無教養の人間であり、二人をならべてみると、人柄といい性格といい、ひょっとすると、これほど似たところのない二人を考えだすことは不可能ではないかという気がするくらい、際立った対照をなしていただけに、アリョーシャから見ると、いっそう特徴的だった。

江川訳41

長 兄のドミートリイは、イワンに関してはたいそうな敬意を払っていて、彼の話になると、口調までが一種独特な、感にたえぬようなものになった。この兄の口か らアリョーシャは、最近二人の兄を目立って密接に結びつけるようになった重大な事件の詳細をあまさず知らされたのだった。イワンのことを話すときのドミー トリイの有頂天な口ぶりは、長兄のドミートリイがイワンと比べるとほとんど無教養といえるくらいの人間で、二人をいっしょに並べてみると、人柄といい性格 といい、これ以上ちがっている人間を想像することもできないくらい、極端な対照をなしているように見えるだけに、アリョーシャの目にはことさら意味深いものに思われるのだった。

 

Брат Дмитрий Федорович отзывался о брате Иване с глубочайшим уважением, с каким-то особым проникновением говорил о нем.  От него же узнал Алеша все подробности того важного дела, которое связало в последнее время обоих старших братьев замечательною и тесною связью.  Восторженные отзывы Дмитрия о брате Иване были тем характернее в глазах Алеши, что брат Дмитрий был человек в сравнении с Иваном почти вовсе необразованный, и оба, поставленные вместе один с другим, составляли, казалось, такую яркую противоположность как личности и характеры, что, может быть, нельзя бы было и придумать двух человек несходнее между собой.

解 

(by N.N.)

  「ほかにもわけがあった」というのは誤訳です。原文は、“тем «A», что «В» チェーム・«A»、シトー・«В»” という構文を含んでおり、これは「より一層«A»であるのは何によってかというと、それは«В»によってである」乃至「«В»によって、より一層«A»である」という意味を表すが、新訳ではこの構文が見落とされている。引用原文中この構文が見られるのは、赤字表記した部分。「弟イワンに対するドミートリイの絶賛ぶりがアリョーシャの目により一層特異なものに映ったのは何によってかというと、それはВосторженные отзывы Дмитрия о брате Иване были тем характернее в глазах Алеши, что ヴァストールジェンヌイエ・オーッズイヴィ・ドミートリィヤ・ブイリィ・チェム・ハラクチェールニェエ・ヴ・グラザッフ・アリョーシィ、シトー)」で始まり、“что シトー(それは” 以下に理由説明が続く(その内容は新訳の「それは」以下にある通り)。先行訳はいずれもこの構文を正確に捉えています。

 

 

 

 

 

第2編 場違いな会合

 

1 修道院にやってきた

新訳92

「(…)でもまあ、食事にはうかがいましょう。修道院長によろしくお礼を申しあげてください」ミウーソフは、修道僧のほうを振りかえって言った。

いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっております」と修道僧は答えた。

森井の疑問

長老の僧庵へ向かうフョードル一行に追いついた修道僧が、修道院長の招待を伝える場面である。これを受けての、ミウーソフと修道僧とのやりとりだが、一読して分かるように、これでは、会話が成立していない。修道僧が実のところ何と答えたかは、先行訳を見れば判然とする。

ここで、話者が主題化しているのは、「わたし」であり、先行訳ではこれに付いた助詞の「は」がそれを表している。ところが、新訳では、これを、「長老さまへ」と話題の中心を移してしまっている。これがつまずきの原因である。な ぜなら、助詞「は」は主題化と同時に、「○○は」の○○部分が既知(旧情報)であることを表し、そのあとに未知の事柄(新情報)が続くことを予め示す助詞 だからである。(助詞「が」はその逆。)この場合、修道院長のもとに僧が帰るものと思い込んでいるミウーソフに対して、そうではなく、わたしは「長老さま のところへ行く(案内する)のだ」と、(「わたし」という旧情報の主題について)新情報を与えているのである。新訳ではこれがあべこべになっており、この 新情報が旧情報に、そして、助詞「が」によって「わたし」が新情報に化けてしまっている。ともあれ、文脈上なぜこう訳されたのか、不思議です。

原訳82

「(…)とにかく、お食事までには伺います、院長さまにお礼を申しあげておいてください」彼は修道僧をかえりみて言った。

いいえ、わたくしはあなた方を長老さまのところへご案内いたさねばなりませんので」修道僧が答えた。

江川訳46

「(…)では、食事にはうかがいます、僧院長によろしくお伝えください」修道僧のほうを向いて彼はこういった。

いえ、わたくしは長老さまのところまでみなさまをご案内しなければなりませんので」修道僧が答えた。

 

― <…> Так к обеду будем, поблагодарите отца игумена, ― обратился он к монашку.

Нет, уж я вас обязан руководить к самому старцу, ― ответил монах.

解 

(by N.N.)

 原文の я обязан … ヤー・ アビャーザン……(「私には〜する義務がある」、「私は〜しなければならない」)”の訳し方の問題でしょう。先行訳はいずれもほぼ直訳で、標準的な訳と言 えます。「疑問」の指摘のとおり、原文でも、修道院長への伝言依頼とともに会話を打ち切ろうとするミーウソフに対して、僧は、「いや(ここで皆様とお別れ するわけにはいきません)、私は皆様を長老さまの許へお連れしなければならないのですから」と応じており、話題の中心はあくまでも僧の「私」です。

森井追記

 これも、昨年10月に直接指摘した箇所です。第20刷では確かに直されています。しかし、正しく訂正されてはいません。以下のとおりです。

  (訂正前)「いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっております

  (訂正後)「いや、院長さまへは、このわたしが案内するように申しつかっておりますので

上記のように編集者に告げたわけではありません。それに、この例は私のamazonレビューにも載っています。原文のこの箇所に「院長さま」に当たる単語のないことは言うまでもありません。

 

 

新訳96

これらの花を後生だいじに育てているのは、どうやら経験ゆたかな人らしかった。花壇が教会の塀の内側と墓の間に作られていた。

森井の疑問

下線部は、「A」と「B」という二つのものの間なのか。それとも、「A」と、「Bの間」という二つのものなのか、迷いました。後者であれば、「と」を「や」に変えるべきでしょう。

原訳86

(…)花壇は教会の囲いの内側にも、墓の間にも作られていた。

江川訳48

(…)礼拝堂の囲いの間や墓石の間にまで花壇が作られていた。

 

Цветники устроены были в оградах церквей и между могил.

解 

(by N.N.)

 後者の解釈(「A」と、「Bの間」という二つのもの)が正しく、原文ではこれが誤読される可能性は皆無です。

 

 

新訳97

《今からもうわかってるんだ。いらいらが高じて、きっと議論をおっぱじめる・・・・そのうちカッとなり、人目もはばからず生き恥をさらすことになる そんな考えがちらりと彼(=ミウーソフ)の脳裏をかすめた。

森井の疑問

下線部は「議論」の結果としては大仰であり、表現に違和感を覚えた。先行訳と比べると、ずいぶん意訳してあるようである。私としては、意訳でない方が、ミウーソフのキャラクターをうまくすくい上げているように感じるのですが…。

原訳87

『俺には今からわかってるんだ。いらいらして、きっと議論をはじめるにきまってる・・・・そのうち、かっとなって、自分自身も思想も卑しめることになるんだ こんな思いがちらと頭にひらめいた。

江川訳49

『さて、こうなったらあとはもう見えている、こういらいらしているようじゃ、きっと喧嘩をおっぱじめるぞ・・・・かっとなって、自分の品位も、思想の価値も落としてくるのが落ちだ こんな考えが、ちらと彼の頭をかすめた。

 

«Ну, теперь заране себя знаю, раздражен, заспорю... начну горячиться ― и себя и идею унижу», ― мелькнуло у него в голове.

解 

(by N.N.)

 新訳は、意訳としても、原義からかなり飛躍したものです。先行訳の方は、それぞれ微妙に異なってはいますが、いずれも原義に則った訳と言えます。意見がわかれるところでしょうが、私も原義を活かした先行訳の方がミウーソフの性格をうまく捉えていると思います。

 

 

 

3 信仰心のあつい農婦たち

新訳129

「でも、それはですね」と長老が言った。「それは昔の『ラケルが息子たちゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから』というのと同じです。この地上には、あなたがた母親に対して、そうした仕切りがもうけられているのです。だから、慰めを得たいなどと思ってはいけません、慰めを得てはならないのです。慰めをえようとせずに、泣きなさい。ただし、泣くときは、そのたびごとにたえず思い出すんです。あなたのお子さんは、神の天使の一人だということをね。(…)」

原訳117

「でもそれは」長老が言った。「昔の『ラケルはわが子を思って泣き、もはや子らがいないため、慰めを得られない』と同じことで、お前さん方、母親には、この地上にそうした限界が設けられているのだよ。だから慰めを求めてはいけない。慰めを求める必要はない。慰めを求めずに、泣くことだ。(・・・・)」

江川訳63

「それはな」と長老は言った。「そのむかし『ラケルその子らを思いて泣くも慰めをえられず、その子らのすでになければなり』とあるのと同じことじゃ。おまえのような母親にとっては、それがこの地上における定めなのじゃ。慰められぬがよい、おまえは慰めを求めることはない、慰められぬままに泣くがよい。(・・・・)」

森井の疑問

(都合により欄の配列を変えました)

新訳下線部の「そうした仕切りがもうけられている」の意味がよく理解できない。「そうした」とは、本文のどこを指しているのか。また、「仕切り」とは何のことなのか。

  上記の疑問を昨年の10月 に抱いたわけですが、今回の「点検」に際して、改めてこの箇所を先行訳と比較した私は、問題の所在は新訳の聖書引用にあるのではないかと思い至りました。 ここは、あと3カ月で3歳になる愛児を亡くして三百キロの遠方から訪ねてきた町人の女に長老が応対する場面。「もう二度とあの子に会うことも、あの子の声 を聞くこともできない」と身も世もなく悲泣にくれる哀れな女に対して、長老が掛けたのが上記の言葉です。引用の「ラケルが…」の句の出典は、「旧約聖書エ レミヤ書第31章第15節」であると先行訳に注されています。

さて、この聖句の訳を比べてみると、新訳の「(彼女は)慰めを拒む」は、先行訳の「慰めをえられない」・「慰めをえられず」と明らかに異質です。これが「そうした仕切りがもうけられている」 の意味を不明にしている一因と思われます。(もう一つの原因は「仕切り」の訳語にあるのでしょう。)一方、先行訳だと、これに該当する部分は、子を亡くし た母親にとっては、「(ここを超えたら)慰めを得られないという限界がある」(ちょっと苦しい)、「慰めを得られないのが定めである」(これはすっきり) と解せます。「だから、慰めを求めてはいけない、泣くがよい」というふうに、そのあとの台詞にもうまくつながります。これが、新訳の「慰めを拒む」だと、 途中の意味不明の「そうした仕切り」に遮られて、「だから」以下に続くのがかなり苦しくなる。

ここで私は、同じ聖句なのに、なぜこんなふうに訳が違うのかと不思議に思い、注記の出典に当たってみました。すると、新訳は@「新共同訳聖書」1987)の該当句をそのまま引用していることが分かりました。これに対して、先行訳はともに邦訳聖書には拠っていません。江川訳の文語体の訳文もいわゆる「文語聖書」(1917)とは異なります。参考までに、いわゆるA「口語聖書」1955)の該当箇所を掲げます。

  「ラケルがその子らのために嘆くのである。子らがもはやいないので、彼女はその子らのことで慰められるのを願わない

こ れは、新訳が引用した@の聖句と方向が同じです。きっとこっちの方がヘブライ語の旧約原典の原意に近いのでしょう。では、先行訳はこの聖句をこの場に合う ように勝手に意訳したのか? というと、それも違うと思います。なぜなら、意訳しなければ、あととうまくつながらないような、そんな引用を長老が自らの台 詞の中で、しかも、無学な女に対して、するはずがなく、また、作者がさせるはずもないからです。ということは、先行訳は、意訳したのではなく、長老が引用 した聖句を原文のままに訳したということになります。だから、意味が通じる。

さらに私は考えました。そうなれば、長老の引用は、当時のB「ロシア語訳聖書」と も異なるのではないか、と。なぜなら、原典聖書に限りなく近づこうとしているはずの権威あるBの該当聖句は、同じ姿勢であるはずの@・Aとさほど変わらな いであろうと推測されるからです。長老はBの該当聖句(つまり新訳に引かれた@の聖句ないし上掲のAの聖句、に近いであろう聖句)をもちろん字句通りに諳 んじていたはずです。(つまり、作者ドストエフスキーはBに当たってこの聖句を字句通りに知っていたはずです。)にもかかわらず、長老は、そのまま字句通 りに引用したのでは、農民出の無学な町人の女に通じにくいと考えて、この女の胸に響くように聖句を言い換えて語ったのでしょう。(つまり、作者がそう考え て長老にそう語らせたということです。)だとすれば、これは、長老の、とはつまり、作者ドストエフスキーの叡智に他ならないと言えます。

と ころで、原文ならずとも、先行訳で読み、かつ、(私自身今回まで怠っていましたが)出典に当たってみた者は(あるいは聖書に詳しい者は)、聖句言い換えの この仕掛けに気づくことができます。ところが一方、新訳ではそうはいきません。言い換えになっていないからです。ようやく、10月 に抱いた疑問の原因が分かってきました。長老の言葉を原文どおりに訳せばよかったのに、聖書引用ということで、新訳はそうせず、該当聖句を聖書から(ここ では、最も新しい新共同訳から)そのまま引っ張ってきた。言い換えれば、長老が意図して字句通りの引用を避けて言い換えた聖句を、字句通りの(ないし、そ れに近い)ものに戻してしまった。つまり、意図せずにテクストを「改変」してしまった。そこで齟齬をきたした、のではないか。

──と、ここまで私は推理(妄想)しました。けれども、原文を見ないままでは憶測にすぎません。私は、原文およびロシア語訳聖書の調査をN.N.氏に依頼して待ちました。その結果は下の解説にあります。

長くなってあいすみませんが、話はまだ続きます。先の出典に当たった際に、ついでに私はその前後も見ました。すると、上記引用第15節「ラケルが息子たちゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」のすぐあとの第1617節は次のように続いています。同じく新共同訳から引きます。

   「主はこう言われる。泣きやむがよい目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる」

何と、引用聖句を受けて長老が町人の女に対して言う「慰めをえようとせずに、泣きなさい」 と真反対ではありませんか。しかも、最初に「それは『ラケルが・・・・』というのと同じです」(つまり、聖句にあるのと同じです)と自ら前置きしておきな がらです。この後続節を長老(作者)が知らないはずはありません。これは、まさに方便、でも、やはり叡智ですね。最愛の子を失った哀れな母親に涙による救 済を与えるためでしょう。この辺が、フェラポント・タイプの厳格な神父たちには受け入れがたいところなのでしょう。しかし、原文での確認を受けて、私は、 改めて長老ゾシマと、そして、何より作家ドストエフスキーに惚れ直しました。ゾシマにこの方便をとらせ、これらすべてを仕組んだのは誰ならぬ作者ドストエ フスキーの叡智と巧智に他ならぬからです。

ちなみに、女が亡くした男の子の名は、アレクセイ。この小説の主人公の名と同じです。江川訳の注記(アカデミー版全集を参考)によると、それは、この作品を書き始めた1878年に亡くなった、やはりあと3カ月で3歳になるはずだった作者の息子の名前でもあります。

 

― А это, ― проговорил старец, это древняя «Рахиль плачет о детях своих и не может утешиться, потому что их нет», и таковой вам, матерям, предел на земле положен. И не утешайся, и не надо тебе утешаться, не утешайся и плачь, только каждый раз, когда плачешь, вспоминай неуклонно, что сыночек твой ― есть единый от ангелов божиих

解 

(by N.N.)

「仕切り」という訳語について :

  原語は предел プリェヂェール” という名詞で、「端」、「境界、境界線、国境」、「範囲」、「限界」、「極限」と幾つかの意味があります。新訳の「仕切り」に相当するのは「境界、境界線、国境」」ですが、この意味で使われる場合、 “「пределы プリェヂェールイ” と必ず複数形になるのに、ここでは предел プリェヂェール” と単数形。従い、この意味ではない。「仕切り」という訳は間違いです。

  「限界」の意味での使用例としては、Всему есть предел. フスィエムー・エスチ・プリェヂェール(何事にもほどがある)”、“Всякому терпению есть предел. フスィヤーカムウ・チェルピェーニィユウ・エスチ・プリェヂェール(我慢にほどがある)” などを日常的にしばしば耳にします。これを採用したのが原訳

  しかし、その他に、“предел プリェヂェール” には「運命、定め」という意味(俗語的)もあり、しかものこの意味での使用は単数形のみ(“Мне положен такой предел. ム二ェ・パロージェン・タコーイ・プリェヂェール。「私はそういう運命なのだ」、「それが私の定めなのだ」”)。 件の文脈に一番相応しいのはこの語義であり、江川訳の「定め」がゾシマ(ドストエフスキー)の真意に一番近い訳語でしょう。農婦もこの意味で受けとめたはずです。

聖句をめぐる考察について :

  ソ連科学アカデミー版30巻全集所収の原文テキストに付された註には次のような記述があります。

  “『マタイによる福音書』第2章第18節に引用されている預言者エレミヤの言葉(『エレミヤ書』第31章第15節)を参照のこと。”

  ロシア語訳聖書の対応個所も引かれており、これをゾシマの言葉のロシア語原文と比べると(下記和訳は拙訳)―

ロシア語旧訳聖書: Рахиль плачет о детях своих и не хочет утешиться о детях своих,

               ибо их нет.                (Книга пророка Иеремии, гл. 31, ст. 15)

              ラケルはわが子らを想って泣き、わが子らのことで慰められることを望まぬ

    蓋し子らのなければなり。                (『エレミヤ書』第31章第15節)

ロシア語新訳聖書: Рахиль плачет о детях своих и не хочет утешиться,

   ибо их нет.                  (Евангелие от Матфея, гл. 2, ст. 18)

              ラケルはわが子らを想って泣き、慰められることを望まぬ

    蓋し子らのなければなり。          (『マタイによる福音書』第2章第18節)

ゾシマ長老   :   Рахиль плачет о детях своих и не может утешиться,

потому что их нет.

                  ラケルはわが子らを想って泣き、慰められることができません

なぜならば子らがいないからです。

  「疑問」の推察の通り、長老の言葉はロシア語訳聖書と確かに異なっています。少し細かく見ましょう。ロシア語の字面からも明らかなように、最初の「ラケルはわが子らを想って泣き」の部分は一字一句同じ。コンマの後の理由を導く語句、“ибо イーバ”(聖書)と“потому что  パタムー・シタ”(長老の台詞)の違いは、ごく簡単に言えば、前者が文語的な響きが強いのに対し、後者はより口語的ということ。また、中央のフレーズでは、『エレミヤ書』で反復されている“о детях своих”(=「わが子らを想って」、「わが子らのことで」)が長老の台詞にはない(『マタイ伝』でも省略。従い、直接にはそこからの引用と考えられる)。さて、次が問題の個所です。“утешиться ウチェーシッツァ (慰められる)” という再帰動詞の不定形が使われている点ではいずれも共通しているものの、その前が大きく異なっている。『エレミヤ書』と『マタイ伝』では не хочет ニェ・ホーチェット(英語の dosen' t want に相当) となっているのに対し、ゾシマの言葉の方は“не может ニェ・モージェット(英語の can't に相当) となっている。これは新訳およびそれが依拠した邦訳聖書の「慰めを拒む、慰められるのを願わない」と、原訳、江川訳の「慰めを得られない、慰めをえられず」の違いに対応します。この聖句「改変」をドストエフスキーの意識的な創作行為として捉えた推察は正しく、登場人物自身に自らの言葉で語らせるという、個々の人間の言葉遣いを通した見事な人物造形の一例と言えます。

  因みに、旧約を含めたロシア語版完訳聖書の刊行は1876年(新約聖書のみのロシア語完訳刊行は1821年)、この版はドストエフスキーの蔵書目録にも含まれています。しかし、その遥か以前から作家が、新訳のみならず、旧約聖書にも親しんでいたことは確実で、1849年、 当時獄中にあった若き作家が兄ミハイルの差し入れで入手した教会スラブ語訳聖書を耽読していたことが確認されています。件の聖句引用の出典はロシア語訳聖 書ではあるものの、その刊行史に照らすに、長老の頭の中にあったのは教会スラブ語の聖句であったはず、いや少なくとも作者はそう想定していたはずです(序 でながら、本書第7編第4章「ガリラヤのカナ」における、イエスの最初の奇蹟めぐる『ヨハネ伝』からの引用は、全文が教会スラブ語訳)。

 ところで、件のエピソードは、3歳にならぬ中に遺伝による長時間の癲癇の発作で亡くなった作家の次男アレクセイの思い出と関連が深いものです。悲しみ癒えぬ作家は哲学者のウラジーミル・ソロヴィヨフとともにオプチナ修道院を訪れ、有名なアンヴローシイ長老と3回に亘って面会し ています(中、2回は差し向かい)。アンナ夫人の回想記によれば、その際作家が長老から託ったアンナ夫人への伝言がゾシマの言葉として使われているらし く、またラケルの件に付されたアカデミー版全集の註にも、グロスマンが夫人から聴取したものとして、「ドストエフキー夫人アンナの証言によれば、作家はこ の言葉をオプチナ修道院のアンヴローシイ長老の口から聞いたとのこと」と記されており、『或は聖句の言い換えも、元々はアンヴローシイ長老によるものだっ たのかも知れない?』とも考えられます(それから、エレミヤ書第31章第1617節の意味を敢えて逆転させたゾシマの言葉―「慰めをえようとせずに、泣きなさい」―も?)。無論、これは想像の域を出るものではなく、また仮にそうだったとしても、それをかくも見事に作品に生かし切った作者の叡智は些かなりとも輝きを失うものではありません。

 

 

 

5 アーメン、アーメン

新訳159

「ぼくは(=イワン)こういう前提から出発しているのです。二つの要素の混合、つまり教会と国家という二つの別々の本質が混じりあっている状態は、もちろん永久に続くだろうという前提です。ただし、その状態はありうべからざるものですし、そもそも問題の根底そのものに嘘が潜んでいるのですから、この混合をノーマルな状態どころか、まがりなりにも同意できる状態に導くことなど絶対にできないのです。たとえば、裁判のような問題で国家と教会が何らかの妥協を行うといったことは、ぼくに言わせると、その完全かつ純粋な本質からしてありえないことです

森井の疑問

 イワンが書いた論文の教会裁判のくだりについて長老が尋ね、それに応えて、イワン自身が自説(教会と国家の関係)を説明している場面の前段である。最初にここを読んだとき、私の頭はまた混乱しました。「永久に続くだろう」と前提しておきながら、同時に、「ありうべからざる」、「絶対にできない」、「ありえない」とは? イワンの考えはいったいどっちなのか? 困惑した私は、先行訳を見て、腑に落ちました。(読者の方も先に、下の先行訳をご覧ください。)

前 者は現実の姿、後者は理念上の本来の姿のことを言っているのですね。教会と国家の混合は、現実には永久に続くだろうが、それは本来はありえない(あるべき でない)ものだということです。それがわかって新訳をもう一度読むと、そう読むこともできます。この混乱は私だけのものでしょうか。

原訳145

「僕この二つの要素の混合、つまり個々にとりあげてみた場合の教会と国家というものの本質の混合は、本来ありえないはずのものであるにもかかわらず、また、問題の根底そのものに虚偽が存している以上、こういう混合を正常な状態はおろか、多少なりとも協和的な状態にさえ導くことは決してないはずであるにもかかわらずやはりそれが永久的なものにちがいないという命題から出発しているのです。たとえば、裁判というような問題における国家と教会との妥協なぞは、僕に言わせるなら、その完全かつ純粋な本質から言ってもありえないことなのです

江川訳77

「ぼくの出発点になりましたのは、教会と国家というこの二つの要素、つまり、二つの個別の実態の混淆状態は、いうまでもなく、永遠につづくだろうという仮定です実を言えば、そういう混淆状態はありえないはずのものだし、もともとそういう事態の根底に虚偽が潜んでいるのですから、それを正常化することはおろか、一応の妥協状態にもって行くこともけっしてできないはずなのですがね。たとえば、裁判というような問題についての国家と教会との間の妥協は、ぼくに言わせれば、そのもっとも完全にして純粋な本質からいって、不可能です

 

― Я иду из положения, @что это смешение элементов, то есть сущностей церкви и государства, отдельно взятых, будет, конечно, вечным, несмотря на то, что оно невозможно и Aчто его никогда нельзя будет привести не только в нормальное, но и в сколько-нибудь согласимое состояние, потому что ложь лежит в самом основании дела.  Компромисс между государством и церковью в таких вопросах, как например о суде, по-моему, в совершенной и чистой сущности своей невозможен.

解 

(by N.N.)

 引用のイワン発言は二文から構成されており、長い方の第一文の訳し方に問題があると言えます。

  第一文は、まず“Я иду из положения, ヤー・イドゥー・イス・パラジェーニヤ、(僕が出発している命題は、” という節で始まり、次にこの命題(“положение パラジェーニエ”)の内容を表す二つの“что シトー”(@чтоAчто)節が続きます。

@ что это смешение элементов, то есть сущностей церкви и государства,

       отдельно взятых, будет, конечно, вечным, несмотря на то, что оно

       невозможно

       (あり得べからざるものであるにも拘らず、個々に取り上げられた教会と国家の

     の本質という二つの要素の混合は、無論、永遠に続くであろうということ)

A что его никогда нельзя будет привести не только в нормальное, но и в

       сколько-нибудь согласимое состояние, потому что ложь лежит в самом

       основании дела.

       (問題の根底そのものに虚偽が存するため、ノーマルな状態はおろか、些かなり

     とも調和させ得る状態にさえ、この混合を導くことはできぬであろうということ)

 翻訳テクニックという観点から、三種類の訳文を見比べると、原文にはない読点を施し、本来は一文であるところを敢えて複数の文に分けながら、あくまでも原文の流れに沿って訳出する姿勢を見せているという点で、新訳と江川訳は共通している。しかし、原訳は違います。

  原訳は、明らかに原文の流れに沿った訳し方を避けて、「命題」(新訳では「前提」、江川訳では「仮定」、原語は“положение パラジェーニエ”)の内容を予め全て訳出した上で、「という命題から出発しているのです。」に繋げ、原文どおりに全体を一文として訳文を作っている。日本語として多少の読みにくさを感じるものの、“положение パラジェーニエ” の内容は洩れなく確実に捉えており、“教会と国家の本質の混合は(あり得べからざるものではあるが)永遠に続くであろう現実の姿である” という論旨が誤読されることはまずない

   一方、新訳と江川訳は、上述のとおり、適宜文を切りながら、原文の流れに沿って訳しているので、日本語としては確かにこちらの方が読みやすい。しかし、 本来一文であるところを複数の文に分けるのだから、分けた個々の訳文にそれなりの工夫を凝らさないと、元の文意が曖昧になりかねないという懼れがある。

  先に江川訳の方を見ましょう。江川訳では、イワンの出発点となった「仮定」(“положение パラジェーニエ”)の前半部(@ что 節)の大半を訳出して、「という仮定です。」と続け、ここで一旦文を切っている。その上で、次の文を実を言えば」という非常にうまい言葉で始めて、「そういう混淆状態はありえないはずのものだし」と受けて、前半部の訳し残し部分(“несмотря на то, что оно невозможно ニスマトリャー・ナ・ト、シトー・アノー・ニェヴァズモージュナ”)を訳出し、しかもここで文を切らず、更に畳掛けるように後半部(A что 節)を「もともとそういう事態の根底に虚偽が潜んでいるのですから、それを正常化することはおろか、一応の妥協状態にもって行くこともけっしてできないはずなのですがね。」と一気に最後まで訳してしまっています。原文の流れに沿って訳すべく、便宜的に文を切ると言っても、結果的には一文を二文に分けただけで、しかも第二文が第一文の「仮定」の内容に直結こそしないまでも、確かな連関を感じさせるような工夫が凝らされています(冒頭の「実を言えば」、及び「はずなのですがね。」という文の終わらせ方)。

  さて、新訳はどうでしょうか? 新訳はこれを三文に分けて訳しています。新訳の第一文と第二文は江川訳の第一文に相当し、「前提」の前半部(@ что 節)訳し残しも江川訳と同じで、ここまでは別段混乱を招く要因はなさそうです。しかし、最後の第三文を見ると―

 「ただし、その状態はありうべからざるものですし、そもそも問題の根底そのものに嘘が潜んでいるのですから、この混合をノーマルな状態どころか、まがりなりにも同意できる状態に導くことなど絶対にできないのです。」

 「ただし」という接続詞は、後続文が前文の補足説明であることを示す言葉で、この語の選択そのものに問題はないが、前半部訳し残し分の訳し方―「その状態はありうべからざるものですし、」―と、後半部(A что 節)の訳し方―「<前略>まがりなりにも同意できる状態に導くことなど絶対にできないのです。―に工夫が欠けているようです。ありうべからざる」、「絶対にできない」というのは誤訳でないものの、文末が断定調でぶっきら棒に締め括られているのが拙いと思います。これでは、「ただし」で始まった、本来は前文の補足説明のはずの文がいきなり絶対的な否定で終わるような印象を与えてしまい、イワンの主張の出発点たる第二文の「前提(“положение パラジェーニエ”)との連関が感じられない。これでは、逆に「前提」と齟齬を来すように受け止められても無理からぬところです。

森井追記

 これも昨年直接指摘した例である。第20刷では不十分ではあるが直されている。長くなるので訂正後のもののみ掲げる。

(訂正後)(…)ただし、その状態はありうべからざるものですし、そもそも問題の根底そのものに嘘が潜んでいるのですから、この混合をノーマルな状態どころか、まがりなりにも同意できる状態に導くことなど絶対にできるはずはないのです。

 

 

新訳159

ぼく(=イワン)が反論した聖職者は、教会は国家の中で一定の正しい位置を占めていると主張しています。しかしぼくはそれとは逆に、教会こそみずからのなかに国家を含むべきであって、国家のなかの一部を占めるだけであってはならない。たとえそれがなんらかの理由で不可能であっても、本質において、国家は明らかにキリスト教社会の今後の全発展の、直接的でもっとも重要な目的として提示されるべきだと反論したのです」

森井の疑問

先の論文説明の後段。無神論者として知られるイワンとしては、本気かどうかは別として、驚くべき自説を開陳する場面である。問題は「国家は」の部分。「国家はキリスト教社会の今後の全発展の重要な目的として提示されるべき」というのはいかにも生硬で、その意味が取りにくい。この文は、「今〜であっても」、「今後〜」という構文であり、同一物の「今」と「今後」を対比させているはずである。ここも代名詞の指示する語を取り違えているのか?

原訳146

僕が反駁した聖職者は、教会は国家の中で厳密な一定の地位を占めている、と説いています。ところが僕が反論で述べたのは、むしろ反対に教会が国家全体を内包すべきであって、国家の中の小さな一角を占めるべきではない、かりにそれが現在なんらかの理由で不可能であるとしても、事物の本質から言って疑いもなく、キリスト教社会の今後の発展の直接的なもっとも主要な目的になるはずである、ということなのです」

江川訳78

ぼくが反論したあの聖職者の方は、教会は国家の中に明確な、確固とした地位を占める、と主張されています。ぼくはその人に反論して、むしろ反対に、教会のほうが国家のいっさいを自身のうちに包含すべきであって、国家の一隅にわずかな場所を占めるべきはない、たとえそのことが、いまはなんらかの理由によって不可能であるとしても、ことの本質からして疑いもなく、それはキリスト教社会の今後の全発展の直接的な、最重要な目的とならなければならない、と主張したのです」

 

Я же возразил ему, что, напротив, церковь должна заключать сама в себе всё государство, а не занимать в нем лишь некоторый угол, и что если теперь это почему-нибудь невозможно, то в сущности вещей несомненно должно быть поставлено прямою и главнейшею целью всего дальнейшего развития христианского общества.

解 

(by N.N.)

 指摘のとおりです。新訳の「明らかに〜もっとも重要な目的として提示されるべきだ」という述部の主語は「国家」ではない。この述部を含む、「たとえ」で始まる文の主語はただ一つ、指示代名詞「それ」です。そして、「それ」が指しているのは、おわかりのとおり、「教会こそみずからのなかに国家を含むべきであるということ」です。原文で「それ」に対応するのは это という指示代名詞で、一度しか出てこない。先行訳では、原訳がこの形を踏襲しています。江川訳は読みやすさを顧慮して、「そのことが〜としても、…それは」と反復しているものの、主語が同一であることに変わりはありません。新訳で唐突に現れた「国家は」という主語は明らかに余計なものでこれさえ削除すれば、一応正しい訳文になります。

森井追記

 ここは、前の箇所と一緒に編集者に指摘したもので、第20刷で正しく訂正されていました。これも訂正後のもののみ掲げます。「明らかに」の前にあった「国家は」という余計な主語が削除されています。

(訂正後)たとえそれが今なんらかの理由で不可能であっても、本質において、明らかにキリスト教社会の今後の全発展の、直接的でもっとも重要な目的として提示されるべきだと反論したのです

 

 

新訳161

そこまでいうと彼(=パイーシー神父)は、あたかも自制したかのように急に黙り込んだ。イワンはうやうやしげに注意深く彼の話に耳を傾けてから、長老に向かって、ひどく冷静ながらいつものように率直に自分から進んで話をつづけた。

森井の疑問

 これも変である。なぜなら、イワンは、いつもは「率直に自分から進んで」話をするタイプではないからである。だからこそ、159頁 にあるように、前夜からアリョーシャは、イワンが長老に対して慇懃無礼な口を利くのではないかと案じていたのである。ところが、先の論文説明で初めて長老 に話しかけたイワンの口調が、案に相違して謙虚で控えめなものであったので、アリョーシャはほっとする。ここもそれを受けているわけで、アリョーシャの安 堵をにおわせる表現となっているはずである。言い換えれば、語り手の視線(目)が作中人物(アリョーシャ)の視線(目)に重なっているはずである。これ を、後者の認識と異なる「いつものように」とやってしまうと、語り手が高い位置から事実を客観的に叙述する体となる。つまり、この誤訳は、単に意味を変え てしまっただけでなく、語り手の視点まで変えてしまったということになる。

原訳148

 彼は自分を抑えたかのように、ふいに口をつぐんだ。イワンはきわめて冷静に、注意深くいんぎんに話をきき終わると、これまでどおり長老に向かって、みずから進んで気さくに話を続けた。

江川訳79

自分を抑えようとでもするように、彼はふっと口をつぐんだ。イワンは、彼の言葉をつつましく傾聴すると、異常に冷静な、しかし相変わらず興の乗った、飾らぬ態度で、長老の方に向って話をつづけた。

 

   Он вдруг умолк, как бы сдержав себя. Иван Федорович, почтительно и внимательно его выслушав, с чрезвычайным спокойствием, но по-прежнему охотно и простодушно продолжал, обращаясь к старцу: <…>

解 

(by N.N.)

  いつものように」というのは誤訳です。原語の по-прежнему  パ-プリェージュニェムウ は「以前と同じように、これまでと同じように(так же, как прежде ターク・ジェ、カーク・プリェージュヂェ)」という意味を表す副詞。「いつものように」と訳した方がよい場合も確かにありますが、それはあくまでも文脈次第。引用文における「以前、これまで(преждеプリェージュヂェ)」とは、この章でイワンが長老に対してずっと積極的且つ飾らぬ態度を示し続けてきたことを指しており、「いつものように」では体をなさない。よって、ここでは「これまでどおり」、「相変らず」乃至これらに準じたものが正しい訳ということになります。

森井追記

ここも昨年直接指摘した箇所で、第20刷で正しく訂正されていました。

 (訂正前)ひどく冷静ながらいつものように率直に自分から進んで話をつづけた。

(訂正後)ひどく冷静ながらこれまでどおり率直に自分から進んで話をつづけた。

 

 

新訳162

しかし国家としてのローマ(=キリスト教国家となったローマ帝国)には、たとえば国家の目的や基盤そのものといったような異教の文明や英知が、あまりに数多く残存することになりました。いっぽうキリストの教会は、国家に入り込みながら、自分が立っている礎石から自分の基盤を明らかに何ひとつ譲歩できませんでした

森井の疑問

前の引用部分を受けて、イワンが長老に向かって、自分の論文の要点を説明する場面である。下線部の、「礎石」から「基盤」を何ひとつ譲歩できない、という日本語がうまく理解できない。イワンはなにを言わんとしているのか。

原訳148

(…)一方、キリスト教会は国家に編入されはしたものの、疑いもなく、自己の基盤、つまり、自分の拠りどころにしている礎石から何一つとして譲るわけにはいかなかったし…

江川訳79

(…)ところでキリスト教会は、国家の中に組み込まれても、当然、自身の基礎、それがこれまで立脚してきた土台については、何ひとつ譲歩できるはずがなく…

 

Но в Риме, как в государстве, слишком многое осталось от цивилизации и мудрости языческой, как например самые даже цели и основы государства. Христова же церковь, вступив в государство, без сомнения не могла уступить ничего из своих основ, от того камня, на котором стояла она, <...>

解 

(by N.N.)

 最後の述部「何ひとつ譲歩できませんでした」は、先行訳も新訳とほぼ同じですね。問題は「自分の立っている礎石」と「自分の基盤」との関係。実は原文ではこの二つは同格です。「自分の基盤から、即ち、自分の立っている礎石から “из своих основ, от того камня, на котором стояла онаイス・スヴァイッフ・アスノーフ、アット・タヴォー・カームニャ、ナ・カトーラム・スタヤーラ・アナー” 」というのが本来の意味。原訳はほぼそのとおりに訳されており、江川訳も「から」という前置詞 (“из イズ”、“от オット”)の原義こそ反映されていないのもの、意味するところは同じと言ってよい。新訳の方は同格の関係を取り損なったため、意味不明となっています。

 

 

新訳166

(イ ワンの台詞:)「(…)では、別の面から、犯罪に対する教会自体の見方を考えてみましょう。教会はほとんど異教的な見方を改め、今のような社会保全のため にとられているやり方、すなわち病原菌に冒された器官を機械的に切断してしまうやり方から、今度こそは完全に嘘いつわりなしに、人間の再生という理念、人 間の復活と救済という理想に向かって変貌させるべきではないでしょうか」

(ここで辛抱しきれず、「空理空論だ」と割り込んだミウーソフの台詞を省略)

それにしても、事情は今もまったく変わっていませんね」 長老がふいに口を開くと一同はすぐに彼の方に目を向けた。「なにしろ、もしも今キリストの教会がないとしたら、どんな罪人も悪事の歯止めがきかなくなり、 あとでその罪人に加えられる罰すらなくなってしまいます。おっしゃったように、多くの場合ただ心をいらだたせるだけの機械的な罰ではなく、ほんものの罰で す。唯一効力のある、唯一人の心を恐れさせ、自分の良心のうちにあって心を慰めるほんものの罰のことです」

森井の疑問

下 線部に違和感を覚えた。「今もまったく変わっていない」とは、通常、過去と比較する表現であり、「今も昔と変わっていない、昔と比べて変化が起こっていな い、昔と同じだ」という意味である。ところが、ここで長老が比較しているのは、イワンの直前の主張、すなわち、犯罪に対して教会がとるべき理想の処置、教 会のあるべき「将来像」、のことである。これと比較して、その理想、将来像は、事実上、教会が今でも既に実現していると述べているのである。したがって、 ここは、あっさり、「今も同じです」か、あるいは、「今も変わりません」とすべきであったと思われる。(これには異論があるかもしれない。例えば、「5年後の日本」という番組を見て、「今も5年 後と変わっていないねぇ」と話し言葉でいうケースが考えられるからだ。時制的には妙だが、「変わりません=同じ」と語義が変じたように、「変わっていない =同じ」となりつつあるからだろうか。しかしながら、これを口にしているのは長老である。長老の言葉としてはやはり無理があるのではないか。)

原訳153

(…)「しかし、実際には現在でもまったく同じですの」(…)

江川訳81

(…)「いや、ほんとうのことを言えば、いまでもそのとおりになっておりますのじゃ」(…)

 

<…> ― Да ведь по-настоящему то же самое и теперь, ― <…>

解 

(by N.N.)

 この言葉だけを文脈から切り離して考えれば、過去との対比を表す「それにしても、事情は今もまったく変わっていませんね」という訳もあり得ます。しかし、指摘のように、ここでゾシマが念頭に置いているのは直前にイワンが述べた将来あるべき教会像です。少なからぬ方がこの訳文に違和感を感じるのではないでしょうか。

 

 

新訳168

  もしも裁判が教会というキリストの社会に属するものであるなら、そのとき国家は、だれを破門から解き、だれを自分の社会に再び迎え入れるべきか、心得ているはずです。

森井の疑問

長老の話の続きである。ここで、唐突に「国家」が出てくるのにやはり違和感を覚える。「国家」が破門を解くというのがまず妙である。破門を解くことができるのは、「教会(というキリストの社会)」ではないか。

原訳154

だから、もし裁判が教会という社会に帰属しているとしたら、そこではだれを破門からよび戻して、ふたたび一員に加えてよいかわかっているはずです。

江川訳82

そこで、もし裁判が、教会としての社会に属することになれば、社会はだれの破門を解いてふたたびおのれの一員に加えたらよいかを自分でわきまえるはずなのです。

 

Вот если бы суд принадлежал обществу как церкви, тогда бы оно знало, кого воротить из отлучения и опять приобщить к себе.

解 

(by N.N.)

 人称代名詞 “оно アノー”(それ)が指示するものを取り違えた誤訳です。人称代名詞は通常、それ以前に出てきて、最も近くに位置する性・数一致の名詞を受けます。 “оно アノー” は中性形単数であり、一番近くに出てきた単数の中性名詞は “общество как церкови オープシェストヴァ・カーク・ツェールコフィ”、即ち「教会としての社会」。 “оно アノー”は無論これを指します。 引用文の一文前に、「国家」を意味する単数の中性名詞 “государство ガスウダールストヴァ”が出てきてはいるが、指示対象としては離れすぎであり、そもそも文脈から見て、「国家」をここの主語としたのでは、ゾシマ長老の論旨に明らかな齟齬を来します。

 

 

新訳169

そ れでもキリスト教社会、つまり教会が、犯罪者をちょうど俗社会の掟が彼をはねつけ切り捨てるのと同じように放逐するとしたら、ああ恐ろしい、いったい犯罪 者はどうなるでしょう。もしも教会までが、国家の法によって下される罰の後を追うように、犯罪者に対してそのたびごとに破門の罰を下していくとしたら、 いったいどうなるんでしょう? そう、少なくともロシアの犯罪者にとってこれにまさる絶望はないでしょうね。なぜかといえば、ロシアの犯罪者は、まだ神を 信じているからですよ。もっとも、かりにそうなるとしたら、恐ろしい事態が起こるかもしれません。ことによると、絶望しきった犯罪者の心のなかで信仰の喪 失が起こるかもしれません。そうなったらどうするか? なのに教会は、愛情に満ちたやさしい母親のように、効力のある罰を自分から避けています。なぜかというと罪人は、そうでなくても国家による裁きであまりにも手ひどい罰を受けているので、せめてだれかはその罪人を憐れんであげなくてはならないからです。

森井の疑問

長老の話が続きます。引用冒頭の「それでも」は「それでもし」の誤植と思われるが、問題は下線部の接続詞である。話の論理はこうである。─仮に教会が犯罪者を破門するとしたら、彼(ら)は絶望のあまり信仰を失うだろう。そうなったら、どうする(なる)か? 恐ろしいことになるだろう。しかし、実際には教会はそんなむごい仕打ちは避けている。─確かに逆接である。だが、ここに「なのに」をもってくると、きわめて不自然である。なぜか。それは、同じ逆接でも、単純な逆接である「しかし」と違って、「なのに(or だ のに)」は、話者が前文に対して抱く予期や期待を裏切るところの、ないしは、それに相反するところの内容を後続文として導く、そういう限定つきの逆接の接 続詞だからである。(したがって、それは同時に、意外、失望、非難などの違和感を伴うことになる。)ところが、本文中の「なのに」に導かれた後続の内容 は、長老の予期に反し、期待を裏切るものではない、それどころか、まさに(犯罪者を破門してほしくないという)長老の予期に合致し、期待に適ったものなの である。

原訳155

(…)そうしたら、どうなります? しかし、教会は愛情豊かなやさしい母親のように、実際的な懲罰を避けておるのです。(…)

江川訳82

(…)そうなったらどうなりますのじゃ? けれど教会は、やさしい慈愛にみちた母親のように、実際的な処罰を自分から放棄しております。(…)

 

<…> Но церковь, как мать нежная и любящая, от деятельной кары сама устраняется, <…>

解 

(by N.N.)

 原文で対応している “но ノー” は、逆接を表す接続詞としてはロシア語で最もポピュラーなもので、その意味は「しかし、けれども」です。後は日本語の問題です。

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