俣北滝郎


プロジェクト004おはなはん
やーい!
★あわとくしま はっけんでん あいけんかでいこう!
愛県プロジェクト004
「おはなはん」やーい!
  「徳島市のNHKドラマ『おはなはん』の銅
像を建立する計画案」は、いまだ幻なり!




 『おはなはん』とは、NHK総合放送が昭和41年4月4日から翌年の4月1日まで放送した
朝の連続ドラマ(テレビ小説)のタイトルです。
  それ以前にも数本の朝の連続ドラマはあったものの、朝の連続ドラマの位置を不動のもの
としたのがこの『おはなはん』であったようで、後の昭和58年放送の『おしん』とともに朝の
連続ドラマ中では傑出した評価を得ているようです。
  その一例としては、現在でも『おはなはん』と『おしん』はNHKから家庭用のビデオソフトが
販売されていることでも判断できるでしょう。
  ただ、『おしん』については全10巻のダイジェスト版と全話収録のソフトの二種類が販売
されているものの、『おはなはん』に関しては全10巻のダイジェスト版しか出てはいません。
 
  さて、昭和41年4月4日の、たとえば「徳島新聞」のテレビ欄の「きょうのハイライト」には
次のように『おはなはん』が紹介されています。
 

> 連続テレビ小説おはなはん
> NHK前8:15

> 母の思い出をつづった林謙一氏の随筆に素材をとり、
>小野田勇氏が書きおろしたもので、
>主演のおはなはんに樫山文枝(民芸)を抜てきし、
>夫の速水謙四郎役に「太閤記」で好演した高橋幸治が
>起用されている。
> 物語りは、伊予の大洲に生まれ軍人速水謙四郎に
>とついだ浅尾はなの一代記で、明治、大正、昭和と、
>波乱の三代を生き抜いた平凡な女の、
>平凡なるがゆえに共感を得る姿を描いていく。
>底抜けに明るく、実行力のあるおはなはんの生きかたは、
>これまでの連続テレビ小説にはない、カラリとした明るさを
>盛り込んでいる。

> おはなはんは明治十八年、
>小京都といわれる四国の大洲に生まれた。
>十七歳の時、未来を嘱望された青年将校、速水謙四郎にとつぐ。
>速水の赴任先、東京、弘前での生活は平穏であったが、
>日露戦争の突発で夫は出征、無事帰還後の喜びもつかの間、
>夫は病死する。
> はなを襲った当然の不幸―だがはなは
>二人の幼いこどもをかかえてがんばる。
>再婚話にも耳をかさず、医学を勉強し、
>大正の大震災、昭和に入っての大戦も
>女手ひとつで乗り切っていく…。
> 第一回は、おはなはんが松山高女を巣立っていくシーン。
>卒業証書をもらう時、ペロリと舌をだしたり、
>別れの涙は他人にまかせて恩師をからかったり、
>南国の空のように明るい一生を送ったはなの像が
>早くものぞいている。
> 高橋幸治は第八回から登場し
>樫山文枝は十七歳から七十歳までを演じわける。
《 後略 》
 
【注】 「速水謙四郎」は誤記。正しくは「速水謙太郎(はやみ・けんたろう)」。
【注】 「四国の大洲」とは、四国に愛媛県の現在の大洲(おおず)市。
【注】 「松山高女」とは、愛媛県松山市にあった「松山高等女学校」のこと。ドラマ中では
大洲生まれで育ちの「浅尾はな(あさお・はな)」が郷里を一人で離れて松山市の親戚宅
に下宿し、当時は愛媛県内で唯一の女学校(松山高等女学校)に通っていたという設定に
なっています。
 

  このテレビドラマ『おはなはん』のタイトルには「作 小野田勇 (林謙一 作 同名随筆より)」
として脚本家の小野田勇が林謙一の随筆を原作としていることが記載されています。
  この林謙一による随筆は「婦人画報」(昭和37年4月号)に林が書いた『おはなはん一代
記』のことですが、『おはなはん一代記』そのものは残念ながら単行本になっていません。
  その随筆は、加筆や誤記の修正などが行われ、昭和41年6月30日の奥付で発行され
た文芸春秋発行の林の随筆集『おはなはん』に『おはなはん』のタイトルで所載されてはい
ますが……
  
  ところで、この随筆『おはなはん一代記』の冒頭には次のように記載されています。
                                                                                                          
> 「なんのお前、私のしてきたことなど、
>へのつっぱりにもならへんで。あほらしい。
>わたしゃ、そこらによおけおる、
>ただのお婆さんじゃがなァ」
> 明治十五年四月十三日、
>おはなはんは阿波の徳島に生まれた。
>だから今年満八十歳になる。
《 中略 》
> 明治十五年、深尾はなは、
>徳島第八十九銀行の頭取、市次郎の
>次女として生まれた。
《 後略 》  
 
【注】 「深尾はな」(ふかお・はな)は本名。後に結婚して「林はな(はやし・はな)」となる。
夫は林三郎(はやし・さぶろう)陸軍中尉。
【注】 父親の「市次郎」は正しくは「深尾一次郎」。昭和41年6月発行の随筆集『おはなはん』
所載の『おはなはん』では「一次郎」に訂正されています。


                                                                 
  さて、ここまで書いてきますと、テレビドラマでは「おはなはん」の主人公は愛媛県の大洲
の人とされてすでに「おはなはん通り」や「おはなはん」の記念館や饅頭が愛媛県の大洲市
に存在しているにもかかわらず、なぜ徳島県民の私が『おはなはん』の研究をしているかが
理解できると思います。

  なぜかNHKドラマや昭和41年公開の松竹映画『おはなはん』(主演・岩下志麻)でもおは
なはんの郷里は愛媛県の大洲になっていますが、これは何故なのか?
そのことを調査して、できれば、阿波おどりを別とすれば、これといった観光名所のない徳島
県に新しい観光スポットとしての「おはなはん」のモニュメントを建立したいと私は考えました。
 
  そのモニュメント案としては、日本やNHKのテレビ放送開始○○周年の記念番組では必
ず流れる『おはなはん』の「名場面」とされる場所を確定して、そこに銅像と碑を建てるという
ものを私は各方面に提案しました。
 
  その「名場面」は以下の部分となります。
  結婚相手を誰にするかということを当人ではなく親が勝手に決めるなどということがまかり
通っていた明治の世とはいえ、見合いの当日になっても相手に会ったことも無く、また写真
すら見ていないという見合いに呆れたおはなはんが、見合いの当日に見合いの場となる自
宅の庭の樹に和服姿で木登りをして遠くを見ていると、桜並木の通りを人力車に乗った軍服
姿の髭の中尉がやってくるのを発見するというシーンです。 
  この場面は、NHKが十年に一度は行う「テレビ放送開始○○周年記念番組」では必ず
放送されます。
 
  このテレビドラマの「おはなはん(浅尾はな)」の元となった「深尾はな」さんが実際に見合い
の当日に木登りをしていたかどうかは別としても、徳島に『おはなはん』の像や碑を建てると
すれば、この見合い当日におはなはんが住んでいた家屋の場所に「樹に登ったおはなはん
の実物大の像」を建立し、できれば、「人力車の中尉の実物大の像」をその桜並木であった
場所に建立するというのが最適でしょう。

  この場合、人力車などに細工の精度が求められますので、金属製の像となります。したが
いまして、建立場所の地主が土地を無償で提供してくれたとしても、制作費に1億円ほどは
必要ですが……
 
  いずれにしても、こうして、見合い当時に「おはなはん」の住んでいた家屋の場所の確定
作業と、中尉の人力車が走ったコースの推定作業を私は開始しました。
 
  ところで、おはなはんの生まれ故郷については、『徳島市史』やテレビ放映当時の「徳島
新聞」などによって、徳島市の現在の幟町一丁目であることが判りました。
  また、何故、徳島市ではなくてテレビドラマでは愛媛県大洲市がおはなはんの郷里という
ふうに変更されているのかという理由については、平成5年に発行された「徳島市史(第4
巻)」(徳島市教育委員会発行)が「テレビビジョン」の項に次のような記載しています。
 
  《 ドラマ「おはなはん」は、明治15年(1882)4月13日に国立第八十九銀行の取締役
(のち頭取)深尾一次郎の二女として名東郡富田浦町2922番地(現徳島市幟町1丁目)に
生まれた深尾はなが、同36年3月13日に徳島市大字安宅村(現安宅)林三郎との結婚や
夫の死後に二人の子供を養育する状況を描いたものである。撮影は徳島市において行う
予定であったが、昭和20年(1945)7月4日早暁の徳島大空襲により市街の約70パー
セントが焼失して明治期の雰囲気が表現できなかたので、代って戦災を受けなかった愛媛
県の城下町大洲市が選ばれた。》
【注】「名東郡富田浦町2922番地」は「名東郡富田浦町2922番屋敷」の誤記。
 
  しかし、この《 昭和20年(1945)7月4日早暁の徳島大空襲により市街の約70パーセ
ントが焼失して明治期の雰囲気が表現できなかたので空襲により 》という理由は、放送当
時を知る徳島市内の有識者や関係者によると正確ではなく、これは活字にできる理由の
一つであり、さらにもう一つの理由は、撮影が開始されればロケーションなどで徳島市内に
滞在をすることとなる撮影隊への宿などへの費用への便宜をKHK側が徳島市(徳島市役
所)に求めたところ徳島市がそれを断ったということから、便宜をおこなってくれることにな
った大洲市に舞台を変更したというものです。
  徳島市にとってはカッコウの悪い話ですので、「徳島市史」にも正直には書けなかったよう
です。
  
  わずかにそのあたりを匂わせる記述は、以下の「徳島新聞」(昭和46年5月25日・夕刊)
のコラム欄「風車」にあるTBSのテレビドラマ『お登勢』に関する記載の中にあります。
 
  《 音無美紀子主演の『お登勢』は、幕末の徳島や淡路が舞台になった物語だが、この「お
登勢」の制作に当たって、地元徳島県に協力を求められ、積極的な援助を続けている観光
課の大谷さんは「NHKのおはなはんに失敗しましたので、こんどは前向きの姿勢で協力しま
した」という。「おはなはん」は徳島のおはなはんなのに愛媛の大洲に移された。ドラマ設定
のうえで、城とかその他の環境が時代のイメージを保存していないとか、地方の方言などに
特異性がないなどが理由だったと聞いている。 》
 
  この「失敗」「こんどは前向きの姿勢で協力しました」というニュアンスは意味深です。
 
  ところで、「徳島県」(「徳島市」も?)の「NHKのおはなはんに失敗」は実は一度だけのこと
では無いのです。
  実は、昭和41年の連続ドラマ『おはなはん』以前に、もう一本のドラマがあるのです。その
名は『おはなはん一代記』。
  この昭和37年11月2日にNHKが放送した『おはなはん一代記』(主演・森光子)は、「婦人
画報」の随筆『おはなはん一代記』を元にした一時間の単発のテレビドラマであり、芸術祭
参加作品として制作されたものでした。
 
  『おはなはん一代記』
  原作=林謙一、脚本=小野田勇、演出=古関三千郎、制作=NHK東京、出演=森光
子・神山繁。
 
  この昭和37年製作のドラマの段階ですでに主人公の名が「浅尾はな」、夫は「速水(はや
み)中尉」とされています。
  この『おはなはん一代記』では、徳島市の場面などの考証や指導で、当時の徳島の郷土
史研究家もスタッフとして参加しています。
  にもかかわらず、最終シナリオではおはなはんの郷里は徳島市ではなく、この場合は愛媛
県の宇和島市が郷里となってしまったのです。
  徳島の郷土史家に考証をNHKが依頼し、実際にスタジオ内のセットでの撮影にも徳島の
郷土史家が立ち会っていることからすると、NHKも舞台を徳島市にするつもりであったこと
が判ります。
  ただし、徳島市が撮影への協力を拒否し、しかたなく舞台は愛媛県の宇和島市に変更され
てしまったのです。
  このテレビドラマ『おはなはん一代記』は芸術祭激励賞を受賞しました。
 
  その4年後に連続ドラマ『おはなはん』の製作が開始され、今度は愛媛県大洲市が郷里と
なったのです。
 

  以降も徳島県内を舞台にした映画やテレビドラマの撮影は数多く行われているものの、
『おはなはん』のようなテレビ放送史に残り続けるような作品は現在に至るも徳島県内には
やって来てはいません。
 
  ところで、先人の郷土史家や新聞や当時の雑誌やおはなはんの親族からの聞き取りに
よって、おはなはんの見合い当時の家屋は徳島市幟町一丁目の現在は四国電力の幹部
用の一戸建ての社宅になっている場所にあったらしいということが判明しました。
  四国電力側も、その社宅の土地がおはなはんの父親の深尾一次郎の土地であったという
ことは知っていました。
  
  明治33年8月5日という、おはなはん(深尾はな)と林三郎中尉が、深尾はなの自宅で見合
いをした当時、この土地は、はなの父親である深尾一次郎の所有地であることは土地台帳
でも判明します。
 
  したがいまして、「樹に登ったおはなはんの実物大の像」は、この四国電力の社宅の土地
の一角に建立するのが理想ですが、現在のところ、樹のあった場所には家屋が塀にくっつ
いて建ってしまっているために、その像の建立は、四国電力が社宅を改築するタイミングに
合わせて、将来の像建立のために敷地内の北側の一角を開けてくれるのを待つしかない
ようです。
  民間企業とはいえ、地域とともに歩む企業である四国電力がこの案を拒否をするとは考え
られません。
  【注】 「四国電力」は、四国全域などに電力を発電し供給している電力会社。
 
  一方の林三郎中尉の家屋は、徳島市内の安宅町というところでした。テレビドラマでは鹿児
島県の生まれで育ちとされてはいるものの、実際にはおはなはんと同じ徳島市内であったの
です。
  この安宅町から人力車に乗って林中尉(ドラマでは速水中尉)が幟町に来たとすれば、自宅
の樹木上から目撃できるコースは二つとなります。
  距離を考えると、このうちの紺屋町コースが該当しそうです。
  幸い、紺屋町の通りは夏の阿波おどりの演舞場の一つになるので、ここに人力車に乗った
中尉の実物大の像が建立できれば、徳島市のささやかな観光名所にもなるでしょう。
 
  こうして、とりあえずの暫定案はできたものの、問題は「樹に登ったおはなはんの像」はとも
かく、人力車側の土地をどうするか? 空間はあるものの土地の所有者が土地を提供して
くれるか? また、像そのものの製作費である約1億円を誰がどこから用立ててくるか? と
いうことです。以上についての解決がつけば、あとは四国電力による社宅の改築の時期を
待てば良いのですが、はたしていつのことになるのかは不明です。
 
  この像が建立されたとき、名ドラマ『おはなはん』は本当の郷里の徳島市に里帰りできたと
いうことになるのでしょう。
 
 
※ 紺屋町の通り
  後のNHKの連続テレビドラマ『なっちゃんの写真館』(昭和55年4月7日〜10月4日放送)
に登場する西城写真館のモデルとなった立木写真館が明治42年から昭和20年まで建って
いた通り。
  『なっちゃんの写真館』は大正時代を主としたドラマですが、実際に紺屋町の通りは明治
42年に立木写真館が建つように、明治30年代の「おはなはん」のモデルの深尾はなさん
の見合いの時代でも市街地の開けた地域であったので、テレビドラマや映画の『おはなはん』
に登場するような桜並木の田舎路ではなくて商家の並ぶ通りを通って人力車に乗った中尉
が見合いにやって来ていたのです。
  少しロマンが映像的には無いのですが・・・・・・
             【03年11月末入力】

 
 
 
★“愛県家”とは、郷土をこよなく愛し、県の発展と繁栄、向上を願い日々発言・行動する
ローカル・パトリオット(Locol Patriot)のことである。

トップへ
トップへ
戻る
戻る



愛県プロジェクト003
愛県プロジェクト003