阿波徳島 発県伝 愛県家で
行こう!
★あわとくしま はっけんでん あいけんかでいこう!
俣北滝郎
(マタキタタキオ)


口上

郷土に永久帰省をして早くも5年が経つ。
  愛する(愛すべき)生まれ故郷に貢献しようと日夜努力するものの、奮闘
努力の甲斐も無く、蛇蝎(だかつ)の如く嫌われてしまっているのか・・・・・
  田舎に住みながらも都会の消費生活への追従を第一義に考える多くの
徳島県民からは黙殺に黙殺を重ねられている。
 
  そりゃあ、都会にあこがれながらも都会に行けなかった人々にとっては、
都会生活を堪能して飽きてしまって田舎の良さを声高く説く帰郷者は、
うっとうしい存在なのであろう。
 
  と、こんなことを書いていると、ネットで私の名を検索すると、このサイト
(ホームページ)も出てくるので、このサイトを読ん徳島県民のうちの都会の
消費生活至上主義者にはまた、逆恨みされる材料を提供するだけで
あろう。
 
  ということで、ハンドルネーム(インターネットの世界では、ペンネームを
このように言う)を新しく創作しなくてはならないだろう。
 
  とにかく、徳島での地元民からは期待すらされない、私の活動報告を
ここでは紹介してゆきたい。

 
愛県プロジェクト005
「南極ゴジラ」の記念碑を


 「徳島(県)の地域おこし計画(案)」で、なんだって「南極」つまり地球の
最南端の地名がでてくるのかということに疑問を持つ諸君も多いとは思う。

 かんじん要の「地域おこし」を受ける徳島県民側にも不思議に思う人々も
多かった。 

 ただ、高齢者層の徳島県民の中には「徳島」「南極」という二つの地名を
聞いて「第一次の戦後日本の南極観測」と「松本船長」の名を思い出す
人々も居た。

 そう、昭和31年11月から33年4月の第一次の南極観測(予備観測と
南極オングル島での昭和基地設置と越冬)に使用された南極輸送船
「宗谷(そうや)」の船長・松本満次(まつもと・みつじ)は徳島県の
小松島市生まれで育ちの人だからだ。

 さて、戦前の白瀬中尉による南極探検を別とすれば、昭和31年11月に
東京を出向して33年4月に東京に帰港した「宗谷」による第一次の南極予備
調査が戦後初の日本による南極探検となる。

 
この(南極のリュツォホルム湾のオングル島に設置された)昭和基地で越冬して
いた第一次の南極予備観測の越冬隊(西堀栄三郎ら11人)を宗谷に回収し、
替わって第二次越冬隊(この第二次越冬隊を含む二次隊が「第一回目の
本格調査隊」となる)を昭和基地に運び観測を引き継ぐ計画は、昭和32年
10月に東京から出航した「宗谷」によっておこなわれることになっていた。    

 しかし、昭和32年12月に「宗谷」が南極洋リュツォホルム湾に入りながらも
氷山などにさえぎられ昭和33年2月には第二次隊の南極での
越冬計画は断念された。

第一次の予備観測隊員の回収は2月11日午後6時5分(日本時間12日
午前0時5分)に終了している。

12日に雪上航空機で昭和基地に空輸されていた第二次隊の隊員3人も、
14日午後4時30分(日本時間午後10時30分)には「宗谷」に
回収が終了している。

その後、アメリカ海軍の砕氷船バートンアイランド号の誘導による外洋への
脱出のために同日午後6時20分(日本時間15日午前0時20分)に
オングル島西北約126キロの地点を「宗谷」は離岸している。

バートンアイランド号に先導された「宗谷」は、再度のオングル島への
接近と二次隊の昭和基地への上陸の機会を待った。しかし、天候が
好転せず昭和基地への雪上飛行機を飛ばすことができず、2月24日に
越冬の断念を決定し、バートンアイランド号と別れケープタウン経由で
東京への帰路に「宗谷」と第一次・第二次隊はついた。

そもそもは、第一次隊での予備観測と第二次隊による本観測の合計2回の
南極越冬で南極観測計画は終了する予定であったが、この第二次隊による
本観測が中止となったことで、後に第三次の観測隊も組織されることになる。

この第一次隊と第二次隊の交代中止劇や、そのときに基地におきざりにした
(第一次隊とともに南極に来ていた)カラフト犬15匹(リーダーのリキ、他には
後に有名になったタロウとジロウなど)については、劇映画『南極物語』
(監督=蔵原惟繕、製作=フジテレビ・学研・蔵原プロ、昭和58年公開)に
よっても現在の日本国民にも広く知られているだろう。

その映画『南極物語』では、堀込という名の南極観測隊長を神山繁が
演じていたが実際の隊長名は永田武である。第一次越冬隊長も映画では
岡田英二が演じて小沢という名であったが実際には西堀栄三郎である。

また山村聡が「宗谷」船長の岩切という人物を演じていたが、これは
当然ながら実際には松本満次である。

 なお、映画『南極物語』では第一次南極観測に参加しながらも南極に
置き去りにされたカラフト犬15匹を主人公にしている。

そのためには昭和34年1月14日の第三次越冬隊によって二頭の犬
(タロウとジロウ)の生存が確認されるまでの間の南極での犬たちだけの
約一年間の生活を映像化しなくてはならない。このように、実話に基づく
とはいえ、肝心の犬たちだけの南極越冬場面は、誰も観たものがいない
ために、全てをシナリオ作家が想像により創作するしかないという
事実上の「フィクション」とならざるを得ない。

このあたりに、人間側の名前を架空のものへと変更した理由があると
推測できる。

 さて、映画『南極物語』では映画の開始後50分を経過したあたりで
「宗谷」や「バートンアイランド号」の実写映像が流れ、第一次越冬隊と
第二次越冬隊の引継ぎ場面が登場する。しかし、天候などで輸送機を
昭和基地まで出せなくなり、第二次越冬隊の三名を「宗谷」に回収し
なおして、「いったん外洋に出て天候の好転を待って再度氷海に突入し
第二次越冬隊を基地に送る」という案を実施するために砕氷能力の
優れたバートンアイランド号の切り開いた氷海面後方の航行を開始する
(ちらっと、その実写映像らしきものが出る)。ここまでで映画開始後53分。
この後、第二次南極観測隊長堀込(実際の隊長名は第一次第二次
ともに永田武)が2月24日に第二次南極観測隊の越冬の中止を宗谷の
艦内放送で総員に伝える。カラフト犬を昭和基地に置き去りにすることも
このときに決定される。

 この外洋に出て天候の好転を待つためにバートンアイランド号の切り開いた
氷海面後方を航行しているときに「宗谷」乗組員らは次のような体験をする。

映画『南極物語』では割愛されているが、このバートンアイランド号に
後続して氷海を航行している最中に、未確認生物ファンにはよく知られ、
今日でも各種のイラストで紹介され続けられている「南極のゴジラ」が、
「宗谷」の松本船長らの乗組員たちに目撃されるのである。


以下に『南極輸送記』(著・松本満次、昭和34年・創元社発行)に紹介され
ている「南極の七不思議」の四番目の項の「ゴジラ」を転載する。

(4) ゴジラ

(前略)

それは、第二次の南極航海でのことだった。

昭和三十三年二月十三日、予備観測で越冬した十一人を収容してから、
米国のバートン・アイランド号につれられて外洋へ脱出しているときのこと
だった。

舵をまげられ、スクリューを折られた「宗谷」は、バートン・アイランド号の
うしろをふらふらついて航行していた。

このとき「宗谷」のブリッジでは、私のほかに航海長、機関長、当直航海士、
操舵員たちがいた。観測隊のほうは、収用した越冬者たちの話に花を
咲かせていたのか、誰もきていなかった。

ちょうど午後七時ごろだった。まだあかるかったので、バートン・アイランド号の
すすんでゆくあと五百メートルくらいの水面に、なにか黒いものがほっかり
うかびあがったのを見た。「宗谷」からは三百メートルほどあった。
よく見ると動物みたいだ、でもそれにしてはすこし大きすぎるようだ、と
ゆびさしながら「あそこになにかおるぞ」。

いっせいに視線が集中したが、そのうち誰かが「あれはバートン・アイランド
号のおとしていったドラム缶だ」といったくらいで、気にしていない。私は
「七、八メートルくらい風が吹いているのに空の缶が水中でまっすぐ立つはずが
ないではないか、よく見てみなさい」といって、そのまま操縦をつづけていた。
ところがその変な物がいきなり顔らしいのを「宗谷」のほうにむけたのだ。
「それみろ、あの大きな顔や目玉がわからないのか! すごく大きい動物の
顔じゃないか」みんなあわてて見なおした。

当直航海士はすぐ双眼鏡であたってみた。はたして目、耳が二つずつある
のを確認した。機関長は大いそぎで、私室へカメラをとりにいったが、もどった
ときは、もう、船首の陰にはいり、惜しくも撮りそこなった。

怪物は頭の長さ七、八十センチメートル、前からみると牛のようでもある。
頭の頂部が丸くて猿のような感じもしたし、とにかくひとつの動物では
いいあらわせない。毛は黒褐色、十センチメートルくらいの長さで、
全身をおおっているようだった。大きな目、とがった耳、肩あたりから上を
海上に出して、約三十秒くらいは見えていた。

当時船首部でもうひとり、電気係りの機関士も見ていた。彼の話では、
怪物は船首のちかくで水にもぐってしまったけれど、その背中には、
縦に鋸形みたいな鰭があったという。

私たちより間近でみた感じでは毛の生えぐあい、顔のかたちなどから、
鯨やあざらしとちがって、陸棲動物のようだったという。

そこで目撃者がみんなで、観測隊員の生物の専門の吉井博士にきいて
もらって、何か結論を出そうとしたが、結局正体はわからなかった。吉井氏は
もちろん、半信半疑ながらも見そこなったことを残念がっていた。

(中略)

何億年も前のシーラカンスの同属がまだ生きていようという南半球の海、
人類も目のゆきとどかないところも多いだろう。未発見のものかもしれない。

私はこれこそ本物だと思って、南極のゴジラと命名した。

そしてこんど見つけたらと、出発のときもらった超小型のカメラをポケット
にねじこんでいったが、残念ながらとうとうお目にかかれなかった。

 以上が松本船長自身が書いた『南極輸送記』の「ゴジラ」の記載である。



 挿絵には「ゴジラのスケッチ」という説明がある。ただ、このスケッチの絵が
松本船長の直筆であるのか、松本船長の直筆の絵を出版社側の画家が
清書したものであるのかという判断は、著書のどこにも画家の名が紹介
されていないために読者側にはできない。

 この絵に関して、私が今年(2004年=平成16年)に松本満次船長の
御長男に「南極ゴジラ」に関する質問をしたときには、長男氏からは
「父(松本満次)は南極ゴジラを家族に説明したときには絵には描かなかった」
「だから、松本満次直筆の南極ゴジラの絵というものは松本の家には無い」
という回答があった。

 なぜ松本満次船長が南極ゴジラの絵を自宅では描かなかったのかと
いう理由については、絵に描くまでも無い姿形であったからだと、父親から
何度か「南極ゴジラ」の話を聞かされている長男氏は説明する。つまり、
わが子に説明するにも楽な、まるでドラム缶が縦に立っているような姿が
南極ゴジラだったからだという。その海上に直立したドラム缶状のものに毛が
生えているという形だから、口頭で説明が充分にできてしまったからだと
長男氏は記憶している。

 すると、この『南極輸送記』に掲載されている挿絵「ゴジラのスケッチ」の
姿形はいったい何なのだろうか? 後世の少年雑誌などの世界の未確認
巨大生物特集の類では「南極ゴジラ」はものすごく格好良くそれぞれの画家が
自由奔放に描いているが、松本満次船長自身の『南極輸送記』の段階でも、
すでに、「南極ゴジラ」は「毛の生えた直立するドラム缶」状の生物からは
ほど遠い格好のよい生物となっている。

 読者サービスの絵なのか? 出版社側の画家が目撃者全員の話を総合
しようとした姿形がこの挿絵「ゴジラのスケッチ」なのか?

 いずれにしても、長男氏の話を聞くまでは、私はこの挿絵「ゴジラのスケッチ」
を松本船長の直筆かそれからの画家による清書のどちらかであろうと判断
していた。

おそらく松本船長自身や家族から話を聞く機会の無かった人々にはこの絵は
松本船長の直筆か画家による清書のどちらかだと判断されたままになって
いるだろう。

 さて、姿形はともかく、それ以外に松本船長自身が「南極ゴジラ」について
記載や話をしてはいないかどうかを長男氏に私が質問したところ、長男氏が
言うには、(昭和33年4月28日に宗谷が南極から東京に帰って来たが)
帰国すると記者会見会場が設けられておりそこで松本船長は記者団の
質問に答えることとなったと言う。そこで「南極ゴジラ」に関する質問が
記者団側から登場したという。

 記者会見場で記者から「南極ゴジラ」の詳細についての質問が松本船長に
行われた。しかし松本船長は記者の質問の「南極ゴジラ」という言葉が
何のことであるのかをすぐには思い出せなかった。逆に記者からの説明を
聞いて、やがて「南極ゴジラ」のことを松本船長も思いだし記者の質問に
対応したと長男氏は言う。

つまり2月中旬ころに「南極ゴジラ」を目撃したものの、「宗谷」の東京への
帰港は4月28日というように、記者会見までには二ヶ月が経過していると
いうことが、その忘却の理由のひとつであった。また、映画『南極物語』
にもあるように、その「南極ゴジラ」目撃時は第二次越冬隊の輸送や
氷海の突破に懸命になっていたときのことであるので、その「南極ゴジラ」
目撃後には松本船長自身もすっかり「南極ゴジラ」のことを忘却して
しまっていたのだ。

 ではなぜ記者側が「南極ゴジラ」のことを質問したかというと、日々の
「海上保安庁」(「宗谷」の所属する組織)への無線での業務報告には
松本船長もゴジラのことを書いて報告してあったので、南極担当の
記者クラブなどでそれらの電文が発表され、それで記者団は「南極ゴジラ」
のことを知っていて質問に結びついたのだという。

 こうして松本船長自身すら忘却しかけていた「南極ゴジラ」は人々の
記憶に残ることなり船長自身の『南極輸送記』にもスケッチ付で記載
されることとなった。

 この海上保安庁への電文報告を私は現在追跡調査中だが、公的には
海上保安庁も航海日誌ともども保管をしてはいないと回答している。

 なお、昭和33年5月9日に松本船長と永田隊長・西堀越冬隊長の三人は
皇居で天皇(昭和天皇)に南極観測についての報告を二時間にかけて
おこなっている。「朝日新聞」は「専門的なご質問」「永田隊長ら三氏・
陛下に南極のお話」という見出しで10日の紙面でこの報告のことを
報じている。紙面からは「トウゾクカモメ」「雷鳥」「ウィルソン・ツバメ」の
各剥製や「サンゴ」「ヒドロゾア」などの生物8種類や岩石標本3種類が
三氏から陛下にお土産として差し上げたということなどが判る。
また、かなり専門的な質問が陛下から三氏に行われたことが判る。
ただし、生物学者でもある陛下から「南極ゴジラ」に関する質問が
松本船長におこなわれたのかどうかは紙面には記載されていない。
しかし、生物学者である陛下が「南極ゴジラ」に関しての質問を割愛する
とは考えられないので何らかの質問と松本船長からの答弁はあったと
判断するべきだろう。こちらのほうも宮内庁側に記録があるかどうかの
確認作業が必要であろう。

 さて、歴史上わずか一度しか目撃されていないにもかかわらず、
少年雑誌の未確認生物特集記事や未確認生物辞典で紹介されるたびに、
違った姿形でイラスト化されることでも、この「南極ゴジラ」は、未確認
生物ファンの間では有名であるらしい。(東宝映画のゴジラそっくりな姿で
イラストに紹介されたこともあるという)

 そこで、日本の未確認生物目撃談などの報告では何度も何度もくりかし
紹介され続けられる「南極ゴジラ」を徳島県の「県おこし」に活用
できないか? と発想するのは徳島県の郷土史研究者であり郷土愛の
持主であれば当然のことであろう。

 もっとも、多くの徳島県ゆかりの人物や文物は徳島県内に存在するか
日本国内のどこかにもっぱら存在するものだが、「南極ゴジラ」については、
南極のリュツォホルム湾のオングル島沖西北約126キロの地点という
海上が目撃地(水域)である。したがって、これを徳島県の「県おこし」
(「村おこし」のようなもの)として活用するにはこの南氷洋に海上ブイの
形で「南極ゴジラ目撃の地」という記念モニュメントを設置する必要がある。
ただし、季節になると氷山が流れる水域にブイが固定できるとも思えない。
すると、「南極ゴジラ」のモニュメントはオングル島の昭和基地に建立する
べきであるのかもしれない。

 この場合、南極条約上で「南極ゴジラ」のたとえば記念碑や石像の建立が
許可されるかどうかという問題もある。仮に南極条約をクリアできたとしても、
その建立にかかる費用をどうするか? 碑や石像そのものはわりと安い
費用でできるが、それをどうやって南極に運ぶか? 誰が現地で設置するか?
 このあたりは難問であろう。

 たとえば、月面に「かぐや姫」の記念碑を建立しようと日本政府が計画を
立てたとすれば、碑は簡単にできるものの、だれが月まで運ぶか? 
誰が現地で設置工事をするか? という点が大問題であろうが、それが
都道府県単位では地球上にある南極に記念碑を建てるという計画でも
同等な頓挫をするのである。

 さらに、仮に南極に「南極ゴジラ」の碑が建立できたとしても、定期航路も
なければ観光会社も網羅していない昭和基地に「南極ゴジラ」碑を観に
来る観光客がいるだろうか? それは皆無であろう。したがって、南極にも、
ましてや徳島県にも経済波及効果は無い。もちろん、記念モニュメントで
あるから観光客の誘致や地元への経済波及効果などは不要といえば
不要なのだが、見学に行きたいと思っても訪問に膨大な交通費が
かかるとなっては、見学者は毎年の南極観測隊員だけになってしまう
だろう。年間数十人ということだ。  

 そのような徳島県内に経済波及効果もない計画であっては、徳島県内の
経済団体などからは一円の支援も無いのだろうか?

 大阪では大阪の中小企業が集まって宇宙に人工衛星を飛ばすという
計画があるという。 

 ならば、徳島県では南極に「南極ゴジラ」の碑を建立してもおかしくはないだろう。
おそらくは、人工衛星打ち上げよりも南極の碑の建立のほうが費用は安い
と思われるがいかがなものか?

 一方で徳島県内に建立する計画をも検討しておく必要はある。

 南極に建立できたものを「本山」として、その「支所」を徳島県内に建立する
という形か、または南極建立が無理であった場合は徳島県内のものが「本山」
とする形である。

どちらにしても徳島県内の「南極ゴジラ」碑というかモニュメントをどこに
建立するのが望ましいか? これは実は難しい問題であった。

たとえば、「小松島市の松本船長の生家の庭先」という案も出たが、これには
「時期尚早である」という反対意見もあった。というのは、戦後の南極観測の
第一次から第三次観測での輸送船「宗谷」の船長であるという日本史上の
成果を顕彰する碑すら建立されていない段階で、日本史としてはエピソード
部分でしかない「南極ゴジラ」の碑が先に建立されたのでは順番が逆では
ないか? という松本船長を知る近所の人々の声である。

たしかに、徳島県民にとっては郷土の偉人の碑を先に建立して後に「南極
ゴジラ」の碑というかモニュメントを建立するというのが順当だが、なんだって
昭和30年代初頭の南極観測の「宗谷」の松本船長への顕彰碑が徳島県内に
いまだに建立されていないのだろうか?

このように、「本来の評価」、続いて「エピソード」としての「南極ゴジラ」の碑と
いう順番を我々徳島県民は踏む必要はあるだろう。

そういうことも考慮しつつも、「南極ゴジラ」碑やモニュメントはどこに
建立するべきか?

まずは、繰り返しもあるが、以下の建立地案がある。

(1)南極のリュツォホルム湾の海上にブイの形で建立する。(目撃水域)

(2)昭和基地の庭に建立する。

(3)東京の海上保安庁の庭。

(4)東京の「船の博物館」に展示されている「宗谷」そのものの前。
http://www.funenokagakukan.or.jp/moms/kengaku/okugai/oku-2.html

(5)徳島県小松島市の松本満次船長の生家の敷地の道路側側面。

(6)徳島県小松島市の海上保安庁の庭。  

(7)徳島県阿南市の「お松大権現」の境内。(松本船長は第一回の
南極航海の安全祈願をこの神社でおこなっている)

   http://www.takaramono.jp/list/bbsi.php?s=28&b=1141

なお、松本船長は、第二次隊の越冬中止で無人となった昭和基地に第三次
南極観測隊を昭和34年1月に輸送した航海(昭和33年11月東京出港、
34年4月東京帰着)を最後に「宗谷」を離れている。

以上が「南極ゴジラ」研究に関しての、我が国での現時点(2004年=
平成16年12月段階)での到達点である。

これらによって、「南極ゴジラ」に関する砂上の楼閣は崩れ、原点からの
再出発が今後の未確認生物への研究者に求められていることは
言うまでもない。

一方で、生物としての「南極ゴジラ」研究は他者に譲るが、「徳島県の
地域おこし(県おこし)」としての「南極ゴジラ」モニュメント設置計画は、
徳島県民のわがままではあるが、徳島県民にお譲り願いたい。

したがって、実効性を持つ「南極ゴジラ」モニュメント建立計画案を
見出せる人からのご一報を願う!

できれば、南極と徳島県内にその「南極ゴジラ」モニュメントが建立
されれば幸いである。
 
★“愛県家”とは、郷土をこよなく愛し、県の発展と繁栄、向上を願い日々発言・行動する
ローカル・パトリオット(Locol Patriot)のことである。

戻る
戻る



プロジェクト004おはなはんやーい!
プロジェクト004おはなはんやーい!