俣北滝郎


愛県プロジェクト003
★あわとくしま はっけんでん あいけんかでいこう!



口上

郷土に永久帰省をして早くも5年が経つ。
  愛する(愛すべき)生まれ故郷に貢献しようと日夜努力するものの、奮闘
努力の甲斐も無く、蛇蝎(だかつ)の如く嫌われてしまっているのか・・・・・
  田舎に住みながらも都会の消費生活への追従を第一義に考える多くの
徳島県民からは黙殺に黙殺を重ねられている。
 
  そりゃあ、都会にあこがれながらも都会に行けなかった人々にとっては、
都会生活を堪能して飽きてしまって田舎の良さを声高く説く帰郷者は、
うっとうしい存在なのであろう。
 
  と、こんなことを書いていると、ネットで私の名を検索すると、このサイト
(ホームページ)も出てくるので、このサイトを読ん徳島県民のうちの都会の
消費生活至上主義者にはまた、逆恨みされる材料を提供するだけであろう。
 
  ということで、ハンドルネーム(インターネットの世界では、ペンネームをこの
ように言う)を新しく創作しなくてはならないだろう。
 
  とにかく、徳島での地元民からは期待すらされない、私の活動報告をここで
は紹介してゆきたい。
 
愛県プロジェクト003
徳島県徳島市に『金色夜叉』ゆかりの
碑を建立したい!



 
  静岡県の熱海市に「寛一お宮の松」というものがあることは、おそらく多くの
人々に知られているだろう。
  明治30年から読売新聞で5年半以上連載され、春陽堂が『金色夜叉(こん
じきやしゃ)』という全5巻小説を発行している。この小説は尾崎紅葉による
ものだが、その物語に登場する主人公の間寛一(はざま・かんいち)と鴫沢
宮(しぎさわ・みや)ゆかりの松の木とであるとされているのが熱海の「寛一
お宮の松」である。
 
  この松の下で「来年の今月今夜のこの月も僕の涙で曇らせてみせる」云々
と寛一が語り、足にすがりつく宮を蹴り払うという有名な場面に使われたと
されるが、実際には小説『金色夜叉』はフィクションなので、寛一も宮も存在
していない。当然、ゆかりの松なども存在しない。
  商魂たくましい、というか、熱海の名所を造りたいという意図で、小説にあや
かって何者かが創ったものである。
 
  したがって、その後の昭和時代に松食い虫の被害だったかでこの「寛一
お宮の松」は枯れてしまった後には、二代目の「寛一お宮の松」が現在では
存在するのだ。
 
  熱海を訪れる人々がこの「寛一お宮の松」のいわれに苦笑しながらも話題
にして見学もしてゆくのを知り、私も熱海に行くたびに苦笑をしていた。
 
  ところで、5年ほど前に私は郷里の四国の徳島県に帰郷したが、そのころ
に、古い徳島県内の新聞や徳島市役所の発行した「写真でみる徳島市100
年」などという市制○○周年記念の刊行物などで、明治30年代の徳島市に
美人の芸者で「雪松(ゆきまつ)」という者がいたことを私は知った。               
                                                        


   ★芸妓雪松(左)金色夜叉お宮のモデルとなる。明治35年頃

 それらによると、明治30年代に東京の博文館が出版していた雑誌「文芸
倶楽部」が、日本全国の芸者を写真で紹介するという連載物を行っており、
その「文芸倶楽部」に「雪松」が徳島市の紫屋(むらさきや)の芸者として写真
で紹介されたのだという。 
  その「文芸倶楽部」を観た小説家の尾崎紅葉が、これぞ『お宮』!」と感動
したらしい。
  当時、春陽堂から連続出版されていた『金色夜叉』シリーズの挿し絵を任
された新進の画家の鏑木清方が尾崎に「『お宮』の姿形をどう描けばよい
のか?」と質問に来たときに、その「文芸倶楽部」の「雪松」の写真を尾崎は
示して、これが「お宮」のイメージだと説明したという。
  こうして鏑木は「お宮」の姿形を「雪松」から起して描いたのだ。この絵は
第4巻目にある。
  このあたりは鏑木の残した『鴫沢宮の像』という文章によって報告されている。
  
  こういう話を知ると、徳島県の郷土史愛好家の私の血は騒ぐ!
  熱海の海岸の「寛一お宮の松」に苦笑した思いなどどこへやらで、手の
ひらをひっくりかえし徳島県内にある『金色夜叉』ゆかりの「お宮」の挿し絵の
モデルの「雪松」さんを観光に活用しないとはケシカラン!とばかりに、「雪松」
調査に私は入った。
 
  熱海の「寛一お宮の松」はフィクションだが、「雪松」さんが「お宮」の挿し絵
のモデルであるのは史実だから、徳島の立場は強い!
   
  ただ、明治40年代に30歳の若さで亡くなられたために「雪松」さんの子孫
が存在しない。また、同時代を生きた徳島の郷土史家の先輩方も皆亡くなら
れている。
  芸者の置屋を昭和10年代まで行っていた高齢者によると、20歳や21歳
くらいで亡くなる芸者も昔には多かったという。栄養事情が現在とは比べもの
にならないほどに悪かったからだという。
  こうして調査は困難を極めた。
 
  なによりも困ったのは、「雪松」さんの観光への活用とはいっても、それは副
次的なもので、実際には「雪松」さんの顕彰碑を写真と鏑木清方の絵を付けて
建立しなくてはならないということである。
  その場合に、たとえば戦国武将や小説家などの文士であれば「○○○○生
誕の地」というようなものもあるが、こういうものでは仰々しすぎる。すると、尾
崎紅葉の眼にとまった「文芸倶楽部」で紹介された明治30年代当時の職場で
ある「紫屋」の跡に建立するのが良いのだが、すでに紫屋は存在しないため
その場所がどこであったのかがよくわからない。
  また、太平洋戦争時の空襲や戦後の都市計画などで市街の様子はすっかり
変わっている。
  そこで明治30年当時に「紫屋」のあった場所の確定作業が必要となる。
 
  しかし街中の人々の常で、人々の引っ越しが頻繁で、戦争の空襲や戦後の
混乱で多くの人々は「紫屋」のあった富田町から転居してしまっており、古老と
呼ばれる生き字引の人々が少ないのである。
 
  おまけに「紫屋」は料亭などではなく芸者の置屋である。つまり人材養成所
兼人材派遣会社であるから、顧客が直接に「紫屋」に出向くことはない。宴
席などへの必要がある場合には、人々は、置屋の組合であり統合窓口で
ある検番(けんばん)に電話などをして芸者を派遣してもらうこととなる。
  だから、戦前に検番がどこにあったかは多くの人々に記憶されているが、
個別の置屋の場所をあまり記憶してはいないのだ。
  だが幸いにも、この紫屋に幼稚園時代からの友人がいて幼稚園に通って
いたときから遊びに行っていたという大正時代生まれの女性に会う機会が
最近あった。    
  この紫屋は基本的には家族経営で、いわば家族全員が芸者であったと
いう。
  ただし、紫屋の家族は、大正生まれの世代になると芸者とは違う道を選ん
だという。
  そのためらしいが、どうも昭和初期には芸者の置屋家業を廃業していたら
しく、玄関の上の夜間用の明かりの電球式の灯篭に「紫屋」と書かれたまま
になっていることで、かろうじて、元は置屋であったことが判るという程度の
ものであったらしい。
  そういうことで、置屋の同業者にも、「紫屋」に関しては名前はともかく場所
がはっきり記憶はされていなかったのだ。こうして、 この五年間ほどの、とき
おりおこなっていた私の調査では、はかばかしい進展がなかったのである。
 
  ところで、 この「紫屋」の家屋は「雪松」(本名=後藤ユキ)が明治30年ころ
に所有していた土地に建っていたらしいことがわかった。その土地は「雪松」
(後藤ユキ)のいとこの後藤イソノさんに譲られている。このイソノさんの娘で
ある女性が大正時代生まれで大正時代には幼稚園児であったのだ。
 
  こうして、大正末から昭和20年7月の徳島市への米軍の空襲までの間の
紫屋の位置は判明した。
  だが、はたして、この大正末期の紫屋の位置が尾崎紅葉の『金色夜叉』の
時代の明治30年代の紫屋と同じ位置であるのかどうかは、まだ疑問ではある。
  現実問題としては、明治30年代の紫屋そのものを直接に見た世代はすで
に存在しない。
  はたして、こういう店舗というか住宅の位置を示した地図で明治30年代の
ものが発掘できるかどうかは今後のテーマであろう。
    
  かくして、ばたばたと「『雪松』碑建立計画(案)」を私は作成し、紫屋の
あった花街である富田町の町会などに提出した。
  ただ、その「紫屋」跡は、現在では戦後の道路の付け替えで、四つ角の
道路の真ん中になってしまっている。こういうところに顕彰碑を建立しては、
見学者が交通事故に遭う。
  そこで、「紫屋」跡から道路を数十メートル北に進んだところの検番の跡地
に建っているケンバンビルという日本舞踊や三味線などの練習場所などを
備えたビルの敷地内の玄関前の小広場に「雪松」顕彰碑を建立する案も私は
併記して出した。
  このケンバンビルの玄関前の方が安全だし、芸者の顕彰碑であるから
検番跡でもあながち無縁ではないだろうと判断したのだ。
 
  となると、ケンバンビル側にも建立案を報告しなくてはならない。
  勝手にケンバンビルの敷地を碑の建立地の候補にした計画を当事者には
連絡しないというのでは拙いだろう。
  そこで、ケンバンビルを訪ねると、現在のケンバンビルの社長は料理研究
家として知られる小山裕久氏だった。
  小山裕久氏というとマンガ『美味しんぼ』にも登場する料亭「青柳」の主人
であり、「平成調理師専門学校」の院長ではないか!
  とにかく小山氏にも計画案を提出した。
  こうして、徳島市の富田町や徳島の芸者文化をささえる人々にも碑の建立
案は提出したのだが、はたして今日の日本で尾崎紅葉の『金色夜叉』ゆかり
の碑に価値があるのか? あるいは、画家の鏑木清方ゆかりの碑とした方が
理解されやすいのでは? という声もある。
 
  いずれにしても、この碑の建立案が今後にどう展開されるのかは、楽しみで
はある。
 
  完成すれば、ささやかながらも観光スポットが徳島に新しく加わるからだ。



↑金色夜叉第4巻に描かれた鏑木清方画伯による鴫沢宮の画。

★“愛県家”とは、郷土をこよなく愛し、県の発展と繁栄、向上を願い日々発言・行動する
ローカル・パトリオット(Locol Patriot)のことである。

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