さて、Bの作品を一通り見ましたが、Aとの間にある大きな変化というのものを感じていただけたのではないかと思います。コメントに入れたように、この時代の若い世代の大きな特徴は、Aにあったような世界観が、もうぼろぼろに崩壊してしまって、あなたとわたしというようなとても視野の狭い空間の中にしかリアリティを見出せないということではなかったかと思われます。ただその中でも、定型の感覚だけはしっかり守られていたんですね。俵万智さんが、それまでどうしても評価されにくかった口語をつかいながら、あれだけ大きく評価されたのは、定型の感覚を活かした口語短歌だったからだと思います。むろん当時もっと広い外部に目を向けた作品もあります。李正子先生の作品などもそうですね。しかし、当時20代の作者たちのリアリティというのは、意外なまでに狭い場所でいちばん力を発揮していたというのは事実です。1990年代になって、では、どうやって大きな視野を回復するか、また口語の文体などもどうやって大きな世界をうたうために活かしていくかということがいろいろ考えられることになりました。ぼくの世代の作者たちも、このまま進んでいけばいいとは決して考えていなかったわけです。それゆえに1990年代の短歌は、戸惑いの様子を隠しきれないままに、混沌とした時代を過ごしていたわけですが、ぼくたちよりももっと若い世代の作者には、そうした戸惑いもなかったようで、1980年代にあらわれたBのような作品傾向をさらに押し進めた作品を書きはじめているようです。正直なところ、かなり奇天烈な作品を書いてきたぼくたちにも、見えにくくなりはじめているような気がしています。最後にそのサンプルであるCの作品を見ていきたいと思います。

まず、一首目、千葉聡さんの作品です。

 コンビニで森高千里の『ファイト』など聴いてくしゃみを三回しちゃった

千葉さんは、昨年、短歌研究新人賞をとった歌人です。いま三十歳くらいだと思います。大学院で沖縄の文学の研究をされているそうです。それで、作品の方なのですが、森高千里というのはご存じかと思いますがアイドル歌手で、「ファイト」というのは彼女がうたう若い男性を応援する内容の詞の歌です。冷房をよくきかせてあるコンビニ=コンビニエンスストアの有線放送で流れる森高千里の「ファイト」などを最後まで聴いてしまったためにくしゃみを三回した、という内容です。はじめに読んだときにはなんだこりゃと思ったんですよね。会場にいらっしゃる方も多くはそう感じているのではないかと思います。ぼくたちの世代でもBのあたりまでははっきりわかるがCになるとわからないという人間は多いです。それで彼が何を面白がってこの作品を書いているのかをぼくも一生懸命考えました。たぶん、夜中のコンビニに、用もなくなんとなく出かける青年が、たまたま森高千里の曲が流れているのを聞いて、つい聴き入ってしまうという、人恋しさというのか淋しさというのか、そうした青年の不安定な感情みたいなものを出してみたかったのだと思います。この青年は、最後まで聴いてしまうほど好きなわけですから、自分の部屋には森高千里のCDがあると思うんですよ。それをなおかつコンビニで聴いてしまうというところがこの作品のポイントなのだと思います。そう考えると現代風なリアリティ、抒情としてよくわかります。いい歌だと思います。ただ、なじみにくいのは、このふにゃふにゃとした日記的な報告調の文体ですね。

次に、二首目の成瀬しのぶさんの作品を見てみます。

 未来都市の座標(0、9、13)にわたしの時間を密かに埋めた

未来都市というのは作者の空想の中にある未来のイメージだと思うのですが、座標(0、9、13)というのが具体的にはなんだかわかりません。おそらくは、住所が将来的にはとても無機的な感じであらわされることになるのを言っているのだと思います。そこに「わたしの時間を密かに埋めた」というのですから、自分の未来についてのある設計というか展望みたいなものを言っていると思います。しかしそれが具体的に何かというのがさっぱりわからないわけなんです。SFとかファンタジーの感覚は、ぼくたちの世代にも充分にありますので、作者がイメージしている映像的な印象などはしっかり見えますし、そこに歌の面白さを充分に見出すことはできるのですが、こうして淡々と報告調の文体で書かれたとき、作者の主張したいことがうまく見えてこない部分があるんです。ぼくたちにも定型の感覚のゆるみのようなものがあったと自覚はしていますが、彼女たちの作品を読んでいると、ぼくたちはまだ定型の文体とかうねりのようなものを通して何かを言おうとしていたのだなということを強く感じます。

次に、三首目、古谷空色さんの作品です。

 電球の真空だってそれなりの宇宙と言ひ張るほどの純愛

壺中天という発想がありますから、電球の中の真空というのがそれなりの宇宙だというのはたぶんどなたにもよくわかる感覚だと思います。しかし、「それなりの宇宙と言ひ張るほどの純愛」の「純愛」というのを持ち出されると実感としては何がなんだかわからなくなってしまいます。たぶん作者にとっては、電球の真空をそれなりの宇宙だと言うことをものすごいことだと感じるようなセンスがあるのだと思います。異常なと言うか過剰なまでに奇妙なたとえです。ただ、純愛などという今日ではほぼ死語と化したようなピュアな愛情について考えるとすれば、これくらいには過剰な比喩が必要なのかも知れません。そう考えるととてもリアルな作品なんですね。ただ、ここには、Bの作品で見ていたような「あなたとわたし」だけしかいないような世界、その世界さえ消失しているように思います。ここにいるのは作者ただ一人なんですね。この過剰な比喩によって一人考え、悩み、自足し、また悩んでいるような、そんな雰囲気がうかがえます。

次に、四首目、ゆきあやねさんの作品です。

 ドアノブに他者を感じて掌は満開桜の叫びをあげる

おそらく帰宅時、「ドアノブに他者を感じる」というのは誰かの来た気配を感じたということだと思います。下の句のよろこび、たぶんよろこびでしょうね。その具合から察すると、他者というのは、恋人みたいな存在じゃないかと思います。そしてドアノブを握ってなぜかそれを感じて掌が「満開桜の叫びをあげる」。つまりものすごくうれしいというようなことを言っている作品ではないかと思います。とてもうまくできた作品だと思いますが、ここにも異常なまでに過剰な比喩表現がありますね。そして、他者がいるにもかかわらず、自分の側のことしか言わない書かないというのも先程の「純愛」の歌に見られたのと同じような特徴があると思います。

さて、こうしてCの作品を一通りみると、1980年代ともまた違ったかたちで、現在の若い人たちの歌があるというのを強く感じます。世界観の崩壊というのは前の世代からのものだと思うのですが、ここではさらに、定型の感覚といったものまでがすっかり溶解してしまっている、あるいは消失してしまっているのを感じます。報告調の文体に見られたように、書きたいことをただ淡々と書く。あるいは過剰な比喩の作品に見られたように、もっと他者とのコミュニケーションの回路をひらける可能性があるにもかかわらず、それをせず、自分の側の感覚ばかりを記述する。これを一概にいいとか悪いとか言えないのですけど、ぼくたちの世代からでもすでに見えにくくなっているこうした位置で、そこに大きな価値を見出し、作品を必死になって書いている人が多くあらわれているというのは事実です。

テーマにもどりますが、「21世紀の短歌」を考えるとき、ぼくたちはすでに過去の尺度では決してはかれないようなところまで来てしまっているということです。Cの作品などを見ていると何か新しいものが生まれるのかも知れないという期待とともに、自分が短歌に対して抱いているイメージが早晩消失してしまうのではないかという不安感もあります。AとかBの作品はその点でいくらかは安心できるものではないかと思いますが、かと言って、AとかBの作品がいつまでもいい、とは言えないというのも事実ではないでしょうか。期待と不安に満ちた状態で書くしかないわけですね。新しい時代には新しい時代の感覚をつかみとらなければならない。けれど過去をあっさり捨てるわけにもいかない。過去と現在の相克の中からのみ未来が生まれるわけですね。とてもあたりまえの結論になってしまいますが、これを今日の話の結びの言葉にさせていただきたいと思います。ご静聴どうもありがとうございました。

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