テレビに絵が描ける、絵がすぐ動かせる、ゲームソフトで遊べる-子供たちの想像力に直結するホビーパソコン、それがぴゅう太です。
'77年に日本で起こったボールゲームのヒットを皮切りに、玩具メーカー各社は本格的に電子分野へと進出していきます。トミーが焦点をあわせたのはパソコンと遊びが融合したもの、そして教育に使えるホビーマシンでした。ただ、いくら技術のトミーとはいえ、コンピュータ分野は当時まったくの素人であり、社外へのOEM(委託生産)も十分考えられる選択肢だったのですが「電子化は玩具メーカーに避けられないとすれば、社内に技術開発の種を育てるべきだ」(青木常務:当時)と、ハードとソフトのすべてを社内でてがけることにしたのです。このプロジェクトのため、大手コンピュータメーカーの開発者をはじめとする10人以上の技術者がトミーに移り、2億円以上の開発費が投入されました。開発中期には8ビット→16ビット機の大幅な仕様変更のため、それまでに仕様のリセットされるなどさまざまな難題も噴出しましたが、いくつもの谷を越え、ぴゅう太は1982年6月(発売は10月)に正式発表されることになるのです。
時まさにパソコンブーム前夜。玩具とコンピュータの理想的な結実であるぴゅう太は、16ビット、59,800円という入門パソコンとしては低価格であったことでも話題を呼び、この年国内だけで7万台を出荷、ホビーパソコンでシェア一位を獲得しました(日経新聞'83/3/21)。さらには'82年度の日経製品賞をも受賞、翌年からはアメリカへの輸出と前途揚々な道が開けていました。
ゲーム機能がベースで作られたぴゅう太は、命令やメモリ容量などパソコンとしての機能は弱く、ユーザーは機能拡張マザーボードなどの発売を心待ちにしており、トミーとしてもさあこれからという時だったのですが、83年には家庭用ビデオゲーム機の価格破壊がおこり、さらには究極のゲーム専用機であるファミコン、初心者にやさしいMSXという両スタンダードの登場により、ぴゅう太の居場所はしだいに狭められていくことになります。この時期は海外市場の苦戦、円高、高コスト体質からの脱却の必要性など、トミー(工業)への逆風も強く、ぴゅう太の展開は結局2年間ほどで幕となっています。
Twitterでその名を目にしないほど、今も高い知名度をほこるぴゅう太。「16ビットCPU」「カケ、マワレといった日本語BASIC」など、おなじみの用語でしか知らないあなたも、ここに掲載したパンフレットから、トミーが追求した理想のマシンの姿に着目してはいかがでしょうか。
◆参考文献:トミー75年史(株式会社トミー)/新・産業革命(日経産業新聞'83年)
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