影と闇-W
残光2014-
(南方回帰その4)
Fishing from rocks near the shore of the ocean

何が影で、それが闇で何が光なのかも明確ではないにも関わらず人はまた求め、従う。
定めが何かもその光がなんなのかも判らないのに。



現代になっても世界はまだまだ混迷の中を彷徨い続けている。
宗教など、関係ないと言うが現実の事実は、それが火種になって今も人々は争い戦い続けている現状。
一体なんの光を求めているのであろうか。
それが事実として即動画に公表されてきて、殺戮や処刑ですら動画の中の事だけのように錯覚をしてしまう。
そこには、闇の中の更に地獄のような闇が待っているのではないかという不安に集られるのは私だけでは無い筈であると思う。
21世紀になる現代なのに、紀元前からの確執はまだ解決していない様である。

南国とは言うが
そこにも冬と言う季節がある。
また、春夏秋冬と言う四季があると言う。

島人にとっては、この冬もそれなりに寒いそうである

 日本の遥か南の島国がまだ琉球を名乗っていたころの西暦1500年、八重山の島で武力蜂起して殺害されたと言われる彼は、一体何を考えて何を思って死んでいったのか。
あまりにも、明確な資料も残っていない為にその人物像は、まちまちである。
一説によると身長は180cmを超え赤毛であったと言う。

 しかし、真実は永遠に闇の中なのかもしれない。
最後は、田んぼの中で隠れていたところを刺されたとも言いい、あっけなく討たれてしまったらしい。
それでも、英雄は英雄なのかもしれない。
我が国も過去の歴史には、戦争が繰り返されて来た。
おそらく、その戦火を免れた国など何処にもないのかもしれない。
現に毎日のニュースは、戦争と抗争、紛争の話ばかりである。
そんな2014年も終わりに近づいている。
平和をどんなに叫んでいても、世界はまだまだ平和とか平安とかとはほど遠い。

 11月の末の事。

久々に友人に連絡をしてみる。

[本日は、大型を掛けましたがブレイクしました。 残念です。 ]

とだけ戦友に携帯メールを送った。
 その一昔、彼と出会った頃には、まだまだマイナーな連絡手段であった。
というより文字数もかなり制限されていて、なおかつ普及も今一だった。
当然、私はそれを所有することも、その手段もなかった1990年代の半ばの事である。
因みに、携帯等を所有したのはそれから数年後であった。

[○野さん、ドンマイです。]

とだけ返事が返って来た。
 たったその一言だけだが、その重みは数多くの実践の中で培われた人間のみが語れる重い一言であったと思えた。

 それから一週間が過ぎ去り、そのこともひと段落ついたかに思えたその頃。
それは、慌ただしい 師走に入った頃になるが、その“作法”の友人から電話が掛かって来た。
半年、いや一年振りになるのかもしれない。

「○のさん、元気ですか?」
「はい、どうもお久しぶりです!。」
「少し気になって電話してみました。」
「あれからどうでしたか?」
そう、先のメールから数えて丁度一週間が過ぎた頃の事である。
「はい、なんとかかんとか○●◎は獲りました。」
「えっそうなの!それは良かった。」
「あれからどうしてるかと思いましたよ〜。」
「あとブレイクが○、フックアウトが○です。二人で。」
「あれ、二人で行ったんですか?」
それもその筈、彼は単独釣行が圧倒的に多かった孤高の人だから、その発言にはまったく無理がない。

 なんとも相変わらずお互いにスロースターターなで出しではあったが、暫くすると徐々に勢いが付いて加速しだした。
あのまた豪快な笑いが聞こえるところを見ると、彼も元気らしかった。
少し安心した。
それはお互いだったかもしれないが。


「今回も、とても良いサイズを掛けたのですがねぇ。今回は魚が止まって寄せて来たので・・あと一息だったんですよねぇ・・・。」
「そうかぁ・・・○野さん、獲れる獲れないと言う感覚があると思うけど沖で弱らせないと駄目ですよ・・。」
「今回のは、止まったので獲れると思ったのですがね。あと少しで左に走られて切れましたよ。」
「魚は?」
「はい、いつものイソンボですよ。」
「おお、イソンボかぁ〜!」

云々と二人の会話は、久しぶりに20分以上続いた。
彼の心配は次の言葉だった。


「この釣りは、絶滅に近づいていますよ。どうにもならんなぁ〜!」


 ここで彼の言う絶滅とは、磯釣りと言うジャンルが無くなると言う事では無いのが良く解っていた。
彼のようなスタイルの釣りが、無くなると言う事に危惧を抱いていると言う事である。
あの孤高で、研ぎ澄まされた心・技・体で挑む守・破・離の釣り。
スポーツフィッシングと言う海外から入って来た言葉だけでは、決して括りきれないあの、先にある武徳の釣り。
 そんな事は、日本人にしか解らないのかもしれないが、その日本人で武人と言われる人間が何人いるだろうか。
更にその先には、マイナーな釣りと言う事が重なる。


「平○さん・・・まあルアーだの餌だの行ってる間は、大型が遠いですよね。」

「まったくその通りです。」

「まあ、それもこれも経験値に比例するので、解る解らないの質問は多分にありますがね・・・。」


勿論その言葉の奥には、意味がある。
 但し、スポーツフィッシングと言う概念があるだけ欧米社会は、文化的にも先進国と言う事になるのかもしれない。

「IGFAには、餌とルアーの区別は全くないですからねぇ。」

「そうですよね。それは良く知っています。」

何処の団体でも良いのたが、現実に整理されているのはIGFAという米国主体の団体しかないので、消去法的にもそれに照準を合わせるしかほか無いのであるが。
 その言葉をそのままでしか伝えられないのが文章の限界で、その先はなんともしがたく、文豪ならそれを解り易くでもできるのだが、そのような才能は私にはない。
あの、日本人独特の空気を読むと言おうかその先の悟りの世界なのか、その気の先の気が流れて行くのを捉える事に集中しながらの会話。
それを武人の会話とでも言おうか。
そんなくだりが、過去の映画でラストサムライにもあったような気がした。

 磯からの釣りには、思うに一種独特の世界観が拡がるような気がする。
正に自分を限定された環境のその中に置き、敢えて見出す突破口のような・・・あるいはそこに置かれた不利な状況を覆す程の知恵と勇気が必要のような気がする。
しかも飛び道具なしの一騎打ち。
 飛び道具、近代兵器満載でも命がけの勝負心には変わりはないのであるが、敢えて迎え撃つ場所を決めて死守を余議なくされるのならまだしも、しなくても良いのであるが。
その場所に身を置く釣りも存在するのだ。
 そういう磯の作法が絶滅危惧種と言う事にでもなろうかと・・・思ってもみるこの頃であった。

-会談-
とは言うが、それはたった二人だけの秘密会議でもあったのかもしれない。
所謂密談だったのかも


しかし、それは今となっては、どうでも良い事であり、その事実と内容だけが重要な事なのであろう。

 そこにはまだ、今流行のコンビニの税込100円珈琲はおろか、なんとか黒船○○○バックコーヒーも無い頃。
とある埼玉県の喫茶店の出来事。
そこで彼と二人で行った。
 あたりはとっぷりと日が暮れて、もうすっかり夜。
紙コップではない、ちゃんとしたカップに注がれた熱い珈琲の香りが匂い立つその店の名前は、既に記憶に無い。
いや、最初から覚えていなかったと思う。
 そこには、たばこの煙はお互い無かった。
まだまだ若い彼は(私も若いが)、自信に力を示そうと努力していた頃の孤独な釣人だった。
そこで多くを語った。
意思疎通もそこから始まったような気がする。
と言っても、時間にして一時間半くらいだろうか。
同じ匂いのする人間。
しかし、全く同じではない。
私はねっからのジャンクフード、スナック菓子を良くつまむ。
未だブラックサンダーですら珈琲のお伴。
そこら辺りが、突っ込みどころ満載な私とは違うところ。
彼は一切それを口にしない。
当時は私も今に比べればメタボ親父と言われる筋合いなど全く持って無い程ではあったが、 彼は今でも、己の肉体を鍛え上げている。

 ノートPCもまだまだ普及とはほど遠い頃で、口頭とアナログな写真での会話。
それでも、とても面白かった。
100枚以上の重ねられた写真は、それまでの我ら昭和世代には、極当たり前の情報共有手段だった。

一枚、一枚写真を見ては、ずらりと並ぶに並んだロウニンアジの写真を見ては、この時は云々・・と言う話が続いた。
興味が湧いてきて、主義も見えて来て、想像も膨らんで来た。
妄想もめらめらと湧いて来た。
 そんな、1990年代半ばからすると既にもう20年が過ぎ去ろうとしている。
思えばその前の1980年代が青白い感じの燃え始めの頃なので、その当時の磯釣人の先人のカラーは、もう殆ど何処にも存在しなくなったようなそんな気がした。

「GTじゃない。平鯵、浪人鯵なのですよ。」


彼も私もまだ20代、若気の至りな感はあるが、熱い空気がいつも蔓延していた彼だがクールなのは今も変わらない。
変わった事と言えば、それぞれそれなりに親父になったと言う事だった。

-師匠-
それは、師事されたものの宿命
その重き心の師弟関係に成り立つ人間関係であり、それは決して滅びない。

 私は、師匠と言う存在には大変恵まれた方だと思っている。
私の方に才能がある、無いはともかく、師匠と言う存在だけは恵まれた。
人生の師匠に恵まれる事ほど、徳を積めるチャンスを得る事はない。
また、師匠が存在してこそ、指導も受けられる。
そこには、自己主張とは無縁の必ず通過する“守”と言う掟が必ず存在する。
守のない我流と言う存在は、“守“がそもそも存在しないので発展性に欠けてしまい必ず限界を迎えてしまうのである。

 1990年代始め、私は旧中村市(現四万十市)の“おかだ釣具”に良く通った。
当時はルアー釣りがとても面白く感じた時代で、もっぱら私の行う釣りは、このルアー釣りであったが
店主の岡田さんは、1970年代から80年代にかけて離島遠征を続けて来た人である。
面白いのが、当時から磯竿一本勝負を平鯵に対して行って来たと言う事がとても新鮮であった。


「よう行ったもんよ。」


その一言にも、とても重みがあったのをまだ覚えている。

過去の紀行にも少し取り上げたが、いつもこの言葉は忘れない。

「死に物狂いで踏ん張ってギリギリの中で、ケツが浮きそうになるのを必死でこらえて・・・・。」

勿論、人間味もあり、情も厚く、土佐の武人の香りもした。
たばこをいつも吹かしながらでの会話もいつも数時間にも及んだ。
 嫌な筈のたばこの匂いも、衣服に沁みわたってしまうけれどそこは、とても居心地の良い場所であり
“おかだ道場”でもあり、秘密会議室でもあった。
「釣り有名人?そんなの嘘っぱちじゃあー、おらほの方がよっぽど上手いわー。」
なんとも豪快で痛快。
しかも、袈裟掛けでバッサリと。
そうこうするうちに、
 「あんたら珈琲のむね?と奥さんがあきれ顔で出してくれた。」
時計は既に夜中の12時をとっくに過ぎてしまった頃。
「もううちは寝るけん。」
そう言うと奥さんは、粘りに粘る我々に呆れかえり奥に吸い込まれるように消えて行った。
閉店もくそもない。
そのような店は、もう無きに等しいのではないかと思える程、今は味もそっけもない同じ味。
ファミレスかファストフードなのか、味はいつも同じだし、受けるサービスも全く同じ。
サービスの均一化は、安心感もあるが、ドキドキ感も期待感も何もない。
新メニューや限定メニューと書いてあっても特段変わりはない。
広島産カキと言う言葉も枕詞みたいに冬ともなれば毎年のように使われる。
それが岡山産となってもまず期待はない。

 しかしそれは、現代の日本人の多くが、多くの冒険よりも、いつもと変わりない安定を希望しているのか、その方が無難なのか、それらが人気なのも理解できる。

 ならばこの私が、その小売専門時代の良さをと思っても見るが、良く良く考えてみると当時の岡田さんよりも今の私の方が年上になっているのは時は流れていてそこには至りきれていないところを見ると、現実はそうは行っていないと言う事なのかもしれない。
それは、多少の形態を変えても輪廻している事の証明なのであろうか。

それから20年以上が過ぎ、動画からは感動が出て来なくなり、プロモーションと名がつけば色眼鏡になる。
そんな土佐守で豪快な師匠も既にもう故人なのは、少し寂しい気もするが順当でまわってくる時系列なのは良く解っている。

 ここにもう一人、師匠がいる。
なんでも話によれば、琉球時代の銘家であるらしいが、政治犯として島に流されたらしい。
その歴史は、ひも解いてみなければ全く解らないが、当時の主力勢力にクーデター等や反発をすればその結果は、本人が主勢力となるか、その末は抹殺か極刑なのは今も昔も流れ的には同じである。
 恩歳68歳にして、その父は98歳。
師匠も高齢に差しかかって来た。
そしてこの家を一人守っている。
 数年ぶりにお会いしてみると、その格尺とした背筋と、全く持ってぶれていない発言。
そして、 容赦ない説教。
それは、一見の観光客に対しても容赦が無いのは師匠らしい。
師匠は、そうでなくてはと言う師匠振りであった。
 しかし、そのような師匠の内心は、とても優しくて思いやりもあり、人の気持ちが解る人であり、そして時々寂しい背中を見せる。
愛想と言う事だけが不器用なだけであろうか。
そんな師匠は、 この島では異例と言ってはとても失礼である事は重々承知の上でだが、
“飲酒は身を滅ぼす(飲み過ぎ)とたばこは健康に悪い”は口癖である。
そう言うと、普通では無い気がする方も多いとは思うが、元々無医村で多くの先人達をこの2つが主要因で失った経験を持つ師匠にとっては、それが元凶の一要因である事を見に染みて理解していると言う事であろう。
 今は、ヘリも飛ばせるし、飛行機もある。
高速艇もあるので、そのリスクは緩和されてはいるものの、一昔前では、一度倒れれば即それは死に結び付いた時代を知る師匠にとっては、その口癖に変わりない。
そんな、禁欲的な師匠を、島の人は変わりものと呼ぶが、私はそうは思わない。
 それで今日までたった一人、完全な趣味としてこの釣りを開拓して、独りで獲り込んで、独りで運んでくると言う、途方もない苦労と労力を難なくこなして来た師匠には頭が上がらない。
これを高尚な趣味と言っても良いと思うが島の人はそれに理解はあまりないらしい。
 島は、ただの遊びと理解するのが妥当なところであって、本州から来る釣り人など、遊び人にしか映らないのは無理もない。
実際、そのような人がこの南の島に流れてくるのはそう言う人が多いのだろうから。


 ただ師匠と言う存在は弟子があってこそ師匠。
門下生のいない師匠など意味がない。
だからと言う訳ではないのだが、ならば私が弟子になろう。
同じ弟子にも野人もなったのであるが、元々従兄の野人に関しては、仕事の師匠でもあったらしいし、その付き合いも50数年にもなるので その点では足元にも及ばない。
ブランクは空けど野人と師匠は、今でも名タッグなのた。

 さてまた数年ぶりに、琉球古武術風“隆道場”の再開である。
右拳をぐっとその脇に締めて・・左手は開いて前に出す・・と言ったところか。

 今年、この島に変わった事と言えば、今年はサトウキビが大変不足で雨が全く降らなかった為に島産の黒砂糖が無い。
師匠の家に瓶に入ったあの黒砂糖がないのは少し寂しい。
師匠は几帳面なその正確で、いつもそこは整理整頓されていて、インスタント珈琲の位置もカップの位置もいつも同じ場所である。

インスタントコーヒーの雑味と苦みを感じながらの黒砂糖を齧る事は、今年は諦めた。

少しばかりの救いは、夏にはひっきり無の観光客が、かなり少なくなったと言う事くらいだろうか。

島は、元々観光には全く力を入れていなかったし、今も半数はそうであろうから静かな日中を取りあえず保っていた。

-終夏-


何ともそれは、残暑と言う概念を超えた冬と言う季節の暑さ
このような、冬も珍しい。

Tシャツに短パン、草履。
風が少し止んでくると、即 蚊の猛攻。
思わず蚊取り線香全開。
ここに一か所、あちらにも一か所と、四方を蚊取煙でバリアを作る。
 そう言えば5年前、ベ―プマットの使い方が判らないと助けを求めたおねえちゃんがいたな。
マットを敷かずに、コンセントを入れても全く蚊が死なないと言うのだ。
 これには、一瞬唖然としたが、年齢を聞くと19歳と言う。
ものごころついた時には、既にその家ではこのベ―プマットは使われておらず、ノーマットの時代だったのだろう。
ここが、昭和生まれと平成生まれとの差なのかもしれない。

 ここはまだ夏なのかと思ったのであるが、島の人に聞いても暑いそうなので、どうやら季節に似つかわしくない天候らしい。

少し気になるのは、ヤモリの数が少しばかり少ない様に感じた。
 それでも専務は、旅慣れている事もあると思うが、この島を満喫している様子である。
そう、今回は専務と同行である。
では、将軍サマはと言うと、彼は臨時の仕事がどうしても抜けられず、今回は延期となってしまった。
 スキあれば攻撃したいと臨戦態勢のこの八重山産の蚊達は、まだまだ元気いっぱいで、おまけにネズミが同じ位置前後に必ず糞を残している。
完全に彼らの住処でもある。

 ここで持参した、UZUのラジエーションシャツが重宝している。
近年の機能性化繊はとても楽であると同時に荷物事情が益々厳しくなる昨今の航空事情に上手くマッチしていウェアである事は間違いなさそうである。
しかし、師走始めとは言え国内でこの暑さとは、全く持って想定外であり、冬対策として持ってきた長袖や万が一と持ってきたレインギアがただのお荷物と化しているのは、嬉しいのか悲しいのか
と言う感じだった。

 その日前日の事になるが、島で“しましん”と言う島人のY本監督お勧めの店に入った。
島で野人と専務とY監督と野人の奥さんとでささやかな晩餐会をした。
ギジムナが迎えてくれた。
 迷わずお勧めの“軟骨ソーキそば”をオーダーした。
ありきたりの事になるが、ヘチマやゴーヤ、とうふチャンプルがとても美味しかった。
 ヘチマは、本州では食べものとして扱われていない様であるが、これは結構いけた。
豆腐も島どうふは水分が少ないそうで、少し硬めであるから、チャンプルにしても崩れてぐちゃぐちゃになる事は無いそうである。
 どうも家庭でのガスレンジとは火力の差があり、強火で炒められるプラス苦すぎない島のゴーヤのコンビではとても良く口に運ばれて至福の味であった。
そして、なによりも気の合う仲間との夕食会はとても楽しいものである。
それが永遠に続くと幸せなのかもしれなかったが、それは昨今の状況下ではあり得ない事なのだろう。

僅か90分くらいのささやかな幸せ。
そのささやかさえも得る事ができないでいる国の人々とその世界の情勢は、いかんともし難く、ふと一人になるとそこまで考えてしまう。
それが、豊かな国の人々の出来る事の第一歩なのであろうか、それとも単なる同情だけなのかその先はまた分れるところでもある。

 胃袋が満たされると、自然に解散の雰囲気が漂ってきたので我々は、明日の事を考えて早々にお開きにした。
専務とホテルに向かった。


 このホテルはと言うと系列のホテルであって、サービスは均一で、支障のない、本州のビジネスホテルとなんら変わりが無かった。

そこは素直に受け入れて明日を待つ事にした。

 

−開戦−


戦となれば、双方同じ条件でぶつかる事はほぼ無い。
それは、現代のスポーツ競技の世界でも同じ事。
例え、あらゆる面で不利な状況であっても
困難であっても、それでも勝つ方法を見出して行かなければならない

 翌日の天気は、雨時々曇りのち晴れの日。
それまで、雨も降らず、思わず雨乞いしたくなると言っていたY氏であるが、どうやら恵みの雨らしい。
 さて本番の 出陣である。
もう更に歳をとり過ぎて、とっくにリタイアしたと思いきや、その5年後も、なんと現役である事にびっくりしながらも ボロボロのR号に、必要な荷物を積み込んだ。
“それにしても良く頑張っている。まさかとは思ったが”
専務と二人で賽ノ河原風のあの場所を目指した。
整備が行き届いているのか、潮風でボロボロに錆びて朽ち果てそうなボディとは裏腹にエンジンはとても良い音がした。
エンジンはまだまだ走れると言っているようだった。
登録年は見てないが恐らく20年選手かもしれない型である。
他の送迎車は、ぱっと見ここ数年のうちに切り替えたと思える年式ばかりだった。

 汗の中、二人は、膝サポーターに磯必須の尻当(ヒップガード)、長ズボンに磯靴を装着した。
因みにこの磯靴は、その5年前に1万円以上したものであるがいきなり今回、底が禿げてしまった。
これは、神のお告げであると決め、一旦 師匠の元に帰る事にした。
案外と言っては失礼であるが、信心深く、思慮深い専務の助言がかなり効いた。
更に危険との判断で、専務が、シ○ノのシューズを貸してくれ、専務は、師匠のタビを借りる事となった。
 タビ、これが案外理にかなっている。
案外とタビは快適そうだった。
次回から磯タビにしようかと二人で思った程である。
 それと、取り替え式の靴底は便利ではあるが、危険だと言う事を実感した。
買ってすぐは軽快だったのだが。
 マジックテープ機能は、全く衰えていなかったのにはその技術レベルの高さが伺われたが、接着面が完全にその能力を失っていた。
次回から、この取り替え式のものは、選択肢から外すようにしようとつくづく思った。

「さあ、始めるかね〜。」

専務はと言えば、所謂呑みこみがとても早かった。
今回が初めてにも関わらず、リグも完璧に思えた。
その手際良さには関心した。
彼は、一度教えるとすぐものにしてしまう。(勿論何度も下準備と打ち合わせはしたのだが)
それだけ、自ずから近道を知っているのであろう。
“守”は完ぺきに守られていたのである。
 目標は、はるか上にあればある程、最短コースで行けるところまでは行った方が良いと思うこのごろ。
何故ならば、持てる人生には限りがあり、更に、体の自由と無理が利く期間ともなると人生の大半を寝る事と労働する事に奪われてしまう人生とすれば尚更である。
残念ながら、ここが欠けている事に気が付かない輩がどれだけ多く存在することか。
それが自論による拘りにもなるのだが、こだわりは得てしてもろ刃の剣のような気もする。
 そんなことは、釣り動画にもDVDにも、雑誌にも何処にも映っていないし、記載もない。
年に数度か行われる釣りセミナーの中でも、道具の説明と釣り方云々は多く語られても、本質いついては語られる事はほぼない。
それどころか、その半分はあまりあてにならぬ情報だったりするのかもしれない。
 ここの重要と思われる基本的な考え方や方法の部分は、元々培った教育環境に依存するとも言えるが、現代の義務教育がそこには全く触れていない事実の表れととる事もできると言えよう。
それだけ世の中に情報と言う必要以上の知識が山積みにされて、どこを拾ったら良いのかで止まってしまうか、片っ端から片手落ちの状態で吸収風になってしまうのだろうか。

 リグの組み付けに於いて教える側が、これだけ楽な事はない。
テキパキと己の武器に磨きが掛かっているからである。
初日の多少の説明で十分話が通じた。
 私は、当初このリグを初めて見た時は、なんだか闇夜の中の現場では理解するのに物凄く時間がかかったのである。
その時、現場で初めてリグを知ってからの釣りは、何とも心細かったのを覚えている。
それからあっと言う間に10年が過ぎ去ってしまった。

 戦う武器は、1363-um9pクラスの竿とAVETのラプターモデルと言うマルチパーパスなコンベンショナルリール(両軸リール)。
その豊富な知識と世界中を釣り歩いた師匠ならではの設計のこの竿は、正に現代のモーゼの杖であったりする。
信頼のものである。

 今回使用するそのリールは、この釣りには最も向いていると思われる程で、その名をHX猛禽類と言う名前のリール。
特段ハイテクでも、超ウルトラ高性能と言う訳でもないが、この手のコンベンショナルリール(ベイトリールを含む)では断トツの機能満載リールで
あらゆる釣りにマルチパーパスに使える超実践リールなのである。
この手の発想は、我が国を代表する国内大手二社には全く持ってないと言っても過言ではない。
もしくは最初から想定していないと思うくらいに選択肢が全く無い。
むしろ意図的に限定モデル化して特化仕様が目立ち過ぎる傾向にあるのは、売る側の理屈なのは否めないところであろうか。
但し、こいつの販売する側としての欠点は、世界にそれなりにばらまかれて価格も同一でないばかりか世界のどういうルートでも入手が可能と言う事になっており
もう訳が解らないと言うのが現状である。
使う側としては便利は便利であるが。


 ターミナルタックル(仕掛け)は、既に欠かせない“Rリグ改”である。
その先のフックは、OWNER社のゴリラでもリングドゴリラでもムツでもリングドムツでも良いのだが、ここはスタンダードと刺さり優先のゴリラを使う。
使い捨て針ではあるが、とても優秀な日本製のものである。
その切先は、オーナーカットと呼ばれる三方向のブレイドからなる化学研磨の先で、初期性能は恐ろしいほど良いのである。
 欠点としては、量産なりのメッキと少しでも刃先が当たっただけでその性能が半減されてしまう事であるので、こまめなチェックを必要とする。
それさえ怠らなければ、きっと多くの釣り人を良い方向に導いてくれるに違いない強い味方である。
 この部分は、他にこれ以上進化はないのではないかと言う完成度である。
ターミナルタックル(仕掛け)に使うパーツは一切妥協を許されないのである。
 ロッド&リールと言う根幹の部分には相当の力を入れるが、以下のものは適当と言う釣り人が多いのも、この手の釣りから遠のかせているのかもしれない。

-一回戦で強豪とあたる-

できればシード戦に・・・・・してはくれないか。
しかし、シードで上がってからと言って次が楽とはかぎらない。

「ほんじゃ餌の通し方は・・・・こんな感じで・・・」

専務は、それを見て即同じ様に刺して行く。

大海原の方角を仰ぎ見ながら、海神様にお願いする。
そこは、時代が変わっても国が変わっても変わらない。

さあ〜。

「投入〜。」

ゆっくりと潮は、左から右に流れているらしい。
ロングロッドもなんのその、風も南が3〜4mと言ったところ。
専務の○○っしーカラーの1363がすぐ隣に並ぶ。
リールは、私がブルーで専務がシルバーである。
ロッドは私はオリーブグリーン。
専務は、○○っしー風イエローに銀色猛禽類巻取機械。

時間が流れる。

南の島のさらに南の離れ。

オーバハングなテラス。

おそらく、他に人間はいない。


時々足元を見ても、あの死肉大好きな掃除屋さんの“ハサミ虫”も本日は、多く現れていない。

見上げれば益々小さな我々。

パノラマの空に見える流れ星。


ひとつ。

またひとつ。

一体何個流れて行くのだろうか。

そして大きな半月。

宇宙に身を委ねるこの感覚と時々襲ってくる現実と錯覚。

時々上がって来る潮飛沫。

この時間を共有しているのは、おそらくこの二人だけ。

 さあ勝負である。
1363-um9pは、前アタリすら逃さないセンシティブソフトトップにベリーからバットにかけての強靭なバネで魚をじわじわと締め上げる。
柔良く剛を制すの竿である。
しかしながら、突き技にも対応できる理想とする武術であるような・・・正に日本人好みであるがこの良さは、使った人のみが知りえるユーザー特典でもあるのだ。
 師匠、良くこの竿を設計してくれました。
誠に感謝致します。
と言いたいのであるが・・・。

 仕掛けが投入され潮に馴染んでくると、多少の潮流に乗ってラインを少しづつ引きだしては送りこむ。
この間も突然の奴の襲撃に備えて既に気が抜けない状況にある。
その咄嗟の対策は、クリッカーを入れる事である程度解決できる。
クリッカー有効術とでも言おうか。
左手で竿をもちつつ、右手でクリッカーをオンに入れる。
昨今のジギング専用リールともなるとそのクリッカーでさえ余分な機能なのか付属していないものもある。
つまり、そのリールはジギング以外は使わない、あるいは使えないと言う事の裏返しでもある。
 右で竿を支えつつ、ラインをつまむと一送り、また一送りする。
軽快でバックラッシュの心配は勿論無い。

そしてリールのレバーをフリーから一旦ベイトポジションに上げ。
更にローテンションギリギリのところまで1ノッチ、1ノッチとレバーを上げて行く。

 ラプターモデルのもうひとつの短所は、その強めのドラグが掛かる変わりにレバーの振り幅に対してドラグが効き始める範囲が非常に狭い事である。
馴れてしまえば、なんとも無い事かもしれないが、これが結構狭いレンジで、日本のクイックドラグシステムに近い感じがする。
レバードラグとは言え、今一つなところでもある。

時々、このドラグテンションを確認しながらの操作は、マニュアル感満載で、この仕事量がいつの間にか、このスーパーマルチパーパスな両軸を使いこなすと言う楽しみを得て行くのである。
このドライブ感は、道具らしくてとても良い。
 そしてこの糸ヨレの無さは、本当にありがたいと思えた。
この点はいくらハイテクになったとは言え、スピニングリールには不可能な特徴である。
そしてこのダイレクト感もしかり。
スピニングリールと比較すると、多くの時間、ラインと指は触れている状態にある。
ここらへんの使用感も操作の上に成り立っていて、静かな時間でも頭は常にぐるぐると小さい動作に合わせて回転してゆく。
静の中の動と言う感覚である。

 辺りは月の明るさ以外には、我々が時々照らす高輝度LEDのライトと先ほどパッケージから取り出して割ったケミライトの光以外には人口の光は見えない。

潮のうねりと波が月に照らされて、飛沫までが照らされている気がして、そして岩にぶつかったその波からサラシが生まれてそれも月の光に反射するような気がした。

光と闇そして影。

影と闇。

光と月。

月と影。

光と闇

影の影。

闇の闇。

星と光。

月そして月

光と闇と影の三重の景色。

そして光に映っては消えて行くサラシの小泡。

全てが自然に溶け込んで流れて行く。

釣り座は私と専務だけ。
心残りは、参加出来なかった将軍様の事で・・・それが時々波の音とそれがぶつかる音と飛沫に交じって・・話題に持ちあがる。
今ごろ雪にあくせくされている頃だろうか。

私と専務は、共有と言う名の小さな宇宙の占有をしている気がしてならなかった。
そこには、不快な事も多々ある隣人のプレッシャーもなく、人より優位に立ちたい事だけが生きがいの釣人の思いや、単なるエゴのぶつかり合いだけが生み出す表面だけのお付き合いとはかけ離れられて、少し幸せなのかもしれなかった。
 利害関係はここには存在していないのではないかとも思える自然の中に溶け込みそうになる。
「ああなんていい感じ。」
「世捨て人にでもなるか?」
「はぁ・・・・・。」
そのような世捨て人になれたらいいかもしれないが、現実はそうでもないし、世捨て人には世捨て人なりの苦労もあるだろう。
隣の垣根は良く見えるもので、いいところだけが良く見えたりするものだと言う結論は出ているのであるが。
ついつい、同じ話をしてしまう。
 おもてなしの国の裏は、とても辛いのだろうか。
世界一気を使う国、日本。
その気づかいと細かさは、その裏でストレスを飼う事にもなるのが矛盾するところ。
ましてや、この国で当たり前の事が、そうは出来ない海外ではそれも何故かストレスに繋がって行くのが辛いところ。

 高鳴る心臓を抑えて、落ち着かせようと必死にもがいている釣り人。
そこに必要なのは、恐らく第一にくるのが平常心であるが、ついつい気が張ってそれが醸しでている気がした。
メンタルトレーニングという合理的なトレーニングによる自分の精神面を鍛える方法が今はアメリカをはじめとしてあるらしい。
あのトップアスリートを要請する学校が本場らしい。
 ひたすら、根性と忍耐、精神統一の言葉だけを教えられて来た我々日本人は、一体いつから、そのような訓練を怠って来たのであろうか?
いや、怠っているのではなく、その方法を知らないだけ、なんてアメリカでの現場レポート中継番組から知るなんて思ってもよらなかった。
 おそらく、武士道の道にはそれがあったのかもしれない。
多くの歴史と戦場とで積み重ねて来た我々の御先祖様は、それをその環境に身を置く中で鍛え上げられてきたのかもしれないと思ったが、私には何の確証もない。

 静寂の闇の中に激しい波の音。
風の音にこの興奮をどう抑えて継続し続けられるかが問題である。
興奮することで、覚醒はするけれど、一体それがいつまで続くかと言う疑問が生じるようになる。
そこをタウリン高配合の栄養ドリンクとなるもので“ファイト、いっぱ〜つ!!”と言いたいところではあるが何故がそれが選択肢にない。
長期戦では、それが切れた後の辛さをなんとなく感じるからかもしれなかった。

 これを釣りバカと言うのは、少し抵抗があったりもした。
あの釣りそのものよりも、人間ドラマ中心のそのマンガのイメージで語られるのを敬遠する気持ちからなのだろうか?

 何もない一時が流れて。
波と飛沫だけの強烈な音以外はサンゴ岩を切り裂く風の音だけ。
そして、また、将軍様いじりの会話。

汗だくになって2時間が過ぎたころ。

専務が投入して仕掛けが潮にうまく馴染んだ頃を見計らってから、愛竿を振った。
そんなに力まず、肩の力を抜いて竿のしなりを感じて前に押してきたら両親指を離す。
放物線の下降を意識した頃にスプールにサミングをする。
ここでいつも多少の糸ふけを感じるならサミングは、ラインを押えるより、サイドのスプールに摩擦を掛けた方が良いと言う事は、その昔岡田師匠から学んだ。
 その時は、まさかそのような釣りはしないから適当に流せば良いとは思わなくて良かったと今思うこのごろである。


 丁度専務との距離あと数メートルのところに着点したらしく、HXラプターのレバーをベイトポジションからさらに1ノッチ、2ノッチ、3ノッチと上げてテンションを確認する。
ここは、自動車感覚で馴れてくるとある程度目視しなくてもなんとなく操作できる感が働くのか、体で覚えると言う感覚がよみがえってくる。
そこは、呑みこみの早い専務も恐らくそうなのであろう。
右手をリールから離して、疲れが出て来始めたのか、腰を落とした。
 それから、潮に馴染みかけたと状況確認して一息つこうとするまさにその直前。

洋上のケミホタルが高速移動したのが解った。
その瞬間、親指でリールスプールを抑えていた親指が擦れる感じがした。
耳には、クリッカーの音がわずか1秒程度聞こえた。
「イソンボだ!!!。」
そう思わず声を発した。
親指をフレーム移動すると同時に右手親指でリールレバーをストライクポジションに一気に入れた。
カリカリカリと言うのノッチ音と共に左手をロッドのフォアグリップに持ち替えて右手をハンドルノブに掛けた。
 竿に高速で重い引きを感じた。
腹筋に力を入れて、1回、合わせを入れる。
ハンドルを一回回して それからまた一回アワセを入れる。
ハンドルを一回、二回、三回と巻きとる。

“よし、ノッてる”


 思い切り腰を落として溜めると竿は、グンと曲がって起きないでいるが、一回、また一回とリールハンドルを回した。
ナイロンラインが伸びきる。
更に竿をドラグ設定値まで曲げ切ると、たまらずスプールが逆転して勢い良くクリッカーが鳴いた。
 その逆転は、逆転しているのであるがそれは高速逆転である。
奴はやや右寄りの沖に向けて顔を向けているようである。
 ここは、“無酸素運動全開せよ!!”との指示が勝手にでている。
大きく息を吐きながら堪えられるだけ堪えた。
 闇に響くリールの悲鳴。
しかし、短く鋭く鳴く様は、不思議な鳥の鳴き声にも聞こえるのが不思議だった。
単なる機械のバネ音なのに。
まだまだ無酸素運動のまま行けそうで、出された分をショートポンピング竿を起こすと一回、また一回とハンドルを回せた。

 一進一退が5分を過ぎたその頃、当然ながら息切れが始まった。
このところの10年程は、いつも同じ感想なのだが、いい加減この時になるまで自分に甘いと言う事が祟るのは仕方の無い事とそこは諦めて、勝負と決め込む。
そのベストな限界値と言うのを選択するしかないのだが。
歳を重ねる毎に、そのファイト時間が短縮されるような気がした。


 いつも息切れが増すと思う事がある。
それは、もう何十年も前の事。
まだ14歳くらいの時の事。

当時中学校の体育の先生の言った言葉である。

当時は、まだ1980年代前半の事なので、先生の、ビンタやげんこつは当たり前の時代で、一列に並べさせられた生徒を片っ端から殴るその先生を見た。
でも、それが教育なのだと思った。
と同時に思わされた。
 小学生の頃ともなると、もっとそれが恐怖であったが、なんとなく上手くやって行けそうな気がしたのはなぜだろうか?
怒鳴られるのも、説教されるのも当たり前の頃で、手が飛んでくるのは日常茶飯時だったような気がする。
吊るし上げ批判も今ほど叩かれる事はなかったように思えた。
 また、学校もかなり荒れていた御時世だった。
いわゆる今現代で言う“しごき”や“体罰”を否定する環境には無かったと記憶している。
それが、当時の先生達の言う、理想的な日教組教育だったのかもしれないが、当時の私にはそもそも右とか左とかも解らない子供であったので、恐怖教育が当たり前に感じたが それでもこのご時世の学校は、 何処も荒れた時代であった。


 話が少し逸れてしまったがその体育の先生の言葉は、30数年以上も過ぎておっさんになった今でも明確に覚えている。
毎日のあのマラソンタイム計測が地獄に感じ、弁当が喉をなかなか通らなくて、緊張で死にそうなあの毎週のマラソンタイム計測の体育授業。
先生は日○大出身であり、それが体育のスタンダードな教育かと思った。
なんと成績表もそのタイムアップ度で評価されると言うまあ、当時の私なりに過酷な条件だった。
 今思えば、それさえもこれから起こり得る過酷な競争社会で生きる為の予行演習だったのかもしれないと思えた。

 さて、それを行う背景の言葉とは以下の内容だった。

「おまえら、今は嫌かもしれんけど、きっと将来感謝する時が来る!」
と言う言葉だった。

実際のところ私は、その先生の言った通りに感謝する事となった。
その後の人生に於いて何度もピンチを助けてくれた事へ繋がっていると思えた。
先生のその言葉は、確かに間違っていなかったようだった。
 その苦痛が感謝に変わった時は、その時から10年と経っていない頃だった。
やる気を根本から削がれてしまう、ローキックやボディにめり込んで唸る事しかできなかった中段への突きが
ここぞと言う時に、もうひと踏ん張りできるかできないかは、当時の私には大きな違いだった。

 体罰も日常茶飯時な、あの頃の教育。
昭和の時代、戦後と言われた時代と赤いお言葉と偏見に満ちた先生達のお言葉。
それと同時進行の あの辛いマラソン。
 おまけに、天皇批判と反戦教育の嵐の中の環境。
皇族は、頭が悪いとまで堂々と授業で言いい放ち、 自衛隊は、悪とまで言いきってた社会科の先生の事まで思い出した。
もうその先生方もとっくに定年退職されておられると思うが、御存命なのかさえ解らないのだが。

しかし、今でもあの先生には、感謝している。
角刈のメガネの体育教師。
直ぐに激怒する先生。
ついでにさらにリンクして思い出してしまった、最初から竹刀で脅してくる高校時代の体育の先生。
彼は、校内にBMWで来る●士○大出身の同じく角刈の先生だった。
教師と言う言葉から教員に移ろうとした時代。

息切れをするとなんだかそれを思い出す。
すっかりおっさんで体力もないのに。
その息切れがきっかけとなって思い出すが、もうちょっとだけ、いや、もうその先までと頑張ろうとする自分。


「何故頑張ろうとするのか?」


「頑張らなくても良いのではないか?」


「1番で無くても2番じゃいけないのですか?」


「いまどき流行らない。」


と色々な言葉が頭の中から出てくる。

 ローキックが痛いのは、当たり前。
それが、外側上方から振り下ろされるものなのか、あるいは内側から入ってくるものなのか。
 更に追加で、水月(みぞおち)へのヒザ蹴りで苦痛を倍増させた。
痛かったなあ。

 さてさて、息切れの中、戦う事その倍の10分が過ぎても気力だけは、まだまだだった。
それどころかリールインする度に奴が寄ってくるではないか。
かなり脳内は、アドレナリンが効いている様子なのかまだ無理できると言っているのである。
 時々、奴が反転を試みて、ラインを出すが、その距離は、最初よりもかなり短くなった。
だが、やはり、糸が出る際がとても辛い。
むしろ辛さだけは倍増しているかの様だった。


 奴は、糸を引きだして行くスピードも少しづつ遅くなっていった。


 それにしても、全く気の抜けない状況に、専務は言葉を失っていた。
当然サポートは無い。
その代わり、めいいっぱいの気を利かせてくれて、その様子を数枚デジカメに納めてくれた。
 これは、とってもありがたい。
それが無ければ、当然ここは文章のみの実力に頼るしか方法がなくなる。

 魚は、どうも左へ、左へと行きたいらしい。
“その左の先に何があるというんだよ”
15分が過ぎた頃、間合いは詰めに入った。
しかし、全くと言っていいほど気が抜けなかった。
 奴が、ある程度の重量があるのは勿論の事、その力が弱まったとは言えまだまだ諦め切れていない感じだった。
そう、あの5年前、野人が掛けたあのイソンボもそうだった。
(※釣り紀行=DOG〜Vを参照)


 どうもイソンボには、起承転結が判り易い魚でもあるように思えてならないのは私だけでなのだろうか。
状況からするに今は、最後の“結”の部分に差しかかっていると思えた。
残り糸は20mをおそらく切っているそのすぐ下の距離。
一進一退の状態から、距離を詰めて、相手の動きもかなり鈍くなって来た。
 20分近くかその前後、こちらも相当息切れ切れであるが、何とかそこは踏みとどまって竿を操作しながら、相手にプレッシャーをかけて行くのであったが、
いよいよ最終段階に近づいてきたのか 浮かせるだけの状態に移りつつあった。

 リールのギアをローに入れる。(2段階変速ギアが付いているリール)
ギア比が一気に落ちるとぐんぐん巻きとれるのは感動ものに思えた。
 イソンボは、それでも浮きたがらない様子で右のサラシ下から浮いて来ないばかりか更に左に走ろうとした。
体は、それ以上左には移動できない。
ここで13f半の長さを活かしていっぱいいっぱい左に走るのを必死でこらえる。
 
“くそっ・・・なんとかとまれ、止まってくれ”
奴に最初の勢いは全くなかった。
ギリギリなのは奴もそうに違い無い。


“これは、獲れるかも”
そう思った。

あと数メートル。

“10mを切ったぞぉ”

浮かせるだけだが左に走ろうとするのがとても気になるところ。

あと少し。

奴の力も最初の2分も残っていない。
ギリギリの状態。

ほんの少し。

浮け。

浮くんだ!。

そしてなお奴は、更に左に最後の突っ込みを見せた。

チッチと僅かにドラグが出た。

腰が苦痛を言う。

腕が悲鳴を上げる。

かと思うと・・その時。

あっけなく竿は撓るのを止めた。

ああ・・・あの嫌な感じ。

そうその予感。

脱力。

「あああぁ!!バレた!!くそっバレたよ〜!」

一発目は、それ相応に大型であったと思えた。
あの感覚は、重かった。

十分に奴を追い込んだに違いないが。
またまた、敗北であった。
悔んでも仕方のない事である。

誰も責められない。
完全自己責任と自己責任。

これだから、釣りは止められないのかもしれない。
消えかけた火をまた点けてくれるものだ。

一体何度消えかけてはまた点き、消えては灯されるのか。

 それにしてもほぼ9割の段階に来てブレイクとは、気を抜けないのである。
空しくも、儚く残りのラインを回収する。

逃げ切られた。
あとほんの8m〜10mだった。
つまり、水深8m前後のこの場所ではほぼ足元に近い位置であった。
隆師匠が、丁度その左下に岩が付き出ていてすぐスリットがあると言っていたのをそれで再認識した。
 ラインは、ところどころ擦れて、かなり危なそうだけどなんとか持ちこたえていた部分が数か所あった。
多くの負担を強いられてきたに違い無かった。
良く頑張ったナイロン糸。

切れた部分は、エッジに近いのだろう。
斜めにスパッと切れていた。
毎度の事ながら、難しい。
この場合は、PEなら即ブレイクであっただろう。

息切れは終わらなかった。
苦しさ倍増。
そして脱力。
空しく、肩で息をする。

 釣り人の中にはPE世代でナイロンを殆ど使用して来てない釣り人が多くなった様子で、事もあろうかPEの方が強いと思っているらしい。
ここで言う強いは、ダイナメーターに対する直強度の話ではなく、摩擦に対する耐久性の事である事を補足しておきたい。

最後の“結”である筈の内容は、想像したのとは少し違っていた。
いや、どちらかの選択肢には入っていた事であるのであるが、期待とは違っていた。

それから究極の脱力感の後、気を取り直して2時間くらい、専務と次の襲撃に備えて竿を打ち、流し続けた。

「ああ、隆師匠と待ち合わせの時間だ。」
「帰ろうか・・・・。」


 専務は、たった一撃の衝撃を目の当たりにして、若干の動揺を隠せない様子であった。

重い荷物を纏め始める。
帰りは、できるだけ軽量にする為に、PETの真水をことごとく磯場に撒いた。
多少でも洗浄になれば良いのであるが、誰か先行者がオキアミを使ったのか、この異臭だけは、非常に気になるところだった。
後にこの異臭と汁が厄介な事になるのだが。

 PETの水は、4Lくらい残ってはいたものの、当然足りないので水汲みバケツで海水を汲み上げるのであるが、これもなかなか良い仕事になる。
それは、岩にごつごつとあたりながら、テラスのエッジ超えがなかなかどうして何度も引っかかり大変であった。

水と食料等は減らしたものの、専務の荷物は行きは40kg、帰りでも魚が無ければ30kg程度はあった。
私は、少しインチキさせてもらい20kgくらいを背負った。

とぼとぼと高輝度LEDの明かりを頼りに歩く。
これが帰り道ともなるとなかなか辛かった。
それは、今も昔も変わらなかったが進化と言えば、LED照明の異常な明るさにかなり助けられていると実感した。
 専務も私も230ルーメンの明るさは、我々にとって神のショウメイである事にお互い異議は無かった。
これで更に今は、ヘッドライトと言えど300ルーメンが存在するのには、脅威である。

12月に入ろうかと言うその日の晩に、汗は滝のように流れた。
真夜中の汗。
そして、黒の景色。

師匠が待ち合わせ場所まで待っていてくれた。

星を見に来たという、東京から来た二人組のお姉ちゃん達が、ほぼ我々を存在していないかの如く、迎えてくれた。
 この二人組は20歳と言う事だったらしい。
この島でこのメイクとファッションは、あまりにもかけ離れ過ぎて、更に親父の汗まみれで魚臭い二人組との共通点は、全く見出すことが出来ないほど皆無であった。
 この不思議な二人は、不思議な二人だけの世界が全てかのように、振舞っていた。
一体、何が目的なのか、どうしたいのかさえ聞く事もできないほど、世界が遮断されていた。
このタイプをこの場所で経験するとは、夢にも思わなかった。
しかも、真夜中の釣りの帰り道で。

師匠に早速結果を聞かれた。

「ええええぃ・・・。」
と我々と気持ちを同じくとても悔しがってくれた。
師匠は師匠、弟子の至らなさは己の至らなさの如く。
 次に即、説教が始まった。
同じ釣り人として悔しがってくれると言う事は同じ経験を幾度となくしたと言う事でもある。
 その説教を聞くのは決して嫌では無かったのだが、二人してうなだれる横で、お姉ちゃん二人と言えば、クスクスと二人だけの会話を楽しみ、全く違う次元にいて笑っていた。
なんと言うこのアンバランスな光景と時間と人間関係。

これは、正に真夜中の精神崩壊と分裂な時間なのか。

師匠と弟子2人、おそらく宇宙から来た若い2人組。
 会話は、当然全く弾むよしもない。
なにせ、住んでいる世界が遮断されているのだから。
 しかし、そこは流石、師匠。
そのような事はお構いなしで説教をしてくれた。
師匠は師匠。
ここは、全くブレていない。
これでY監督がくると最強のコーチ陣となるのだが・・・。

 夜道を15分程で車が無事到着すると、夜中の2時を回っていたこの時間に野人が来てくれた。

「やあ、どうだった?」

「ああっ〜1ブレイク〜。」

「なんだ、また切ったか・・・いつも切ってるな・・・。」
大変厳しい野人のお言葉である。
何とも返す言葉も無いのであった。
師匠に加えての辛口な野人様のご意見だった。

それから、疲れきったものの二人就寝したのは朝4時ごろであった。

その日の夢は、なんだったか覚えていない。

ただ、己の未熟さを再確認したのは、自分自身が良く知っている事である。
誰のせいでもないのだ。

−それからの一撃−


一撃で仕留められればそれは達人である。
一撃がだめなら二撃
二撃が駄目なら三撃、四撃と攻め続ければ良い事なのか。
そうすればおのずと隙は見えてくるのかもしれない。

いつもの日常と同じ様に目が覚めた。
習慣と言うのは、よほどの変化事が無い限り続くみたいである。

ふと、隣で寝ている専務は、熟睡の様子だった。
それもその筈、専務のライフスタイルからすると夜中まで仕事する日ならば熟睡タイムであろうから。
日頃のライフサイクルが、両人で少し異なっているのは当たり前と言えば当たり前の事なのだが。

 独り珈琲を啜った。
なんだか静か過ぎるので移動する事にした。
と言っても師匠宅ですが。

師匠宅でインスタントコーヒーをカップに適量入れて濃さ加減もいい加減にと
啜っていると、そこへ 昨晩車中で一緒になった例のお姉ちゃんのうちの一人が気が付き声をかけてくれた。


「おはようございます〜。」
おお、ここは少し希望と思われる朝の挨拶に、会話の始まりかと僅かながら思っているとそこへ

「昨日は釣れましたか?」


などと聞いてくるではないか。
一体どういう事なのかと半信半疑で私は、その真意を問うてみようと少し捻ってみた。

「おぉ・・どうみても釣りには関心ないと思っていたが・・・関心ないよねぇ?」

「はい、関心ないです。」

「だろうねぇ。」

ある面期待通りのお言葉であった。
彼女なりのめいいっぱいの社交辞令のお言葉であったと直ぐに解った。
それもストレートな回答。
変化球は全く持っていない様子だった。
一体彼女たちは日頃どういう生活を送っているのだろうか、おっさんには全く知るよしもないのでそのままにした。

 当然魚など全く関心が無い様子なので、敢えて魚種まで説明するまでも無いと判断はしたものの
折角聞いて会話をしようとする意思が若干でも見えたので、これをなんと説明すれば解りやすいのか?と自問自答する。
関心ない人にさらりと聞き流す程度の説明と言うのは、なんとも簡単な様で簡単では無かった。
マグロと言っても想像はつかないのは当たり前で、それが、ハガツオに近い奴と言ったところでカツオとの区別がそもそも判らないのでもっと次元を下げて話をしなければならない。
せいぜい回るすし屋のマグロかネギトロくらいなのかもしれない。

それでも、彼女達は社交辞令挨拶と言う手段を知っているだけそれなりに、社会の中で揉まれているのあろう。

 宇宙からの距離は、地球には近づいたけれども。
いや渋谷の交差点であう確立くらいは近くなったかもしれないが。
 その後も数回彼女達と会うが、全くもって会話は弾まなかったし、関心もなさそうだった。
ただのやぼったい親父にかまう暇など、全く持ち合わせていないと言うのがおそらくの本音だろう。
宇宙から来た人は幻のように時々視界には入るが直ぐにフェードアウトして行った。
 ただひたすら1泊と半日の旅をどうこなして行くかが問題のようだった。

それから半日もすると、その日の時間も、我々には直ぐに訪れたようだった。

 午後から夕方にかけて専務と二人、ゆっくりと準備にかかる。
リーダー部分を補充。
ワイロン部分を作製。
Rリグ改の根幹の部分である。
番手は#36番でこれが基本となる。(ワイロンの太さを表す記号で小さくなるほど太くて強度があるものになる)
最近、愛用のプレッサ−に歪が出たのか、カシメの部分がすり減ったのか、変形したのか、時々決まらない事があるのでスリーブは2個止めにしている。
簡単にカット出来たワイヤーも少し切れが悪くもなってきた。
5年も持てばまずまずと言ったところなので仕方ないと思う。
そろそろ、買い換え時なのは、良く理解している。

 ワイロンと言えば・・・。
これを考案した故長谷川氏の話はちょくちょく出てくるので少し話が重複する部分もあるが、それだけとても感謝している事とご理解頂きたい。
私は氏の晩年しかお会いした事がなかったが、とてもすばらしい良い方で、研究熱心な方であった。
 その後、ワイロンと長谷川氏の存在がとても釣りの幅を広げてくれたのであるが、それもどうやら今現在は進化する事もあまりなさそうな感じを受けるのは恐らく私だけなのだろうか。
その後の現在は、アイテムは増えるが根底にあるスタンダードなあのワイロンのアイテムは縮小方向にある。
特にカラーアイテムの減少については、 これも世の中の流れで仕方のない事であるし、現オーナーの考え方ひとつで決まって行く事なので、そこは干渉の余地はないがとても残念である。
 ワイロンにはそのカラーが何種かあるが、赤でも黒でもそうこの釣りには、大差はないみたいである。
またバラムツやアブラソコムツにもこのワイロンがかなり有効であるが、そのカラーは、赤でも黒でも海藻と言われる緑でもカスミと呼ばれるシルバーでも釣果にその差はあまりみられない。
旧ワイロン台紙によれば、そのカラーには意味があるらしい。
それは、長谷川氏が実証したと思われるが、当方には、それを比較したデーターを取るまでに至っていない。
 その他、長谷川氏が考案したワイロンリグは、多く存在していたけれどどれも絶滅の方向に限りなく近づいているのがとても残念である。
思えば、もう少しお元気な頃に、ベンダーズ、ワイロンの使い方及び仕掛け集でも執筆してもらえば良かったといつも思うのであった。
今やその氏のデザインした台紙さえ、全く違うものになっていたのはとても寂しかった。

せっせと本日のリグを纏めてから、リールの糸を巻き替える。
新品に巻き替える。
 その時いつも、多少の勿体ない感が漂うのであるが、切り捨てる。
芯の方は、まだまだ新品なのであるが、そこで結節するわけにもいかず捨ててしまう。

専務は昨晩一度も傷つけることなくラインを回収したので、本日はそのまま行くらしい。
ちょっとだけそこは、余裕だった。

気持ちとは裏腹に、地味な作業が続く。
それも釣りと言う事なのですが。

準備に注ぐ2時間が直ぐに過ぎた。

 そうこうするうちに定刻となり、荷物をR号に積み込み、再び現場に向かった。
R号から見える景色の中に、たまに公共工事がゆっくりと進んでいる様子が見えるが、それも結構マイペースプラス少人数で路面も修繕するよりも傷む方が早い気がする。
 管理しているのかどうかも解らない道路沿いの植木も若干だが直している様子が伺われた。
街路樹と言われる植木等は、島には無くても良い気もするが、公共工事と言うのはそのような要素だけと言うものだけでも無く他の理由の場合があるのだろう。
 現場に到着すると、即出発の準備となるが、その間にも汗が滴るこの島の冬であった。
本日も基本的に暑かった。
日中の気温は29℃を超えていた。
夏の気候だった。

 日が沈むにはあと1時間くらいありそうだが、昨日と同じ要領で磯場を渡って行った。
明るいうちは、ポイントまでとても楽である。
神眼状態くらい天と地の差を実感する。

もう細かい説明は必要ないのでお互い個々にせっせと準備を始める。
その前に、早速一本目のペットボトルを空ける。

竿を振る音。

リールスプールが回転する音。

波が岩に打ちつける音。

南風の音。

そして、そこに暫く沈黙の二人。

 潮が止まると速攻コブシメの猛攻にあう。
気になるオオメカマスは、現時点では居ないみたいである。
変わってマルコバンアジが餌取りとなって突っつき始める。
想像では、有力大外道である筈のアオチビキの中大型があがっている筈であるが、ここまでバイトすらない。
不思議である。
マルコバンは、専務の地獄リグによってその正体を突き止めた。
今回の餌取りの主役はどうやらこいつのようだった。

 小型外道の猛攻とコブシメの猛攻が続くとなると、オカズ釣りでもしてみるかとボトムを探るが、いつもはかかる筈のヒメフエフキやハマフエフキ、キツネフエフキ等の攻撃がない。
あの頂けないヨコスジフエダイも釣れてこない。
 変わって苦労の末に、タマン18号針に喰ってきたのは、ゴマヒレキントキと、ホウセキキントキ、カゴダイ類である。

 それから間も無く、お月さまがゆっくりと登り始め、全てを照らし始めると、うす暗いダークグレーな景色に変わる。
水の透明さが判りそうなくらいの光。

余計な人工の光が無いこの場所では、それが全てである。
 我らがあのLEDとケミライトを点灯しなければ・・・・。

ケミライトのホワイトとグリーンを割って振る。
足元を照らす用としてかなり役にはたっているんだろう。
何せ、月明りがないと真っ暗闇になってしまう。
※ケミライト:ルミカ製の2液混合型の発光体。

 餌取り軍団に少々披露困憊気味の中、売店で買った菓子パンと水をお腹に入れて行った。
腹に入れるとはこのことで、味も何もあまり関係ないこの場面。

 そうこうするうちあっと言う間に、2時間が過ぎた。

本命は、まだ来ない。

来るのか、来ないのか。

来るその時は何時なのか。

二人並んで海面を見て、天空を仰ぐ。

仕掛けが馴染んでくると、専務のすぐ数メーター離れた位置で同調して流れて行く。

更に動きがあったか、前アタリがあって直ぐにケミホタルが横に移動する。

「ん?!・・・・。」
ラインを巻き込ながら合わせ、また合わせと2回程。

ずっしりとした重みと共に一回目の締め込みが訪れた。
更に一回、ポンピングで更にまた一回とラインを入れて行く。

ギィ・・ギリリィー・・・とクリッカーが鳴く。

更に踏ん張って溜めると、必死の抵抗を見せた。

「んっ〜・・・チビキか?何だこれは・・・・。」
このパターンは違う魚かな?とも思える。

ジリリィ〜とリールは鳴くに鳴くけれど、強烈なダッシュはない。
但し、小物でない事は確かだった。

竿が、大きく弧を描いて糸が吐き出されるギリギリのところまで頑張ってくれているが、リールが時々耐えきれずに糸を海へくれてやる。

 数分が過ぎたころでも奴は全く浮かなかった。
それどころか、引きの力がそう変わらないのは不思議である。

「こりゃなんだろGTかぁ?!・・!」

一進一退の引きであるが、昨日のモノとは明らかに違うサイズだった。
 すると今度は、右に左に走りだした。
横に移動すると言う事は、もう沖にまっすぐ頭を向けれないと言う事でもある。
 寄せにかかるが案外とそれはしぶとかった。
更に数分が過ぎて計10分が過ぎたころ、奴が足元下のエグレを出たり入ったり左右に泳いだりした。
 一瞬気を抜きかけたがそこは、また失敗すまいと気を入れ直した。
 ここの詰めが案外と辛いのである。

“この動きはどうやら本命のようだな”
そう思えた。

「イソンボか?」

浮いて来ないか、専務に確認をお願いする。

「う〜んまだ浮いてないです。」

「ライトを当ててみて!」

専務がラインの下にいる奴をLED全開で照らしてみる。
一歩踏み込んで前進して下を観ると・・・・。
光に反射してはっきりと銀色に輝く腹部が横走りするのが私にも見えた。

「イソンボだ!間違いない!」

そこから更に気を引き締めて数分を戦った。

「どうだ。浮いたか?!!」

「まだです!」

もはや全く糸を出す気力もない状態の奴 には違いないが、ここの詰めでは、オーバーハングの先端岩に擦らない様細心の注意が必要である。
気を抜かないように。

更に魚は右に左に一往復。
丁度楕円の動きに近い。

「浮いたか?!」

「もうちょっと!」

更に一往復させる。
楕円の動きは少し遅め。

「浮きました!!!」

「イソンボか!」

「イソンボです!」

「デカイんじゃないですか?」

専務に落としギャフを依頼した。

奴は完全に腹を浮かせてぐったりしていた。
腹を浮かせて殆ど動かない状態になっていた。
完全にグロッキーな状態の奴。

 そこから専務は、初めてのランディングにも関わらず物凄く手際が良かった。
段取りどうり行かなかった部分は、ランディグギアとそれを扱う人の方ではなく、仕掛けそのものだった。
遊離するシステムが上手く起動しなかったのである。
これは参った。

「かかったか?」

「かかりました!」

専務の離れ業でなんとか腹部にギャフを掛ける事に成功した。

「あれ、重いですよ!」

確かに、水汲みバケツでもなかなかなので・・・・・・。

8mの落差を専務は、独りで揚げてくると。

ずり上がってきたのは、奴だった。

正真正銘の奴であった。

「これ、でかいんじゃないですか?」

「20sくらい前後じゃぁない?」

「もっとあるように見えるけど・・。」

「まあ、20あるかないかじゃないかな、計ってみるか。」

実測すると、思った通り実測で20sを僅かに欠けていた。

このサイズは、敵には変わりないがもはや強敵ではない。

一先ず安心してほっと肩をなで下ろした。
と同時に思い出すのは昨日の奴。

あと数メートルで切れた奴。

そして、5年前にあのラインを切って行った奴。

敗北に敗北を重ねてあるこの釣り。

 

我々にとっては、最早20s代を強敵とみなす訳にはいかなかった。
目標を達成するまでに現役である事が必要条件であるからだ。
現役である事は、これからの人生では、それまでの人生より長くなる事は恐らく無い。
焦ってはいないが、少しばかりプランを見直す必要がある。
あらゆる、リスクを考えてのプランが。
 皆さんもそうした方が良いと提案できる。
なぜなら、仮に人生80年〜としても、この手の釣りに現役参加できるのはR師匠の釣り人生で60歳リタイヤを標準としたらもう半分もない。
二十歳で初めても40年。

三十歳で始めても30年。

四十歳で始める事ともなれば20年そこそこ。

 現実は、必ずしも、予測通りとは、そういかないのである。
私の諸先輩が現役または、リタイア後、続々と故人になって行くのを目の当たりにしているからか余計にそう思うのである。


 もし、あなたが、高齢になったとしても、余力があるなら残りの趣味を楽しまれたら良いと思うが、その時は今以上に肉体的制限を強いられる事は必至なので、 そこまで考えて楽しんで欲しいと思うこのごろである。
私もそうであったが、それを冷静に考えられる様になったのは40歳を過ぎたころからだったのでそれは、若者にとってその考えに及ぶには少し難しい事なのかもしれない。
だから敢えて書こうではないか・・・と言う気にもなったのである。
釣りは、様々な形態があるので釣り自体を辞める必要など何処にもないのだが。

人の人生は、生まれた時と死ぬ時は自分自身では決して決められないのであるのは不変の真理でもあるように思える。
恐らくこれに異を唱える人が居るとするならば、それは死ぬ時であろう。
勿論それは、意図的な行為によってしか成り立たない事ではあるが。

 

「さて、下ろすか。」

「はい。」

ここからは、黙々と仕事をこなすのだが、なにぶんファイト直後で少し疲れ気味な上に手首に力が入らない。
それでも、鰓にナイフを突き立てた。
鮮血がどくどくと流れる。
それを専務が流してくれるがまた出る。
心臓が止まるまでは出続けるのであるが、ここは殺生と言う最高の概念に持ち上げるには、必須な作業である。
  彼らの一心房一心室の心臓が止まるまでは。
血抜きが終わると今度は、腹出し、腎臓を取り出してまた洗い、一旦下処理は完了となる。

 それから、それを背負い一旦帰宅する。
これが本当に骨が折れると言う作業である事は言うまでもない。

それからしつこくもまたまたポイントを目指して辿りつき、竿を出すのであった。
 それがこの釣りを更に過酷にして行くのであった。
その工程をいちいち考えると、うんざりなのであるが、その場では前向きに取り組んで進めるしか方法はない。

その後は野人の協力によって、解体はされていた。
真夜中の解体。
それは誰でもできる事ではないが、野人はプロである。
帰宅後は野人がすっかり柵どり前まで終えていた。

感謝の一言につきるその日の一日と朝方だった。
冷蔵庫は、柵でいっぱいになっていた。

 

-さてさて-
それでどうした。
Y監督は、コーチ兼任と言う事

ここで翌日は、Y氏の来島である。
なんとか間に合った様子をとうとうと我々に話してくれた。

それを、まず受け入れて聞くに徹した。
それなりに、大変だったのであろう。

「ぎりぎりだったよ〜なんとか間に合った!」
相変わらずの元気さは、年齢を感じさせない。

Y監督はバナナに拘っていた。
バナナは、釣りに欠かせない様子だった。

野人もそのバナナが好きみたいだったからかもしれない。


 コーチ兼監督を依頼せずとも、きっとその位置には立ってくれるであろう。
いやその位置にすぐに立ってしまう。
 本日の釣りはきっと賑やかになるであろう。
これはこれで、面白いので受け入れるのである。
レギュラーメンバー化と言うよりもコーチ化のY氏、果たしてどのような指示とコメントがあるのだろうか。

さてさて、その時間となると今日も出発するのであるが、3人分の荷物は当然重い。
 年の功で、Y氏は最低限の荷物で次に私が20kgほどを背負って、若い専務が40kg近くの道具と食料、水&PET氷を背負う。
汗が、滴るのはもう馴れて来た頃で、ドライシャツが有効に効いているのか、少しばかりラジエーションが効いた様な感じに思えた。

 現場の上にY監督が立つと、その高い位置から我々を見下ろす。
監督の眼下は、我々と海原、小宇宙の二人。
三人と言うのは、何故なんだろう。
二人よりも力が出る感じがする。


潮は、左から右に流れている。

監督は、暫く監督として頂くが、 二人は、竿を海原に向ける。
風も少し南より。
波も幾らか大きい様子。
向かい風の釣りとなる。
唯一コンベンショナルリールが苦戦する向かい風キャスティングだが、そこはブレーキのかけ次第となる。
それでも、バックラッシュ気味になるのが嫌なのは誰でもそうであろう。

波間に浮かぶ仕掛けと竿2本。

奴を迎え撃つ。

その日の奴も、突然やって来た。

仕掛けがグンと沈んだ後、横っ走りするのが月明りに照らされて魚体が動いた様に見えた。
うっすらと白銀影。
喰い上げた様に感じた。

その竿はと言うと、専務の方だった。

「おい!それはイソンボだ!!」


そいつは、高速で右に泳ぐと、大きく進行方向を変えて今度は沖にまっしぐら。
高速加速は止まらない。
リールクリッカーは、ジージーと言ったまま鳴きやむ事は全くない様子だった。
ここでやってはいけない事、スプール押さえ・・・なのだが。
専務は、それを咄嗟にやってしまった。
当然あっと言う間に指が火傷した。

やられたい放題とはこのことだろうか。

どうやらトラブル気味なので私が、フォローに入った。

ラインは、ぐんぐん引きだされて行く。

その間、1分程度の時間。

“ちょっとこれはおかしいぞ?”

「やばい、バッキングまであと少し。」
「こりゃ、参った。」

遂にバッキングPEまで見えていた。


「ド、ドラグが利かない!」
「えっ!!」

そこで咄嗟に思いついたのが、サミングしながらレバーをフリーにしてプリセットし直すと言う事だった。
今思えばそれがベストでは無かった事に気づくのだが、後で気付いたのは、翌日の会話の中の事であった。
 何とかこの現状を咄嗟の判断で解決すべく、指でグローブを押えるには少し不足と、人差し指と親指で押えに掛かるがアッと言う間の間で手を離さざるを得なかった。
当たり前と言えば当たり前であるが、即火傷した。
なんと私のグローブも指が抜けているカットタイプな上に専務は、なんと言うことかグローブをするのを忘れていた。

 それでも私は、レバーを下げ切り、ブリセットつまみダイヤルを回してレバーを上げた。

「よし、行けるぞ!」

その間は30秒と経っていないと思えたが・・・・・。
レバーを上げた時には魚は既に付いていなかったようだ。
ブレイクラインまで走り切りのブレイクであった。
正に逃げ切られたとはこの事なのだろうか。
当然の事、専務はライン回収には暫くかかった。

ドラグは、2〜3sしか利いていなかった。
これでは、止まる筈がない。
10s程度の小イソンボでも簡単に糸を出して行くであろう。

暫し、リセットには時間がかかる。
専務は、フリーズしたかの様だった。
この間数分の出来事。

気を取り直して仕切り直しとした。
このまま、引きずってもなんのプラスも無い。
この手の釣りに於いても、気持ちの切り替えは重要である。

それとは裏腹に、二人の指先は、火傷でひりひりと痛んでいた。
それが、悔しさとなってふつふつと湧き上がるのを抑えるのに必死であった。

 専務は、悔しいと言いながらも再び仕掛け製作に取りかかった。

気を入れ替えてなお、また悔しい。

そしてまた、時間が流れて行った。

1時間が過ぎても反応は、無かった。

それからどれぐらい時が過ぎたであろうか。
2時間なのか、3時間なのかもうどうでも良い感覚にも襲われたように感じた。

真冬なのに汗が出る。


緊張で喉が渇く。


そして水を口に入れる。

暫くして・・・・また・・・・・・動く。

再び、専務の仕掛けに動きがあった。
「きっ!、キタっ!」
今度は、空かさすファイティングポジションに入った。
どうやら、運気の流れは専務に傾いて来たようである。

 いつも不思議と思う事が、運勢やその気運は常に移動していて流れが変わって行くのを感じるのは当然私だけではない。
実際、同じ様に同じ事をしていても、これだけ差がでるのは、単なるテクニックだけと言う訳ではないのではないかと思う。
無論、同じ条件に近い状態での話であるが。

その時の口癖は決まってこうである。

「なんで同じ様にやって同じコースと棚でこうも違うんだろう??」

 今度は、渾身の力でとバランスで耐えている専務であった。
「よし良し、よっしゃぁ〜!」
完全に流れは、これで専務に傾いていた。

「あっ・・あれぇ!・・バレタ。」

「エッ・・・マジかよ!」

更に残念そうな顔持ちで専務は、がっくりと気を落としながら、ラインを巻き取るその後ろ姿があった。

「くそっ。切れちったかな?」

それは、切れてはいなかった。

「おいおい、香取神道流!」

しっかりと針が彼の手元に帰ってきた。
なんと、バレである。(フックアウト)
掛かりが浅かったのであろうか。

なんとも、派手に現れて、あっと言う間に寂しい海からの回答であった。

流れは変わり、運気も変わったが、何かが足りなかった。
それは、経験値だったのかもしれない。

その悔しさは、今まで何度も味わって来た。
敗北感も、脱力感も。
それだから、辞める訳には行かないのである。
釣り人よ、大いなる釣師になるまでは。

その日の帰り道は、重かった。
明日への希望を引っ提げてはいても、敗北は敗北であるから。
時折足の筋肉がピクピクとしていた。

反省会-と言う名の小さな宴会
仲間と酌み交わした酒とあるが、酌み交わしたのはオリオンとサンピンだった。
しかし、そのこころは変わらない。
これほど良い時間は、短い人生にとってそう多くはないのではないか。

その後に交わした会話は、当然ドラグ値、プリセットの事だった。

Y監督は、この状況が全く理解できていなかったが、やり取りさえ満足にできないまま糸が切れた事だけはしっかりと認識していた。
「それじゃ、とれないよ。」
「全く獲れる気がないねぇ。」
ごもっとも、最もやってはいけない事の代表格をやってしまったのだからなんの言い訳も成り立たないのは、専務自身が良く知っていた。

その後、確認、議論、反省会を執り行ったのは当然の事でもあり自然な事でもあったようだ。
それは、 翌日の昼間だったのであるが、改めて確認したところ


“ドラグをFULLポジションに上げたのか?”

と言う質問に対して、なんと上げていなかったと言う事であった。
何故上げなかったのかと言う事に対して専務は、フルポジション=ロックと勘違いしていた事をその時始めて知ったのであった。
なんと、そこに穴があったか。
私もそこを反省した。
そこまで彼には説明していなかったからである。
FULL=LOCKではない。
この事が、仇になったとは。
あの2〜3sのドラグテンションであれば、FULLに上げたとしても1s上がるかどうかだったと思うのだが、 それが仮に1sでも上がっていれば、止まったかも?知れない。
仮にそうだとしても、獲れると言う保障は全く無かったが、プラススプール横をグローブで押えていれば何とかなったかもしれない。
そこで、デモ、シカは禁句なのだがどうしても言ってしまう。

「そこで一旦止まっていれば、プリセットし直せたかも?」
などと話してみても、それは全て後の祭りである。
そもそも、ドラグが何故緩んでいたのか?と言う疑問が最初に生じるのであるが、その点が今回の最大の失敗であったのは言うまでもない。
 釣り始める前にレバーのストライクポジションでのドラグ値を確認し怠ったのがそもそもの原因である。
後の祭りとはこの事であるが仕方がない。

後の後悔先に立たず。

そのどれをとっても当てはまる。

私も専務への確認を怠ったのも敗因の一つでもある。

Y監督の手厳しいご指導がいっそ怖くなったのである。
これからもY監督の痛い恐怖指導が続くのであった。
Y監督から、野菜ジュースを頂きながら。

 その日のお昼は、Yコーチ改め、監督、専務、私の3人でと
先日釣ったイソンボのお造りと、タマンの薄造り、イソンボ腹身の炙り少々、煮付け少々と
島おにぎり、産品茶と専務はオリオンビール。
ささやかであるが、島のごちそう。

おにぎりには、伝統?のスパムが挟まれている。

 そして、時々、監督の厳しいご意見。

質素だが楽しい宴会、いや反省会。

はてさて、野人の捌いてくれたイソンボの腹身は、私の予想よりも遥かに身が硬かった。

あと1日寝かせなければ味の濃さもまだまだと言う感じだった。

そう言えば、20年前、F先生と島のすし屋で食べたあの握りは一体なんだったんだろう。
口の中でぐしゃりと潰れてしまうあの味気ないネタを思い出した。
 Y監督に5年前、御馳走になった定食のマグロの味噌和えはなんだったのだろう。
それと同じ魚には、思えなかった程に鮮度は保たれていた。
あとは、どれだけ上手に熟成出来るかなのだが。
そのような小宴会場での時の流れは止まったようにも感じられたが、止まってはいなかった。
 ここにも壁掛け時計がしっかりと時を刻んでいたのであるから・・・・。
 小宴会も早々、後片付けをする。

それから、釣具の準備にとりかかった。
本日の専務はと言うと、仕掛け総入れ替えとなった。
一気に、道糸と仕掛けを失って非常に忙しそうにも見えた。
対して、私の方は、バラフエの5s強くらいのを1本釣っただけでそう慌てる事も無かったが、コブシメのイジメには逢ってしまいワイロンは、ボロボロだった。
ワイロンは被膜とソフトさが命であるから、そのどちらかが欠けてもNGである。
ワイロンの欠点はそこにある。

 風は一気に北に代わり、気温がぐっと下がっていった。
島は、一気に真冬になった。
半袖では、とても寒くなって来たので長袖と上着を着た。
風も雨も強くなった。
時折その雨足は、屋根を打ちつけて来る。
それが我々を不安にさせた。
 それでも北であるから、師匠はポイントへは問題ないと言った。
“そうだ、冬はこの感じの釣りだったな”

いつものように現場に向かい車を降りると 案の定、風はものすごかった。
予報通り、一気に寒くなっていた。
 歩く工程は、その風により倍の辛さがあった。
汗よりも、荷物の上に強風で吹き飛ばされそうな感じだった。
ビュービューと強風が我々に容赦なく吹き付けたが、それでも最後と移動を始めた。
専務も監督も風が凄いし、雨が、、なんて言うものの、落ち着いたものだった。
崖から見下ろすと、荒れ模様の海上でこの急な天候の変化に果たして魚が掛かるのかと言う不安も少しづつ出始めた。
しかし、我々に明日と言う日は無いので泣いても笑っても最終日には変わりないのである。

北風のフォローもあって仕掛けは良く飛んでくれるし、バックラッシュの心配も殆ど無かったが、磯に立つ我々には過酷な環境であった。
 今回の遠征では、もう必要ないと思っていた、長袖を着こみ、風雨対策に積んできた、レインギアの上下を取り出した。
流石に今日は、防寒具もフル稼働で、役にたったと同時にここの準備を怠らなくて良かったと思った。
万が一に備えて持参するのは、アウトドアスポーツには鉄則である。
今日はその備えを実感する事となった。

吹きつける北風。

体を吹きぬけては、体温を奪って行く。

そして、追い打ちの雨。

よこなぶり。

体感温度はかなり低く感じた。

フードまで被っての本日となった。

実弾も底をついてきたのでまずは、コバンくんを始めとした、ベイトの確保から入った。

そのような状況1時間が過ぎると、体力もかなり落ちて行った。
 体温が奪われる。
そこで、冷やしておいた水を外に出し、その水温を上げた。
こんな日に冷水は、更に体温を奪うのでNGである。
 雨の合間を縫って、菓子パンを齧って体力を補おうとした。

それから2時間が過ぎても、反応は全く無かった。

とても辛くなってはきたものの、まだ諦めてはいない。

監督が、崖を上がって風の様子を見に行った。
暫くすると

「おお、凄い風だよ!」

「吹き飛ばされそうだ!」

そう言うと、何やら歌など謳われている様子だった。

月が雲に覆われて隠れていた。
雲と雲の間に僅かに出てはまた隠れた。

光と光の狭間。

闇の中の闇と雲。

心も闇の中。

光は何処に見えるのか。

闇の月

BLACK MOON

ブラックムーン。

黒い心と闇と鬱。


光と希望。

それが交互に映って行く。

流石に3時間。

この風雨に晒されて、体力も更に低下して行った。

それでも、私と専務は希望を捨てず、最後の望みにかけた。

万が一の餌不足対策として、コバンアジを確保。
ことのほか、こいつの皮はものすごく硬かった。
カットゴリラ針でさえ、ある程度の貫通するのに力を要したのには少しびっくりした。

更に潮止まりともなると、このような状況でもコブシメのバイトは、何度もあった。
どれだけ、餌に執着するのか。

4時間が過ぎて、更に希望が薄らいできた。

全く持って本命の反応はない。

開始から6時間が過ぎた頃のこと。

専務に待望の反応があった。

「なんか、怪しい反応だなぁ。」
「また、外道かな・・・・。」
専務は、完全に気を抜いていた。
その言葉を聞いて、一先ずテンションを下げた私ではあったが少し気になった。

「判らんよ、ちょっと寄せて合わせてみたら?」

専務は、それを聞いて、次のアタリでその如くに合わせを入れてみた。

 13.6fを1っ回煽り、二回目の追い合わせを入れた。
するとそいつは、一気に沖を目指して勢い良く糸が走りだした。

「ああっ、それはイソンボだよ!!」

それから、専務は、我に帰った如く、必死の形相に代わった。
その間が果たして良かったのか、悪かったのか、奴は沖にぐんぐんを走りだした。
ギューン、ギューンとクリッカー音がけたたましく鳴り、竿は弧を描いたまま、一度もポンピング出来ないでいた。
魚は、どんどん沖を目指して行く。

完全に腰を落としての姿勢を確認してから、何とか映像に撮っておきたいと考えた。

ここは、デジカメよりもムービーに残したい。

“ええと、撮影、撮影”

監督に任せたいところではあったが、監督は撮影する事は出来ないので、私がカメラを取りだす事になった。
漸くセットして、スイッチを入れた。

糸は、相当出されている事が気になった。
ギリギリリとリールが音を出したままで更に焦りを誘うのであった。
クリッカー音に紛れてナイロンのパリパリと弾ける音が合い重なった。

「ああああ、っ・・・・・。」

「エッ・・・・。」

まさか・・・・。


そこで落胆してしまった。

「やはり気を抜くと駄目なんだよな〜。」

と監督からも厳しい意見が下された。

後にも先にも本日の一撃は、この一発だった。

重い水達をすべて磯場に撒いて、後片付けに入った。

食べ物もすべて片付けた。

餌ももう残ってはいない。

補充したコバンアジももう必要なくなった。
ここでストップフィッシングとなった。

その後、監督はおろか師匠からもお叱りを受けた事は言うまでもないが、専務はそれを喜びながら受けていた。
 最後は、実践と現実を受け入れた分がすべて財産なのを我々は知っている。
いくら情報がありふれて、氾濫してやまないバーチャルや動画の世界では決して悟り得る事もない、現実で結ばれた体験と人間関係。
最後はそれに尽きる。
釣りと言う行為は、バーチャルゲームでも動画だけの世界でもない。
そこには、実践のみが全てなのである。
情報や動画は、目標を掴む為の一手段に過ぎない。
また、その人が積み上げたものでも経験したように見えてもそれは見えただけ。
何も残る事はない。
そのような当たり前の事ですら、私達は忘れてしまう場合があるのはとても残念である。

-終了とは-

 

 
 贅沢にも監督のお勧めの軟骨ソーキそばの軟骨ソーキ倍設定の特注八重山そばは、胃袋を十分満足させてくれた。 今回も、様々な出来事がありギリギリまで島に居た。

明日からの現実が大きく見えてきたころ、監督の見送りに手を上げて答えた。

なんとも辛くも、楽しい紀行であった。

これが、明日への現実へと繋がるかどうかは、我々次第であるが、点と点は線でつなぐのが一番良い方向なのかもしれない。

この島々は、この先も我が国の固有の領土であって欲しいと思うが、本島とのギャップに悩む頃、保安庁の船は何隻も係留されていた。

中には、独立や大陸の植民地を選ぶと言う事も聞くが、果たしてその先には、もっと明るい未来があるとは到底思えないのだが。
どの国の人も植民地が良いと言う人は無いと思うが、そこは少し信じがたい意見だった。

2014年も終わりを告げようとしていた。

 

帰りの荷物は限界まで手持ちとなり、愛竿達も手持ちになった。
恐らく、お土産がそのうち最低5sはあったと思う。
なんとかかんとか、空港に降り立ちそこからが長かった。
 バスを待つこと2時間、何もすることはないが、離島から田舎道へのアクセスはその10年前よりは良くなったものの流行り田舎の不便なアクセス。
それも旅ならば敢えて受け入れる。
 バスを降りると、北風は更に冷たくなった。
「おおお、さぶ〜。」
心が冷え固まる前に次への計画を立てないとまたまた凍結してしまいそうだった。
まあ、いつも解凍作業からの計画であるから、特段何がと言う事もないが。
2015年は一体どういう年になるのだろうかと考える時、いっそ心は閉ざされようとした。

 

光と闇。

星と夜。

その先の天。

琉球への旅は、ここでは終わりそうもなく、
おそらく続くかもしれない。

さて、次は何処で待ってくれているのだろうか。

−その5・・未来へつづく−

釣紀行