白樺八青(しらかば・やお)オフィシャルウェブサイト〜風の通る部屋〜 

Profile プロフィール

もうひとつのプロフィール
白樺八青(しらかば・やお)

愛知県名古屋市に生まれる。
両親は東京の人間だったが、未知の町、名古屋で生活をスタート。
どこを捜しても納豆がなくて母、困る。

私は高度経済成長の真っただ中に生を受ける。

幼いころは、引っ込み思案の無表情。
おまけに空想癖の激しい子。
成績は中の中。
存在感のない目立たない子だった、と自分でも思う。

守山区を流れる矢田川の河原が遊び場。
遊び相手はもっぱら野良猫。

歌うことが大好きだったが、人前で歌うことはとうてい出来ず、誰もいないのを見計らって、縁側で歌い続ける。
また、誰もいないのを見計らって、好きな詩を朗読するのも密かな楽しみだった。

しかし…、矛盾したようだが「歌手になりたい」という夢もふくらんでいった。

ある日、東京から来ていた祖母と母を前に、「将来歌手になりたい」と話す。

祖母は、つれあいが落語家だった。
芸人が豊かな生活を送れる時代ではない。
苦しい家計を和裁で補いながら、4人の子どもを育てた人だった。

その祖母にとっては、歌手も芸人である。
「まさかそんなことを…、
そんなことだけは考えてくれるなあああ〜!」と、涙ながらに私を諭した、と記憶している。

※祖父の芸名は、三遊亭圓丈。
戦中に生きた不運な芸人である。
(1947年に逝去・享年50歳)
現在の円丈さんとは何の接点もない。

いけないことを考えてしまったんだ、私はなんていけない子だろう!!
(当時)おとなしく素直な子だった私は、その夢をきっぱりあきらめた。

あきらめたつもりだったが、中学校・高校は演劇部に所属。
発声練習の成果が出て声が通るようになり、そのころから性格も急激に変わったことに気づく。

それでも、夢はあきらめたつもりで、社会福祉の道へ進むべく、日本福祉大学社会福祉学部へ進学。
当時あこがれていた某氏が某大学の夜学部にいたため、自らも「働き学ぶ」夜学部へ進む。

和菓子屋、保育園の保育補助、ガソリンスタンドの給油業務、会社の事務など、さまざまな職業を体験する。

やがて大学卒業を迎えるとき、当時好きだった人に、「君は福祉の現場より向いているところがある」と言われる。
「演劇と歌が好きなんだから、ミュージカルの道だろう」
あまりの無理矢理な論理。
しかも突然の提案だったが、自分にとってはすんなり受け入れられる道だとあらためて気づいた。

※このおめでたさ、楽観主義が決め手かも知れない。

卒業と同時に、名古屋演劇アカデミーへ。
ふじたあさや氏の名前に惹かれて門をたたいた。

一年を経て卒業公演、リリアンへルマン「子供の時間」の主役をもらう。
同時にオーディションに合格して、オフブロードウェイの名作、「ファンタスティックス」にも主演が決まる。

その後もたくさんの人々、たくさんの作品と出会い、歩き続けた。

舞台を出発点に、テレビラジオの世界や歌手の活動も定着し、ものを書いたり、自己解放・自己表現を目指す「朗読講座」も常設のものが11か所に増えた。

結婚、二人の子どもの出産、子育て、約十年にわたるシングルマザーの生活、離婚、そして再婚、二度の流産…、そして50歳を目前に新しい命を授かる。ふり返れば、道草ばかりだが、たったひとつの道を歩いてきたことを知る。