学校教科書に学ぶ農業生産高

 以下は1993年発行の中国高校生の教科書、「中国近現代史」(下)人民教育出版社、から農業生産高のみを抜粋整理して表にしたものです。(大連にいたとき大学生から借りました)

年代 糧秣(億Kg)
1945       日本軍、大陸より引き上げ
          この後国民党との内戦
1949   11000  新中国建国 10/1。
          この収穫高は前年より34%降下 (戦争動乱による)

1952  16390   1948年(建国前)に対し4%増加

1956  19275   百家争鳴運動。誰もが自由に発言しよう(毛沢東の提唱)
1957  19500   整風運動 政府に批判的な発言者60万人を反革命として逮捕
1958   4000    大躍進政策 最高軍指導者「彭徳懐」逮捕、四千万人死亡。
1959   3400 ここから 人類史上で初めての生産高の急降下。約6分の1へ。

1960 2870
1961 2950
1962 3400
1965  19453 1957年の農業生産水準に復帰
1966   〜76   文化大革命
         毛沢東のクーデター成功、国家主席「劉少奇夫婦」逮捕。
1971       9/13 林彪夫婦と子供が乗った飛行機が内モンゴルで墜落
1972       中日友好条約
1976      1月周恩来死亡。9月毛沢東死 亡 文革終わり
1978       改革開放 .農民の自主生産始まる。
1980   50200   農業生産額飛躍的拡大
1981   67000
1982   71500
1992  44200 登小平「富める者から豊かになろう」


 教科書とこの表から次のようなことが推測されます。
1.建国時の状況
 教科書では、「中国4千年の歴史の中で、農民は初めて地主を追放し、自分の土地を持ち、搾取のない生活を始めた」と記されています。
 この政府表現に惹かれて、欧米からも大くの記者が中国を訪問し、また世界の政治学者、進歩的な人達からその後数年間、支持と期待を集めました。
 全ての中国人は政府を支持し、熱く期待し、愛国心が燃えさかっていた状況下で社会主義的生産が始まりました。
 この政治的動きを「資本主義より進んだ社会主義制度の発展」と教科書では表現しています。
 ところが実態は、建国前の戦時状態の混乱期とほとんど変わらない生産高が推移しています。
 工業方面でも計画経済が始まり、国民の必要に従って生産するという、中国が師と仰いだ、マルクスという経済学者が理想と考えた体制が始まりました。
 全ては北京で国民の必要を考えて計画し、全国に指令するという原則です。
その実態は、生産に当たった各労働者も、生産工場などの現場の側でも主体性を奪われ、各個人は国家公務員(国家から任命された)という奢りのみ拡大し、生産品は大衆から歓迎されない状態が40年間続きます。
 (工業部門での計画経済は1990年まで続いたとして計算)
 社会全体としての合理性は無くなり、経済の発展は建国時のまま停滞します。(一部宇宙開発や原爆などアメリカから帰国した人達による部門の発達はあった)
 
生産は停滞し、建国後10年で青年達は都会で働く場所が無く、農村へ出かけます。
科学技術の発達が無いため、1995年頃まで北京の住宅は1年に1度くらい、水道器具の破損で水浸しになると言う話は各種記事に出てきます。。 

2.中国の農業生産が伸びたのは、改革開放が宣告されて農民の自主生産が始まった、1980年を越えてからです。
 その生産の発展の大きさを見た後に「社会主義の優位性」をいう人は無くなっています。
 しかし、これ以降も農民に本当の自由は与えられていない。(李昌平の物語参照)

 また計画経済時に決めた戸籍制度が住所移転や職業の変更を認めないままであることも、農民の子供は農民の子として、頭が上がらない政治制度となっている。これは2005年に廃止の予定。

2.建国後6年して毛沢東が「百家争鳴」を提唱し、大衆の政治参加を呼びかけます。しかし発言した意見の中に政府の非民主的態度を批判した意見が多く、党内は大混乱し、彼等発言者を反動と指定します。

 百家争鳴した人の中から、教科書では60万人(魏京生の指摘では100万人)が逮捕され、処刑または極寒地での労働改造所へ追放などされています。これは工業と文化方面に莫大な損害を与えたと書かれています。
この頃、人口の増大の放置が危険であり、計画出産が必要と訴えた北京大学総長「馬虎初」の発言が「反マルクス主義論」として、彼は南方へ追放されます。
 このような毛沢東と党幹部達の非科学性と無知、そして意見の対立者を「反動や右派等」として罪をかぶせる方式を安易に取ったことが、現在の「一人っ子政策」を採用せざるを得なくなり、中国人にとってその後百年間は続くという人口抑制策の苦しみを受けることになります。
 教科書では「整風運動」は建国以降の誤りの第1と書いています。

4.1958年からの「大躍進政策」によって、まさに中国社会全体が死滅するかのような極端な減産値を示しています。
 教科書には、「ソビエト政府が、農村の共同体(人民公社)化が膨大な死者を出した経験を中国に教えたが、毛沢東は独自の中国のやり方を主張し、共産主義へ急ぐ必要を考え決行した」と書かれています。
 この人民公社化と、地面に落ちている砂鉄を集めて製鉄産業を興す、という二つの政策を大躍進と呼んでいます。これを奨励するために全国に農民が顔を輝かせて砂鉄を拾い、小さな溶鉱炉に流している大看板を至る所に建てました。
 教科書では、当時年産鉄鋼量が500万トンの中国が英国の4000万トンを3年で追い抜くという計画で、全国で100万を超す小高炉が建設された。このため山林などの資源浪費は膨大で、農業だけではなく、軽工業にも影響は大きく、国家予算にも大きな負担をかけた、と書かれています。

 実際このころ中国全土で農民は死に、都会に住む人達も栄養失調で手足や顔がむくんでいました。これに関する報道は今でも禁止されています。
 当時農村で生まれた子が都会の人に拾われて、最近40歳になって、自分の親に会いに行こうとした新聞記事が発売禁止されています。
このときでさえ、中国の全省が農業生産は平年並みと報告しています。

5.この大躍進政策に対して、当時7人居た最高政治委員の内、周恩来も次期主席に決まった劉少奇も林彪も誰も批判しなかった。ただ一人軍最高責任者彭徳懐のみが批判して追放された。(彭徳懐は国民党との闘いで、自己の数倍する敵を殲滅するなど大手柄を建てていて、毛沢東を常に「同士」としか呼ばなかった。)
1962年初め、党は7000人委員会を開き、毛沢東は大躍進の誤りをその場で認め自己批判した。この素直な自己批判が全国人民を鼓舞し、それ以降生産は回復発展した、と教科書に書かれています。
 歴史上希に見る大量死と言われるこの失策に対し、7000人委員会を開いて「ごめん」というだけで許されるものでしょうか。
 この時点ではまだ毛沢東の頭上は「光輝く」状態だったのでしょう。
 
3.林彪は建国直後から毛沢東を持ち上げる態度で、おもねり、文革時には「毛沢東には誤りがない」とまで後押しした。
 1971年、林彪は一説によると毛沢東の乗った列車を爆破しようとして失敗。自分の娘が告発か?逃亡途中、内モンゴルで飛行機が墜落して死亡。
 これ以上の詳細は現在も不明。
 
 教科書によると「これが毛沢東にとっては極めて大きなショックで、急速にもうろくした」、「この事件によって大衆は急速に個人崇拝の熱から覚め、客観的に文化大革命は理論と実践に於いて破産した」と書かれいます。

 1973年周恩来も癌であることがわかり、毛沢東は呆け、登小平が復活起用されます。この後生産は回復していきます。  

 教科書から言えるのは以上です。

 ついでに他の本から参考意見を載せておきます。

A.何時頃から中国では毛沢東の個人独裁が始まったのか。
 中国の小説の中には建国後3年間は、人々は「祖国の建設」に同士的な連帯感を持っていたと記述したのもあり、党に希望を持っていたようです。
 しかし矢吹晋著「毛沢東と周恩来」講談社現代新書¥680円
(1991年初版、2001年5月14刷)によると、建国宣言の翌日から毛沢東は全ての法令を自分の署名無しには効力無いことを政治会議で認めさせた、と書いています。こうして発言の自由はなくなりました。
(法律で統治するのではなく、党治する体制で30年間が過ぎたことが、独裁の原因でしょう。法律作成は1980年代になってから)
 建国前には、戦略戦術会議を討議形式で開いていました。
 また最高の指導部が一つ下の指導部を選出し、以下こうして中国全体が「毛」の思いのままになったと記されています。毛沢東は「孫悟空よりも自由で、秦の始皇帝よりも強大な権力」を持っていると豪語していたそうです。
 そのような雰囲気の中で、周恩来も劉少奇も林彪も全ての幹部と一般大衆までもが毛沢東を絶対化し、中国全体で批判できる人は消えてしまいました。

 ついでながらこの著者は横浜市大の教授ですが、「資本主義の矛盾を解決するための社会主義という問題の建て方は20世紀で終わった。21世紀の人間は地球環境や南北問題を解決するために新たらしいシステムを発見しなければならない」と最後に記しています。

B.何故一度主席の座を降りた毛沢東が復権したか。
 魏京生によると「何故毛沢東がクーデターを実行できたか」として、その理由を、”中国の政治体制は権利が分割されていず、特に軍隊を握ったものが政治権力を握れるようになっているからだ”と書いています。
 彭徳懐失脚後、林彪に軍の地位を与えたため、林彪を抱き込んだ毛沢東がクーデターに成功したと言うのです。巻き込まれた”風”を装って林彪は毛沢東を殺す機会をねらっていました。
 また毛沢東は「クーデター」という表現を使わず、「文化大革命」という表現を使ったことも、大衆を欺けた大きな理由と指摘しています。
 「老鬼」の小説によると、1975年暮頃からそれまでは則死刑だった「毛沢東やマルクス主義にも間違いがある」という発言が学生の中で自然発生的に広まります。
 それまで猛烈な毛沢東とマルクス賛美者だった魏京生は中国の将来は、マルクス主義ではだめではないかと考えて、そのことを文革終了後壁新聞に書き、新しい壁新聞運動が始まろうとしますが、彼は登小平に逮捕され、運動は弾圧されます。

C。毛沢東は「この世に存在するものには全て階級的立場がある」と言うことを強調し、大衆相互の告発を奨励しました。これによる憎しみ合いは、これまでのどんな歴史にも社会にも現れなかったのではないでしょうか。
 毎年秋に住民人口の3%の「敵階級」を秘密に書記に告発させ、それを住民大会を開いて吊し上げる儀式が全国で行われてきました。(このこともなぜか教科書には書いていません)
 注:小説「古華」現代中国文学全集その2
 映画「芙蓉鎮」の原話
 読みたい方にはお貸しします。
 この映画の女主人公が先日所得隠しで逮捕されました。

 台湾人は38年間の大陸人による戒厳令で世界一苦しい生活を強いられたと言いますが、でもその時、国民同士は憎しみ合っていません。助け合っていました。だから大陸よりは良かったのではないでしょうか。
 その結果経済的発展は早かったと言うことでしょうか。

 最後に全体を通して言えることは、建国後の30年間、「社会主義」という名で行われた政策はどれも愚劣で低級で幼稚なものばかりが採用され、中国の民に塗炭の苦しみを与えました。
それなのに教科書にはまだ正確な反省が表記されず、反省3に評価7位の比で書かれています。
 昨夕10/13、NHKの「発展する中国自動車産業」を見ました。世界に通用する技術をどんどん採用していて、急速に成長し、世界から信用を得ている様子でした。
 建国後の50年間の国民支配の政策は世界から孤立していて初めて可能でした。現在すでに世界の市場の中でかなりの信用を得だした以上、もう後戻りはないでしょう。

  完