焦点「農民の本当の姿を」

02/07/26 中国青年報  沙林

 歴史に登場する一般大衆は数知れずあるが、「李昌平」は正にその一人で、今中国ではインターネットで、「李昌平」と言う3文字を打ち込むと瞬時に2000以上の彼に関する報道や評論記事が表示される。
 この理由というのは、「李昌平」氏が朱ようき総理に宛てて手紙を出したことによる。その中に「農民は真に苦しみ、貧しく、危険である」と書かれていた。
最近彼は又「総理に本当のことを言いたい」と言う書を書いた。これを読んで感動しない人は居ないだろう。

 「これは本当に人を打ちのめすような内容だ。例え作者のことを全く知らないとしても、読む人が経験や専門が作者と違うとしても、しかしいったん読み始めると、一気に読み通し、誰もが打ちのめされる」と一人の読者がその感想を新聞に発表している。ある退職した幹部がこれを読み始め、涙が止まらないのを見た夫人が孫に向かって、「お前のお爺さんは今まで泣いたことは無いのにね」と語ったという。
 作家の呉思はこれを読んで、道徳家海瑞と比較して評している。”海瑞は道徳的な面で人々を感動させた。しかしその感動は体の表面の皮膚にまで来ただけだ。だがこの李昌平は社会の根本的な改革が必要なことを訴えて人々を感動させている。”
 学者の丁東は、”どんな時代にも焦点となる人間が登場するものだ。例えば梁漱冥や彭徳懐は1950年代の焦点人物であった。そして今この「李昌平」と小説の中の薫陽夏一松の名前は現代中国の焦点人物となった。彼等の運命は中国社会の矛盾を集中的に表している。”
訳注:彭徳懐は建国時の国防部長。1959年の中国を死滅させるような毛沢東の政策「大躍進政策」で4000万人の農民が死亡したとき、彼だけが毛沢東に注意しました。そのため彼は日和見主義というレッテルを貼られて大衆に引き渡され、街頭引き回しで肋骨を折られて、その後獄中死しました。1950年の朝鮮戦争時は義勇軍を指導しました。

 有名な農業問題専門家杜潤氏はこの書を評して、”李昌平は農村問題を言い出した第一の人ではない。が、県の党委員会書記の身分で系統的に問題を整理し、数字の裏付けを行い、切実な経験の裏付けを持って記したのは彼が初めてだ”。”我々は農民を無視して来た”と言った。
 春節の前日夜八時、記者は丁度インドから帰ってきた李昌平氏と北京で落ち合った。
彼の書いた手紙が中国を震わせた感がある。事件後、彼は湖北省荊州市監利県から追い出され、南方へ職を探しに出かけた。だが荊州から政府の追っ手が来てそれから逃れて又失職した。彼は北京に流れてきて、雑誌「中国の改革」編集長「温鉄軍」と知り合い、直ぐ旧知のような仲になった。そこで温氏が丁度農村問題を書ける人を捜していると言うことで、そこで働くことになった。
 現在彼は農民の苦痛な生活を彼の全精力を込めて執筆中である。彼は農民のためにボランティアでホームページを作ってくれる人を捜している。農民問題の基地にし、国際的な支援を求めている。彼の意見は、農村を「土地分割制」にすべきだというもので、そして現在中国では第一の専門家であると言われるようになった。

 ”田植えをする前に死んでしまいそうだ”

 利昌平は湖北省監利県の極めて貧しい農民の家庭に生まれた。子供の時からお金が無くて、人々は病院にも行けず、そのまま死ぬのを見てきた。彼は志を立て農民のために何かをやろうと決心した。学校の成績は優秀で、大学の試験にも受かり、農村を離れなければならなくなったが、しかし彼は農村を離れることを選ばなかった。

訳注:中国では建国後人口の9割を占めた農民には健康保険制度を適用しなかった。そのため重い病気をした場合、座して死ぬ、と言うのが普通だった。しかし現在は、アメリカの生命保険会社が来て、その掛け金が安いのでそれに入る人が多い。

 彼の外観は理性的で、明るい表情だ。単なる農村幹部では無く、経済学修士生である。17年の農業の経験がある。四つの県の党指導部に属したこともある。
2000年始め、村の書記に選ばれ、そこで農民の不公平な身分と苦しみを見聞した。
 彼は語る。
 ”正月の四日、私は街から出て、農民の様子を見に出かけた。すると農民達は連れだって南の方へ出稼ぎに行くところであった。どんな車が通りかかろうとそれに便乗させてもらって、どの車も満員になり、私が乗っていたワゴン車も人で溢れた。有る五〇歳くらいの農民が、「昨年四〇畝の土地を耕した。爺さんから孫まで三代が朝早くから夜遅くまで黄土に顔を引っ付けて一年働いてきた。二万斤の税金を納めると、残ったのは三〇〇〇斤の粟のみ。その収穫が終わると婆さんが倒れてしまった。七日入院してその費用二〇〇〇元と少し。その立替に粟を売り尽くして更に人から二〇〇〇斤借りた。貴様等役人の根性が腐っているために我ら農民は出稼ぎ無しに生きていけないんだぞ」と睨み付けられた”

 ”又私が角湖村にさしかかると、そこら一帯は家族の別れで泣き声が満ちている。あそこでは小さな子供が別れをいやがって母親にしがみつき、子供の手を離させようとするその両親の顔も涙が溢れている。”
 ”この村の村長は中学の同級生。兄弟が四人有り、その兄弟全て妻と共に南へ出稼ぎに行くところだ。今年の彼等は、正月四日の朝早く長沙に向けて出発しようとしているところで、昨年は出かけるのが遅れて、他の人にゴミ拾いや靴磨きの仕事を取られてしまった。家では還暦を迎えるお爺さんが残って兄弟の10人の孫の面倒を見る”

 訳注:中国では村長には政治的実行権力はない。村長には党員でなくても成れる。だからこの時点では村長より李昌平の方が上。

 ”その老人は私の手を掴んで、「何とか農業政策を見直してもらえないものか、このままでは農民はみんな生きていけなくなってしまう」と訴える。その老人の老け込んだ姿を見ると私の目にも涙が止まらなくなってきた。”

 ”村長の同級生は「これ以上農民に何が出来るだろうか。家があっても帰れない。ここの農民の半分以上は出稼ぎに出かけている。土地があっても種をまくことが出来ない。1年間、苦し紛れに何とかやってきても残るのは借金だけ。こんな理屈があるだろうか。年上には孝を尽くせず、子供の世話をすることが出来ない。一生苦労している我々に比べ、貴様等は立派な生活が待っている。ずるい悪徳人達。お前達は農民を人間として考えたことがあるのか」とすごい勢いで私を睨み付けた。”

”侯王村の、夫婦二人とも70歳を超えているお爺さんが村の党書記を訪ねて10里以上の道を歩いて尋ねてきた。「ちょっとお尋ねしますが、中国のどんな時代に、どんな朝廷が、70歳を超えた老人に税金を課したことがあるんかね」と詰問してきた”
”彼等二人の老人は1999年700元の税金を払わせられた。その老人は「我々は若い時分に3線修理とか長江修理とか農業は大賽に学ぼうとか、また20年以上の水利工事とか政府の言うとおりに協力してきた。そして病を得て、又歳を取ってしまった。いま村が我々を養えないと言うだけでなく、我々が村を養えと言うけれど、こんなことは一体道理に合っていると言えるのかね。」怒りを込めて言う。”

 その村の一番のやり手と言われる李開明さえ李昌平に向かって次のようにぶちまけるのだった。
「1999年の請負田は18.3畝。収穫は1.8万斤。総支出は税共で6000元少し。彼の家で蓄えている穀類は1.1万斤。国家が保障している斤当たり0.35元という最低の値段でも、政府購買部は倉庫が無いという理由をつけて買い取ってくれない。これではどんなに計算しても1年間の収支は赤字となる。」
 村一番の遣り手でさえこういう始末だ。まして一般の農民のことは推して知るべしだ。その村一番の遣り手は苦痛に満ちた声で「死ぬほど苦しんでも遣りようがない」と言う。

 李昌平の中学の同級生が彼に「私は昨年30畝を耕した。何も残りが無いだけでなく、逆に2000元の赤字だ。税を納めるとき電気管理所がこの村は電気代が未払いで貯まっている。お前の所は今年は電気無しだ、と言う。仕方なしに、村では電気管理所の職員達にたばことお酒と賄賂を届けた。すると彼等は鶏と鴨も頼むよと要求してきた。更にもっとうまい酒とうまい肉も出すように要求してきた。出さなければ停電生活だ。農民達の皆は心が乱れ、慌てて、相談して税関所員と電気管理所員とに酒肉をご馳走した。本当に何とかしてもらえないものか」とぶちまけてきた。

 ”収穫がよいとしても、国家の規定で100斤55元と決まっているのに、実際は収穫管理所が38元しか渡してくれず、それも各種付け届けをしてやっとのことだ。我が家では収穫穀類を政府に届けるのは父が行くことにしている。自分がもし行って彼等役人と顔が会ったら、あの不正な役人どもに怒りが巻き起こって、どうしても役所に火をつけてしまうだろう。”
 
 ”苗の植え付けが始まると幹部が直ぐ見つけて金を取りに来る。1畝200元。一分たりとも値切ることは出来ない。もし肥料代に事欠き、日延べを願い出ても絶対許可されない。それは更に罰金が増えることになる。本当に理屈が通らない。農民には何の救いもないのだ。善良な農民達。彼等だって人間だ。どうしてもう少し大事にされないのだろうか。”

 李昌平が調査をした1999年。全村の負担は1382万元。(法的には580万元のはず)そして農業上の総収入は1000万元。これでは金と労力を全部つぎ込んでも、まだ半分支払いが残ることになる。

 春節に李昌平が街頭で見聞きした事実が彼に大きなショックを与えた。深夜の12時、彼は筆を取って県の指導部に報告書を書き始めた。しかし途中でその筆が止まってしまった。考えるに、おそらく彼自身が罪をなすりつけられるだろう。「この男政治的にまだ未熟。信頼できず」と言うことになるだろう。彼が記者に打ち明けるのだが、彼の本当の意図は農村の改善である。「現実は冷たいもので、どんな成果も得られないだろう。正義、情熱、理想、公平、そんなものはこの世には影も形もないのだ。如何に庶民が苦しもうと、それを口に出すことは不可能なのだ。しかし、この私は彼等に変わって口に出して語ろう」と。
 そこで彼は訴える相手を変えた。彼が書いた手紙の宛名は朱ようき総理と記された。彼の目には涙が溢れて止まらなかった。
「私は今、農村の本当の姿を貴方に書いています」
 
 ”農民に掛かる負担は「泰山」の如く。その税額は「朱峰」の如し。幹部は「イナゴ」のように農民にまとわりつき、土地請負制は「鉄鎖」の如し。政策は「嘘」だらけ。嘘の話(幹部が農民に対する要求)がまるで唯一の真理のようだ。

 ”私はしばしば老人が私の手を取って「ああ、早く死にたい」というのを聞いてきました。子供達が私の前に土下座して「学校に行かせてください」と泣いて訴えるのを聞いてきました。私は声も出ず、ただ共に泣くだけで、一体どんな慰めを彼等に与えることが出来るでしょうか。今年の税負担も又増加すると聞いています。貴方はこれらのことをどう思いますか。若い人達は出稼ぎに行き、残された子供達は孤独で、いつか親に会えることを願い、払わねばならない負担は重く、、ああ、天でさえこれを見て泣いているのではないでしょうか。” 
 ただ農村の現状を訴えるだけでなく、農村を変えるための具体的な方法を極めて詳細に述べた。

 2000年3/8、彼は手紙を書き終えると家で妻に見せた。妻は手紙を読み終えると涙をはらはらと流し、その涙は何時までも止まらなかった。そして自ら「私が出してきましょう」と言って出かけた。

(この時点で妻は夫の書記の地位が無くなることを覚悟したようだ)

 その手紙を出してから、彼はきっと総理に届くだろうと信じた。それというのもこれまで朱総理は農民のことを談話で発表することが多く、農民に感心があるはずだった。彼は総理が読めばきっと大きな反応が起こるだろうと期待した。

 土地が利益を生まないなら、農民と言えど土地を愛することが出来るだろうか。

 4/1、国務院の調査団が来た。彼等の中に「賀」と「蕃」所長が居た。彼等は県の党委員会に連絡無しに直接村へ来て、県農業局経由で、李昌平に自宅で待機するよう伝えてきた。
その連絡を聞いて李昌平は手紙の効果を知った。

 調査団は先ず角湖村へ来た。この村は1999年一人当たりの負担は250元であった。他に1畝230元。しかし実態はどの家も赤字であった。年が明けて、農民達は相談して誰も今後土地をいらないと宣言した。全体で1400畝。「俺たちは手をつけない。お前達幹部で耕しな。」と言うことが起こったところだ。
 賀所長は感慨きわまった感じで「ここへ来てその事実が理解できた。農民達が食っていけて初めて、土地を愛することが出来るものだ。これは今後政府の農民対策の基本とするべきだ」と述べた。

 調査団が次に侯王村に来た。この村では全県で最も負担が大きいところ。一人平均600元少し。しかし中央へ上納できた額は県で最小となっていた。賀所長が村の代表者にご苦労の言葉を掛けたとき、彼は少しも嬉しそうな顔をしなかった。そして「貴様等はただ自分のことばかり考え何の苦労もなく日々を過ごすことが出来る。それに反し我々農民の生活と言えば、まるで豚や犬の方がましな生活ではないか」と呟くのだった。
 調査団が農家を7軒ほど回ってみると、元気な人は一人もいなかった。家の中には家具さえ何もなく、もちろんテレビもなく、思わず二人の所長も涙をこぼすほどであった。
「こんなに農民の生活が悲惨であるのにどうして一人当たりの負担が600元を超えるのか。」

 実態調査が終わり、2人の調査団長は李昌平と2泊に渡り語り合った。彼等は李昌平の話を聞くとき、涙をぬぐうハンカチを離すことができなかった。賀所長は「今回貴方は朱ようき総理に手紙を出しました。現在ではそのことがこの地方幹部の知るところとなっています。これからどうするつもりですか」と尋ねるのだった。
 李昌平は答えて「もし職を奪われても、それも自分のしたことです。何とか生きていきます」と悲痛な顔で答えるのだった。

 総理の指示のなかに「我々はこれまで一貫して、一部の比較的良好な情勢を捉えて全体の情勢としてきた。いつも幹部の良いところだけを報告する書類を受け取ってきた。そして問題の厳重性を受け取らなかった」と書かれている。
 中央からの調査団が去るとき、入れ替わりに省政府の調査団が大挙やってきた。彼等の目的はハッキリしていた。李昌平の手紙の内容が嘘であることを固めるためだ。
 彼等は李に向かってまるで犯罪人を扱うように詰問した。村人口の数が李の調査では2人少ないのを捉えて、李の報告書は全てねつ造だと結論付けた。農民への貸し出し金利率が21%の高率であることについて、これは合法的だと白を切った。ある人が調査団に対し疑問を呈すると「中央に文句があるなら、お前が直接中央に行って、地元政府に金を返してくれと言ってみろ」と脅かすのだった。

 やがてこの村に省政府の最高指導者の怒りの噂が伝わってきた。「一体全体、誰がこんな李昌平みたいな奴を書記にしたのか」と。
そして県の検察院が李の経済面の調査を始め
た。
 李は孤立させられた。しかし李は若い幹部の中には同情してくれる人達が居ることを知っていた。退職した幹部の中にも支持してくれる人が居た。一般幹部の中にも支持してくれる人が居ると思われた。誰だって農民が悲痛な生活をするのを望むだろうか。ほんのごく少数の幹部だけが、彼をおとしめようと狙っているのだ。しかし逆に支持している人達で、声に出して言える人は居なかった。黙って、そっと、支持した。しかし反対の声は露骨に大声で彼に迫った。

 2000年5月、朱ようき、胡錦寿、李嵐清、温家宝、等の中央政府幹部は国務院調査に基づいて重要支持を発表した。

 賀所長が李に説明するには、朱総理はその指示書の中で、胡錦寿、李嵐清、温家宝等に対し、計画委員会主任と財政部長が充分認識を変えるように指導すること。湖北省の責任者にもコピーを送ること。
 農民は真に苦しんでいること。農村は疲弊していること。農村は危険であること。部分的な好況を持って全体としないこと。幹部が何時も良い面だけを報告することを信じないこと。厳重性を充分認識すること。等が書かれていると話した。

 胡錦寿副主席は李の書いた手紙に対し、大きく憂慮していることを示した。温家副主総理は地方によって農村が荒廃していることを重要視していると表明した。食料工作会議は、農民の余剰食糧を完全に買い取ることを確認し、更に、農民の負担を如何に軽減させるかについて真剣に討議した。

 ”省の党委員会は緊張してこの問題を討議した。再調査団を組織した。今回の責任者は老幹部で、李昌平の提言に対し高度の評価を与えた。侯王村に来て担当村書記の報告を聞いて声も出ずただ泣くばかりだった。
 
 その村の書記の妻は路上で靴を磨いて金を稼ぐ等の日々を送っていた。もしその月300元の稼ぎが無かったら、子供は学校に行かせられなかった。田に蒔く肥料も買えなかった。正に妻が稼ぐ金は血が滲んでいるのだ。
 ある時妻を見に行って見ると、8人の農婦が9平方米のぼろぼろの部屋で地面にうずくまりながら、食堂から出てきた食べ残しの食器を集めて食べ物を探しているところだった。その村書記が言うには、我々農民は人間ではない、豚や犬よりもっと酷い、と嘆くのだった。
 その調査の頃農民達はお互いに声を掛け合って集まり、その書記に我も我もと実情を訴えるのだった。数十里もの地方から来た農民も居て、「いったい李さんはいかにして朱総理に手紙を届けることが出来たのか」と聞く人が居た。手紙を総理に読んで頂くなんて、誰も信じられなかった。

 イナゴのような幹部、結束を強める

 李昌平の語るところによると、農村疲弊の根本原因は、人事の問題だという。彼の村では1986年行政にタッチする人数は15人だった。税金係は3人。派出所は2人。その他の工商所、司法所、は無かった。農民の負担はそれに比例して少なかった。農民の負担は土地1畝に対し10銭。だが現在、農民を管理する幹部は教師も含めて2000人。彼等は自分の食い分と家族の分を農民に頼り、この比率は年ごとに上がる。現在土地1畝に対し200元以上の負担となっている。

 しかし人を減らせば解決となるかと言うとそれは簡単ではない。”農民を食べている幹部達”、彼等のほとんどは党の組織を通して余所から入ってきた者だ。彼等余所者を動かせる人はこの県には居ない。

 更に恐ろしいのは、これらイナゴ集団は一種の強制団体を作っている。強制団体で、「食利者」集団である。

 李は更に、「1980年代から、改革開放が叫ばれて、農民の収入も一時は良くなったが、幹部達の取り前はもっとあくどかった。組織も人間もどしどし増えた。生活が派手になり、建物も車も携帯電話もパソコンも一段と高級なものを使うようになった。公費視察も国内から国外に変わった。主要なトップだけではなく下の方まで視察に出かけた」と語る。

 農民達が稼いできた金は増えたが、しかし消費される費用も膨大にふくれ、こうして高利の借金が始まり、その利息たるや16%から多いときは40%にまで高くなっている。
 
 李昌平の村で見ると、債務は4700万元。貸し主は6000件を超える。その中には県の指導者もいる。暴力団もいる。最大の債権者は村の幹部だ。1999年全村負担は1382万元。その中で1000万元は利息が作った部分だ。もし農民の負担を減らそうとしたら、幹部の利息収入を減らさなければならない。どうして幹部がその道を認めるだろうか。
 李はまた「これら債権者の多くは農村の富裕幹部で、毎年農民が税金を納める頃、余所からこの村へ家族揃ってやってくる。村の事務所は彼等で溢れ事務どころではなくなる。トップは余所へ逃げ出し、村の行政は麻痺してしまう。この負債の処理で村長の書記が逃げ出し、農民の負担は更に大きくなる。
 一方では貸し金を増やすために村の幹部達は頭を絞る。湖北省のある県の農民は人民公社の時代に190銭を借りた。それが2000年になって幹部が彼の家に現れ、農民に1800元を返せと迫った。農民にはその返済力が無く、冬の寒い日に幹部に引き立てられて土牢に入れられ、そこで凍死した。」

 訳注:人民公社。1958年毛沢東は共産主義に一段と早く近づく方法としてこれを実行した。既にソ連ではこのため餓死者が出ていたが、毛は敢行。これと農民に鉄くずを拾わせて小さな炉で銑鉄を造らせた、この大躍進政策で全国に餓死者が溢れた。この銑鉄が使い物にならないことを毛に進言する人は誰も居なかった。

 一方で借金を迫られ、村にあった貴重品は全て金に換えられた。そこで幹部は土地に目をつけた。出稼ぎで居なくなった農民の土地を債権者に貸すことになった。その契約は50年間、使用税無し。ただし土地税を払うために、その分は農民から取るという。こうして土地が消えて人頭税だけが残った。

 有る村では学校や水道ポンプ運転所も借金の形となった。仕方なく学校は学生に費用を請求した。日本では100年以上も前の1890年に義務教育が行われている。しかし中国の農村では学費が高く修学できず、親を助けて出稼ぎに出かけている。読者もご存じのように多くの街で道路に蹲って靴磨きをしている子供達がいる。
 
 農民が上納した資金の中から、毎年水利工事や河川の修復などが行われてきた。が、皆さん見てください、現在の農村を。川は詰まり、水と空気は汚れ、ゴミの山は高くなるばかり、蛇や蛙や鳥の有益な鳥獣は姿を消した。山林草木ははげ山となり、若者は出稼ぎで農村から姿を消し、残されたのは病弱な者ばかり、これらは党幹部によって引き裂かれたのだ。

 学校にはますます行きづらくなり、農民の救いは何処にもない。

 一方、省の党組織は大きくなるばかり。中央の指令では、一人の正に1人の副を置くことになっているのに、多いところでは10人の副を置いている。

 有る村の総書記江平は横領の罪で調べを受けたとき、公金を5万元、個人専用の車代に2万元、毎日の接待費用として1080元、違法な収得金40万元があった。ところがこれを調べた委員会は江平を処理する権限がないと言うことで沙汰無しになった。李昌平が村を追われる時でもまだこの江平は大きな顔をしていた。
その江平が李昌平を追い出すのだ。

 その後も何回か上級から調査団がやってきたが、その結末は何時も同じだった。問題を指摘する者には「彼は問題を解決する能力がない。」と言うことにされた。上級の調査を「一種の遊び」と公言する人もいる。

 7/15省政府副書記が検査に来て、「巨大な成果」を達成した、と報告し、上から絶賛を浴びた。

 李昌平失望して村を離れる

 李昌平は村で孤立し不穏分子と言われ、ついに村を逃げ出すことになった。彼は「自分の使命は終わった」として辞職届を提出した。それに対して組織は一言の反応もなく、慰留の言葉など当然のように無かった。
 後になって多くの人がその村で不正常な椿事があったと指摘したが、これに対して、李は陰謀家で心が不正だ、と省政府は反論した。

 李は言う。「私は長江の土堤の上で大声で泣きました。この20数年貧苦と闘い、農民の生活が少しでも良くなることを願って苦闘してきました。そしてこの結果がこの様だ。」

 2000年9/18、彼は故郷を棄てて深せん(”せん”は土偏に川)に来た。そこで臨時工の仕事を見つけ働いた。多くの人が彼は立派な農民の子だ、と言って採用するよう職場を紹介してくれた。

 世界では農民に課税する国は数少ない

 彼のそれまでの農村での経験は国務院にも支持者があり、一定の見解は専門家としての力量を認められていた。
 彼の農村改革の意見は以下のようだ。

”先ず農村の負担を少なくすること。これには根本的に、税金の問題ではなく政策の問題としての思想を持たなくてはならない。
現在国家としては豊かになってきている。何故農村を搾取の対象にするのか。国家がその気になれば農村を救うことは出来る。
 現在農民の平均月収は100元少し。それに反して都市では800元を超えて初めて納税の義務がある。統計ではGDPの15%で人口の70%を養っている。それ以外に道路修理、河川修理、近隣助け合い制度などに出費している。
 世界では一般に農民は免税だ。更に国家から農村へ財政補助がある。インドもアメリカも全てこうなっている。スリランカも同じだ。世界で農民に課税している国家は北朝鮮など数カ国に過ぎない。中国では国家から税を徴収されるだけではない。さらに地方政府が多くの不正徴収を行っている。”

”地方政府は常に中央政府と同じ組織体制を造ろうとする。現在農民から一人当たり100元徴収して、その内90元は幹部やその用心棒の費用となっている。残りの10元も幹部の諸費用と言うことになっていて、国家に上納されない。
 この地方政府幹部削減についてはほとんどの人が賛成をするだろう、ただ幹部だけが「絶対許さない」という考えだ。彼等は農民の造反を恐れている。現在こそ安定していると認識している。
 そして現実は一層の悪化へ進んでいる。幹部達は今後も一層より大きな部屋とより良い車等々を求めてきりがない。”

”この解決はそんなに難しいことではない。一般民衆が参加しなくても解決できるだろう。私達の共産党の力でも充分解決できるだろう。これは単なる方法の問題で操作の問題だ。この操作能力を中国人は欠いているのだ。


 再び農民が地面に跪かないでよいように

 李昌平はこれまでの事件に巻き込まれて深く考えるようになり、中国社会科学院主催のインドのクララパン視察に参加した。インドでは農民の負担はなく、消費税の80%は農村に帰ってくる。一つの村に幹部(公務員)は7.8人。彼等は全て選挙で選ばれる。中国では先ずその10倍はいる。インドでは地方政府に権力はない。議員も多くは賃金無しだ。農民に貧しさはない。自給自足の状態で、毎日が楽しそうだ。社会も安定している。たまたま李昌平が村で下痢をして医者に通った。そこでは薬品の必要量だけを彼に渡してくれた。中国のように大瓶で渡して金を請求するのとは大違いだった。
 インドでは多くの学者が農村に出向き、環境保護やトイレの改造などに奉仕している。ああ、こんなに知識分子と農民が助け合うなんて、中国ではとうてい考えられない。

 インドへ行く前に李昌平は四川省のある村へ行って友を尋ねた。1998年、そこでは中国で初めて選挙で村長を選んだ。2001年末、選挙が開始され、立候補届から村民が投票するまでを彼はその目で見た。彼の感じではその地方の幹部の態度が極めて優れていると思った。その選挙では候補者と農民との対話があった。これは3年前から始められた。村長と農民とが何でも相談できる関係を築いているのを知って、李昌平は感嘆きわまりなかった。
 自分の村のことに及ぶと、李は感慨がひとしおだった。2001年7月、彼は自分の村にそっと帰り両親を訪ねた。母は一目見るなり涙が止まらず、廻りが見えなくなるほどだった。李が帰ってくることを聞いて沢山の農民が会いに来た。誰もが中央の農民への政策が変わったかを聞きたがった。村の幹部も来て、遠方での仕事の様子を尋ねた。そして皆の言うところは地方政府も破産寸前だと言う。もうどうしようもないところに来ていると。村長も彼に向かって「これ以上は維持できなくなっている」と漏らすのだった。

 そして最も李を驚かせたのは、村から、市、省そして中央、何処も改革が必要だと言うことでは一致しているようだった。李昌平が離村してから、ほんの3ヵ月の間に、4人の農民が税金を納められなくて、死亡したとのことだ。新任の県党委書記の杜氏は李に対して「私は各種の会議で農民に関心を持ち農民を法的な存在として、人間として扱うように強調してきた。しかしそれらは全て無駄だった」と話した。
 李昌平は泣きたくても、もう涙が出なかった。もし出来ることならもう一度「朱ようき総理」に対して農村の本当の生活を話したかった。そして彼はこの「私は総理に本当の話を告げたい」という本を書くことになった。
 彼はその本の序言で「私はこの書を、私を養ってくれた父と母に、心の中の神に、捧げる」
 「再び農民が地面に跪いて頭を下げなくて良いように」と書いた。

      記事翻訳終わり
訳者注:

  昨日7/26、中国の学生が我が家へ来ました。日本企業へ就職のための面接です。大連で「互相」しました。
 雑談しているとき、私に中国語は如何ですかと聞くので、「南方週末」を翻訳していると話しました。そしたら相手が「え、あれはとても正直な新聞ですよ」と大声で叫びました。大連には売っていなかったので、何処で知ったのかと聞いたら、学校の図書館にあったそうです。
 今、各都市には「**日報」というのを売っています。**はその都市名です。ところがある時、別の互相が「その新聞は政治新聞でつまらないでしょう」と教えてくれました。それで他のものに換えた経験があります。しかしその学生は「南方週末」を知りませんでした。
 さて家に来た学生は「中国にはもう一つ正直な新聞があります」と教えてくれました。「中国青年報」の「焦点」ですよ、と。
そこで早速ホームページを探しました。

 如何でしょうか、この記事。私は必死になって翻訳しました。
 プリントして、その学生に1ページめを中国語で私が読んで発音を訂正して欲しいと頼みました。ページの半分も読まない内にその学生は私を制止して、「判りました。この記事の全てがもう理解できます。中国人なら誰でも中身は直ぐ判ります。そしてあまりこのような記事は読みたくないでしょう」ということでした。
 ところがこの翻訳記事にもあるように、「李昌平」の文字がインターネットに溢れているのです。いわゆる意見の投稿形式です。

 ひょっとして中国にも民主化が起こるのではないかという気がするくらい、大衆の意見が公に触れる方法でインターネット故に起こっています。 
 この記事の後に、読者からの大量の投稿が記載されています。
 建国以来、農民が如何に差別され無視されてきたかが、連綿と書き続けられています。
 そして驚くことに、農村幹部の腐敗という言葉はありますが、もっと根本的な批判が無いのが気になります。
 農民が無視され差別されて50年も経っているのに。農民の月平均収入が100元少しということを国家の最高責任者はどう考えているのでしょうか。

 以前紹介した魏京生の話の中に、1971年の農村の姿が描かれています。それを簡単にここに紹介しましょう。彼が熱心な紅衛兵として農村へ行く汽車の中での話です。

”汽車が北京を離れると直ぐ農村地帯となった。汽車が臨時停車すると、どの窓にも農村の子供達が施しを求めて手を差しだして来た。子供達は全てほとんど着るものもなく、顔も身体も薄汚れていた。その中に16,7歳の娘の姿を見いだして、魏京生は自分の持っているものの中から何かを与えたくなって窓から顔を出してその娘に顔を近づけた。すると彼はその娘の上半身が裸であることに気が付いた。髪を長く腰まで垂らしているから直ぐには判らないが、しかしそのふくらんだ胸がハッキリと見えた。その娘も身体全体が不潔で汚れていた。
 そして到着した農村ではほとんど着るものも食べるものも無いことを彼は現地で知った。
 同時にもう一つ恐ろしい事実を知った。それは大躍進政策の時のことである。中央政府は1959年の頃全国で自然災害が多発し、それで農民が大量に死亡したと発表していた。しかし農村の人に聞くとそんな災害は全くなく普通の天候が続いていたという。
 こうして魏京生は政府がこれまで声高に叫んできた「社会主義制度の優位性」という言葉の真実の意味を知った、、、、。”
 と言う描写が続きます。
なお、1994年の6月に中央政府が、大躍進政策の頃、餓死者の数が4000万人を超えたと発表したときも、しかしその頃大きな自然災害が同時にあったと書かれていました。
 その年の各州政府から中央への報告書には「今年も豊作」と言う文字があったそうです。

 もう一つは山崎豊子が1980年代後半、時の総理「胡ようほう」の許可を得て農村に行き、小説「大地」を書くために4年間取材したときです。飢え死にしていく農民の中に、山崎豊子は日本の戦災孤児のモデルを見つけました。学校にも行けず”性の奴隷”の様な生活。(主人公”陸”の妹)

 更にもう一つ。
 これは1999年に私が大連にいたとき目撃しました。学校の前の通りには幾つかの食堂が並んでいて、そこからは毎朝残飯を麻袋に入れて道路に出します。その袋の口を開けて中に詰まったどろどろの残飯を、それは食べ物の形を全く残していない一つ一つが小さくなった、ぐちゃぐちゃの中身を、ほじくり返している人が居ました。ちょっと正視するには勇気が要ります。服装からして都会の人ではないと思っていました。ただ本能的に話題にしてはいけないような、それほどの気持ちが悪くなるほどの、そんな姿でした。だから私の互相の学生にも質問しなかったのですが、この記事を読んで理解できました。20世紀最後の農民の一つの姿として写真に残すべきだったのでしょうか。


 話が変わって、去る7/30日の日本の新聞には、中国の学者が連盟で「インターネット上での発言の自由宣言」と言うのを発表したと記されていました。政府の干渉を押さえようとしたもので、こんなことは建国以来初めての、党外からの発言で注目されます。
 逆に中国内での全てのインターネット上での「定期的意見の発表は事前の登録と検閲が必要」と言う政府決定が通達されました。これには中国で日本人向けに発行されている日本人の通信も含みます。(私は中国情報というのを見ています)
 フリーメールの「中国」というのも参加していますが、これにはまだ政府通達がないようです。(これは日本国内で発行されているのかな?)
 


 読者から、この翻訳の感想を幾つか戴きました。その内3個ほどを紹介しましょう。

1.この李昌平の話を、官僚腐敗廃絶をライフワークとでも考えていた私は興味深く読みました。私が現役だった頃、これと似た話は、日本では幾らでもありましたが、さすが中国は、こんなことでもスケールが大きいですね。日本では自民党政権が敗北を喫したとき以来、政官財を取り仕切った官僚も世の指弾を浴びて少しは反省していると思いますが、日本と中国に共通する官僚腐敗の培養土を何に見たら良いでしょうか、研究の価値がありますね。ところで、中国の官僚腐敗、農民の苦しみで、全く同じ観点の記事が、昨日受け取ったTIME誌(August 5)に、"Emperor is far away"のタイトルで出ていました。

1.李昌平の記事を拝読しました。
一人の人間として社会の不公平に怒りを感じます。中国の社会で起こっていることなので、
改革開放政策の過程だと言い切ってしまうのは簡単です。しかし、今の中国を見ると給料が600元の人もいれば、大卒だと1000元以上だし、6000元の人もいます。
国際都市大連でこうなんだから、農村部ではもっと生活の格差はひどいだろうなと感じていました。
 実態を知れば知るほどこの国がどうなっていくのか心配です。いや、本当に地響きを立てて大きな物を倒していくようです。
 明治の中期、鉱毒事件の田中正造を思い出しました。今日本へ来ている中国人留学生も地方の農村終身と都市部出身とでは自分の国の捉え方にズレがあるのではないでしょうか。学校にいる学生に聞いてみます。翻訳を送っていただきありがとうございました。
 追伸:最近読んだ本に大前研一著の”チァイナ・インパクト”があります。読みましたか。その中で今年の中央大会で重大発表するかもしれないと書いてありました。共産党の名が変更になる。官僚組織を変革せざるを得ない下からの力がそうさせると感じます。

1.いつも中国の最新情報を送っていただいて、有難うございます。興味深く読ませても
らっています。
今回の「農民の本当の姿」、信じられないような話で驚いています。深刻な問題ですね。
次回のニュースも楽しみにしています