第3章 キリスト教

キリスト教の死後の世界

史上最大の宗教「キリスト教」。その信者は18億人といわれ、キリスト教の聖典である聖書は世界最高のベストセラーです。

その聖書に「天国」「地獄」という来世は書かれていません。そこに書かれているのは、天国と地獄ではなく、「神の国」と「永遠の死」でした。

更に驚くべき事に、ここは死んだ人間の行く所ではないのです。

新約聖書によると、人類終末の日、有名な「最後の審判」が行なわれるそうです。
この時、神が死んだ人間を生きている時の肉体に戻してくれます。そして生きている人間と同じく、この審判に臨むのだそうです。

魂はあくまでもその時が来るまでの仮の姿、つまりキリスト教では、「人間の死」は、神に裁かれる時を待つ間の仮の姿なのだという解釈がなされています。

最後の審判の時、イエスも生身の肉体でこの世に帰って来て(Second Advent:再臨するというそうです)地上に「神の国」が到来します。
天上にあるのではなく、この世が神の国になるというところがキリスト教のポイントと思われます。

しかし、最後の審判というくらいですから、神の国に入れる人間と、入れない人間が識別されることになります。神の国に入った人は、神から永遠の命を与えられるそうです。
「だから死ぬことはちっとも怖くないんだよ」と教えているのがキリスト教なのかもしれません。

しかし神の国が具体的にどんな国なのかは一切書かれていません。また、最後の審判がいつ来るのかも曖昧です。
一方有罪を宣告された人は、神の国から追放され、永遠の死という罰を与えられるそうです。

キリスト教には更に驚くべき考え方があります。
神の国に入れる人間と、入れない人間は、生まれる前からすでに決まっているのです。

 


キリスト教の根本理論

キリスト教には「人の運命はあらかじめ神に決められている」という考え方があり、これを「予定説」といいます。人間がいつ生まれ、いつ死ぬか、人生の全てを神があらかじめ予定しているというのです。これは考え方というより、むしろキリスト教の根本理論と言って差し支えないかもしれません。

「神に救われし者は神によってあらかじめ定められし者」

聖書は「最後の審判」で、救済され神の国に残る人と、救済されず永遠の死が訪れる人は、あらかじめ神が決めてあり、必ずその通りになると教えます。

なんとも理不尽で不公平な・・と感じるのは私だけでしょうか?

これはある意味、「どんなに一生懸命勉強したって大学には入れませんよ。だって入学する人は、君達が生まれる前から決めていました」「いくら健康に気を使ったって無駄です。病気になる人はもう決めてあるから」という事です。
宗教的素養がない私には、とても意地悪な神様に思えてなりません。

イエスは新約聖書で「自分の命のことで思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばす事ができようか。何を食べようか、何を飲もうか、また自分の体のことで何を着ようか、思い悩むな」と述べています。

いくら悩んでも、人間には未来を変える力などない。神が全て面倒を見てくれるのだから、余計なことは考えず、神の意思のままに行動しなさいというのがキリスト教です。
出世したのも、幸せになったのも、神がそう仕組んであったから。だから地獄行きが予定されている人は、そもそも良い事などできるはずがないし、神に対する信仰心など決して起きるはずがない。という解釈が成り立つようです。

しかし、キリスト教には、天国に行けない人たちが、この世の罪を浄化し、天国へ行くチャンスを与えられる「煉獄(れんごく)」があったはず。
間違いなく地獄行きのキップを首からぶら下げているであろう私にも一縷の望みがありました♪

 


煉獄(れんごく)はどこにある?

結論から先に言うと「煉獄」は存在しませんでした・・・聖書に書かれてないのです。

頑なに聖書だけを教義にするプロテスタントが、聖書に書かれていない煉獄を認めないことから明らかなように、煉獄という概念はイエスの教えではありません。多くの人が誤解していたのです。しかしローマ・カトリック教会は、この世の罪を煉獄で浄化すると天国へ行くことが出来るという考えを教義としています。

人間の心理を考えると、誰しも地獄に落とされるのは嫌です。喜んで地獄へ行きたいと思う人は多分いないでしょう。しかし大半の人が、いきなり天国に入れるほど誠実に人生を生きているという自信もない・・カトリックは、その人情の機微に触れたのです。確かにこう教えるほうが信者は増えるでしょう。カトリックの指導者は頭が良いですね。

キリスト教に「天国」「地獄」「煉獄」があるというイメージは、ダンテが文学作品として書いた「神曲」の影響が大きいようです。聖書だけに固執せず、時には妥協し有益なものを受け入れる柔軟性を持ったカトリックと、あくまで伝統を守ろうとするとプロテスタント。同じキリスト教でも指導者の考え方により、天国、地獄、の解釈は違うのです。面白いですね♪

余談になりますが、旧約聖書に書かれている、神が人間を作ったという説は、ダーウィンの進化論で否定されました。しかし敬けんなクリスチャンだったダーウィンは「私は神の国に行けないかもしれない」と真剣に悩んでいたそうです。自分の学説に揺るぎない自信を持ちながら、神への畏敬の念も持っていたダーゥインに、キリスト教が欧米の人々の心の奥底に、深く深く関わっていることを改めて感じます。

 

異教徒

旭川に初霜が降りた日、週間治療室をご覧になった方から一通のメールが届きました。そのメールには、馬が二本足で猛々しく立ち上がっている一枚の写真が添えられていました。
原文を紹介します。

「添付した写真は「スペイン乗馬学校」という、ウィーンにある軍馬の養成所です。
写真のポーズは相手の馬を威嚇するためのものです。
こういったポーズを組み合わせて、ショーを構成しています。
音楽にあわせたそれはすばらしいものです。
これはマリア・テレジアの時代からオーストリアの国力を示すために
外国の王公貴族たちを招待して見せていました。

このようにエレガントな演舞の裏舞台では、実際にこの馬たちを使った戦争の実習がありました。
実習に使ったのは、捕虜としてつれてきたトルコ人です。
近衛兵たちは、馬に乗りながら首を落とす練習を、トルコ人を使ってやっていたのです!
中世とはいえ、なんて残酷なことなのでしょう!
キリスト教では異教徒は人間ではないのです。

「週間治療室」では各宗教について考察されているようですね

アメリカが広島と長崎に原爆を落としても、彼らが罪悪感をもたないのは
日本人が異教徒であることと、有色人種であることが要因ではないかと私は考えています。

アフガニスタンの誤爆もイラクの空爆もきっと同じでしょう。
きっと、キリストはこのような状態は望んでいなかったでしょうけどね

もちろん「異教徒が人間でない」というのは、当時の十字軍の遠征をやっていた当時のことです。
ただ、そういった考えが今もなお、一部のキリスト教の亜流にあるのは周知の事実です。」

とても厳しい視点でキリスト教をとらえていますが、このメールに書かれたメッセージはある意味、キリスト教の核心に触れているように思います。また今、週間治療室でテーマにしている西洋の来世観を理解するひとつのポイントにもなります。

私はこのメールで、なぜ治療に信仰が必要なのかを、改めて考えることが出来ました。      

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