第1章  死と自然科学

死の定義

「死」に定義はあるのでしょうか?
国語辞典で調べると「死ぬこと、死んでいること」と書かれていました。
なんじゃこりゃ?当たり前すぎてよく分かりません。

医師が臨終を確認するとき、呼吸を確認し、脈をとり、目にペンライトを照らすという手順はあまりにも有名です。長生学園の授業でも、呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔拡大の3兆候を伴なったのもが「人の死」であると学びました。

しかし、臓器移植技術が発達してきた最先端医療の現場では、脳死を死の定義とする風潮が高まり、今やそれが主流となっているようです。脳死は一般的に、「全脳機能の不可逆的停止」の状態と定義されています。すなわち、人工呼吸の処置を続けても、人間としての「生」が戻らない状態、回復不能な状態を「人の死」として認めるということです。

要するに、たとえ心臓が動き、呼吸をしていても、それをコントロールする脳の機能が失われていれば死んだとみなしてしまおうという考え方なのです。

そうした観点から考えると、「死」とは、「生命活動が不可逆的に止まる事」と定義づけても良いかもしれません。

しかし、死が生命活動の止まること、あるいはその状態を指すとしたら、なぜ脳死と診断された人の体は腐敗しないのでしょう?

死と診断された人の体の中でも免疫システムは生きているからです。腐食性の細菌や微生物という外的から身体を守るために体内の免疫細胞たちはまだ懸命に戦っているのです。人間の髪の毛や爪も、死の3大兆候である心肺機能停止後も数日間は伸び続けるそうです。つまりこの間、毛根細胞は生きているのです。

しかし、やがては免疫細胞の活動も毛根細胞の活動も停止します。このような個体の状態を不可逆的と言います。つまり「もう生に後戻りできない状態」なのです。逆に事故などで心肺停止状態に陥っても心肺蘇生によって息を吹き返した時、この間の心肺停止は生に逆戻りしたことになります。つまり可逆的なので死とは断定しません。

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おまえはもう死んでいる

私の友人はマラソンのゴールで倒れこみ動けなくなった時、まだ意識があるのに救護班に死んだとみなされ頭から毛布をかけられた経験があるそうです。また、どこかの新興宗教よろしく、心臓も呼吸も止まり肉体がすでにミイラ化しているのに、「まだ生きている」と治療室に連れてこられても困ります。

やはり社会的にも道徳的にも、医学的な死に対する線引きが必要だという事は否定出来ません。

脳死という医学的な死における認識の転換が、多くの消えかけた命を死の淵から救い出していることは確かですが、「死の3大兆候」と「脳死」という死に対する2つの認識は、ある意味どちらも人体という総合システムを、自然科学に代表される近代西洋医学的観点からとらえた定義といえます。つまり心臓という部品が止まった、あるいは脳という部品が動かなくなった時を死とみなすのです。言い換えるならこれは西洋医学的な死といえます。

死の定義を、こうした西洋医学的に線引きされた定義を用い「生命活動が不可逆的に止まる事」とするなら、どの時点を以って不可逆になったかは、死を定義する上で極めて重要です。つまり「ここまでなら生きている」というラインを越えた所が死と言えるからです。

しかしこうした観点から考えると、私たちはすでに「おまえはもう死んでいる」と宣告されてしまったことになります。なぜなら人間は生まれた瞬間からいずれ死ぬ事が決まっているからです。生まれた瞬間から生命活動の停止が不可逆的だということは、生まれた瞬間が死だと言えるのです。言い換えるなら、人間は生まれてからずっと死に向かって不可逆的に生きているといえるのではないでしょうか。

これは困りました・・・ なんとも恐ろしい結論が出てしまいました。
だから、私たち人間にとって「死ぬとどうなるのか」は、人類が出現して以来の大問題なのかもしれません。

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近代科学の落とし穴

こうして存在論的な死を考える時、死の専門家である宗教の力が必要になります。

生命がこの世にだけに存在するように感じるのは、私たちが自然科学における生命の分析システムを盲信しているからなのかもしれません。しかし近代科学の限界は、簡単な数学の証明技術だけでも十分不完全さを証明することが出来ます。

「帰納法」という証明技術があります。近代科学はこの帰納法により発達してきたと言っても過言ではありません。帰納法とは、ある特定のものを判断し、その結果からすべてのものについて帰結を得る一種の推論です。

例えば、「猫に羽根はない」という結論は果たして正しいでしょうか?
大方の人がこの結論を支持するでしょう。しかしこれは推論なのです。なぜならすべての猫を観察したわけではないからです。大部分の猫には羽根がなくても、全ての猫に羽根がないとは言い切れないのです。厳密に言えば「私が見た猫には羽根がなかった」と言うのが正しい結論なのですが、近代科学ではこれを「すべての猫には羽根がない」と判断します。

「猫に羽根はない」のは多分正しいと思われますが、帰納法がもたらす結論は決して正しいとは限りません。もし一匹でも羽のある猫が発見されれば「猫に羽根はない」という結論は成立しなくなるからです。しかし科学はこの「正しいと思われる」を「正しい」にすり替える帰納法により発達してきました。なぜならこの不完全な帰納法は非常に生産性が高いのです。だから近代科学は急速な成長を遂げる事が出来た・・・という話しを大学の工学部教授からよく聞かされました(笑)

1990年初頭に誕生し、現在医学の分野で注目を集めているEBM概念は、科学的根拠として信頼度が高い研究を治療に採用するという考え方です。この科学的実験や科学的観察で証拠を出した、いわゆるエビデンスレベルが高いといわれる研究結果も、もしゼミの教授が存命なら、「正しいと思われる」を「正しい」にすり替える不完全な帰納法で成り立っていると仰るでしょう(笑)       

あえて乱暴な言い方をすれば、全ての自然科学の法則は、過去に自然科学者が言った事を私たちが信じているだけなのです。

アインシュタイン理論に限らず、自然科学の学説は研究が進むにつれ入れどんどん覆されていきます。実験や観察が必ずしも信用できないというのは、ちょっと受け入れにくいのですが、万有引力が距離の2乗に反比例するというニュートンの法則でさえ、果たして事実なのか、いまだに実験が行なわれているといわれます。

要するに、自然科学の法則とは「今の時点で私はこの学者の学説を信じます」ということなのかもしれません。

誤解のないように申しあげておきますが、私は科学を否定しているわけではありません。私も一応は工学部出身なので、むしろ自然科学や自然科学者を信じる傾向が強いと方だと思います。しかし私はそれ以上にお釈迦様を信じます。

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