プロローグ

バカの壁

「なぜ治療に宗教が必要なの?」と聞かれます。

理由は、長生医学の理念である「信心を決定」するためなのですが、お恥ずかしいことに私は宗教オンチです。

死という問題には、誰もが感ずるように物心がついてから大いに関心を持っていましたが、それが宗教により救済されるとはどうしても思えませんでした。むしろ宗教はそうした人間の心の弱みにつけ込み金を集める、憎むべき対象という印象を持っていたほどです。

こうした観念的で実行力の伴わない宗教に比べ、私たちを苦しめる目に見えない身体的苦痛を、検査機器すら使わず理解し、その場でアプローチ出来る長生医学の直接性はとても魅力的でした。

しかし長年臨床に携わっていると、身体的苦痛を生み出す原因はどうやら肉体だけでないことを感じてきます。そこで精神的アプローチの重要性を自覚するのですが、患者さんの生きていく上での悩みを追求すると、どうしても人間の心の底の方を考えざるを得なくなってきます。それが深層心理に近づくと次第に宗教性が出てくるのです。驚いたことに私の大嫌いだった宗教は、フロイト、ユングを遥かに凌ぐ理論を持ちあわせていました。



長生上人は早くからそれを「信仰」という形で明確に打ち出していました。
信心を決定して長生医学を施す」この言葉は私が長生学園に入学した当初から、事あるごとに何度も繰り返し聞かされた長生医学の理念です。長生医学を実践する者にとって信仰心は欠かすことの出来ない最も重要なエッセンスであるにも関わらず、私は実に長い間その言葉の持つ意味を理解しようとしませんでした。まさに宗教に対する「バカの壁」を作っていたのです。

私はバカの壁を取り除く第一歩として、宗教に対する理解を深めようと考えました。
私は自他ともに認める宗教オンチなので、幸いな事に先入観なしで世界中の様々な宗派を比較することができました。すると不思議なことに共通する普遍的思想のようなものが現われて来たのです。

 

医療と宗教の歴史

古代より医療と宗教には深い関係がありました。というより医学と宗教は全く同一のものでした。地球上で最古の治療法といわれるシャーマニズムは、シャーマンと呼ばれる部族の宗教的指導者が部族民の病気を治していました。そうした時代の病気や健康の捉え方は、人体の機能だけでなく、精神世界、霊性や死後の世界、天体の動きや宇宙についての解釈までに反映し、一種の生きる指針となっていたようなのです。

しかし、「我思う、故に我あり」という言葉で有名な17世紀の哲学者デカルトは、精神と肉体は全く別なもので、個々に研究すべきものと主張する「物心二元論」を展開しました。ちょうど「ニュートン力学」による物質世界の解明が脚光を浴び、デカルト哲学と結び付けられた「近代思想科学」が確立された時代です。

この考えは今なお健在で、現代医学の基本精神でもあります。
つまり、病気を身体と言う機械の故障と考え、故障した部品を見つけ修理するという考え方です。この思想は、科学と宗教の分業体制を生みました。科学は物質世界を、宗教は精神世界を担当し、お互い無関係無干渉になったのだといわれます。

それから、300年。21世紀の科学は、ようやく精神と物質を一元的なものとして捉えはじめたようです。

トランスパーソナル心理学のケン・ウイルバーは、「アインシュタイン、ハイゼンベルグ、シュレディンガーといった偉大な近代物理学者たちは、例外なく、永遠かつ普遍のスピリットとして「霊性」を自覚し体験している」という注目すべき事実を発表しています。

人工心臓やレーザー医学の国際的権威で、現代西洋医学における日本の代表的存在である渥美和彦東大名誉教授も「これから先、スピリット、スピリチュアリティ(霊性)を無視した医療は成り立たなくなってくる」と自らの著書で語っています。そしてそれは「哲学、宗教の問題と密接に結びついてくる」とも。

「21世紀は心の時代になる。それに適応できない企業に未来はない」という言葉を社員に残したソニーの創設者の井深大氏は、こうした本質をエレクトロニクスの技術で解明しようとソニー生命情報研究所を作ったそうです。

「健康とは身体的、精神的、社会的に十分満足すべき状態をいい、単に疾病または障害のない事ではない」というWHO(世界保健機構)が定める有名な健康の定義も、「健康とは身体的、精神的、<霊的>、社会的に十分満足すべき<力動的な>状態をいい、単に疾病または障害のない事ではない」と、健康の条件に精神世界を含めた定義の書き換えをせまられているそうです。

 

長生医学の哲学性

長生医学が主張している霊性の問題「霊肉救済」という根本理念は、決して非科学的要素ではなく、いまや主流医学の中でも認知されつつあるのです。

スピリチュアリティ(霊性)とは、人間の心の一番奥にある「魂」、あるいは「心の本質」と呼ばれる部分で、そこは無限の生命エネルギー(プラーナ)の源とも言われます。仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教など世界の様々な宗教の違いとは、そこに至るプロセスの違いであり、そこでは絶対的普遍的な心の安心が得られると言われています。  それは、悟り、魂の救い、解脱、絶対的真理、内なる仏、神、如来、空性、法性、明知、叡智、根源的自我、存在の本質、絶対的スピリット、ブラフマン、永遠の光、神秘的覚醒、小宇宙、など多様な表現で言い表されています。

ロンドンの「聖クリストファーホスピス」に入院する末期癌の患者さんの98%はモルヒネを使用しないそうです。信仰で心の安定を得る事が出来れば、身体的痛みをコントロールすることが出来るというのです。
世界最大のマンモス宗教キリスト教が元々は病気治しの集団だったことを思い起こせば、これは決して不思議なことではありません。

人間の心には明らかに身体的苦痛を除去する力があると思われます。
宗教的な心の問題を無視して治療にのぞむ事は、あえて片腕で戦いにのぞむようなものといえるかもしれません。

渥美和彦東大名誉教授は「21世紀の医療は、医療の本質とは何か、なぜ人間は生きるのかという問題まで、たぶんいくだろうと思う」と語っています。

この世に生を受けた以上、死ぬことは逃れようのない事実です。
過去に、権力を得た支配者の多くが「不老不死」に途方もない財力と労力を費やしましたが、残念ながら最新の遺伝子工学により、不老不死は不可能と言う事が分かりました。
ある精神科医が「人生とは、必ず墜落すると分かっている飛行機に乗るようなもの」と言いました。なるほど、しかしなぜ必ず死ぬと分かっているのに、なぜ人はこうもあくせく生きるのでしょう?

「死を考える」という事は、「宗教を考える」という事は、「医療を考える」ということは、こうした「人はなぜ生きるのか」「人はどこへ行くのか」という、哲学的根本問題を考える事にもなります。とてつもなく大きなテーマですが、幸運にも私たちは、長生医学を通しそれに接しているのです。

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