大自然のいのち : 大村 基實


開闡院釈純宏長生上人五十回忌、開基院阿彌教観法尼十七回忌、両上人の御正忌法要が相営まれ、参詣させていただける現実に感慨無量でございます。

そして私が、幸いにも深いご縁ある両上人に御教導頂いた記憶を、この記念誌に印させていただく機会を賜り、心より感謝申し上げます。

昔から、親鸞聖人は「法の方」、蓮如聖人は「機の方」と申されまして、親鸞聖人はあらゆるものの法をお説きになり、蓮如聖人は仏法を聞く私たち(機)が仏法を如何ように受け取ればよいかを親切にお説きになられました。その書物の中に、「一心を決定の上になすは、助業も正行となるなり。もし、他力の一心なくば、たとい三経を読誦するとも雑行にひとしかるべきなり」と述べられています。長生上人はこれを、「信心が明確な人は何をしても総て浄土の正行となる。すなはち、真の人間形成(成仏)の道となるが、信心がはっきりしていない人は、たとえお経を読んでいても真の人間形成をとげる事は出来ない」と申されました。

蓮如上人の御文には、「信心決定」とおっしゃっています。真宗は在家の仏教ですから、家庭の業も、今日の業も、すべてを引き受けて頂いたところに立たねば、教えは聞こえてきません。真宗の教えは、自利を直接の目的にはしていないのですが、「今日の業」とは、法蔵菩薩は生きとし生けるもの(衆生)の業を引き受けて下さるのが仕事で、私には関係ない事、関心を寄せる必要はないというのでしたら、まともに生きている現代人とはいえません。私たちは、新聞やテレビ、インタ−ネットなどから情報を得て生きています。それらの業を引き受けて教えを聞くことが大乗仏教の聞き方です。
 
曹洞宗、真言宗、聖道門、は総て直接的悟りです。ハッと気がつくと眼が覚める・・・心眼が開く事です。真宗は直観的宗教ではありません。現在では真宗も直観的と考えている人がいるようですが、その人は難行道でしょう。嫁と姑の喧嘩の間に挟まったら、直観的悟りはしぼんでしまいます。家庭の宗教でない事を知らされます。
 蓮如上人の「信心決定」とはどういうことか?つまり、真宗の教えはと何なのかをはっきりしなければなりません。これを「歎異抄」のお言葉にかえしますと、「弥陀五劫恩惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」となります。この聖人のお言葉を実感して受け取る事が出来るのです。「あぁ今日とあんたのおかげで、よくここに来て坐る事が出来ました。ひとえにご恩です。」と感動と深い思いで一杯になるのです。

皆様も私も、ただ今この聴聞の座に坐って合掌と聴聞出来ることも、並々ならぬご苦労の賜物でなくて何でありましょう。それはご恩であり「なるほど」といただくばかりです。このことに気づいたことを、「本願の歴史観」と申されます。「歴史」とは無量寿如来のおはたらき。「観」とは帰命ということ。無量寿如来に帰命したてまつる。と言う意味であります。ハッと気づく事ではありません。「ご苦労がかかった身です」と我が身をいただき、阿弥陀様のお心をいただき、ご恩をいただくことです。これを「信の一念」と申すのであります。「なるほど!」と深くうなずかしめられものが「信心決定」の表向きであります。
 この心から、一切をおかげさまと頂戴していく心から生まれてくるものが、報恩の生活であります。機法一体をお助けという、機法一体なるがゆえに信心が成り立つ。また機法一体である仏のお助けが成り立つ。だから仏様を信ずるその事がお助けの証拠。これを自覚の信心と言います。

長生上人は、「仏法は正しい伝承を持つ世々の先徳(善知識)(師)に出会うことに尽きる」
と日頃話しておられました。これは、本願の歴史観に立つ宗旨です。言い換えれば、如来
の廻向、如来のご苦労を学んで来た・・一言に言えば御恩宗です。この心から一切をおか
げさまと頂戴していく心から報恩の生活であります。
また長生上人は、「内に信心を明らかにする。決して他人に強要してはならない。
本願の歴史観に立てば、外に報恩報謝の生活姿勢が生まれる。」とも言われました。

こうしたお言葉の数々は、私の求道を育てて頂いた大きなご縁になっています。
この小文を、開闡院釈純宏長生上人五十回忌、開基院阿彌教観法尼に捧げさせて頂きます。

「月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」 法然上人

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