『維摩経』の話 その七          次へ

 デンマークの王子ハムレットは、父王を毒殺した叔父と不倫の母への復讐を父の亡霊に誓いますが、思索的な性格のために悩み、恋人オフィーリアを棄て苦悩の末に復讐を遂げて死にます。その苦悩しているハムレットに、シェークスピアは[To be,or not to be: that is the question.(生きているか、死んでしまうか、そこが問題だ)]といわせています。

 この生きることと死ぬことというのは、相対立するものとして、どちらかを選択するさいに、葛藤があって当然と普通は考えます。この他、悟りと迷い、善と悪、理想と現実、右と左、戦争と平和などというように、相対立すると考えられるものは数多くあります。

 ところが、大乗仏教では、それらを対立するものとしてとらえません。二つの対立観念は、本来二つではないという考え方なのです。それを「不二の法門」といいます。舎利弗が林の中で坐禅をしていたときに、維摩から指摘されたときのことを思い出していただきましょう。悟りというものは、俗世間から離れた別のところにあるのではなく、善も悪も同居する雑多な現実世界にあって見いだすべきだとする立場をとります。よって、この「不二」と、物事は本来実体のないものでそれにとらわれてはいけないとする「空」とは、同義であると考えられます。つまり、「不二の法門」は大乗仏教の根幹をなす教えということができます。

 さて、場面は維摩の自宅です。このドラマは終盤に近づいています。維摩は居並ぶ菩薩たちに、「菩薩が不二の法門に入るとはどういうことか、おのおのの見解を述べてほしい」と要請します。それぞれの菩薩に対して、「証得(悟り)とは何か」、「仏教とは何か」を問うているわけです。これまで学習したことについて、あたかも、口述試験をしているかのような場面です。

 最初に立ち上がって答えたのは、法自在菩薩でした。
 「みなさん。私は、ものの在り方を、生と滅の二つに分けます。ところが、ものはもともと不生であるから、滅することもありません。つまり、ものは不生であるという確信を得ること、これが、不二の法門に入るということです。」

 次いで、垢(汚れ)と浄、善と不善、罪と福、有漏(煩悩があること)と無漏(煩悩がないこと)、生死(迷いの世界)と涅槃(悟りの世界)、我と無我、明(智慧)と無明(無智)など、次々に多くの菩薩がそれぞれの見解を説き終わった後、彼らは文殊菩薩にも同じように見解を求めました。

 文殊は答えます。
 「私の見解では、すべてのことがらは、ことばもなく、説明もできず、指示することも意識することもできず、すべての相互の問答を超えています。これが不二の法門に入ることです」と。

 文殊からすれば、先に述べた菩薩たちの見解は、不二の「二」にこだわり、とらわれているといいたかったのでしょう。そして、そう答えてから文殊は、「私たちはすべて、各自が思うことを述べ終わりました。維摩よ、さあ、あなたがお説きになる番です。不二の法門に入るとはどういうことなのですか」と問いかけます。

 ところが、あれほど雄弁であった維摩が、この質問には、沈黙して口を開きませんでした。まさに、ここがこの経典のハイライトで、文殊は説明できないといい、維摩は沈黙によって、不二の法門の境地を示したわけです。

 シェークスピアは多くの戯曲を残しています。四大悲劇といわれる『ハムレット』、『オセロ』、『リア王』、『マクベス』、そしてあの『ロミオとジュリエット』。悲劇は、舞台で見るのはいいですが、我が身の悲劇は、ただ惨劇です。生きるべきか、死ぬべきかではなく、不二の法門に入る努力をせねばなりません。しかし、われわれ凡人には、文殊や維摩の域はとても無理で、先ずは、不二の「二」にこだわるところから始めることが肝要のようです。

 南無阿弥陀 ほとけの御名と思いしに 唱うる人の姿なりけり (派祖 西山上人御歌)   (つづく)(98/8)

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