『維摩経』の話 その八          もどる

 以前、私が中学の教員をしていたころのことです。

 校内暴力の真直中でした。あまりに素行の悪い生徒がいて、それに同調する生徒も出てきたりして、その対応に大いに苦慮していました。何度も職員会がもたれ、カウンセラーの専門家を呼び、講習会を開いたりして、いろいろな手段がとられましたが、いっこうに解決のめどが立たず、むしろ悪化の一途をたどっていくばかりでした。そんなとき、職員のだれからともなく出てきたのが、腐ったリンゴの譬えでした。リンゴ箱の中に、ひとつの腐ったリンゴがあると、全部が傷んでしまうというあれです。

 早くにその一個を取り出さないと、取り返しのつかないことになる。つまり、悪の張本人を、早急に何とかしなければならないという論議が、大真面目でなされた経験があります。今は現場から離れ、客観的に第三者の立場で判断できるものですから、生徒とはいえ、一人の人間を腐ったリンゴに譬えることなぞもっての外だと思えるのですが、当時は、本当に真剣でした。教育の現場が、物も心も荒み、さながら戦場のようでしたから。

 これは私自身の体験ですが、このようなことは、長い人生の中で、存外多くあるものではないでしょうか。

 車の窓から、火のついたタバコを平気で投げ捨てていくヤツ。面と向かってはお上手いって、陰ではさんざん悪口をいうヤツ。世の中に、ようもこんな恥知らずで悪いヤツがいたものだ。そんなヤツ、あんなヤツに出会ったとき、私どもの精神状態は、尋常ではなくなります。どうすればよいのでしょう。最後となりますが、維摩の智慧にあずかりましょう。

 いよいよ『維摩経』の終盤にあたって、維摩のふるさとが明かされます。舎利弗の問いに対して、ブッダが答えます。

 「妙喜という仏国土があって、その国土のブッダを無動(阿@・アクショービャ)という。この維摩はかの妙喜国で死んで、この娑婆世界に生まれてきたのである。」

 ここで娑婆というのは、サンスクリット語を音写したもので、われわれが住んでいる世界のことをいいます。その語義は「忍耐」です。西方極楽世界や東方浄瑠璃世界などとは違って、娑婆世界は汚辱と苦しみに満ちた穢土であるところから、「忍土」とも漢訳されています。そこで、維摩は、かの浄らかな仏国土を捨てて、選りにも選って、この煩悩や汚れに満ちた娑婆世界に、なぜ生来したのかという疑問が出てきます。

 維摩は、舎利弗に答えます。

 「太陽が、この大陸に現れるのは、暗闇と合するためではなく、明るく照らすことによって、暗闇を除こうとするためである。菩薩もそれと同じである。汚れた仏国土に生まれてくるけれど、それは人々を導くためであって、愚かな迷いの暗闇に合するためではない。ただ人々の煩悩の闇をなくそうとするためだけである。」

 これまでにも、大乗の菩薩が、この世のありとあらゆる人々と同じ姿を現し、人々と同じ立場で考え行動して、ついに人々に悟りを求める心を起こさせる存在であることが、この経典にはしばしば説かれてきました。さすれば、あの恥知らずで私を悩ます不逞の輩こそ、維摩であるかもしれないのです。そう、私が、どのような対応をするのかを試しているのかもしれません。

 私たちは、さまざまな場面で、さまざまな人たちと出会いますが、いろいろな場面々々で、維摩に試されているのだと考えると、嫌なヤツへの思いも、どれほどか変わってくるのではないでしょうか。また、一つ一つの出会いを大切にした生き方ができるようになるのではないでしょうか。

 そして、維摩は、弥勒菩薩にこの経典の教えを未来に向けて広めていくよう委嘱し、壮大なドラマの幕が閉じられます。

 たまたま書店で手にとった『維摩経』に感動をし、皆様と共に学んできましたが、今回をもって最終とさせていただきます。伝達をする側が未熟なもので、十分にはお伝えできなかったかもしれませんが、これからの研究の一助としていただければ幸いです。(おわり)(98/09)

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