『維摩経』の話 その六          次へ

 お年を召した方から、一年一年、年を追う毎に、時の流れが速く感じられるというような意味のことをよく伺います。一日は二十四時間、一年は三百六十五日、この事実は変わろうはずがないのに、なぜそのように感じられるのでしょうか。

 ある人から聞いた話です。それは、たとえば二十歳の人であれば、その人の全生涯である二十年間分の一、七十歳の人であれば、七十年間分の一が、その人の一年間としてとらえられるからだというのです。たしかに、そうかもしれません。しかし、私自身が、今年五十歳という節目を迎え、これとは逆の今までにはなかった一つの感情が生まれていることに気がつきました。それは、そう早くに時間が、月日が過ぎていって欲しくはないという感情です。

 つい半世紀前までは、人生五十年といわれていました。そのことを思うと、人生のゴールの予測をせねばならないところまで来てしまったということでしょう。マラソンであれば、ゴールに向けて一直線にというところでしょうが、人生の場合はそうはいきません。後は、ブラブラ行きたいと思うのが人情というものです。

 この思いは、おそらく、年を追う毎に強くなると思われます。まして、病にあって、ゴールがもうそこに見えるところまで来ていると自覚した場合、心は千々に乱れ、複雑に交錯するでしょう。自分からは「この病気は死ねば治る」とはいってはみるものの、他人からは間違ってもいって欲しくはないでしょう。そこで、だれもが通過しなくてはならない、人生にとってのこの一大事を迎えたときの智慧を、維摩に聞いてみることにいたします。

 思い出していただきましょう。ブッダは、病気の維摩を見舞うように十大弟子、次いで四菩薩に命じられましたが、それぞれが辞退し、最後に「智慧の文殊」といわれる文殊師利菩薩が、引き受けることになりました。その文殊菩薩が、維摩に「病気にかかっている菩薩を、どのように慰め、どのように励ませばよいか」と問うたときのことです。(ここでの菩薩は、病にある人、あるいは、病にある自分と置き換えて読んでみてください。)

 病気の菩薩(人)に対して、この身が老い、病み、やがて死ぬものであると説いてもよいが、この身を厭い、離れよと説いてはならない。この身は苦であると説いてもよいが、涅槃(死)を願うように説いてはならない。この身が無我であると説いても、衆生(人)を教え導くように説かなければならない。この身は空寂であると説いても、寂滅と説いてはならない。先につくった罪を悔いるようにと説いても、すでに過去のものとなったと説いてはならない。

 自分の病気から推して、他人の病気を思いやり、無限の過去からの苦悩を認識しなければならない。一切衆生に利益を与えようと念じ、これまでつとめた福徳を思い、清らかでいようと念じなくてはならない。病気だからといって、いたずらに憂い悩んではいけない。常に精進努力して、すぐれた医者となって、病んでいる人たちを療治してあげなくてはいけない。

 菩薩は、このように病気の菩薩を慰め励まして、喜ばせなくてはいけない。

 さて、いかがでありましょう。まさに、「目から鱗」の思いがいたします。私なりに解釈さてもらえば、次のようになるのではないでしょうか。

 病気の苦しみから、早く死にたいなど考えてはいけません。自分の病気は、過去の悪業の報いだなどと考えて、いたずらに憂い悩んではなりません。病人然としていてはいけないのです。むしろ、病気なるが故に、同じ苦しみを持つ人たちと共感しあえることを喜ばなくてはなりません。さらには、自らが病気であるからこそ身につけることができた智慧を生かして、同じように病んで苦しんでいる人を治してあげようという意気込みを持つべきです──。

 そう、この心こそ菩薩の「大悲」であります。そして、だれしもが、この菩薩であるとの自覚を持ちえたら、と思うのであります。(つづく)(98/07)

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