『維摩経』の話 その四          次へ

 覚えていらっしゃいますでしょうか。栃木の中学校の女性教師が、生徒にバタフライナイフで刺殺された事件は、今年の一月二十八日のことでした。教育の現場で起きる事件としては、これほどショッキングな事件はありませんでした。その後も、バタフライナイフによる暴力事件が全国規模で広がりを見せていましたが、文相による命の尊さを訴える異例の緊急アピールがあったりして、三ヶ月ほどたった現在、どうやら沈静化してきているかにみえます。

 しかし、これに類する子供の周辺の病理現象は、二十数年前から見え始めており、昭和五十年代に「落ちこぼれ」「校内暴力」、六十年代には「いじめ」「不登校」などが問題化しておりました。ところが、いずれもが、例えば、平成六年の大河内清輝君事件(いじめによる自殺)とか、今回のような象徴的な事件をピークに表面上は沈静化したと思いきや、しばらくすると、またとんでもない事件が再発するというように、その繰り返しになっています。しかも、すべての問題は、統計的には何一つ解決されることなく、依然として増え続けているというのが現状のようです。

 わたしも、同年代の子供を持つ親として、昭和五十年代の校内暴力まっただ中の時代に教職にあったものとして、子供たちの問題行動に対しては、つい敏感に反応してしまうほうです。それで、もし、維摩であったら、このような問題に、どう対処されるであろうかと、考えてみたわけであります。

 富楼那(プンナ)という仏弟子がいました。彼は、弁舌巧みな布教者でした。あるとき、気性が荒々しく、粗暴だといわれる地方へ布教に行くことになりました。旅立ちにあたり、ブッダが質問しました。

 「富楼那よ、その地の人々にののしられたり、あざけられたりしたらどうするつもりか?」

 「世尊よ、『この国の人たちは、私を手をあげて打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」

 「富楼那よ、手をあげてお前を打ったらどうするつもりか?」

 「世尊よ、『この国の人たちは、私を棒で打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」

 ……鞭と刀の場合は略……

 「富楼那よ、その地の人々がお前を殺したら、どうするつもりか?」

 「世尊よ、『世の中には自ら命を絶つものもあり、誰か自分を殺してくれないかと願うものさえいる。願わなくとも殺してくれた』と思うことでしょう」

 これは、原始仏教聖典である『阿含経』の一部『相応部経典』にある一節です。辺境の地での布教は、これほどの覚悟が必要だったということでしょう。維摩は、この富楼那にも痛烈な批判を加えています。

 「いくら命がけであるからといって、決まり切った伝統的な教えを一方的に説いていても意味がない。説法を聞こうとしている人々、とくに新たに仏門に入った人々には、その心をよく見極めてから教えを説くべきである。

 汝は、人それぞれの個性が見えていない。これから学ぼうとしている人々は、まさに宝の器であり、その器に、穢れた食物、つまり型にはまった陳腐な教えを入れてはならない」というのです。

 話を戻します。被害に遭われた女性教師には申し訳ないのですが、彼女は、まさに維摩が指摘する、加害者である生徒に陳腐な教えを説くのみで、生徒の心が見えていなかったのでしょう。

 家庭内暴力に堪えかねて、金属バットで中学三年長男を殺害した父親に対して、東京地裁は、「悲惨な結末を回避する努力の余地あった」として、懲役三年(求刑五年)の実刑判決を言い渡したと、四月十七日の夕刊が報じておりました。

 この父親にも、維摩であれば、きっと同じように叱責することでしょう。子供の自主性を尊重するというのは、親や教師の手抜きの言い逃れに過ぎません。子供の個性を知る努力、教え導く努力に手抜きがあってはなりません。(つづく

(98/05)

もどる