『維摩経』の話 その三          次へ

 娘の通う小学校の卒業記念号の学校新聞を見せてもらいました。あるクラスでは、「もしドラえもんがいたら」ということで、卒業生の一人一人の一言ずつが載せてありました。その言葉のほとんどは、ドラえもんの四次元ポケットから、夢を叶えてくれる「いろいろな道具を出してもらう」に近いものでした。もし、私が同じ質問をされたとしても、おそらく、同じように、どこへでも、開けたところが目的地になるという「どこでもドア」を出して欲しいといっていたに違いありません。

 ところが、一人の女の子だけはちょっと違っていました。「いっしょにドラ焼きを食べたい」とあったのです。これを見て、覚えず笑ってしまったのですが、しばらくして、これは笑ってすますことではないかなと思えてきました。ドラえもんが、自分たちに幸せをもたらせてくれる存在であるとしたら、多くの子は物質的なものにそれを求めようとしているのに対し、この女の子一人、精神的なものにそれを求めようとしており、そこには大きな違いがあるように思えたからです。

 先年、原作者は亡くなられましたが、『ドラえもん』は、現在もテレビで毎週放映されていますし、世界各国語にも翻訳されていて、世界的に見ても非常に人気の高いマンガキャラクターです。人気の秘密は、不思議なポケットから出す道具で、さまざまな夢を実現してくれるのですが、少しドジで、人間と同じように笑い、怒り、悩み、悲しみ、そして泣き、二十二世紀からやってきたロボットという設定にもかかわらず、とても人間臭いところにあるのではないかと思われます。

 本題に戻ります。『維摩経』を読んでおりました。第一幕第二場に相当する「方便品」に、初めて主人公の維摩が登場します。その人物像を、かいつまんで拾い出してみましょう。

 維摩は、裕福な資産家で、在家の仏道者で、すでに悟りを得ている。弁舌が巧みで、神通にも秀でている。その資産は量り知れなく、貧しい人には施し、節制のできない人には節制を教えている。腹を立てている人には辛抱を、怠惰な者には努力精進をすすめている。

 在家者でありながら、出家者と同じ戒律を守り、家族があっても、欲に執着することがない。賭博場、遊技場、遊郭、酒場のようなところにも出入りし、そのたびに人を救っている。

 いかがでしょうか。維摩をよりにもよって、ドラえもんというマンガのキャラクターにたとえては申し訳ありませんが、その生き方には、多くの共通点があるように思えます。共に泣き、共に笑い、いろいろな方便でもって、人々に救いを与えてくれるというところは、まさにドラえもんです。

 ところで、いきなり維摩は、病気の状態で登場します。最近の経済不安、青少年の凶悪犯罪、日銀や大蔵官僚の不祥事、維摩ならずとも、まともに考えていたら病気になりそうですが、実は、これも維摩の方便なのです。自分自身の病気にことよせて、人々を導く手段としているのです。

 第一幕第三場「弟子品」第四場「菩薩品」で、仏弟子の中でも特に優等生のものたちや名だたる菩薩たちが、ブッダから、維摩を見舞うように命じられます。最初に指名を受けたのは、智慧第一といわれた、舎利弗でした。ところが、舎利弗は、「維摩居士のところ行くことだけは許していただきたい」というのです。弁解の理由はこうです。

 あるとき、林の中で坐禅をしていたときです。維摩がやってきて、「坐禅とは、林の中だけでするものではない。日常の振る舞い、世間のつとめを果たしながら、悟りへの道を実践するのが本当の坐禅である」といわれ、返す言葉がなかったというのです。

 つまり、俗世間から離れるのではなく、むしろ、積極的にかかわる中で、より高い宗教的境地を求めよというわけです。(つづく)(98/04)

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