『維摩経』の話 その二          次へ

 経典の解説は、どうしても堅くなりがちで申し訳ありませんが、しばらくお付き合いをお願いいたします。

 この『維摩経』は、三幕十四場のドラマのように展開されています。
 第一幕、最初の舞台となるところは、ヴァイシャーリーの郊外にあるアームラパーリー園で、ブッダを囲んでの会座、つまり、この部分はプロローグにあたります。

 第二幕、次の舞台となるのが、同じ都市ヴァイシャーリーにある主人公の維摩の自宅で、この経典での中心部分です。

 第三幕、エピローグは、再びアームラパーリー園で、ブッダを囲んでの会座がその舞台となります。

 では、いよいよドラマの幕開けとまいりましょう。

 経典の一つの形式である「如是我聞」(このように私は聞いています)で始まる第一幕第一場では、まだ維摩は登場いたしません。仏弟子・菩薩・守護神・宝積という長者とその友人たちなど、多彩な顔ぶれが登場してきますが、この場面での主役は宝積で、この経典の骨格をなす重要なテーマが問題提起されます。

 宝積というのは、そこの土地の富豪の子で、五百人もの若者たちを連れて登場します。その登場の仕方が、とても象徴的です。

 金・銀・宝石で飾った傘蓋(かさ)をそれぞれ手に持ち、ブッダのもとにやってくるのです。そして、ブッダに最上の敬意を表した後、おのおのの傘蓋をブッダに捧げます。すると、ブッダは法力によって、それらを一つの巨大な傘蓋とし、宇宙(三千大千世界)のすべてを覆ってしまいます。そして、その傘蓋の中に、あっちの世界、こっちの世界(総数十億もの世界)と、それぞれの世界の山河、太陽・月・星、さらには、他の宇宙で説法をしているそれぞれのブッダ(十方の諸仏)の姿までも現ぜられたのです。

 この不思議な現象に、説法の座にいたものは、感嘆をし、合掌し、ブッダの尊顔を食い入るように見つめます。

 ところで、大乗経典の場合、このような表現に出会ったとき、キリスト教における神が行う奇跡と同じようにとらえてはいけません。比喩としてとらえ、そこにこめられたブッダの心を読みとることが必要です。

 ここの場合、個々の異なった傘が、一つの大きな傘に収まってしまったということは、人間関係、異民族、異宗教、そのような間での対立や抗争のない、すべてが共生できる世界、それが仏の世界、すなわち理想世界であるととらえることが大切です。そう考えると、次の宝積のブッダへの問いが、生きてくるからです。

 宝積は、ブッダの徳を讃えた後、どうしたら菩薩の清浄な仏国土の建設ができるかを問いかけます。これに対してブッダの答えは意外なものでした。

 「菩薩の仏国土というのは、衆生の国土のことである」というのです。すなわち、理想世界はどこか遠くにあるのではなく、私たち生きとし生けるものが住むこの社会がそうだというのです。

 ここでの菩薩というのは、ブッダの慈悲の教えを実践しようという意識を持った者をいいますから、その意識を浄らかにしていくこと、つまりは、私たちの国土を浄らかにしていくことが、清浄な仏国土の建設になるというわけです。

 ブッダが、このように宝積に答えられたところで、仏弟子の舎利弗に、一つの疑問が生まれます。「清浄であるブッダがおられるこの仏国土が、なぜ不浄に見えるのか」という疑問です。

 この疑問に対してブッダは、法力で、即座に数百千のすぐれた宝で飾られた三千大千世界を現ぜられ、「この清浄な世界が不浄に見えるのは、見る者の心が汚れているからだ」と答えられたのです。(以下略)

 「仏土はどこまでも衆生の生きざまにある」というこのテーマは、『維摩経』の基調となる立場であります。なれば、環境汚染、青少年の凶悪犯罪、官僚の汚職事件等、最近、世の中が不浄に見えるのは、私自身の心が不浄だからに違いありません。(つづく)(98/03)

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