『維摩経』の話  その一         次へ

 恥ずかしいことですが、私ども仏教に携わっておりましても、読む聖典は限られておりまして、宗派と直接関連しない聖典に目を通すということは少ないものです。ただ、ここで仏教聖典というのは、経典(経)と戒律(律)、それらの解説書や教義書(論)の三つ(三蔵)をひっくるめたもののことで、その集大成したものを『大蔵経』とも『一切経』ともいい、何種類か流布しておりますが、いちばん大部な『大正新脩大蔵経』の場合、電話帳ほどもある分厚いのが実に百巻にも及び、そう簡単に読破できるものではありません。

 もうひとつ言い訳めいたことを申せば、浄土系の宗派におきましては、法然上人の「知者の振る舞いをせずして、ただいっこうに念仏すべし」のことばにもあるように、ただ阿弥陀如来に対する信仰心を重視しているところから、宗派関連外の教えを余乗といって、むしろ排除する傾向にあります。浄土真宗系においては、特にその傾向が強く、あの『般若心経』すら読むことを避けています。

 概して日本仏教の場合、いわゆる、空海・法然・親鸞・日蓮・道元といった宗派の祖師を通じての仏教であり、仏教の原典である経典よりも、祖師の著述に重点が置かれます。例えば、親鸞の『教行信証』、道元の『正法眼蔵』、我が宗派では、法然の『撰択本願念仏集』や善導の『観経疏』等の五部九巻が必読の聖典となっているがごとくであります。

 そんなこともありまして、私としてはこれまで経典といえば、『浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)』と『般若心経』くらいがその守備範囲でしたが、たまたまこのたび『維摩経』に出会って、少なからずカルチャーショックを受けたのであります。

 『維摩経』というのは、あの聖徳太子が、『勝鬘経』『法華経』と共に、一般に「三経義疏」といわれる註釈書を著されており、中学校の歴史の時間に出てくるほどなじみ深い経典の一つであるはずなのに、前述のような理由から、これまで縁がありませんでした。それが、思いがけなく書店で見つけたその解説書の裏表紙には、美しい口絵と共に、次のように書かれていたのです。

 『維摩経』の理想とする菩薩は、不可思議解脱と呼ばれるさとりの境地に達している。この境地にある菩薩の本領は、現実社会の中にあって、さまざまな姿に身を変え、もっぱら自他行を行うことである。在家の居士維摩はその代表であり、彼は必要とあれば魔界にも入る。私たちの前に現れて、力量を試すことさえある。もし街角であなたに道をたずねる人がいたら、それは維摩であるかもしれない。

 これは東洋大学菅沼晃教授によるものですが、何とも挑発的な文章ではありませんか。『維摩経』は、大乗経典の中でも際だった特色を持っています。大乗というのは、大きな乗り物という意味がありますので、それこそ、少しでも多くの人と、この誘いに乗って『維摩経』の世界へ旅に出てみようと思うのであります。

 今回は、最初ですので、どういったところがユニークなのかを紹介させていただきます。

 まず驚くのが、普通の経典であればブッダの説法が中心であるのに、ここでは、維摩居士、すなわち、居士とは、出家者ではなく、在家にありながら仏道に帰依している人が主人公であるという点です。

 ある時、維摩が病気になります。ブッダは、弟子たちに見舞いに行くようにいうのですが、だれひとり行こうとしません。実は、維摩の病気は、衆生が病んでいるから自分も病んでいるのであり、衆生が治れば自分も治るという心の病気なのです。しかも、弟子たちは、以前にこっぴどくやり込められているので、行こうにも行けないわけです。

 ついには、智慧の代表格である文殊菩薩が見舞いを引き受けることになります。それならばと、多くの弟子や菩薩たちも同行します。いったいどうなるかと興味津々。かくして、維摩と文殊の問答が始まります。

 という具合に、ドラマ仕立てになっているんですね。(つづく)(98/02)