「最近の事」過去ログ'12.4月〜'12.7月
「日替わりって何?」'12.7/30
インド料理店のランチに出かけたら、
斜め前のテーブルに家族連れのみなさんがやって来た。
メニューを見ながら小さな子供が、お母さんに質問をする。
「ねえ、この日替わりって何?」
お母さんはすぐに質問の意味がわかったらしく、
「日替わりってね、毎日毎日、違うメニューにすることなの」
「ふーん」
さて、子供はわかったのか、いまひとつわからなかったのか。
しかし考えてみれば、僕らの生活というのも、
実は「日替わり」なのではないか。
子供らにとっては、毎日が考える事もなく、
「日替わり」の毎日。
それが当たり前なのだ。
子供らが僕らにきく。
「ねえ、日替わりって何?」
「食品スーパーでかかっている西洋の歌」'12.7/28
安い食品スーパーに寄ることも多いのだが、
大手のそのスーパーでは、洋楽がいつも流れている。
意外と、どの曲も良い。誰が歌っているかはわからないのだが。
イギリスの新人グループだろうか。
次々と歌が変わるのだが、それなりにやっぱり良い。
それにしても、大手スーパーにしては渋い選曲だ。
メジャーではないかもしれないが、
中身で勝負。良いものは良い。
そんなメッセージが伝わってくる。
考えてみれば、、スーパーマーケットでかかる音楽は、
最近のヒット曲とか、軽やかなインストゥルメンタルが多かった気がする。
それは、気分的なもので、何かの発見ではなかったであろう。
今日スーパーで聞いた歌は、本当にどれも良かった。
素晴らしい選曲であった。
今や買い物をしている人、50代60代の人たちはみんな、
ロックや洋楽が聴ける人たちであろう。問題はない。
大手食品スーパーで、素晴らしい楽曲に出会えるなんて、
ちょっとした革命ですよ。
「畑仕事をせにゃならん」'12.7/26
どんなやり方があるのか、よくわからないのだが、
やっぱり、収穫をするには、種をまき、水をやり、、
そうやって畑仕事をしなくちゃと思う。
ちょっと町道から離れて、一人もくもくと。
最近流行の、ちょこちょこと画面でさわると、
いろんな人の言葉が出てきたりするものもある。
とてもそれに忙しい人もいる。
それさえあればという人も、きっといるだろう。
そこにすべてあると言う人もいるだろう。
でも、やっぱり種をまき、水をやり、
畑仕事をせにゃならん。
収穫は、そこにあるだろう。
「11分」'12.7/24
友だちが、NHKの地方放送に、
11分間、特集放送された。
だいたいの放送時間を知っていたので、
実際のテレビは観ることはできないが、関東にいて、
そのテレビをイメージで予想した。
11分間って、長いかな・・。
そんなふうに思っていたら、あっというまに
11分間はたってしまった。
いつもどおりの11分であった。
これがテレビで観ていたら、もっと長く感じていただろうか。
それでもやっぱり、11分は11分だったかもしれないな。
その11分は、どんな11分だったのだろう。
観ているうちに、あれよあれよと11分たったのだろうか。
その反対であったろうか。
「詞になるノート」'12.7/22
とある有名シンガーさんの、手書きの歌詞を見た。
その文字はどれもむ生き生きとしていて、踊っているようでもあった。
いや、踊っているというより、唄っているという感じかな。
歌詞が歌詞になっていた。
以前にも同じような歌詞の文字を見たことがあった。
その人は、厚いノートに直接、歌詞を書いていった。
ほぼそれで出来上がりのように。
文字を書いてゆくと自然に歌詞や詩になるようなそんなノートがあったらいいな。
そのノートに向かうと、歌詞だけが書けてしまうような。
インクペンの文字が書くとにじんで歌詞に変わってゆくような。
そんな「詞になるノート」があるといいな。
ソングライティングをしてるいる人たちには、
実際に持っている人も多いだろう。
昔むかしヨーロッパで羽根ペン、日本で筆だった頃は、
そういうノートは今より多くあったであろう。
僕も見つけねばならない。
「うたもどり」'12.7/20
'80年代最初の頃、
僕はフォークが好きであったけれど、
フォークが嫌いでもあった。
人生を語るような唄は苦手であった。
耳にはりつくような歌詞は苦手であった。
実は好きなのだが・・
なんとか、言葉をもういちど生き生きと復活させたかった。
唄をフォークの呪縛から、解き放ちたかった。
あれから30年。今では何でもありの歌詞になった。
古いフォークの唄も生き生きと歌われている。
誰も歌詞が古いだとか、言う人もいない。
唄はもういつのまにか戻って来ている。
それでいいのかなと、自問自答中。
「ステージ活動」'12.7/18
先日観たフォークの大御所のライブはなかなかのものであった。
ひとつの時間の中、みんなを和ませ、笑わせ、そして唄に集中させてくれた。
さすがに長いこと、歌い続けているだけのことはある。
その彼が「ステージ活動」という言葉を使った。
音楽活動、ライブ活動ではなく、ステージ活動だ。
言われてみると、その人は毎晩、ステージ活動をしているのかもしれない。
ひとつの時間の中、みんなを和ませ、笑わせ、そして唄に集中させ、、。
まさに言葉どおりだ。途中のトークも、ステージ活動。
僕なんかは、やっぱり音楽活動かな。
エンターテナーとはいえないな。
「タイポップスを聞く」'12.7/15
最近よくタイ料理店に入るが、
かかっているポップスについ耳をうばわれてしまう。
どれもバンドサウンドになっているが、
メロディもサウンドもボーカルも、それなりに良い感じで、
なんだが名曲になってもよいような気もしてくる。
印象的にはアメリカのポップスに近いのかな。
次々にかかる歌は、どれも印象がしっかりとしていて、
味わいも深い。思うに、プロといわれる人たちが音の仕上げをしているのかな。
あのくらいのグレードのアルバムであれば、買って失敗ということはなく、
何度も何年間も一枚のアルバムを楽しめるであろう。
それがプロの仕事なのかな。買って損をさせないグレードということ。
しかし、僕にはどれも同じようにも聞こえる。
どこかで聞いたことがあるような。
日本のポップスでもそうだが、アメリカンな感じがする。
アメリカンというか、世界共通ヒットサウンドというか。
なぜなんだろうなぁ。遠く離れた異国のはずなのに。
独自のサウンドがもうちょっと生まれてもいいのにな。
「なんとなく美しくて切ない出来事」'12.7/13
高円寺から新宿、そしてお茶の水から秋葉原、
浅草橋から両国そして錦糸町・・
僕にとって総武線はなじみ深い。以前の仕事の事務所が両国にあり、
20年ほど通った。ここ二年はその手前の秋葉原で日比谷線で乗り換えているが。
今朝は、とても眠かった。
高円寺から総武線に乗って、いしつか眠ってしまった。
普通なら秋葉原で降りるのだが、
はっと目が覚めると、そこはふたつ先の両国駅であった。
たぶん「りょうごくー、りょうごくー」のアナウンスに体が反応したのだ。
2年前だったら、ラッキーだとか言って降りただろうに。
なんとなく美しくて切ない出来事。
「スペック」'12.7/11
先日、エンジニアの人が話の中で、
「スペックを何段階か作って・・」みたいな話をしていた。
「スペック」とは、英語では仕様書の意味があるが、日本語だと「性能」という意味に使われる。
そのエンジニアの人は新製品のパソコンのスペックについて話していた。
スペックをいくつか作ると。
そうなんだよね。パソコンのシリーズには、
グレードが高いものから、買い求め安くなっている物まで何段階か出る。
性能が少しおとるけれど、手の届く値段になっているものも出る。
エンジニアであったなら、最高の品をひとつ作ればいいのかなと思うけれど、
性能のおとるものも用意する。
考えてみれば、そのおかげでずんぶんと助かっている。
「お得弁当」「定番弁当」「デラックス弁当」みたいなものか。
「性能をおとして、安価ものも用意しておく」
最近の僕の傾向としたら、少しでも性能のいいものを買うという方向にあるが、
たしかに、財布事情がきびしいときは、グレードの落ちるものを買うことがある。
それで助かるときも多い。
それらのものは、外見はほぼ同じことが多い。
外見は同じで、お買い求め安いものを作る。
そういう考え方が僕には抜けていたと思えた。
でも、それは大事なことだと今はわかる。
「そんな名言」'12.7/8
古いビデオテープを整理していて、
「アメリカンギターズ」というシリーズものの映像のビデオが出て来た。
1993年に深夜のテレビ放送で、アメリカの有名ギターメーカーを紹介してゆくという番組。
以前より、何度も見ているが、昨日も観てしまった。
ギブソン社・マーチン社・フェンダー社・・etc
ギターメーカーの職人さんの話や、カンパニーの代表している人の話、
使用しているミュージシャンのインタビューなどもおさめられている。
マーチン社の回には、こんな話があった。
・・よく古いギターの価値はどのくらいときかれるが、その返答に困る、、
だって、マーチン社は中古ギター屋じゃないからね・・
・・まず音を決めてから、それに合うボデイを造る、、
ずっとそうやってやってきたんだ・・
このふたつの話をきいただけでも、僕なんか、うーん、なるほど、とうなってしまう。
なんと含蓄深い話、、。
そんなふうに感心するのもきっと、それは僕がギターが好きだからだ。
ギブソン社のインタービューのときも、どの話にも、感心をした。
工場長の話はとくに、じーんと来る。話が深い。
それらは30分番組ではあるけれど、とても濃厚に感じられた。
それも人生にとって大事な話ばかりのように感じられた。
そうか、そうなんだ。
僕自身がギターが好きだからこそ、それらの話が伝わってくるのだ。
たぶん、ギターにそれほど興味のない人にとっては、
ギターの話に聞こえるんだ。
それが僕には人生の話に聞こえる。
「インドで会った人」'12.7/5
昨日は午後にバナナを六本食べた。
お腹がふくれるかなと思ったが、普通に夜にはすいてきた。
もう初夏の天気。その暑さの中、バナナを食べていたら、
インドで出会った日本の青年ことを思いだした。
その人とは、北インドの聖地、バラナシ(ベナレス)で出会った。
まだ僕がベナレスに着いて、一週間くらいたった頃、
ガンジス河のかわぞいを歩いていたら、ひとりの日本の髭の青年がコンクリートに座っていた。
「こんにちはー」「こんにちはー」
話をきけば、大学の卒業旅行でインドに来て、このベナレスにもう一ヶ月いるのだという。
その風貌は、あご髭をたくわえていて、本格的な自由旅行者のようであった。
この一ヶ月の間に、一度お腹を壊して寝込んだことがあり、そのときバナナだけで過ごしたのだという。
「えっ、バナナだけ??」
「聞いた話だと、バナナは栄養がありすぎるらしいですよ」
「へえーっ」
僕が「バラナシって、もしかしたらすごい街なんじゃないですかね、聖地と言われているし、
宗教の街かもしれないですね」って言うと、
そして彼は言った。
「あなたもそう思いますか。バラナシには何かあると僕は思うんです。
その何かが見えるまで居ようかなと思っているんです」
そんな会話が河沿いのコンクリートのところであった。
僕はそのあと、ひと月間、バラナシに居た。
彼は結局、三ヶ月近くそのバラナシに居たと聞いた。
僕は今でも、その彼のことが忘れられない。
何かあると感じて、その街にいようとした彼を。
僕もひと月であったけれど、バラナシを歩いた。
忘れがたい出会いも多かった.。
彼は、その何かを見つけたのであろうか。
「道場破門」'12.7/3
「おまえは道場、破門じゃあー!!」
そう一喝された弟子がいた。
その弟子はちょっと悪ふざけが過ぎたのだ。
しかし、その弟子は幸せなもので、自分がそう思うと
回りもそうではないかと思ってしまうところがあった。
数ヶ月がたった頃、その弟子はすっかり心もやわらぎ、
師匠の心も今は、ちょっと怒りすぎたかなぁと思っていると思えてきた。
でも師匠は破門と言った手前、弟子に戻ってこいとは、言いずらいだろうと。
もうそろそろ自分を許してくれるだろうと思えた。
ある月のお疲れ会の夜、破門された弟子は、師匠が声を掛けやすいように、
そっとお疲れ会の会場に参加して乾杯をしていた。
そこにやって来た師匠。
ほろ酔いになった破門された弟子が「おつかれさまですー」と、ビールグラスを出す。
そこで師匠きはもちろん、こう怒鳴る。
「バカモーーン、誰が許すと言った、今すぐここを出てゆけー!!」
師匠がそう怒鳴るのは当然であろう。
それが道理だ。
しかしその弟子にはわからない。
「人がせっかく・・」とか、ぶつぶつ言っている。
「風流人」'12.7/1
以前はよく俳句の本を持ち歩いたものだった。
好きな俳人は江戸の頃の与謝蕪村。
春・夏・秋・冬と、作品を自分で本にまとめて、
持ち歩いたものだった。
昔から僕らは季節季節を楽しんできた。
あと、年中行事とか。
その頃のニュースは、そういう季節季節の話題が多かったであろう。
最近の僕らの生活と来たら、暑くなったら半袖を着て、
寒くなったらコートを着る。
季節季節の花の変化も風景の一部のようだ。
もう一度、蕪村の俳句を持ち歩こうかな。
季節季節を味わえるように。
風流人、それもいいな。
・・夏河を越すうれしさよ手に草履 蕪村
「千里の道も一曲から」'12.6/29
生みの苦しみというとよく言うが、
今回の新曲も、出来上がるときにかなり苦労した。
出かける時間がせまっていて、もう完成は無理かかなと思ったけれど、
ラスト、かなり集中して歌詞を作っていった。
イメージだけはあった。
作りはじめてから、約ひと月の間、ずっと歌を作っていた。
でも結局、ライブ当日の二時間前は、半分の歌詞しか出来なかった。
それでも完成したのだから、それはそれで良い。
ライブの準備は、ほぼ新曲作りであった。
新曲が出来て嬉しい。その歌をこれから多くの人に伝えられるのだ。
その歌が、新しい道につれてってくれるかもしれない。
このひと月、その歌を作り続けた。それで良い。
「沖縄の音楽ビデオ」'12.6/27
新世界民族音楽大系のビデオの中に沖縄編があり、
先日観ていた。
沖縄には、伝わっているいろいろな歌があり、
それが本当に素晴らしい。
僕の生まれた新潟柏崎にも歌はあるけれど、
それはある程度限られていた。
本当、沖縄は暮らしが歌と踊りとリズムの中にあるんだな。
そういう暮らしがあることが素晴らしい。
歌がまだいろいろと生きている。
僕自身も、そんな人になりたい。
「ふるいひと くろいぼうし」'12.6/25
下北沢へ向かう電車に乗っていると、目の前の男性が、
黒い布の帽子を頭にかぶっていた。服も上下とも黒い。
年は50代半ばくらいか。演劇をやっているようでもあった。
ふと服だけ見ると、若いようにも見えるが、
顔にはしわが多く刻まれていた。
下北沢に向かう電車、その人は腕を組んで座っていた。
あの黒い布の帽子がトレードマークなんだろうなぁ。
そういう人っていますよね。
僕には、その人が10年前も20年前もそうやって腕を組んで乗っていたように見えた。
同じ下北沢へ向かう電車に。
そういうのって いいな。
20年前、30年前、この電車を撮ったフィルムがあるなら、
そこにも同じ格好の人が座っている。
ふるいひと くろいぼうし。
あと10年20年しても、きっと。
「うたの世界」'12.6/23
今、新しい歌を作っているので、
いろいろと、うたの世界と通信をしている。
通信と言っても、実体のないものだが。
創作のミューズにもし電話番号があったら、
電話好きの友達は今夜にでもかけてしまうだろう。
もし、電話番号があったらの話だが。
最近はネットを使い、いろんな友達と同時に通信できたりしている。
やり方はまず、電源を入れ、、。
メールアドレスもない、電話番号もない、住所もない、
それでも何とか、うたの世界と通信をする。
どうやって自分で通信をしているのか 自分でもわからないが。
なんとか自分なりに。
そういう通信もある。
「老舗カレー店」'12.6/21
ふらふらっと老舗のカレー店に入った。
老舗と言っても、30年くらいそのままと言った感じのお店。
70年代80年代の雰囲気が出ていて、どこかの食堂と言ったところ。
おやじさんが一人でやっているようであった。
洗い物をしていてこちらに気が付かない。
やっと気付いて、お冷と一緒に注文をとりに来た。
それでも美味しいカレーが出てくると思った。
二三分して出てきたのは、普通の喫茶店が食べるようなカレーであった。
ごはんもルーも少ない。ルーに具材はない。
これでは、一食になりませんわ。
置いてある雑誌も、かかっている音楽も、おやじさんの趣味のものであると思えた。
味は普通かな。
お冷は冷えていないし、お冷のおかわりもすぐに出来ない。
それでも何十年もやってこれているのだから根強いファンの人も多いのであろう。
量が少なかったというせいもあるが、すぐに食べ終えた。
満腹感はなし。
70年代80年代なら、これでも形になったかもしれないが、
今はカレー専門店と言ったら、もっとガツンとしたカレーがいいかも。
ごちそうさまと言って出てきたが、なおさらお腹がへっていた。
「ちがう電車」'12.6/19
仕事先の駅から、ふたつ乗り換えるのだが、
今夜はウトウトとしてしまって、つい乗り過ごしたと思った。
しかし、もう乗り換えた後であり、乗り過ごすということはなく無事であった。
ちがう電車に乗っていると錯覚したのだ。
それは五駅ほど乗るのだが、ウトウトとしてしまうと、つい乗り過ごしてしまう。
しかし今夜は、乗り過ごしたと思ったら、大丈夫だったのだ。
夢よりも現実の方が強かった。
電車に乗りながら、他の電車に乗っている夢を観る。
可笑しなものさ、安心したり、しなかったり。
電車でウトウトとしたら、電車の夢を観る可能性は高い。
はっと起きる。正夢かと思えば、
ちがう電車。
「涙くん」'12.6/17
ハンバーグ屋さんに入っていたら、
中学生くらいの女の子が、家族の中でこんなことを言った。
「あれは、泣いていたんじゃないよ。涙が出て来たんだ」
ほほう、、それは一理ありますな。
涙に人格を持たせて、涙の方が出て来たのだと。
ワンちゃんが、出て来るように。
泣くという行為は、たしかに自分が泣くというこである。
しかし、涙が出て来たということは、自分の意志ではない。
涙の意志である。
春になり地面から新しい芽が出てくるように。
いつか僕も言ってみたい。
「俺は泣いているんじゃないよ。涙のヤツが出てくるんだ」と。
こんにちは、なみだくん。
「昔ながらの中華屋さん」'12.6/15
下町にある、古くて広めの中華屋さんに入った。
その場所は、まるで時間が止まったようであった。
古いポスターもそのまま、椅子もテーブルも。
立派なテレビ台の上には、液晶テレビが置かれていたが、
他のものは、ほぼ昔のままであろう。
お店はきれいに片付けられている。
入口は少し開けられ、そこから風も入ってきて涼しいくらい。
五目ラーメンを注文した。
待っている間、食べている間に、お年寄りが何人も入ってきた。
老夫婦もやって来た。
昔ながらの中華屋さん。何もかも、昔のまま。
こんな場所があるのもいいものだ。
新しい店だけではなく。
さあ、入ろうかね。
「歌を作るということ」'12.6/13
君は僕が出かけて、
街のどこにいるんだろうと思ったことだろう。
でも、そのとき僕は歌を作っていたんだ。
歌のそばにいたっていうのかな。
それはどこの場所でもないかもしれない。
歌を作っているときっていうのは、
木製の船やボートを作っているようなものだ。
細心の注意で、ボートを作らねばならない。
気を抜けない。
木のつなぎはしっかりしないといけない。
そのボートがしっかり水に浮かぶように。
君は街のどこに僕がいるんだろうと思ったことだろう。
でも、歌のボートを作っていたんだ。
ひとつひとつ丁寧に木を張り合わせて。
「それでは一曲」'12.6/11
ラジオで、テレビでよく聞く言葉。
「それでは一曲、歌ってもらいましょう」
うん、、そんなときは一曲なんだな。
その一曲で、自分を伝えねばならない。
そして自分の時間は終わり、次のテーマに進む。
歌い終われば、もうお疲れさま。
そういう世界もあるだろうなぁ。
一曲を集中して聴いてもらう。
もう一曲だなんていわない。
相撲の一番のように。
本にはさむしおりのように。
「江戸の大道芸」'12.6/9
もし僕が文部大臣になったなら、
撮ってみたい映画があるんだ。。
・・・・・・・
世界の民族音楽のビデオをずっと観ている。
アフリカのものなどは見応えが充分にある。
こんなふうに日本のものもないかなと思ってみた。
民族音楽とは少し違うのかもしれないが、
江戸の大道芸、物売りの映像で残せていたらなぁと思う。
江戸の頃には大道芸人が、たくさんいた。
そのどれもにリズムがあり、歌があり、踊りがあり、
台詞がある。掛け合いがある。衣装がある。雰囲気がある。
その映像を観れば世界中の人が、日本の民族音楽を感じるだろう。
イラストや絵では残っている。
だが映像がない。江戸の頃、誰もが知っていた大道芸の人々の映像が。
そんな人たちがいた。それがわかる映像が欲しい。
だが、それらの大道芸が今に伝わり残っているのは数少ない。
ああ、まだ江戸の頃の人が残っているうちに、
それを観て記憶にある人が生きているうちに、録音しておけば良かったのにと思う。
江戸の大道芸の人たちはいつしかみんないなくなった。
映像が残っていればなぁ。江戸の頃にビデオカメラがあったらなぁ。
・・・・・・・・・
なんとかして、江戸の大道芸の人たちの映像を残すことができないか。
できれば映画のような形で。映画くらいのパワーで、リアルな映像で。
それらは僕らが失ってしまった大事な民族音楽ではないか。
100人ほどの大道芸の人たち、物売りの人たちの映像でよい、
できれば映画のワンシーンのように。
それが必用なんだ。どうしても。ぼくらに。
今ならまだ間に合う。なんとかがんばれば。
もし僕が文部大臣になったなら、
撮りたい映画があるんだ。
「古い神社2」'12.6/7
古い神社の古いお祭りを観た。
由緒正しきお祭り。
その中のひとつに山車があった。
古事記の中の登場人物をみこしのようにのせて、
街を回っているのを観た。
横断歩道の真ん中で信号待ちをしているのを観た。
神様が街を観ていた。
車がどんどん通り過ぎていった。
オートバイも過ぎていった。
でも僕にはわかるんだ。もう何百年もの間。
いやもっとかも知れないが。
その山車は、町を、街を、回って観ているのだ。
どうしてもどうしても、それは続けねばならない。
大きな道路が出来ても、信号が出来ても、マンションが出来ても、
コンビニエンスストアーが出来ても、アーケードが出来ても、、
観てもらわねばならない。
ありのままを。
「古い神社」'12.6/5
仕事先の事務所の近くに、古くて大きな神社がある。
平安時代からあるという。
数日前からお祭りをやっていたのだが、
古事記に出てくる人の大きめの人形が出ていた。
ぱっと見れば、ふつうの人形のようにも見える。
しかし、何かちがう。江戸の人形師が造ったというが、
まるで本物のような「気」が見える。
リアルではない人形なのに。
神楽殿に置かれてあったのだが、その前から動けなくなるようであった。
僕には、その人形が今にも動き出しそうに見えた。
古事記の中の人。
びっくりした。
「異国の映像2」'12.6/3
異国の民族音楽の映像を多く観た。
ちゃんとステージで踊っている映像もあれば、
寄り合いのように、自宅でみんなが踊り歌っている映像もあった。
近所の人たち。
近所の人たちも踊る。みんな小さい頃からその踊りを観ているので、
雰囲気をつかんでいるのであろう。
なんだかそれなりの踊りに見える。そしてとても楽しそうだ。
きっとそれは言葉の訛りのように、踊りの訛りが出ているのであろう。
僕にも踊れそうだが、たぶん何かがちがう。
似ていても雰囲気が出ていないのであろう。
ちょっとしたタイミングかもしれないが。
そこに微妙な差が出るのであろう。
「学校で教えてくれないこと」'12.6/1
日々の悩みのひとつに、
1円玉と5円玉が財布にたまってしまうことがある。
いつもこまかいお金を出そうとは心がけてはいるが、
ついついレジの後ろに列んでいたりすると、お札や百円を出してしまう。
(ああ、また1円玉がたまってしまったな・・)
それでも今年の春からは、なんとかがんばって1円玉をつかおうと努力してみた。
すると、ひとつのことに気が付いたのだ。
1円玉を効果的にさっと出すには、、
5円玉が必用だということを!!
「98円です」と言われ、さっと1円玉を8枚は出せない。
しかたないので百円玉を出してしまう。。その繰り返しであった。
5円玉を出す確率はけっこう高く、財布の中は五円玉が足りない。
だから、最近は財布の別の場所に5円玉を何枚も入れておいて、
必用なときは、さっと出すようにしている。
98円と言われても、時間をかけずに出すことも出来る。
ながながと書いてきましたが、
結局、言いたいことは、
「学校では教えてくれない」ということ。
「それがどんなに素晴らしいアルバムであっても」'12.5/30
以前から聞いてみたかったロックの名作アルバムを借りてきて聴いてみた。
有名曲が5曲も6曲も入っているようなアルバムであった。
聞いてみると、なんだかお菓子屋のショーウインドウのような印象が残った。
たしかにどの曲もポップな感じでキャッチーだ。
バンドのメンバー全員が歌作りをするということもあるが、
アルバム全体に流れている感情のようなものが、ひとつには感じられなかった。
たしかに良い曲は多い。文句無しの世紀の名曲も入っている。
でもなんだかケーキ屋のショーウインドウのようだ。
「どれにする?」「どれも美味しそう。あのタルトや、モンブラン・・」
極端なたとえですいません。
僕の聞いてきた大好きなアルバムは、全体にひとつの感情の流れがあった。
もし10曲のアルバムであれば、それぞれの歌が別のそれぞれの歌に呼応していた。
ひとつの時期に作られたということもあると思うが。
クラシックのアルバムのそれぞれの楽章のように。
そのなアルバムがいいな。
「簡単ではない」'12.5/28
ひと月ぷりにギルドF47のギターを出してみて弾いてみた。
イメージでは、良い音に包まれて、感化動的に弾けるはずであった。
しかし実際は、自分が以前の感覚に戻れなかった。
簡単ではないんだな。
もしもギターとのつきあいが、そこそこでやっていたら、
こんな感覚にもならないのかなと思う。
微妙なところにこだわっているから、感覚の差を感じてしまうのだ。
ギブソンのときもそうだった。
昨日一日は、ギルドをたっぷりと弾いた。
だんだんと自分の中で感覚が戻ってくるのがわかった。
ギターのせいではないようだ。
簡単ではない。自分の耳が戻ってくるのは。
「サムシング」'12.5/26
ビートルズのアルバム「アビーロード」を聞く機会があった。
二曲目にジョージの「サムシング」が入っていた。
「サムシング」を聞いたのは、たぶんラジオだったろう。
あの特徴的なギターから始まるサウンド。
僕が音楽に気付いたときからもう「サムシング」は流れていたような気がする。
もうそこにあったのだ。
しかし「アビーロード」の発売当時、新譜でLPを買って来たみんなの多くは、
この曲を、素手で触れるような感覚を持って聞いたのであろう。
ふるえるようなおもいで。
時に最初の一回目を聞いたとき。
そんな経験が出来るなんて、、。
やがてはラジオで流れ、耳馴染な曲になるであろう。
しかし、聞き始めを知っているのは、素晴らしい。
素晴らしいと思うんだ。
「歌の場所」'12.5/23
ここ数日、ビートルズを聞いていた。
今まで聞いたことのなかったアルバムを借りて。
たしかに良い。だんだんとはまってゆくのがわかる。
ときおり、最高な気持ちになるときもある。
・・・・・・・・
僕は思う、たとえばそこがロンドンで、
たとえばそこが渋谷区で、
ミュージシャンと自分を思う人は、さてどこに行くだろう。
音楽スタジオ? ライブハウス?
コンサートホール? 秘密の地下室??
楽器が鳴らせたり、歌えたり、音響があるところにいる場合もあるだろう。
またある人は、どこか日の当たる樹木の見えるカフェで、ひとり休んでいるかもしれない。
恋人に手紙を出したあと、街をただ歩いているかもしれない。
・・・・・・・・
ビートルズを数日聞いたあと、なにげなくドノバンを聞いてみた。
同じイギリスのミュージジャンではある。
ドノバンのアルバムを聞いていると、街のいたるところの景色が見えてきた。
郊外のカフェであったり、科学実験室であったり、部屋であったり、
船の上であったり、夏の陽射しの下であったり、、。
歌そのものが、そこにあるような気がした。その場所場所から、まるで音を届けているようであった。
少し前に聞いていたビートルズは、音楽スタジオの匂いがした。
どの歌も、音楽スタジオから発信されたものに思われた。
もちろん反論もあろう。それは承知。
・・・・・・・・
ミュージシャンがいる。街がある。
スタジオに向かう人もあれば、ライブハウスに向かう人もいる。
そこで歌う人たち。
郊外のカフェでねそべっている人もいる。
どこに向かうかなんて、みんな自由。
歌の場所も、みんな自由。
「金冠日食」'12.5/22
金冠日食を見た。
ほんの数分くらいであったが、きれいな輪が見えた。
くぼろしのようにくっきりと。
目に焼き付くという言葉があるが、まさにそうだった。
「しまったギター」'12.5/20
今、ギルドのギターをケースにしまっている。
そんなに深く考えてのことではなく、ただスペースの問題だけ。
替わりに小さなギブソンを弾いている。
それでかれこれひと月ほど、ギルドのギターを弾いていないのだ。
こんなに弾かなかったのは、6年前に買ってからはじめてのことだ。
今、ケースから出してギルドのギターを弾いたなら、
良い音すぎて、感覚が変になるかもしれない。
あの甘い、ドロップのような音。
その音に打ちのめされるであろう。
きっとギルドのギターを買ったときのような感覚になるであろう。
ケースにしまわれたギルドのギターは、ずーと戻って、
やがては中古楽器屋に吊り下げられていたときに戻るだろう。
その店先を通り、ギルドF47を見つけ、眺めていたときように。
「もしカバンが重くなったと感じたら」'12.5/18
仕事仲間に、本気で相談をした。
「最近、ショルダーのカバンが重くなったんだよねー、
やっぱり帳票類が変わったからかなー」
不思議なのは、急にショルダーバックが重くなるなんてことがあるのか。
(あるのかなー)
そして友達は意外なことを言った。
「もしかして肩掛けの紐が丸まっていない?」
よく見れば、肩の乗る部分の紐がたしかに丸まっていた。
原因はショルダーの中身ではなく、肩掛けの紐の方だったのだ。
こういうことってあるよね。
まったく別のところに原因があったりすることが。
もしカバンが重くなったと感じたら、、
中身ではなくて、紐の方を確かめてみよ。
「かあちゃん」'12.5/16
今日は雨の一日であった。
仕事からの帰り道、合羽を着た自転車の年配の女性とすれちすがった。
こんな雨の日は傘なんて自転車ではさせない。
合羽を頭からかぶり、自転車で夜を行くのだ。
思い出せば、かあちゃんもとうちゃんも自転車であった。
とうちゃんもかあちゃんも同じ仕事場にいて、
とうちゃんはまっすぐに帰って来たし、かあちゃんは夕ご飯の買い物を、
とこかでして自転車で帰って来た。晴れの日も、雨の日も、雪の日も、風の日も。
雨や雪ならば合羽を着て、合羽の帽子を目深にかぶり、
自転車のカゴに買い物のナイロン袋を入れて、
僕の生まれた海沿いの田舎の町は、商店街もあり、
自転車が足そのものだった。
晴れの日も、雨の日も、雪の日も、風の日も。
全国のかあちゃんのことは、よく把握できないが、
僕のかあちゃんは、合羽に自転車であった。
紫色の合羽であった。
雨の中、向こうから来る。ききなれた自転車のプレーキの音。
「かあちゃーん」
そのかぁちゃんももう、ほんとおばあさんになってしまった。
「唄・彫刻者」'12.5/14
毎日のようにギターを弾かないと、
フィンガーピッキングがなめらかにいかなくなる。
そんなふうに毎日、フィンガーピッキングを弾いている中で、
新曲のフレーズが出てくることが多い。
それは僕が頭で作っているのではなくて、
指が作っているようだ。
まるで彫刻家のように。
そうなんだよね。僕の場合、唄を作ることは、
ひとつの彫刻をするようだ。
メロディーもギターのフレーズも歌詞をのせることも。
彫刻で造るのだから、指が命である。
そして実際に触れないとね。
毎日、フィンガーピッキングを弾かなきゃね。
唄・彫刻者として。
「アメリカのお菓子」'12.5/12
いつも何か和菓子をくれるおばあさんがいる。
おこしとかお団子とかおまんじゅうとか。
その日、おばあさんは手のひらいっぱいにお菓子を持って、
僕のポケットに入れた。
「これ、アメリカのお菓子よ」
「ああ、こんなに、、どうもー」
それは銀紙に包まれていた。ほそ長いお菓子であった。
公園にて、ひとつ開けて食べてみると、
回りは柔らかいが、中身はキャラメル味で、かなり歯ごたえがあった。
(これでは、おばあさんは食べられないな・・)
アメリカのお菓子は、歯に堅かった。
まあ、たまたまだとは思うけれど。
アメリカのお菓子は、おばあさんには苦手だったのであろう。
逆にアメリカでは、このくらいの歯ごたえがないと、
食べたような気がしないのかもしれない。
日本のお菓子は、歯にやさしいものが多いのかな。
僕はアメリカのお菓子を公園で食べた。
アメリカノオカシアメリカノオカシと、心で思いながら。
「ドラマチック・インディア」'12.5/10
最近またインド音楽を聴いているが、
インドPOPSなどを聴いていると、そのアレンジが
とても豊かなことに、はっとさせられる。
途中で入るバイオリンの音色などは、とてもドラマチックな入り方をしている。
打楽器のタブラにしても、アクセントの入れ方がドラマチックだ。
ドラマチックなのだけれど、とても自然に感じられる。
インド映画もそうなのかもしれない。
思うに、インドではあらゆることが、大きいのではないか。
都会の人波なにても、自然の大きさにしても、
悠々たる景色がそこにあるのではないか。
笑いにしても、怒りにしても、哀しみにしても、
その振り幅は大きいように思える。
たぶん知っているんだ。心に浮かぶドラマチックな感じを。
僕らには想像できにないほどに豊かに。
だからあんなふうに、豊かな色を出せるのではないかな。
ドラマッチック・インディア。
どの楽曲も、風景がじーんと見えてくる。
「すでにふたつ壊れた」'12.5/7
部屋で使っている電化製品、
もう壊れないで欲しいと、あれだけ強く願ったのに、
すでにふたつ壊れた。
それを直すとすればお金もかかる。
できれば、もう電化製品は壊れて欲しくかったが、
やっぱり壊れた。普通に使ってきたのに。
壊れないで欲しいと願うことは無理があるのか。。
悲しくてやりきれないよ。
機会くん。
また自分で直ったりしてくれないだろうか。
「それが不思議なことに」'12.5/5
最近、インド歌謡のアルバムを部屋でかけることが多い。
そのアルバムは何百回と以前聞いたアルバムではあるが、
今さらに聞いてみると、色褪せず聞き続けることができる。
そのアルバムは、どの曲も唄も楽曲も良いのだ。
そしてバラエティーな曲の構成になっている。
遊びに来た友達とも一緒に聞いたりしたのだが、
こんな言葉を聞いた。
「どの曲も一緒で、何曲目かわからない」と。
こんなにバラエティーな曲の並びになってるいのになぁと思う。
幸運にも僕は聞き始めから、同じ曲にも思えなかった。
インド歌謡はどの曲も似ているようだけれど、多少ちがいはわかる。
たぶん「曲の中」に自分が入っていけているからだと思う。
インド音楽のビートは体が揺れる。その揺れ方はシンプルではない。
その揺れに体を任せていると、次の曲が同じには聞こえてこないのだ。
それが不思議なことに。
そのビートに言葉の響きがからんでいる。
僕はインド音楽を楽しめている。
ある日、突然にちがうように聞こえてくるだろう。
ビートに体がのってくるときかな。
「老人の信念」'12.5/3
うどんやさんに一人の初老のおじさんが入って来た。
カウンターや二人用のテーブルもあるのだが、奥の四人用の大きめのテーブルを選んだ。
そこに座ってしまうと、大きなテーブルが埋まってしまうのだが、
そんなことは気にしていない様子であった。
そりゃ、大きなテーブルで食べた方が美味しいであろう。
うどんをカウンターで食べるなんていう習慣はないのであろう。
小さなテーブルより大きめのテーブルの方が気持ちが良いだろう。
その初老のおじさんは、満足したようにうどんをたいらげていった。
美味しく食べたもの勝ちであろうか。
私は私なりの方法でうどんを美味しく食べた。
カウンターでうどんを食べるなんて、世の中のほうがまちがっている。
私が食べている間は、家族連れのお客さんが来たとしてもあきらめてもらう。
いいんだよ。これが私だから。
私は当然、大きなテーブルが好き。
それが私にはふさわしい。
このままいかせてもらいます。
私自身が現代社会に対するメッセージだ。
私は正しい。私には信念がある。
だからうどんが美味しい。君にもわかるはずだ。
「悟りのある音楽」'12.5/1
先日、「人生のステージが上がった」という初老のおじさんの話を聞いた。
人生の新しい舞台ということであろうか。
人はどんどん年をとると、悟りに向かってステージが上がってゆくということだろうか。
たしかに人生には、そういうことはあるかもしれない。
音楽や歌にも、そういうステージのようなものがあるのだろうか。
それを追い求める人にとっては。
悟りのある音楽。
そこには癒しのようなものがあるのかな。
僕には、想像もつかないのだが。
究極までゆくと、それは音楽ではなくて、
自然界の音になってしまうではないか。
波音とか、風の音とか、鳥の声とか、
もしかしたら音ではなくて、風景からなにか響きのようなものが見えてくるかも。
言葉なんてなくなってしまうかもね。
僕が音楽で追いかけているのは、悟りのようなものじゃない。
癒しのようなものでもない。
友達のようなものだろう。
「ほんのかすかな音で」'12.4/29
最近は、ほんのかすかな音で音楽を聴くことが多い。
それでも充分に音楽として成り立っている。
会話や他の作業の邪魔にはほとんどならない。
しかし確かな存在感とともに、音楽は聞こえてくる。
時に寄り添うように。
そんなふうに音楽をかけるなんて、今までしてこなかった。
しかし、それもいいものだ。
いままでかけられなかったアルバムも聴けるようになった。
いままで聞こえて来なかった響きも聞こえるようだ。
新鮮に聴いている。
「インディア・ポップス」'12.4/27
久し振りにインディア・ポップスを聴いた。
インディア・ポップスと言っても「ガザル」と呼ばれるジャンルの音楽だが。
20年ほど前より、よく聴いてきたテープの音源であるが、
今、あらためて聴いてみると、その音のひと粒ひと粒が楽しさで出来ているようであった。
部屋で話していても、作業をしていても邪魔にはならず、気分は明るくなってくる。
どの音も生きていて、迷いがなく、要るべきところに無駄なくて居る音ばかり。
もう200回以上は聞いているはずだが、それでも新鮮で、
曲順もよく楽曲もあきない。どの歌もメロディーもなつかしく、
それが永遠性を持って、まだ聞こえてくる。
一言で言えば、気持ちが良い音の連続なのだ。
たぶん僕個人的な経験から来ているものだとは思うけれど、
完成度の高いの音楽に感じられる。
音がどっしりとかまえているんだよなぁ。
そこがいい。
「日記一束」'12.4/25
金子光晴の昔の全集に
「日記一束」という文章があり、
以前より、かなり気に入って読んでいた。
金子光晴がどんなふうな感じで日々送っていたか、
それがなんとなく伝わって来る文章だ。
それは人生の大事な変化のときに書かれていると思われるが、
光晴は、そんな状況でも、淡々と自分の言葉と感性で語ってゆく。
僕もそれと同じような状況にはあるのだが、
あたふたとして、まるで精一杯だ。
しかし、今日は「日記一束」のことを思いい出した。
それはたいへんに良かった。
心の創作を続けなさい。
それでよい。
「かわりもんさん」'12.4/23
下町の変わりもんさん、
家の前にいろんなものを並べます。
置物や看板や、創作ものや珍しもの、、。
どんなおじさんが住んでいるのかなと思っていたんです。
あるとき、偶然にも会えたんです。
近所の人をつかまえて、あれこれ話していました。
ちょうど桜の季節で、おじさんは桜の話をしていました。
どこどこの桜はどうなんだとか。
目を生き生きと輝かせて。
そうなんですよ、インターネットなんてないときから、
おじさんは、輝いていたんです。
身近にあるものに、こころ奪われて。
ずっと長い長い昔から、そうだったのだろう。
かわりものさんは、そこから、
足の届くところ、耳のきいたところ、
話を引き寄せているんだ。
「歌わずにはいられない」'12.4/21
エルビス・プレスリーの、
「好きにならずにはいられない」を、日本語で歌っているが、
数人の友達より、「あの歌、うたいたいんですよ」と、言われた。
「どうぞどうぞ、僕の歌というわけではないし」と、答える。
そう、どんどん歌って欲しいのだ。
歌わずにはいられないように。
「ご婦人洋品店」'12.4/17
下町の通り沿いにある、婦人服の安売り洋品店。
通りに面して、バーゲンセールのように、並べてあるだけだが、
通りかかる年相応のご婦人が足を止め、眺め、店にも入ってゆく。
僕には、ただの何気ない婦人服にしか見えないのだが、
そこには足を止めさせる力がある。
値段とデザインと雰囲気と。
そのお店をやっているのも、はやり年相応のご婦人で、
同年代の気持ちがわかるのであろう。
僕には、わからない感覚。
すっと足をとめさせるその感覚。
未知の世界。
それで商売がなりたっている。
「もう何も壊れるな」'12.4/15
ずいぶんと家電製品を処分した。
今残っているものは、現役のものがほとんど。
修理に出したいものは、とりあえずないが、
もう何も壊れないで欲しい。
ずっと使い続けたい。
修理に出すと、多少なりともお金がかかる。
それにお金をかけたくないんだ。
故障なんてしないで欲しい。もう何も壊れるな。
大事に使うから。
修理に出すと、生活がきびしくなる。
それはさけたい。
「機械は語る」'12.4/13
22年振りにFAXを新しくした。
持っていたFAXはとても長持ちしていた。
長持ちしていたので、これは丈夫だなぁと感心していたが、
実際に新しいものを買ってみると、かなり進化していた。
だって20年だものなぁ。。
我が家には、20年ものの家電がかなりあるが、
実は進化しているのだな。
FAXなんて、変わりそうないんだどね。
20年の旅、その旅を知らないのは、
僕だけだったのか。
機械は語る。
「ラーメン店」'12.4/11
昭和の屋台から始めたというラーメン店を知っている。
今日も寄ってみた。
味わい深い醤油味で、とても気に入っている。
その昔、いや昔と言っても10年ほど前だが、
同じ名前のラーメン店がオープンして、たまたま仕事で寄ることになった。
仕事が終わろうとしたとき、「お兄さん、ラーメン食べていきなよ」と、言われた。
時間もあったので、一杯作ってもらった。
カウンター席の横には、そのラーメンについての説明が写真入りが書かれていた。
昭和の頃、屋台から始めて、とても人気が出たのだという。
お店の人は、自信たっぷりにラーメンを出してくれて、
「どう? 美味しいでしょ? 美味しいでしょ?」と、何度もきかれた。
しかし、当時の僕には、その美味しさが実はうまく表現することが出来なかった。
あれから10年、何度も食べてみて、やっとその美味しさがわかってくるようになった。
なぜ、10年前にはわからなかったのか。
ああ、あの10年前のあの日に戻れたら、
ちゃんと美味しいと、しっかり言えるのになぁ。
「詩集本棚」'12.4/9
部屋片付けをしていて、
詩集専用の本棚をどうしようか考えていた。
本来ならば、移動しても良いのだが、それもなんだかさびしい。
もう20年ほど前のこと、
詩集だけの本棚を作りたかった。
日本の詩集、世界の詩集、俳句、他、
高さ1メートル、幅70センチの本棚。
部屋の手の届くところに置いてみたかった。
20年前にそれは実現された。
それから、楽しんできたが、ここ10年ほどは、
部屋の置物のようになっていた。
いざ移動しようとしたけれど、この本棚を作った頃の
想いがよみがえって来た。
あまり見ることもないけれど、 宝物にはちがいない。
宝物はいいな。その本棚から、深い気持ちが満ちてくる。
「壁のジャケット」'12.4/7
眠る部屋の布団のところから、
レコードのジャケットが見える。
クラシックのジャンルだが、そのジャケットのイラストがとても気に入り、
中古で買い、そして壁に置いたのだ。
このお気に入りのイラストジャケットを見たとき、
ずっと眺めているような気がしたのだ。
もう3年間毎晩眺めているが、今あきてはいない。
たぶんこの先もずっと眺めているんじゃないかなと思う。
不思議なことではある。
そう思えたものが、実際にそうなるのだから。
この部屋に来た人も、あのジャケットを見て、
ずっとそこにあったように、
そう思うのではないだろうか。自然に。
まだ一度も言われたことはないが。
「音楽っていいな」'12.4/4
ここ最近、いろいろすることも多く、
映像関係はまったく観ることできていないが、
音楽だけは聴いている。
今、一枚のアルバムを行き帰りに聴いているが、
音のみで十分に楽しめている。
一音一音はねるように、耳に聞こえてくる。
映像とはまた別の楽しみで。
読書とも似ているかもしれない。
目の前の風景を邪魔したりしないし、
それは耳の奥に残る。それがいいな。
目の奥ではなくて。
いろんな風景や光景を観ながらでも、
音はまたやってくる。
それがいい。
「眺めジーンズ」'12.4/3
先日、ジーンズ屋に寄った。
好きなジーンズはリーバイスとLee。
どちらも値段は高い。
2万円ほどするものも多い。
このふたつのメーカーのジーンズは何度も買って、
とても気に入っているが、あの値段の高さはなんともしがたい。
今も眺めるだけとなりつつある。
ジーンズを眺めるなんて、せつないな。
こんな日が来るなんて、思いもしなかった。
「Folkを聞いた」'12.4/1
ほんと久し振りに、以前よく聴いていた、
アメリカのフォークトラッドのアルバムを聴いた。
それは若い頃、まだ数枚のフォークアルバムを持っていた頃に、
しきりに聴いていたアルバム。
それから30年たち、今また聴いてみると、
そのメロディーと演奏が生きていた。
まるで田舎の風景の中に咲いている花が家々の炊事の煙のように。
それが生き生きとしていた。
そのアルバムはとても、地味なアルバムではあるけれど、
自然の明るさに満ちていた。そっとのぞく田舎のように。
は、、どんな人間であろうか。
そして、今の人間とは。
僕の年代は、その中間かもしれない。
みんな、体は自然のものであるが、
考え方や経験には、パソコン文化、電気文化が沁みているであろう。
たしかに「昔の人間」は、いるかもしれない。
オーディオや機械ものが苦手な人たち。
それ以外にも。
僕もそのうち、いい年になるので、言い出すだろう。
いや、言い出さないかもしれない。