「最近の事」過去ログ'11.12月〜'12.3月
「改札にいると」'12.3/30
東京駅の新幹線の改札のそばには、
駅員さんが立っている。
見ていると、次々に声をかけられている。
いろいろな人が。
インフォメンションセンターではなく、改札そばに立っている駅員さんに。
もし、その駅員さんがいなかったら、質問はどこへきくのだろう。
自分でなんとか解決するのかな。
現代文明はケータイインターネットになりつつあめけれど、
やっぱりこんなにも直接のやりとりは、必要とされている。
実はそうなのではないか。
あの駅員さんは長い経験から、その場所にいることが最適だとわかっているのだろう。
ききたいことはいくらでもある。
そんなことを思っていた僕も、結局その駅員さんに質問をした。
それで本当に助かった。
「動画訳詞」'12.3/28
動画サイト・You Tubeなどで、
最近「訳詞」付きのものを観ている。
やっ知っている英語の歌など。
ビートルズのものは、どれもいいな。
歌詞と歌のフレーズが同時にわかるのがいい。
実際に聴いているみたいな感覚になってくる。
曲は知っているけれど、意味はわからなかった歌は多い。
イメージとちがうときもあるけれど、たいがい期待以上。
You Tubeで訳詞が付く歌は、歌詞が良いものが多い。
You Tubeでの新しい楽しみが増えた。
次に街で聴くときは、その訳が同時に思い出される。
「珈琲カップを買う」'12.3/26
近くの商店街にあるお茶屋さん、
その店先に、いつも珈琲カップが並べられている。
和風の。
ここに引越して来たときに、気に入ったカップを見つけ同じものを四つも買った。
そうとうにそれは使った。ひとつ割れ、ふたつ割れ、みっつ割れ、今はひとつだけ残った。
それも取っ手が取れている。
それ以降でも、同じお茶屋の店先で気に入った珈琲カップをいくつか買った。
たぶん同じ人が造った珈琲カップであろう。デザインのセンスが同じだからだ。
僕の気に入る珈琲カップを造ってくれる。また今日もひとつ買ってしまった。
この18年間、そこでしか僕は珈琲カップを買っていない。
そしてそこの珈琲カップで珈琲を飲み続けている。
世界中、日本中、東京中にお店がある中で、その店のカップばかり。
「傘を振る人」'12.3/24
雨予想の日など、歩道でよく傘を手に持ち、
後ろにまで振りながら歩いている人がいますよね。腕を振るのと合わせて。
後ろを歩いていると、傘の先端が当たりそうで危ない危ない。
僕がふと思うことは、その人は小さい頃から、そうやって
傘を振って歩いてきたのだろうなぁということ。
幼稚園の頃も小学生の頃も大人になってからも。
誰かが「傘あぶないよ」って、言ってくれなかったのだろうか。。
そう言われても、どうにもできなかったのかも知れないが。
・・・・・・・
さて、傘を手に持っている人たちは、まずどうやって歩いているだろう。
自分でやってみた。傘の柄を握っていても、そんなに手を大きく振らなくても歩ける。
それができればそれで問題はないのだが、手を大きく振って歩いてしまう人もいるだろう。
「手を小さく振って歩くなんて、できません」。そう言われてしまうかな。
ではどうすればいいの? ひとつアイデアはあります。僕もよくしていることですが、
みんながそうしているかは不明なんですが。
傘の柄は丸いので、手で持って少し力をゆるめれば、重力の関係で、
手を振っても傘は手の中でするっとすべって下を向いているってわけ。
やってみると簡単。そうしている人も多いかなと思うけれど。
こういうことは、どこで発表したらいいのだろう。
ああ、傘の柄を振っているみんなにお伝えしたい。
「音楽名産」'12.3/22
地方地方で名産品というものがあるが、
それはそこに行かないと買えないもので、
全国的に有名でなくても、それはいい。
逆にそれがいいところ。
しかし、そんな名産品のことを、インディーズとは言わない。
こんな話をきいた。
世界の地方に行ったなら、その土地でしか買えない音源を、おみやげにと。
まさに音楽名産。
それならば、みんなにもわかる。
ここにしかありませんよ。
それでよい。
「乗り過ごし」'12.3/20
秋葉原から南千住まで日比谷線に乗っているが、
南千住から戻ってくるとき、
二週間に一度くらいは、秋葉原で乗り過ごしてしまう。
10分ちょいくらい乗ってゆくの゛けれど、
何かやっていたり、考え事をしたりすると、すぐ乗り過ごす。
微妙な駅数だ。
乗り過ごさないためには、ひと駅ひと駅チェックしていかねばならない。
それもばからしい。どうすれば、いいのか?
秋葉の前の駅「仲御徒町」を、意識すればいいのかな。
そうすれば乗り過ごしても、秋葉原だし。
一年通っているが、まだ慣れない。
「ふらんふらん」'12.3/18
先日のこと、外仕事をしているとき、
あまりに体調がすぐれなかった。
僕は熱がかなりあるなぁと思っても、
頭が痛いなぁと思っても、なんとかがんばれるのだが、
先日は、がんがん頭痛、発熱、気持ちが悪い、寝不足、花粉症の鼻水、、
なおかつもーれつに忙しい、こんな日に限って、
頭痛もきつかったが、寝不足もきつかった。
とうとう、ふらんふらんになってしまった。
オレ、ドースリャイイノ?
これは眠らないとだめだなと思い、昼に公園に行って、
10分ちょい眠った。眠ったというより、気絶に近い。
起きてみると、ふらんふらんはかなり良くなった。
頭痛も寝不足も。
10分ちょいだが、眠って良かった。何もかもちがうようだ。
それでなんとかパワーでがんばれた。
10分間と一日。
「金つかいの日々」'12.3/16
ここずっと部屋を片付けている。
いらないものはいろいろ処分もしている。
それにしても、こんなによくいろいろあるものだと、自分でも驚く。
考えてみれば、日々、どこかのお店で買ったものが、
食べ物以外は、ほとんど部屋にあるわけで、
たしかにたまってゆく。
仕事帰り、何か読みたくて買った本も、たまる。
今思うと、金つかいの日々であった。
単純に。
「ぼくのうたのようだった」'12.3/14
下町の町工場の下を通ったとき、
弾き語りのような歌が聞こえてきた。
それはなんだが、懐かしい響きで、歌詞はよく聞こえなかったが、
まるで僕の歌のようであった。
町工場の機械音が大きく、まるで歌詞は聞こえなかったが、
そのメロディーと歌い方は、僕のようであった。
以前、ポケットに入れておいた録音できるICレコーダーから、
僕の歌が流れていて、自分でびっくりしたことがあったが、その時と似ていた。
どこからか聞こえる僕の歌のような歌。
それはやぼったくてね、すぐにわかる。
それを聴いている人、それが流れる部屋の下からそれを聴く人。
あれは誰の歌だったのか、僕の歌だったのか。
「インターネットがなかったんだ」'12.3/12
ここずっと部屋の整理をしているが、
雑誌300冊ほど、本も300冊くらい処分した。
それでもたっぷり本はある。
東京に出てきて30年、買った本はそのままにしていたので、
たまりにたまってしまった。
今みれば、どーしてこんなに本を買ったのかと思うけれど、
その頃は、インターネットがなかったんだ。
もし現在もインターネットがなかったら、本が主流であったろう。
知りたいことは、本の中にあった。調べものは本の中にあった。
情報は雑誌の中にあった。
自分でもあきれるほど、雑誌や本を買ったけれど、
何もせめていめていない。
仕事の帰り道、休の日、あれだけ本屋に寄ったのだから。
「高円寺キョトン族」'12.3/10
東京発、中央線快速、停車駅。
東京・神田・お茶の水・四ッ谷・新宿・中野・・・
そしてここからは、各駅停車になる。中野の次は高円寺。
僕は高円寺で降りるのだが、そのときドアの出口付近で、
そのままの姿勢でいる人がよくいる。
そこの人!! 高円寺では意外と人が降りるんだよ!!
まあ快速と言えば、何駅が飛ばしてゆくので、
お茶の水・四ッ谷・新宿・中野ときたら、また何駅が通り抜けると、
普通だったら思うだろう。とくに中央線に乗り慣れていない人は、
それが、中野の次の高円寺でまた止まるものだから、
ドアが開いてキョトンとしてしまうだろうなぁ。
ドアが開いても、人が数人しか降りないこともありますが、
高円寺はちがいます。中野と同じくくらい降りるんです。
でもホームには、そんなに乗る人は待っていないんですけどね。
とにかく、中央線高円寺でドアが開いたとき、
キョトンとドアに前で立っている人がよくいるんですよ。
だからアナウンスで
「次は、高円寺。高円寺では意外と人が降ります」って言って欲しい。
阿佐ヶ谷・荻窪では、大丈夫であろう。
問題は高円寺。昨日も、ドアの前の人が立ったままだったんです。
「歌のクッション」'12.3/8
ここ数日、雨が続いた。
外仕事をしているので、よく歌を口づさんだ。
自転車に乗りながら、あの歌、この歌と。
どの歌が口から出てくるかは、自分でもわからないが、
そのときどきの気持ちに合わせて出てきているのであろう。
まるで歌のクッションのように。
あらゆるストレスとストレスの間に、歌をはさむ。
それでなんとか一日が送れる。
歌はほんとよく知っている。
そのときどきに歌は出てくる。
それでよし。なめらかに過ぎる。
「こころにじんときている」'12.3/6
先日聴いた、ベテランシンガーソングライターさんのライブが、
いまだに心にじんと来ている。
ライブのあと、映像編集で何回か観たせいもあるが。
普通ライブと言ったら、歌がありトークがあり、また歌がありトークがありと、
弾き語りであるならば、ある程度スタイルが決まっている。
でも今回はリハーサルの時間から含めて、その人柄がよく伝わってきた。
特に100年前のことを唄った弾き語りの楽曲の、伝え方はみごとであった。
僕自身、出来事うたを歌っているので、6分半、どの言葉も伝えきるたいへんさを知っている。
何げなくも、歌詞の流れの構成がほんとによく出来ている。
6分半、伝わるべくして伝わっている。重いテーマなので、心がはなれそうになるところを、
そいそいっと言葉がひきとめる。そして聞き終わった後味もさわやかだ。
こういう歌はなかなか出来ない。すみずみにまで気づかいとやさしさがある。
80分のライブであったが、どの歌もちがったタイプの楽曲であった。
そして歌の間にもはさまれたエピソードトークが、どれも心にしみた。
歌のライブを越えた歌のライブという感じだ。
ラストセッションで、歌詞カードがなくて、歌いとまどっている友人に、
さっと唄う歌詞を道しるべようにマイクで教えてあげていた。
それも心にしみた。
ライブから一週間、いまだにじんと来ている。
「ひとりぼっち・ひとりぽっち・独り法師」'12.3/4
楽曲「上を向いて歩こう」の歌詞、
テレビの歌詞表記が「〜ひとりぽっちの夜」であった。
で、あったとしても「ぽ」でも「ぼ」でも良いのだろうが。
「ぽっち」は、「点」という意味あいがある。
「これっぽっち」とよく使う。この場合は「これっぼっち」とは言わない。
現在「ぼ」と発音している言葉も、以前「ぽ」と発音していたとも言う。
「のっぺらぼう」が以前は「のっぺらぽう」とも呼ばれていたという。
しかし、今日のエッセイは、ちょっとテーマがずれる。
「ひとりぽっち」「ひとりぽち」の語源の元は、
どこの宗派にも属さない法師。「独り法師」。
この「独り法師」は孤独であるが、どこか強そうだ。
「あいつ、もう今やひとりぽっちだよ」と言う場合は「独り法師」の意味が近いのか。
そうなってくると、「上を向いて歩こう」の歌詞は、夜空を眼上に見ているわけで、
風景的には「ひとりぽっち」の方が、いっそうに「点」の感じが出ている。
しかしだ。歌詞の意味から追ってゆくと、泣かずに行こうという気持ちからも、
もしかしたら「独り法師の夜」の方が、近いのかもしれない。
「おれもう、一人法師(ひとりぼっち)だよ」
そう、胸を張って言うときもあるだろう。
そして独り法師は、唄うのだ。
上を向いて歩こうと。
「トリック」'12.3/2
先日の某ベテランシンガーソングライターさんのライブ、
1時間くらいのライブだと思っていたら、80分のステージであった。
それも二曲目を歌い出すまでに20分がすでにたっていた。
いろいろは話しながら歌っていたせいもあるが、二曲目で20分とは、
誰しもがイメージできないであろう。
すっかり時間のペースをつかまれてしまった。
次の歌に入ってゆくときも、拍手の鳴りやまないなか始めたりして、
時間の使い方が鮮やかなんですよ。
僕なんて、そんなことしたこともない。
ただ不器用に、タイトルを言っては唄うばかり。
まあ、話しもしますけど、時間を感覚をうまくあやつることは、
意識のどこにもない。
でも、ちょっとちがう時間のステージが出来たらいいな。
歌の中だったら、出来るような気もするのだけれど。
プロっていわれる人たちって、実は何か知っているんじゃないのかな。
こうだよって教えてはくれないけれど。
「リハーサル」'12.2/29
ベテランシンガーソングライターさんのリハーサルを観ることが出来た。
とても人間的な会話がなされていて、そのリハーサルは、僕にはたいへん衝撃的であった。
ライブのリハーサルと言えば、音響さんとのやりとも含めて、
かなり事務的なものになることが多い。たぶん音響の人の時間ということもあるからであろう。
ミュージシャンの方もついつい事務的な会話になってしまう。
しかし考えてみれば、人と人のやりとりである。どんなときも。
ライブはひとつのイベントであり、リハーサルも含めて楽しい時間のはずだ。
ライブにかかわる人みんなが楽しい時間であることが大切だ。
ひとつのかたまりのように。
「そそっと伝える」'12.2/27
レナード・コーエンのニューアルバムをずっと聴いている。
レナードの声はすでに、ため息にちがいほど、のどの低音部より発せられていて、
その声を前面に出しているMIXはさすがである。
今回のアルバムは、ツアーメンバーとも作ったアルバムであるという。
そのとおり、息がぴったり合っている。
どの曲のアレンジも、そっとアレンジされやわらかい音をどの楽器も出している。
ドラムスはささやくようだ。
聴いているとここままのアレンジで、大ホールで演奏しても、何のさしつかえないほど、
完成されたアレンジとなっている。
普通であったら、大ホールであったら、それなりの大きな音を出しそうなものであるが、
レナードのバックをつとめるメンバーは、微妙な音のちがいを、そそっと伝える。
無理をしない。力まかせにしない。
わかる、それが伝わる。
「10品」'12.2/25
レナード・コーエンのニューアルバムを聴いている。
10曲入り。地味といえば地味なアルバムである。
レナード・コーエンは今年でいくつになったのであろうか。
1934年生まれなので、78歳か、、。
聴いてみて、若い頃のような大作はないようだが、
それなりに味がある。素材で勝負?
このアルバムは10曲入りだが、それが10食の食事のメニューのように思えた。
どの一品も、軽めでシンプルで、ちょっと食べて味わえて、
小食ながらも、10食食べられるコースになっているような気がした。
もうおじいさんは、このくらいがちょうどいいんだよと言っているようだ。
お皿一杯の肉料理はちょっと、、。
ゆっくりと時間をかけて、10曲のフルコースをお食べなさい。
どれも、よく知っている料理かもしれませんけどね。
よくかんで食べてください。
「形」'12.2/23
レナード・コーエンのニューアルバムを買った。
今、二回目を聴いている。
なんともシンプルなサウンドで、ちょっとした楽器の響きが際だっている。
一回目を聴いたときは正直、うまく歌がつかめなかったが、
二日目を聴いているだけで、心にしみてくる感じがわかる。
もうおじいさんの声。
おじいさんの言葉は、何げなくも深く伝わる。
レナードのアルバムは、何回も何回も聴く。
一回目の印象は、あまりあてにはならない。
二日目、三回目、四回目、五回目、
とりあえず聴いてみる。
すると、だんだんと形が見えてくる。
その形は、また微妙に変化してゆく。
そこまで、じゅうぶんに待てる。
レナードは、なっとくゆくまで、こだわって造っているはずだから。
その形をみてみたい。
「駅前のどこ行くの?」'12.2/21
待ち合わせの時間に、まだ早いとき、
駅前のどこ行くの?
とりあえず本屋さんへ。
そうなんだよね。本屋さんが時間を過ごすのに一番いい。
洋服屋さんでは、買いそうな雰囲気を出さなくちゃならないし、
CD・レコード屋さんは、もうなくなったし、
コンビニエンスにあるものも、決まっているし、
玩具屋という年齢ではないし、その前に玩具屋はないし、
薬屋に入る習慣はないし、
やっぱり本屋だよね。
大事な大事な本屋さん。
本屋さんがなくなったら、僕らは
駅前のどこへ行けばいいの?
「部屋」'12.2/19
今、部屋の模様替えなどしているが、
銭湯に行って目をつぶってみると、過去に引越しをした部屋が思い浮かんだ。
最初は目白の四畳半に10年。次は高円寺の六畳に10年。
どちらも10年も住んでいたので、部屋の中の配置など、はっきり憶えていても良いのだが、
なかかなそれが、記憶によみがえらない。
目白の四畳半だった頃は、最初にバックひとつを部屋の真ん中に置いた。
それからカラーボックスが増えていった。オーディオも。ディランのポスターも貼ってあった。
大きなスチール本棚はどこにあったかな。
高円寺の六畳の頃は、どんな配置だったか、記憶があいまいだ。
コタツが一年中出てましたね。ビテオテープも増えていった。
細かいところまでは、なかなか思い出せない。
なせだ、なぜなんだ。
出来事は事細かに憶えているのに。
それぞれ10年も住んでいたので、夢に出てきて、もう一度訪れることは出来るだろう。
その頃の夢を観たら、その頃の部屋になっているんじゃないか。
ああ、そんな夢を観てみたい。
「演奏時間」'12.2/17
先日観に行ったライブでのこと。
その日は出演も四組と多く、演奏時間はひと組30分というところか。
ひとりが唄って、主催の人に「あと、どのくらい歌えますか?」ときいた。
主催の人は「あと1曲か2曲」と答えた。
たぶんあと5分くらいなものであろう。すると、歌い手は、
「では、短いのと長いのを2曲やります」と言った。
一曲目は5分以上の曲で、これが長い唄だと思った。
そしてラストの曲はドラマ仕立ての唄で、8分くらいあった。
こっちが長い曲であった。2曲といえぱ2曲だが、そりゃないだろう。
ライブの前に演奏時間くらい、確かめているだろうに。
主催者も「あと、5分」って言えば良かったのに。
僕は演奏時間が延びてしまう、歌い手の気持ちもわかる。
しかしライブ全体の割り振りもあるんだよね。
・・・・・・・・・
以前、ひとり20分と言われていたライブイベントに参加したときのこと。
ほとんどの人が5曲唄い、25分から30分となり、どんどん時間が押していった。
5曲うたわなきゃだめ?? 唄の中の時間は無限大なのに。。
なぜにそれを伝えようと思わないのだろう?
5曲、つめこもうとするなら、それは時間にとらわれているということ。
まあ、サービスということも言えますが。
欲張るなかれ、無限大を意識せよ。
「ベルト」'12.2/15
先日買ったベルトが大変に調子わるい。
おもいきりしめると、金具のところで取れてしまうのだ。
ズボンが落ちてしまうので、最高に困る。
今、この部屋には、ベルトはその一本しかない。
どーしたらいいのか。
じゃあ、買えばと思うかもしれないが、
そのベルトを買ったばかりなので、買うのは悔しい。
ベルト。
東京に出てきて、すぐにジーパン屋で3千円ほどのベルトを買った。
そのベルトは長持ちして、27年ほど使った。
ベルトって、それほど長持ちするものだと思っていた。
しかし今回のものはだめだった。
いろいろ金具を調整してみて、これ以上ないくらいにカチッとしめたが、
それでも、だめだった。
出先で、外れたらどうすりゃいいの。
でも、新しいベルト、買うの、いやだ。
「スピーカーに聞き惚れる」'12.2/13
先日、寄った喫茶店には、大きめなスピーカーがあった。
それも壁にではなく、普通に卓上ステレオとして。
メーカーは ダイアトーン。
高さは80センチくらいあったかな。
たぶんスリーウエイスピーカー。
そのくらいのスピーカーは、以前はステレオブームの頃は、よく見かけたものだ。
アパート暮らしの今では、ワンウエイの小さいスピーカーがつないである。
そんな暮らしの人は多いのではないか。
レジに行くとき、そのスピーカーの前を通った。
いろいろ調整はしてあると思うが、音が透き通っているようであった。
まじまじと聴いてしまった。
こんな美しい音で聴けるのは、いいなぁ。
音に奥行きがあるんですよね。音の3D(スリーディー)みたい。
大きいスピーカーっていいな。
こんなスピーカーなら、スピーカーに向かって音楽をきいてみたい。
落ちついた時間の中で。
「自作自演」'12.2/11
オリジナル・アンド・プレイ
シンガーソングライターはみんな、自作自演。
「自作自演」、この素晴らしき言葉。
堂々として。
ひとりのアーティストとして。
こころにとどめる言葉。
自作自演。
いつからか、どこからか、
妙な意味になってしまった。
自作自演よ、世間に負けるな。
堂々とせよ。
「ディランのカーネギーホール」'12.2/9
ボブ・ディランの1963年、カーネギーホールのアルバムを聴いていた。
(6曲入りのサービスアルバムではあるが)
カーネギーホールといえば有名なニューヨークの大ホールであり、
ギター一本とハーモニカでの演奏である。
ディランにとっても、カーネギーホールは大切なコンサートであったろう。
いつもどおりだったかもしれないが。
聞いていて、いろんなイメージを浮かべた。
一曲目、二曲目、三曲目、四曲目、、。
だいたいどんな曲順だったイメージできる。
若い頃のディランは弾き語りなので、曲順がいっそうにひきたつ。
僕がディランから影響を受けた大きなものもひとつが、
曲順だったように思う。
ミュージシャンそれぞれに曲順のセンスがある。
ある程度の似ているところもある。誰が決めたわけではないと思うが、、。
不思議なものだ。
さまざまさがあっても良いと思うが、だいたいみんな似ている。
ディランのカーネギーホールを聞いていると、
曲順がすべてだったような気もしてきた。
「雪国」'12.2/7
先日行ったライブで、歌い手の人の故郷が雪国であった。
秋田と新潟。冬は雪の世界になるのだと言う。
雪国。たしかに今、日本に雪国はある。
どこもかしこも雪の世界。子供たちがポコポコと歩く。
・・・・・・
僕は新潟の柏崎の生まれだが、ほんとに海のすぐそばだった。
冬はもちろん雪が降るのだが、粉雪のようにはならない。
水気を含んだ重い雪。
道に落ちるとザクッザクッと半透明になる雪。
チェーンを付けた車が通ると、バシャッと思い切りひっかけられた。
毎年毎年、冬はそうだった。
だから雪国とは、ほど遠い景色。
ビチャビチャ雪の町。
アノラックを着て、出かける少年。
車が通るたびに雪がしりっぱねを上げる。
フードをかぶったアノラックの少年は、山ほど楽しいことを考えて、
柏崎の商店街を歩いた。それが僕の冬の景色。
雪国から遠く、僕は町っ子で、海っ子だった。
「冷えたギター」'12.2/5
ライブの次の朝、起きるとギターがなかった。
奥の部屋にも、この部屋にも台所にも。
うわーっ!!! 家出でもしたのか。
たぶん、、玄関ドアの外にあるだろうと思い、出てみると、
やっぱりそこにあった。愛するギルドのギターが。
荷物が多くて、つい忘れてしまったのだ。
寒い外にひと晩居て、ギターはどんな気持ちだったろう。
ケースから出して弾いてみると、ギターが心底冷えていた。
またここにあって良かった。
命びろいという言葉があるならギターびろいであろう。
そういえば、朝、何回かドアを叩かれた気がした。
アパートの人が教えてくれたのかな。
・・・・・・・・・
そういえば、ライブのとき、マスターと楽器の置き忘れの話をしていた。
笑いながら、、。そんなこと、めったにないよと。
そうやって、夜、自分が楽器を置き忘れてしまった。
あれは何かの警告だったのか。
いや、ちがう。こういうことは、以前もあった。
意識の中で、プラスとマイナスが作用するのか。
イメージがそうさせているのか。
ひと晩、ギターは寒い外にあった。僕がぐっすり眠っている間。
こんなにひえちゃってさ。
「あかぎれ」'12.2/3
柏崎の実家にいた頃、冬といえば「あかぎれ」に苦しめられた。
小学校の頃は、裸足だったし。
足の親指の先が切れると一番痛い。
かかとも大きく切れて痛い。
そして手の指先。
かかとには同時にいくつも出来るので泣いた泣いた。
あらわれては治り、またあらわれる。
小さい頃、冬はそういうものだと思っていた。
東京に出てきたからも、外仕事でよく切れた。
あったか靴下をはくようになってから、足のあかぎれは激減した。
それはほんとうに良かった。
手の指先のあがぎれも、切れる前にバンソウコウを貼るようになってから、
かなり少なくなった。
・・・・・・・
あかぎれは痛いよ。足のかかとや指先に出来ると、歩くたびに痛いよ。
あれは痛い。どうしてこんなに痛いのかと思うほど。
実家にいた頃は、冬の間じゅう、足のあかぎれに苦しめられた。
あかぎれは生活の一部だったのだ。
「楽器」'12.2/1
テレビでパイロットの番組を観た。
簡単な飛行機であっても、計器類が多く並んでいて、
ぱっと見て、どんな飛行士でも運転できるのだろうか。
そんなことを思いながら、楽器のことを考えた。
ギターであったなら、世界中、どんなギターであっても弾くことが出来る。
少しのちがいはあっても、悩むことはないだろう。
楽器は、そういうところが素晴らしい。
電化製品とはちがう。パソコンともちがう。
楽器はいいな。世界共通で。
でも、その昔は村々で造っていたのであろう。
似ていても、ぱっとは弾けなかったであろう。
それでも、シンプルであったはず。
「DJ」'12.1/30
昨日、初めて訪ねたライブハウス。
いつもどおりに席に座り、友達の出番を待っているとき、
エスニックポップスではあったけれど、いい歌がかかっているなぁと思った。
約40分ほど、次々に曲が変わる変わる流されたが、どれも良かった。
ふと気が付けば、それはDJの人が音源を変えながら流しているのだわかった。
すごい。
こころゆさぶられる感じが。
エスニックポップスは、以前自分でもかなり聞いたのだが、
ひとつアルバムの中でも、いいなぁと思える曲は、どこか日本心と通じるものがあった。
DJさんがかける曲は、ちゃんとそれがわかっていた。
どの曲も聞いていてピンと来る。自分の中のエスニック音楽心が刺激された。
一枚のアルバムをかけるだけでは、出来ないことだ。
選曲の感覚、それが伝わってきた。
「縁(えん)」'12.1/28
「袖振り合うも他生の縁」とは言うが、
縁(えにし)は、そでの先が触れるようなことを言うのではないか。
「お互いに縁があったんだね」と、人はよく表現するが、
それは、袖と袖ふれあうような、「縁が合う」という意味合いではないか。
最近では「縁」が「運命」と同じような言葉の使われ方をされつつあるように思う。
縁とは「縁側」と同じように、つながりの場所ではないか。
「縁を感じる」と言葉を使うが、それはつながりの場所のことを言うのではないか。
もともとそうだった思う。その方が意味深い。
「昔の人間」'12.1/26
食堂で食べていると、マスターがこう言った。
「おれはほら、昔の人間だから・・」と。
昔の人間とは、、どんな人間であろうか。
そして、今の人間とは。
僕の年代は、その中間かもしれない。
みんな、体は自然のものであるが、
考え方や経験には、パソコン文化、電気文化が沁みているであろう。
たしかに「昔の人間」は、いるかもしれない。
オーディオや機械ものが苦手な人たち。
それ以外にも。
僕もそのうち、いい年になるので、言い出すだろう。
いや、言い出さないかもしれない。
「世間知らず」'12.1/24
とてもおもしろいエピソードを友達からきいた。
その友達は、いつもバイクに乗って通勤しているが、
電車を愛する友人にこう言われたのだという。
「おまえは電車に乗らないから、世間知らずなんだよ」と。
一瞬、何のことだがわからないが、
電車に乗っていろんなところに出かけるということではなく、
電車の中に世の中のいろんな情報があるということらしい。
言われてみれば、たしかに吊り広告には、いろんな情報がある。
そう言った友人はインターネットや携帯を持たぬ主義である。
そして新聞もテレビもあまりみていないはず。
彼にとって電車の広告は、世の中を映している鏡なのか。
僕はそういうふうに思ったこともなかったけれど。
そういわれてみれば、そうなのかもしれない。
電車に乗らぬものは、世間知らず。
一理あり。
「たぶん1分くらいで」'12.1/22
テレビ朝日でやっている「世界の車窓から」。
毎日変わるそのBGMは、センスの良い人が選曲しているのだと思う。
歌にはっとすることが多い。
昨日の歌も良かった。
ほぼ毎日良いので、同じひとつのセンスで選ばれているかもしれない。
CM等で使われる歌ともちがうセンスだ。地味なものも多い。
歌が流れ始めて1分くらい聞けば、その良さがわかってくる。
ピンと来る。
ひとつの歌の1分くらいで。
唄い出しの感じ、メロディーの続きぐあい、それにのっている楽器のリズム、
全体が作っているイメージ、そして展開を予想させる期待感。
そんなことも含めて、1分で伝わってくる。
僕もそんな歌をうたっていたい。
「チョコレート想」'12.1/20
月末に向け、だんだんとお金もなくなってきているので、
節約生活に入っている。
小腹もすいて、カロリーのあるものと思って、チョコレートを買った。
作業カバンの中に、ロッテのガーナチョコが一枚。
まるで非常食のように、パラリとひとつ割って食べた。
なにげなく。
チョコをなめてみると、必ず思い出すことがある。
小さい頃に聞いた、山での遭難のニュースを。
記憶はあいまいだが、板チョコが三粒か二粒残っていて、
それをナイフで何等分かにし、計画的に食べて、
それで飢えをしのいで助かったというニュース。
僕にとって、それはかなりの衝撃であった。
チョコレートで命をつないだという。いつも何げなく食べてきたチョコ。
それ以来、板チョコを食べるたびに、そのエピソードが頭を巡るようになった。
なぜ、チョコだけが、そんなに特別なんだろう。
「炊飯器すげえな」'12.1/18
炊飯器を持っている。
予約機能は、まったく使っていなかったが、
午前5時に食べたいので、
炊飯時間も入れて、午前4詩にセットしておいた。
今朝は早めに4時前に起きたので、ぽやっとしていると、
ぷーんとご飯を炊いているにおいがした。
台所をのぞいてみると、炊きあがるまであと10分と表示されていた。
(そうか、午前4時にセットすると、その時間に炊きあがるということか、、)
あたまええ〜、炊飯器すげぇな。
目覚ましを4時にセットして、3時半に起きる人のようだ。
「曲目」'12.1/16
ライブDVDに、曲目をつけるようになって、
四年目くらいだが、
それまでは、ふつうにライブの日付やイベント名だけを書いていた。
今、見れば、さて、どんなライブだったのか、思い出す記憶もあいまいだ。
曲目さえ、書いてあれば、すぐにわかるのに。
昔のライブビデオテープも、曲名が書いていないので、内容がわからない。
作った当時は、憶えていたのだろうな。
時がたてば、忘れるとも思わないで。
ライブとは、、曲目なんですよ。
最近は、そこに妙にこだわっている。
「チョコパイ エンゼルパイ」'12.1/14
昨年のことだが、テレビニュースで、
「チョコパイ騒動」をやっていたが、
チョコパイがニュースになるなんて、なんだか新鮮だった。
僕にとって、チョコパイと言えば、やっぱり、森永のエンゼルパイとつながる。
エンゼルパイとは、単純に言ったら、大きめのチュコパイのことだ。
僕が小学生の頃にはもうあって、ひとつの箱にひとつだけ入っていた。
その頃の僕の疑問は「なぜ、エンゼルパイと言うのだろう??」と、言うものだった。
今だったら、森永製菓のマスコットキャラクターがエンゼルだからとすぐわかるけれど、
当時の僕には、わからなかった。
それで、天使のパイを初めて買ってみたわけですよ。
食べながら、かじりながら、(これが、、天使のたべものか・・)と、
本気で思ったわけです。
そして小学生の僕が出した答えは、
(あの、中の白いふわふわの部分が、天使の食べる味なのだ)と、
本気で思ったわけです。
もちろん今だって、そう思ってます。
「星の靴下」'12.1/12
冬のなると、いつもあったか靴下をはく。
裏起毛のなんとかっていう靴下。
はいているうちに、ぽわっと大きくなるわけですが、
それはよいとして、それでも冬はあったか靴下。
銭湯に行ったとき、ふと気がつけば、
濃紺の靴下は、毛玉だらけになっていた。
冬はいつもそうなので、気にはしてなかったが、
やっぱり変なのかな。
よく見れば、毛玉のついた濃紺の靴下は、
まるで星空のようだ。
それでいいじゃないですか、星の靴下で。
♪ど〜うぞ、ごらんなさい、
毛玉じゃないよ、夜空だよ〜
「赤だし味噌汁」'12.1/10
我が家の味噌汁は、
ほぼ100%、即席みそ汁であ〜る。
好きなのは、しじみとあさり。
いつもマルコメの即席みそ汁を買っているのだが、
二ヶ月ほど前にまどめ買いした即席みそ汁は、
赤だしであった。
(マルコメだと思っていのが、ハナマルキだったのだが・・)
もうずっとずっと即席みそ汁は、白だしだったから、
赤だしの味がとても懐かしかった。
柏崎の実家のいた18年間、ずっと赤だしのみそ汁であった。
東京来てからは、ほぼみんな白だしのみそ汁なので、
そういうものだと思っていたけれど、
ひと月ふた月、赤だしのみそ汁を飲んだいたときの、
幸せ感は、相当なものであった。
やっぱり、赤だしのみそ汁が好きだ。
言葉では、うまく伝えられないのだが。
だって、僕が小さい小さい頃から、飲んでいたのは
赤だしだったのだから。
「そのカードなら持ってます」'12.1/8
近くの商店街に、
紳士服の「AOKI」があり、いつも店頭で安売りをしている。
昨日のことだか、正月セールのジャケットをひとつレジに持って行った。
レジ担当の小柄の女性は、いかにも慣れた感じでジャケットをたたむと、
袋につめた。
「1580円です」「はい」
2000円を渡したあと、お釣りと一緒に意外なことを言われた。
「AOKIのポイントカードは、お持ちでしょうか?」
(えっ、それ僕の名前ですよ、知っているのですか??)
「いえ、けっこうです」と、答えたが、そうきかれなくても、
(A O K I の ポ イ ン ト カー ド な ら 生 ま れ つ き 持 っ て る わ い !!!)
と、つい反射的に心が大声を出した。
考えてみれば、そんなポイントカードを実はみんな持っているのではないか。
なにがどうポイントがたまって、どんなカードとかいうのははっきりはしない。
しかし、僕はAOKIのポイントカードだけはまちがいなく持っている。
ただ、その場で出せなかっただけで。
「一分ごとに夢をみた」'12.1/6
今日は文書作成を頼まれて、
眠らないで作っていった。
8時間、集中したせいもあり、仕事中は強力に眠かった。
眠いというより、ふらふらであった。
そして一分ごとに夢を観た。
とても懐かしい記憶が次々と形になっていった。
へんな、妙な、ストーリーが作られた。
ほんの一分の間なのに、、。
これは完璧に眠って、夢を観ていますね。
これ夢の世界ですもの。
そして生まれてくるストーリーがひとつも記憶に残らない。
やっぱり夢ですな。
一分にひとつですから、相当な数です。
どれも懐かしい。そして変で、妙だ。
限りなくあるようであった。
「弾き語りの響き」'12.1/4
正月休みになり、部屋でギターもよく弾いた。
冬は乾燥しているのでギターの響きも良い。
新してメロディーをポロポロと弾いていると、
必要なのは、ギター一本とノートだけなんじゃないだろうかなと思えた。
それならば、引越をするにも楽だろうに。今はこんなにも荷物が増えてしまった。
歌が財産であったならなぁ。どこへ行くにも楽だったろうに。
もし上京して来た1979年に戻れるならば、ギター一本とノート、
そしてノートパソコン一台の荷物だけで過ごしたいものだ。
・・・・・・・・・
こうしてギター一本で正月の部屋で弾いていると、
やっぱりボブ・ディランの最初の弾き語りの頃の歌が似合う。
ギター一本で、ニューヨークに出て来た頃のアルバムの歌が。
まさにその頃は、弾き語りが生活であったろう。
アルバムを聴いても、そんな響きがある。生活が見えてくる。
それは高校時代、僕が憧れた響き。
やがては、バンド録音のアルバムになってゆくのだけれど、
弾き語りのアルバムは、ただ単にソロという感じではない。
そこから生活の続きが見えてくるようなのだ。
「今日は何曜日?」'12.1/2
久し振りに今日が何曜日だかわからない。
ニュースも見ていないし、テレビ番組も通常ではない。
たぶん、こんなことは一年中でもないだろう。
ケータイに曜日も小さく表示されているが、もう老眼なので読めない。
昨日、いろいろやろうと思ったこともあったが、とりあえず眠った。
だって今日は何曜日だかわからない一日なのだから。
ちょっと日付をさかのぼれば、曜日はわかるのだが、
今もそこまで頭が働かない。
僕の目からは、世界が何曜日がわからないのだ。
こんな日があってもいい。
数日たてば、ニュースでも曜日を言うだろう。
そこから今年を始めようかな。
「大晦日2011」'11.12/31
2011年も、いよいよ大晦日となった。
今年も新曲も作った。
思い出してみると、一曲をのぞいて、
ライブの当日に集中して、ほぼ即興のようにして生まれた歌であった。
今年の成果としての楽曲は、そうやって出来た歌。
時になった果実のように。それは楽曲となり残った。
不思議なことだな。次の日であったら、違うメロディー違う歌詞になっていたであろう。
もう、自分の中では、新曲を作るということはそういうこととなりつつある。
そういう覚悟があるから、出来るのであろう。
歌を作り始めた頃には、想像もしていなかったこと。
2011年、大晦日。
また来年もがんばる予定。
「遠くの像」'11.12/29
実家のある柏崎に、ひとつの像がある。
今はもうない野外ステージに立っていた「ラッパを吹く天使」の像だ。
それを見上げたのは、僕は中学生のとき。ギターを弾き音楽を目指した頃。
それ以来、僕はラッパの天使に心通わせていた。
相手は喋りませんけど。
東京に出てきて、しばらくしたら野外ステージはなくなった。
そしてもう会えないと思ったラッパの天使。
それからずいぶんたってからのこと。柏崎の町を散歩していると、
柏崎小学校のそば、横断歩道の木陰にそのラッパの天使を見つけた。
野外ステージはなくなったが、ラッパの天使はなくならなかったのだ。
心ある人のやさしい思いがそうさせたのであろう。
柏崎と300キロも離れているが、僕の心は、今でもあのラッパの天使とつながっている。
みんな、それぞれにそんな像が人あるであろう。
それでよい。何百キロと離れていても.。
毎日、毎日、想い出すわけではない。
こうやって時々、一年に数回。
「動くフレッド・ニール」'11.12/27
もう10年もネットでフレッド・ニールの動画を探していた。
何度検索しても何度検索しても、フレッド・ニールの動画はなかった。
フレッド・ニールは、'60年代初頭よりのニューヨークのフォークシーンで活躍した人で、
その楽曲は多くの人に取り上げられていて、誰でも知ってる楽曲では、映画「うわさの男」の主題歌がある。
なんと言ってもフレッド・ニールの魅力は、あの低音と12弦ギターの響きだろう。
そのサウンドは、フォークというジャンルも越えて、フレッド・ニールならでは世界を作っている。
アルバムも四枚以上出ていて、僕はよく聞いた。何度聞いてもあきることがなかった。
僕もフレッド・ニールのような低音で歌ってみようと真似してみたが、まったく出来なかった。
多くの人に唄われている「ドルフィン」という楽曲があり、僕も日本語で歌っている。
しかし何度歌っても、フレッド・ニールのような雰囲気は出せない。
歌ってみると、どうしても歌い方が似てしまう。それほどまでに原曲の印象は強烈だ。
そんなフレッド・ニールの動画は10年探してもなかったので、もうないものだと思っていた。
ないものだと思っていたが、最近ひとつ見つけた。
1977年の映像ではあるが、その「ドルフィン」を歌っていた。
僕の想像する歌い方をすべて越えていた。余裕があり、
口から魔法のようにメロディーが出てきていた。12弦ギターも深い響きがある。
そしてイルカが見えた。
フレッド・ニールの動画は、これひとつしか見つけられないが、
それでも充分に伝わってくるものがある。
「鳩の横断歩道渡り」'11.12/25
下町を歩いていた先日のこと、数羽の鳩が、
道幅5メートルほどの横断歩道を渡るのを見た。
トコトコと。
おお、鳩さん、よくぞここを選んだ。
鳩知恵なのか。
信号が青であるか赤であるかは関係がない。
車は止まらねばならない。
それはワンちゃんであってもいい。ネコちゃんであってもいい。
ねずみくんでも、鳥さんでも。
それにしても、鳩はゆっくりであった。
たぶん真ん中で飛び立ったであろう。
横断歩道の信号機のマークに、
人の他に鳩をつけねばならない。
青になったらポーポーポーと音がしないといけない。
鳩はもう信号を理解している。
「貯金箱を持ち歩きたい」'11.12/23
ちょい我慢。
缶コーヒー、他
120円もたまれば山となる。
食べたつもり、飲んだつもり、買ったつもりであっても、
お財布の中には、お金がそのまま残る。
そのぶんすっと財布からへって、貯金にまわればいいのに、
借りているお金が、カチッと数字がへればいいのに。
それが無理だとしたら、
貯金箱を持ち歩きたい。金額の数字が出たらいいな。
財布の裏側がベストだが、
でも分厚くなってしまうのは困る。
貯金箱を持ち歩きたい。
無理ではない夢。
「街のようなアルバムを作ろう」'11.12/21
本屋がある。文具屋がある。お菓子屋がある。
楽器屋がある。パン屋がある。金物屋がある。
街のような音楽アルバムを作ろう。
もう、なかなかそんな街はないかもしれないが。
僕の好きな街のようなアルバムにしたい。
バーがあってもいいな。飲み屋があってもいい。
スポーツショップがあってもいいじゃないか。
そうだ食堂も作らないと。服屋も作らないと。
あと床屋だ。靴屋もいる。レコード屋も、電気屋も。
ちょっと欲張りすぎたかな。
まあ、街のようだなと思えれば良い。
喫茶店も作ろう。ゲームセンターも作ろう。
今はもう、街が街ではなくなったようだ。
何でも自宅で買える。コンビニエンスストアーでそろう。
ちゃんと出かける街にしたい。
7曲目においでませ。
「変化」'11.12/19
歩くとき、後ろにも道がある。
それは背中の方。振り向けばそこに続く道もある。
先日のこと、夜道で携帯を見ていて花壇につまづき、
背負い投げされたように、マンション横でひっくり返ってしまった。
手には携帯を持ったまま、きれいな夜空を観てしまった。
背中をどーんと打って。
なんとも不思議な景色だった。なぜにみごとに背負い投げをされて、
携帯を持ったまま、夜空を観ているなんて。
次ぎの日から、僕の中で変化が起こった。
いろいろ振り返っていたことも、もうしなくなった。
こんなことってあるんだな。
このままゆけるかもしれないと思っている。
まだ計画は、目に見えて進んではいないのだが、
来年から本格始動するであろう。
何か活動を始めるというわけではなく、自分自身のこと。
「自由自在に体がつる」'11.12/17
ここ数年、老眼で苦しんでいる。
筋肉痛でも苦しみ、疲れもなかなかとれない。
早くも走れない。睡眠不足も乗り越えられない。
体のあらゆることが、自分の思うようにならない。
それなのに、ひとつだけ自由自在になることがある。
それは、、イメージすると体のその部分がつるのである。
手がつるなと思えば、手がつる。足がつるなと思えば足がつる。
まぶたがつるなと思えばまぶたがつる。
自由自在である。自分でも不思議だ。
でも、そんなことあるか?? ないよな。
やっぱり考えるに、体がつるちょっと前に予感がするんじゃないかな。
予感がすると、そこがつる。
ようするに、体がつりやすくなったとうことか、、。
「人そっくり」'11.12/15
先日、友達にそっくりな人に会い、声をかけてしまったと書いた。
「あっ、すいません人ちがいです」と、普通なら言う。
相手も心の中で、(なんだ、人ちがいするなよー)と思うであろう。
しかし、背の高さ、着ているもの、やせぐあい、帽子、横顔まで似ていた場合、
声をかけても、それはしかたがない。
人ちがいというレベルとはちがう。
「人そっくり」だ。
こんなときは「すいません、人そっくりでした」と、言いたい。
相手も心の中で、(まあ、人そっくりならしかたがないな、、)と思うであろう。
今度はそう言ってみようかな。
「そっくりな人」'11.12/13
先日のことだが、西荻窪で友達と思われる人の横顔を見た。
その人はガラス窓の向こうで横向きに座っていた。
僕の知るその友達と、背丈が一緒であった。(185センチくらい)
僕の知るその友達と同じように黒い色コートを着ていた。
僕の知るその友達と同じ黒いベレー帽をかぶっていた。
僕の知る友達と横顔がそっくりであった。
僕の知る友達はほぼいつも西荻にいる。
それで、ガラス窓を叩いてみたんですよ。友達だと思って。
その人は振り向いたのですが、微妙に顔がちがった。
妙に老けていた。(もしかして友達だったかもしれないが・・)
その人は僕を知らない人のように見たので、人ちがいであったのであろう。
人ちがいで実際に声をかけたなんて、人生で何回あったろう。
もしかして初めて??
僕は「すいませんでした」と、謝ったが、
さて、あの人はどう思ったであろう。
(なんだよー、人ちがいするなよー) と思ったであろうか。
しかし、ここには大きな真実がある。
それだけ似ている人がいるんですよ。
たぶん、人ちがいで声をかけられたのは初めてではないだろう。
もしかしたら、知っているかもしれないですが。
僕だって、そんなふうに声をかけられたなら、
そっくりな人がいるということです。
「バスのエンジン音」'11.12/11
バスに乗った。
一番後ろの席に座ったら、いつものようにごーごーと音が聞こえた。
いつものことなのであまり気にしなかったが、それはバスのエンジン音。
信号で止まり、また動くごとにごーごーと鳴る。
あと音、懐かしいね。
僕の小さい頃から、ほとんど変わっていない。
実家にいた頃はバスに乗るというと、どこかに出かけるということであった。
あの気持ちと今もリンクしている。
バスに乗るときは、ここずっと一番後ろの席が多い。
(ふた昔前は、電車のようでしたが・・)
それにしても、あのバスのエンジンはどうなっているのか。
ベルトか何かでエンジンを回しているのか。
あの低音、人間的でなんだかあたたかいよね。
いや、あくまでもバスなんだよ。
人のほうが、あのバスに似ているときがあるんだ。
「ヨット」'11.12/9
なんだかヨットのような気持ち。
部屋やお店の中にいても、
海図のどこかにとどまっている。
風はなくても、それぞれの陸地のパワーがひきつけている。
行きたいところ、呼んでいるところは、ひとつではない。
今、自分のいるところが、常に漂っている所。
回りには広い海が見える。
どこからも少し遠くて、ヨットのような気分。
ヨットはやがて自然にすすむであろう。
ひとりひとりがそんなヨットのようだ。
居酒屋で飲んでいても。お店の席でならんでいても。
ひとりひとりがヨットのようだ。
「蓮の花のように」'11.12/7
こんなに眠くてどうすんの?
仕事で長靴を一日はいたりすると、体が強力に疲れてしまう。
次の朝に起きるのが、かなりきつい。
起きて、お茶を飲んだり、ネットのエッセイを更新したり、
それでも出かけるときは、まだまだ眠い。
電車に乗っていると、自分がふらふらしているのがわかる。
ひと駅ごとに、半眠りになってしまい、着くのが長い長い、
幻聴まで聞こえるようだ。
仕事の事務所のある駅を降りて、15分ほどの道を歩いてゆく、
途中で缶コーヒーなどを飲んで。
目が覚めてから、2時間半ほどたってる。
ここまで来て体がやっと、はっと目覚めてくるのがわかる。
まるで蓮の花が、ぱっと最初のひとひらきをするように。
そのひとひらきを感じると、もう大丈夫。やっと今日の始まりとなる。
それで思ったことは、蓮の葉は最初のひとひらきがあれば、
あとは自然に花は開く。
それまでが肝心。そう思います。
「録音・ビスケットのような時間」'11.12/5
先日のライブの音源を聴いてみた。
やっぱり、ライブということもあり、空間に唄を塗り込んでゆくようであった。
左官屋のコテさばきのように。
まあ、もともと左官屋ではないわけだから、そんなに丁寧なことはできない。
どの唄をうたっても、多少ダイナミックになってしまうわけです。
どう言うのかな。まだ唄の気持ち分けが出来ていないと言うか。
そのスペース全体に声を満たそうとするんです。
それは音響に任せれば良いのですが、ついつい。
・・・・・・・・・・・
そのライブで唄った歌と同じ歌が、CDアルバムにも入れてあり、
ライブの後で聴いてみると、まるで違う時間の中に、その歌があるような気がした。
だいたい歌の直径が1メートルくらいで。
歌詞もメロディーも美味しく美味しく歌われていた。
でも、今日、明日、同じようにまた歌えるかというと、きっと出来ないだろう。
あの録音していた日々の時間には、すっと戻れないからだ。
いま想えば、まるでビスケットのような時間にいたような気がする。
ビスケットのような時間の中で、ビスケットをように歌を録音したようだ。
アルバムを聴いたときにそう思ったのだ。
それが伝わるといいなと思う。
「はなれのうた」'11.12/3
仕事にて、大きな庭付きの一軒家に行くこともあるが、
門を開けてもらい、庭を進んでゆくと、
そこに「はなれ」の家があることも多い。
物置風の小屋もあれば、住居となっている場合もある。
どの「はなれ」も、緑に囲まれて。
(あっ、はなれだ・・)と、心でちらっと思いながら庭を抜けてゆく。
そしてまた帰りにも、ちらっと見て、また門を出てゆく。
するとどうだろう。
なにか、ひとつの「唄」がそこにあるような気がしたのだ。
遠いいつかの記憶とリンクしたのであろうか。
一軒家の庭のはなれには、それぞれに別の「唄」がある。
今はもう、物語は続きではないかもしれないが、
その昔、いやちょっと前、もうちょっと前かもしれないが、
そこに物語があって、それは唄となっている。
大きな門の中、みどりに囲まれたまま。
「荘」'11.12/1
なぜだろう。
私の携帯電話は「荘」と、漢字で打とうとするけれど、
「そう」が「荘」に変換できなくて困っている。
私の住んでいるアパートは「荘」が付いているので大変に困る。
漢字に変換するとき、候補の漢字が出てくるのだが、
その中に「荘」がないのだ。
しかし、いつもなら熟語の変換で出すとその漢字は出てくるので、
困ることはないのだが、
「荘」の熟語がない。。
「壮」はあるのだが、、。
これき考えるに、携帯の漢字変換を作る人が、
「〜荘」という住所表記をコロッと忘れてしまっているのではないか。
コロッととね。
たいへんに困っている。
(書いていて、わかりました。「別荘」「荘厳」って熟語がありましたね・・。すんません。)