東京裁判判決(部分)
東京裁判は通称で、正式には極東国際軍事裁判所(International Military Tribunal for the Far East)と言う。
極東国際軍事裁判所は連合軍司令官マッカーサーの定めた裁判所条例に従って設置され、オーストラリア・米国・英国・中華民国・ソ連・カナダ・ニュージーランド・フランス・フィリピン・オランダ・インド、11カ国の裁判官によって行われた。
極東国際軍事裁判所の判決に示されているソ連の対日参戦が正当であるとの認識は、連合国一致の見解であり、日本政府もその判決を受諾しているものであるので、単に、ソ連側の主張と解釈することはできない。
極東国際軍事裁判所の判決概要
1946年1月19日、ポツダム宣言第10条(一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ)、および降伏文書に基づき、「極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)」が制定された。さらに、1946年5月3日、同条例に基づき、極東国際軍事裁判所が開廷、A級戦犯の裁判が始まった。裁判は2年半の審理の後、1948年4月16日に結審し、長い休廷に入り、結審後半年以上たった、11月4日午前9時30分、判決文の朗読が開始され、11月12日判決文朗読終了、被告への刑の宣告がなされた。
極東国際軍事裁判所の判決文は、次の10章と付属書A・Bからなり、英文で1212ページにのぼっていた。
第一章 本裁判所の設立および審理
第二章 法
一 本裁判所の管轄権
二 捕虜に関する戦争犯罪の責任
三 起訴状
第三章 日本の権利と義務
第四章 軍部による日本の支配と準備
第五章 中国に対する侵略
第六章 ソ連に対する侵略
第七章 太平洋戦争
第八章 通例の戦争犯罪
第九章 起訴状の訴因についての認定
第十章 判定
判決文の読み上げにあたって、ウエッブ裁判長は、これから自分は、ジャッジメントを読み上げる、というところから始めている。即ち、極東国際軍事裁判所のジャッジメントとは、この判決文(あるいはその内容)のことであることを宣言している。
膨大な量のため、判決文の読み上げに7日を要した。すなわち、第1日目の11月4日は、第四章途中まで読まれ、11月5日はさらにこれが続き、11月8日,9日には第五章、11月10日には第六章・第七章、11月11には第八章の途中まで読まれた。
11月12日、最終日には、第八章の残りの部分が読まれた後、第九章「起訴状の訴因についての認定」が読み下された。訴因の一部が削除されて、罪状は10項目となった。引き続いて、荒木被告からアルファベット順に、被告25人に対して、訴因ごとの有罪・無罪の判定が読み下された。その後15分の休息ののち、一人一人を呼び出して「刑の宣告」が言い渡された。
なお、法廷で朗読された判決文は多数意見だけで、少数意見・別個意見は法廷では朗読されず、後日、弁護人と記者団に渡されている。このうち、インドのパル判事の少数意見は、1200ページを超え、判決文(多数派意見)を上回る分量があった。
(参考) 極東国際軍事裁判所の判決書(全文)
極東国際軍事裁判所の判決書は『国立公文書館 アジア歴史資料センター』で公開されており、インターネットで閲覧することが可能。
簡易検索に『A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.160)』や『A級極東国際軍事裁判記録(英文)(NO.160)』などのタイトルか、リファレンスコードを入力し、検索ボタンを押して、資料の画像閲覧ボタンを押すと、閲覧することができる。ただし、資料の写真のため、見づらい所もある。特に『A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4〜昭和23.11.12(判決)』は字が小さく見づらい。
タイトル | 内容 | レファレンスコード 和文 |
レファレンスコード 英文 |
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.160) | 判決 A部 第一章〜 | A08071307000 | A08071271700 |
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.161) | 判決 B部 第四章〜 | A08071307200 | A08071271900 |
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.162) | 判決 B部 第五章〜 | A08071307400 | A08071272100 |
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.163) | 判決 B部 第七章〜 | A08071307600 | A08071272300 |
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164) | 判決 C部 第九章〜 | A08071307800 | A08071272500 |
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.165) | 判決 附属書〜 | A08071308000 | A08071272700 |
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.166) 〜(NO.170) |
パル判決 | A08071308200 など |
A08071272900 など |
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.171) | オランダ ローリング フランス代表裁判官 フイリツピン ハラニリヤ |
A08071309200 | A08071309200 |
タイトル | レファレンスコード |
A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4〜昭和23.11.12(判決) | A08071311400 |
A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.4(第48413〜48674頁) | A08071338600 |
A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.5〜昭和23.11.8(第48675〜49091頁) | A08071338800 |
A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.9〜昭和23.11.10(第49092〜49496頁) | A08071339000 |
A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.11〜昭和23.11.12(第49497〜49858頁) | A08071339200 |
THE PRESIDENT: I will now read the Judgment of the International Military Tribunal for the Far East. The title and formal parts will not be read.A08071339200の368枚目(49854頁)には、刑の言い渡しにあたって、裁判長が述べた言葉が記載されている。被告人の刑は「sentences(複数)」であって、判決を意味する「judgment」とは区別されている。被告人が複数いたので、sentenceは複数になっている。
(裁判長:本官は、これから極東国際軍事裁判所の判決を朗読します。表題および形式的の部分は朗読しません。)
THE PRESIDENT: In accordance with Article 15-h of the Charter, the International Military Tribunal for the Far East will now pronounce the sentences on the accused convicted on this Indictment.
(裁判長:極東国際軍事裁判所は、本件の起訴状について有罪の判定を受けた被告に対して、裁判所条例第十五条チ号に従って、ここに刑を宣告する。)
このほか、裁判記録・判決の抄訳が出版されている。
『東京裁判 上巻・中巻・下巻』 朝日新聞法廷記者団/編 東京裁判刊行会(1962)
サンフランシスコ条約11条の訳語
2005年の5月頃、右翼・右翼学者・右翼作家・などが、靖国問題に関連して、サンフランシスコ条約11条の訳語が誤訳であるとの説を盛んに唱えたことがある。あまりにも低レベルな誤りで、議論するのもばかばかしい気もする。
東京裁判 朝日新聞法廷記者団著 東京裁判刊行会発行(昭和52年3月15日) から
三、ソ連に対する侵略
中立条約
ソビエト連邦に対するドイツの攻撃
前に述べたように、一九三一年と一九三三年に、日本はソビエト連邦から中立条約の締結を求められたが、それを拒絶した。一九四一年までには、ドイツとイタリアを除いて、日本はほとんどすべての国との友好関係を失っていた。国際情勢が非常に変化していたので、日本は十年前に拒絶したことを今度は喜んで行なう気になった。しかし、この気乗りは、何もソビエト連邦に対する日本の態度の変化を示すものではなく、この国に対する日本の領土獲得の企図が減じたことを示すものでもない。
一九四一年四月十三日に、すなわちドイツのソビエト連邦に対する攻撃の少し前、日本はソビエト連邦との中立条約に調印した。この条約は、次のことを規定した。
第一条
『両締約国は両国間に平和及友好の関係を維持し、且相互に他方締約国の領土の保全及び不可侵を尊重すべきことを約す』
第二条
『締約国の一方が一又は二以上の第三国よりの軍事行動の対象となる場合には、他方締約国は該紛争の全期間中中立を守るべし。』
日本政府は、その当時に、防共協定と三国同盟とによって、ドイツに対する約束があったので、この条約に調印するにあたってはその立場が曖昧なものであった。日本政府が中立条約に調印した行為は、さらに一層曖昧なものであった。この政府が調印したときに、それはソビエト連邦に対するドイツの攻撃が切迫していたことを予期するあらゆる理由をもっていたからである。
すでに一九四一年二月二十三日に、リッベントロップは大島に対して、ヒットラーは冬の間にいくつかの新しい部隊を編制したこと、その結果として、第一流の攻撃師団百八十六箇を含めて、ドイツは二百四十箇師団をもつことになろうと告げた。リッベントロップは、さらに『独ソ戦』の見透しについて詳しく述べ、これは『結局ドイツの偉大なる成功に終り、ソビエト政権の終焉を意味するであろう』といった。
ソビエト連邦に対するドイツの来るべき攻撃は、一九四一年三月に、ドイツの指導者−ヒットラーとリッベントロップと日本の外務大臣松岡との会談において、さらに一層具体的に論ぜられた。
一九四一年三月二十七日の松岡との会談で、リッベントロップは松岡に対して、『東部のドイツ軍はいつでも使用することができる。万一ロシアがいつかドイツに対して脅迫と解釈される態度をとるならば、総統はロシアを粉砕するであろう。ロシアとのこのような戦いは、ドイツ軍の完全な勝利と、ロシアの軍隊とロシアの国家との絶対的破壊で終るであろう、とドイツでは誰でも確信している。総統は、ソビエト連邦に対して進撃した場合には、数カ月後には、ロシアは大国としてはもはや存在しなくなるであろうと確信している』と述べた。
同じ日に、ヒットラーは松岡に同じ趣旨のことを話した。すなわち、大島、オット、リッベントロップの列席している所で、ドイツはソビエト連邦とある条約を締結したが、それよりも一層重要なことは、ソビエト連邦に対して、自己の防衛のために、ドイツは百六十箇ないし百八十箇の師団を使用し得るという事実であるとヒットラーは述べた。リッベントロップは、一九四一年三月二十九日の松岡との会談で、ドイツ軍の大部分はドイツ国の東部国境に集結されていると述べ、ひとたびソビエト連邦との戦争が発生すれぱ、この国は三、四カ月以内に席捲されてしまうという確信を再び表明した。その会談において、リッベントロップは、また次のように述べた。『・・・ロシアとの紛争は、どうしても起り得ることである。いずれにしても、松岡は帰国の上、日本の天皇に対して、ロシアとドイツとの間の紛争は起り得ないと報告することはできないであろう。それどころか、事態は、このような紛争が起りそうだとまではいかないにしても、起ることがあり得ると考えなければならないものである』と。
これに答えて、松岡はかれに、『日本は常に忠実な同盟国であって、共同の努力に対して、単によい加減のやり方ではなく、すべてを捧げるであろう』と保証した。
モスクワで中立条約に調印した後、帰国して間もなく、松岡は東京駐在ドイツ大使オットに対して、『ドイツとロシアとの衝突の場合には、日本の総理大臣や外務大臣は、だれであっても、日本を中立にしておくことはとうていできないであろう。この場合に、日本は必然的にドイツ側に立って、ロシアを攻撃しないわけには行かなくなるであろう。中立条約があったところで、これは変えられない』と述べた。
大島は、一九四一年五月二十日の松岡あての電報で、ワイツゼッカーがかれに対して、『松岡外相が、もし独ソ開戦せば、日本はソ連邦を攻撃すべきことをオットに述べられたることは、ドイツ政府はこれを重要視しあり』といったと報告した。
中立条約を調印する際に、日本政府がとった不誠実な政策は、この条約の調印のための交渉と同時に、ドイツとの間に、一九四一年十一月二十六日に満了することになっていた防共協定を延長するための交渉が行なわれていたという事実によって確認される。防共協定は、ドイツとソビエト連邦との間の戦争が起ってから、一九四一年十一月二十六日に、さらに五カ年間延長された。
ソビエト連邦と中立条約とに対する日本の政策は、一九四一年六月二十五日、ドイツがロシアを攻撃してから三日後に、スメタニンが松岡と行なった会談によって示されている。日本駐在のソビエト大使スメタニンによって、日本は一九四一年四月十三日のソビエト連邦と日本との間の中立条約に従って中立を維持するかどうかと聞かれたときに、松岡は卒直な回答を避けた。しかし、三国同盟は日本の対外政策の基礎であり、もし今次の戦争と中立条約がこの基礎及び三国同盟と矛盾するならば、中立条約は『効力を失なうであろう』ということを力説した。スメタニンとの会談について、松岡が悪質な批評を行なったことに関するドイツ大使の報告については、すでに前に述べた。一九四一年六月、ソビエト連邦に対するドイツの攻撃の少し前に、梅津はウーラッハ公爵との会談において、『日ソ中立条約を目下のところ歓迎している。しかし、三国同盟は日本の外交政策の不変の基本をなしているから、中立条約に対する日本の態度も、従来の独ソの関係が変更を受けるようになれば、直ちに変更しなければならない』と述べた。
日本はソビエト連邦と中立条約を締結することに誠意をもっていなかったが、ドイツとの協定がいっそう有利であると考えたから、ソビエト連邦に対する攻撃の計画を容易にするために、中立条約に調印したように見受けられる。ソビエト連邦に対する日本政府の態度についてのこの見解は、一九四一年七月十五日に、東京のドイツ大使がベルリンあての電報の中で報告した見解と合致する。ドイツとソビエト連邦の戦争における日本の『中立』は、ソビエト連邦に対して日本自身が攻撃を行なうまでの間、ドイツに与え得る援助に対する煙幕として、実際に役立ったのであり、またその役に立つために企図されたようであった。本裁判所に提出され.た証拠は、日本がソビエト連邦との条約に従って中立であったどころか、その反対に、ドイツに対して実質的な援助を与えたということを示している。
ドイツに対する日本の一般的軍事援助
日本は満洲で大規模な軍事的準備を行ない、また同地に大軍を集結し、それによって東方のソビエト陸軍の相当な兵力を牽制した。この事がなかったならば、この兵力は西方でドイツに対して用いることができたであろう。これらの軍事的準備は、ドイツと日本の政府によって、右のような意味のものと見倣されていた。駐日ドイツ大使は、一九四一年七月三日に、ベルリンあての電報で、『なかんずく、右の目的の実現を目途とするとともに、ドイツとの戦いにおいて、ソビエト・ロシアを極東において牽制する目的をもって軍備を増強することは、日本政府が終始念頭に置いているところである』と報告した。
同様にリッベントロップは一九四二年五月十五日に、東京あての電報で、ソビエト連邦に対する奇襲攻撃の成功は、三国同盟諸国に有利に戦争を進ませるのに非常に重要であろうということを指摘したが、同時に、前に述べておいたように、『ロシアは、どんな場合でも、日本とロシアとの衝突を予期して、東部シベリアに兵力を維持しなければならないから』、ソビエトに対する戦争におけるドイツヘの積極的援助として、日本の『中立』の重要性を強調した。
日本、ソビエト連邦に関する軍事的情報をドイツに提供
日本がソピエト連邦に関する軍事的情報をドイツに提供した証拠は、リッベントロップから東京のドイツ大使にあてた一九四一年七月十日の電報に含まれている。この中で、リッベントロップは、『モスクワの日本大使の電報を回送したことに対して、この機会に、日本の外務大臣に礼を述べられたい。われわれがこの方法で定期的にロシアからの報告を受けることができれば、仕合わせである』と書いた。
日本の軍事機関と外交機関から得たソビエト連邦に関する経済上、政治上、軍事上の情報を、日本がドイツに提供していたことを証明する証拠が提出された。一九四一年十月から一九四三年八月まで、参謀本部のロシア課長をしていた松村少将は、参謀本部の命令に従って、参謀本部の第六(ドイツ)課に対して、東京のドイツ陸軍武官クレッチマー大佐のために、極東におけるソビエト軍ソビエト連邦の戦争能力、ソビエト部隊の東方から西方への移動、ソビエト部隊の国内における移動に関する情報を、組織的に提供したと証言した。、
前に東京のドイツ大使館付武官補佐官であったフォン・ペテルスドルフは、日本の参謀本部から、ソビエト陸軍、特に極東軍に関する秘密情報軍隊の配置、その兵力、予備軍について、ヨーロッパ戦線に対するソビエト軍隊の移動について、ソピエト連邦の軍需産業などについての詳細な情報を組織的に入手したと証言した。フォン・ペテルスドルフは、かれが日本の参謀本部から受取った情報は、その範囲と性質において、陸軍武官が普通の経路を通じて通常受取る情報とは異っていたと述べた。
ソビエトの船舶に対する日本の妨害
日本に中立の義務があるにもかかわらず、極東におけるソビエト船舶の航行に対する日本の妨害によって、ソビエトの戦争努力は大きな障害を受けたということを検察側は主張し、そのことを示す証拠を提出した。わけても、一九四一年に、香港で、ソビエト船舶として明白な標識をつけたところの、碇泊中の数隻の船舶が砲撃され、一隻が撃沈されたこと、同じ月に、ソビエト船舶が日本の飛行機からの爆弾によって撃沈されたこと、多数のソビエト船舶が日本海軍艦船によって不法に停船させられ、日本の港湾に護送され、ときには、長期間そこに抑留されたことの証拠があった。最後に、日本は津軽海峡を閉鎖し、ソビエトの船舶がソビエト極東沿岸に行くのに、もっと不便な、もっと危険な他の航路をとらなければならないようにしたと非難された。これらの行為は、すべて中立条約に基く義務を無視して、また日本がソビエト連邦に対して行なおうと企てていた戦争の間接的な準備として、ソビエト連邦をドイツとの戦争で妨害するために行なわれたのであると主張された。
中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。
一九三八年-三九年におけるソビエト連邦に対する日本の攻撃作戦
一九三六年十一月の防共協定に基く日本とドイツの同盟と、一九三七年の盧溝橋事件の後の華北及び華中における日本の軍事的成功とに続いて、日本陸軍は、一九三八年と一九三九年に、ソビエト連邦に対して、まず満洲東部で、次いでその西部で、敵対行為に訴えた。一九三八年七月に、敵対行為が行なわれた場所は、満洲、朝鮮及びソビエト連邦沿海州の国境の接合点に近接したハサン湖地区内であった。それから、一九三九年五月には、満洲国と外蒙古との、すなわち蒙古人民共和国と満洲との、領土の境界線上のノモンハン地区内で、敵対行為が起った。日本側では、これらの作戦行動はどちらも単なる国境事件で、境界線が不明確であったために起り、その結果として、相対侍する両国の国境警備隊の衝突となったものであると主張した。
ハサン湖地区(張鼓峰)における敵対行為
一九三八年七月の初めに、野戦部隊をハサン湖のすぐ西の図椚江の東岸に集結することによって、ハサン湖西方地区の日本の国境警備隊の兵力は増強された。右の河と湖の間には、その河と湖の双方を見下す丘陵が続いており、ソビエト連邦の主張によれば、それらの丘の稜線に沿って、境界線が走っていた。これに反して、日本側では、その境界線はもっと東に寄ったハサン湖の西岸に沿っていたと主張した。
この高地は、図椚江、南北に走る鉄道、並びにソビエト沿海州及びウラジオストック市に通ずる道路を西に見下しているために、戦略上相当な重要性をもっている。日本側から見て、この高地の重要性は、北と東に向う交通線をなしている鉄道と道路に対する観測と攻撃を防ぐことができるということに価値があった。日本側はその軍事上の重要性を認識し、早くも一九三三年において、関東軍はこの地区の地形に関する研究を充分に行なっていた。この研究は、一九三三年十二月に関東軍参謀長から陸軍次官に提出した報告に述べてあるように、『対ソ作戦の場合』を顧慮して行なわれたものである』
ソビエト国境警備隊前哨の当時の報告とその他の証拠は、一九三八年七月中に、日本の部隊集結はますます大規模に行なわれていたことを示している。七月の末以前に、朝鮮軍の約一箇師団が長さ三キロメートルを超えない小さい地区に集結された。田中隆吉少将は、弁護側のために述べた証言の中で、かれが七月三十一日に同地区に到着したとき、日本側は相当の兵力をもって攻撃をしていたと言っている。序でながら、それより前に行なわれた準備に関するかれの証言は、興味深いものがある。かれは七月十五日にすでに同地区を訪れていた。そして、そのときに、ソビエトの軍隊は、西側斜面に、すなわち張鼓峰-ソビエトの解釈によれば、その稜線に沿って境界線が走っているとされた-の満洲側に、壕を掘っており、また鉄条網を張っていたとかれは述べた。それらの防御的措置は、ソビエト連邦軍の意図を示している点に意義がある。しかしながらソビエト人の証人達はかような措置がとられたということを否定している。もしわれわれが田中証言を全部そのまま受け容れたとするならば、これはソビエト軍が満洲領に侵入したということを暗示するかもしれない。しかし、これらの防禦措置に関して、日本側はなんの抗議もしなかった。あとでわかるように、日本側の苦情は、ハサン湖の西側にはどこにもソビエトの部隊を配置すべきではないということにあった。衝突の起る前には、ソビエト国境警備隊は兵力が少数であり、今問題としている地区では、百人を超えていなかった。
日本の部隊がハサン湖地区に集結していた七月の初めごろに、日本政府はソビエト政府と外交交渉を開始した。その目的は、ハサン湖東岸まで、ソビエト国境警備兵を撤退させようというのであった。七月十五日に、モスクワの日本代理大使西は、日本政府の訓令に基いて、ソビエト外務人民委員に対して、ハサン湖西部地方は全部満洲に属すると述べ、同湖西岸からソビエト軍が撤退することを要求した。同じころに、西ヨーロッパで任務に就いていた重光は、日本の要求貫徹を確実にするための訓令を帯びて、モスクワに派遣された。それから会談が行なわれ、ソビエト代表は、境界線はハサン湖の西の高地に沿って走っているのであって、ハサン湖の岸に沿っているのではないと繰返して述べた。この事実は一八八六年の琿春議定書によって裏づけられており、それによって境界線は確定されていると述べた。重光は断固たる態度をとり、琿春議定書に関して、『私の気持としては、この危急の際に、何かの地図のことなどを話すのは不合理だと思います。それはただ事情を複雑にするばかりです』と言った。七月二十日に、重光はソビエト軍の撤退を正式に要求し、さらに『日本は満洲国に対し、不法にも占領された満領からソビエト軍を撤退させるために、実力を行使する権利と義務を持っています』とつけ加えた。
右の境界線の位置の問題に関して、多くの地図が本裁判所に提出され、一枚の地図と他の多数の証拠書類が出された。すでに言及した琿春議定書は、一八八六年に清国とロシアの代表によって調印され、それに境界線を示す地図がついていた。この議定書の中国語の正文にも、ロシア語の正文にも、その地図に言及している。そして、どちらにも、次のような重要な箇所がある。『…………地図上の赤線は境界線の印である。それは分水嶺に沿っており、西に向って流れて図椚江に注ぐ水は清国に属し、東に向って流れて海に注ぐ水はロシアに属する』
境界線を詳細に説明した部分には、双方の正文にわずかな食い違いがある。境界線の正確な位置について、当時いくらか疑問があったかもしれないということは、これを無視することができない。しかし、現存の国際法の状態では、そのような疑問は、たといあったとしても、そのために武力に訴えてもよいというようなものではなかった。
一九三八年七月二十一日に、陸軍大臣板垣は、参謀総長とともに天皇の引見を受け、日本の要求を押し通すために、ハサン湖における武力の行使を天皇が裁可するように要請した。陸軍大臣と陸軍がいかに熱心に軍事作戦行動に訴えることを望んでいたかは、板垣が天皇に対して、ソビエト連邦に対する武力の行使は、海軍大臣及び外務大臣とも協議ずみであり、両大臣とも完全に陸軍に同意しているという虚偽の言葉を述べたことによって明らかである。しかし、その翌日に、板垣が列席した五相会議で、ハサン湖での敵対行為の開始の問題が討議され、そこで採択された決議の中には、『(我方は)万一に備うる為準備を行ないたり。準備したる兵力の行使は関係当時者間協議の後大命に依り発動するものとす』と述べられていた。このようにして、ハサン湖における武力行使の許可が得られた。残る唯一の未解決の問題は、敵対行為を開始する日取りであった。この問題は一週間の後に、すなわち、その高地の丘の一つであるベジミアンナや高地の付近で、日本軍が偵察という形で最初の攻撃を開始した一九三八年七月二十九日に解決された。この攻撃は、おそらく一箇中隊を超えないと思われる小部隊によって行なわれた。この部隊は、この丘に配置されていたソビエトの小国境警備隊を圧倒することに成功した。その日の後刻、ソビエト国境警備増援隊が派遣され、日本軍をその占拠した地点から駆逐した。
七月三十日から三十一日にかけての夜間に、一箇師団を主力として、こんどはザオゼルナや高地として知られていた高地の中の丘の一つに対して、日本側はまた攻撃に出た。証人田中隆吉が弁護側のためにした証言はすでに引用したが、かれが七月三十一日その地区へ帰ったときに、日本軍が大きな兵力で攻撃中であったという事実をかれは確認した。日本軍は満洲領にいたとかれがつけ加えたことは事実であるが、この陳述は、満洲領がハサン湖の西岸にまで及んでいたという日本側の主張に基礎を置いているのであろう。どちらにしても、裁判所は、日本側の攻撃を正当化する唯一の理由となるところの、ソビエト軍が口火を切ったということの証拠を少しも見出すことができない。
この地区の戦闘は、一九三八年の七月三十一日から八月十一日まで続いた。そのときまでには、敵対行為の開始後に派遣されたソビエト側の援護部隊の助けによって、この作戦に使用された日本軍は打ち破られ、ほとんど全滅した。そこで、日本政府は敵対行為をやめ、境界線はソビエト側の主張の通りに、山脈の稜線に沿う線に戻されなければならないということに同意した。
すべての証拠から見て、本裁判所は、ハサン湖における日本軍の攻撃は、参謀本部と陸軍大臣としての板垣とによって故意に計画され、また少なくとも一九三八年七月二十二日の会議に参加した五大臣の許可は受けていたという結論に到達した。その目的は、同地区のソビエト側の勢力を打診してみるか、ウラジオストクと沿海州への交通線を見下す高台の戦略上重要な地点を奪うかの、どちらかであったのであろう。この攻撃は相当の兵力をもとにして計画され、実行されたものであるから、これを国境警備隊間の単なる衝突と見倣すことはできない。日本側が先に敵対行為を開始したということもまた、本裁判が満足するところまで立証されている。使用された兵力はさして大きくなかったが、上に述べた目的と、万一攻撃が成功した場合の結果とは、本裁判所の見解では、この敵対行為を戦争と呼ぶことを充分正当化するものである。その上に、当時存在していた国際法の状態と、予備的外交交渉で日本側代表がとった態度とを考慮すれぱ、日本軍の作戦行動は、本裁判所の見解では、明白に侵略的なものであった。
ノモンハン(ハルヒン・ゴール)の作戦行動:
一九三九年の五月から九月まで続いたノモンハン地方の敵対行為は、ハサン湖における敵対行為よりも、はるかに大規模なものであった。これは黒竜江省に接する外蒙古の東部国境で起った。そのすぐ南は、一九三九年において日本の支配下にあったチャハル省である。
ソビエト連邦に対する日本の軍事計画に関連して、外蒙古の重要性は大きかった。外蒙古は、満洲からバイカル湖の西の一地点に至るソビエト領土と境を接しているために、非友好国によって軍事的に支配されるときは、一般にソビエト領土に対して、わけても、ソビエト領土の西部と東部を結びつけ、外蒙の北部国境とほぼ並行し、それからあまり離れずに長い距離を走っているシベリヤ鉄道に対して、脅威を与えることになるのである。外蒙古の戦略上の重要性は、ソビエト連邦も日本も、ともに認めていた。すでに一九三三年に、『昭和日本の使命』と題する論文で、荒木は外蒙古の占領を唱え、『日本は日本の勢力圏に接触して蒙古の如き曖昧なる地域の存在することを欲しない。蒙古は飽く迄も東洋の蒙古でなければならぬ』と付言した。数年後の一九三六年に、当時関東軍参謀長であった板垣は、有田大使との会談で、次のように指摘した。『外蒙は今日の日満勢力に対し極東ソ領と欧ソとの連絡線たるシベリヤ鉄道の側面掩護の地帯としては、極めて重要性を有す。従ってもし外蒙古にして、我日満側に合体せんか、極東ソ領の安全性は殆ど根底より覆さるべく、また戦わずしてソ連勢力を極東より後退せしむることを得るに至るやも知るべからず。従って軍は凡有手段に依り日満勢力の外蒙古に対する拡充を企図しあり……』
ソビエト連邦は、日本または他の国が行動を起すことがあり得ることを予測して、一九三六年に蒙古人民共和国と相互援助条約を締結し、これに基いて、ソビエト軍は蒙古のいくつかの町に駐屯していた。こうして、ノモンハンで敵対行為が発生する少し前に、いくらかのソビエト軍が外蒙古の東部に派遣されていた。
敵対行為は、一九三九年五月十一日に、数百名に及ぶ日本軍偵察隊が蒙古側国境警備隊を攻撃したことで開始された。この日から、その月の二十七日までの間、少数の日本軍がさらに攻撃を加えたが、すべて撃退された。この間に、両軍とも増援部隊を派遣していた。五月二十八日に、飛行機、砲、戦車の支援のもとに、戦闘が再び大規模に開始された。それから後、戦闘はますます大規模に展開され、日本側が敗北を認めた九月になって、ようやく終った。
使用された兵力の大きさを正確に述べることはむずかしいが、それが大きなものであったことは、死傷者総数に関するいろいろな推定数と作戦行動の行なわれた地域とからして判断することができる。戦死、負傷、捕虜による日本側の損害は五万人を超え、蒙古とソビエト側の損害は、九千人以上であった。作戦行動は、正面五十ないし六十キロメートル、深さ二十ないし二十五キロメートルにわたっていた。
この事件についての弁護は、ハサン湖事件の場合と大体同じである。すなわち、この事件は、外蒙と満洲との国境の正確な位置に関する紛争について、国境で起った衝突にすぎないというのである。日本側の主張は、戦闘が起った地域では、国境はハルハ河であり、この河はこの地点で西北の方向に流れているというのであった。これに対して、蒙古側の主張は、国境はハルハ河の東方約二十キロメートルの所であるというのであった。国境の位置について、多数の地図が提出され、多くの証拠が挙げられた。その上に、この衝突の前暫くの間、蒙古側国境警備隊に勤務していた者によって、かれらが国境であると主張する線に沿って、国境線は国境標識ではつぎり示されていたという証言がなされた。ここで、国境の位置を決定することは必要ではない。それについては、その後に協定がなされた。本裁判所で決定すべき問題は、発生した戦闘の正当性についてである。
この作戦行動の性格と規模に関する最も有力な証拠は、一九三九年九月五日付の、第六軍司令官布告である。これは押収された日本側文書の中にある。それには、次のように書いてある。
『第六軍の再編成を行なう様に指令は前に発せられたにもかかわらず、その指令が遂行されなかったために、西北地域の防備の大きな使命実現が失敗に帰した事を残念ながら慈に認めなければならない。我軍は満洲及蒙古国境の変則な戦の渦中に投ぜられた。斯る行動は前線において十日以上の間続き今日に至っている。小松原中将の率いる諸部隊の勇敢にして断乎たる措置により交戦中の混乱は減少した。現在我軍は新攻撃のためにジンジン・スメ地方に準備をしつつある。
関東軍司令官は、この秋に満洲に駐屯する最精鋭部隊を送って我々を援助する事を決し、彼はそれら部隊を将来の戦場となるべき所に移動せしめ、彼等を我が指揮下において、争いか解決せしむるため、緊急な方策を計画している。今や問題が既に単なる国境紛争の域を超えている事態にあることは明らかである。我々は今や中国において聖戦を遂行しており、複雑な内外状勢の諸条件下に於て此の紛争における如何なる変化も極めて大なる国家的重要性を持つことになる。我軍の諸行動が遂行せらるべき道は唯一つしかない。それは即ち我軍を一致団結せしめ、速に敵に壊滅的打撃を加えて以て増長して行く其の傲慢不遜を絶滅する事にある。現在の所、軍の準備は着々運びつつある。我軍はこの秋が来ると共に、一撃のもとにこの鼠退治を終了して、世界に対し誇らかに精鋭皇軍の威力を示すであろう。将兵も現在の状態の重要性を充分理解している。全軍は、一兵から幹部に至るまで断乎たる攻撃精神に充ちて居り、勝利を確信している。軍は常に我が大元帥陛下への深い忠誠をもって、喜んで到るところ敵を粉砕撃滅するものである』
蒙古またはソピエトの軍隊が先に戦闘を始めたということの立証を、弁護側が本気に試みたことは一度もなく、弁論の際にも、そうであると主張されたこともない。これに対して、検察側では、この作戦行動に参加した証人を出廷させた。この証人は、敵対行為は日満側軍隊によって始められたといっている。本裁判所は、この点については、検察側の証拠を受け容れるものである。この紛争のための準備が関東軍の手によって行なわれていたことは疑いがないが、参謀本部または政府がこの敵対行為の開始を認めていたかどうかをわれわれに判断させ得る証拠は、一つも提出されなかった。本裁判所が言い得ることは、せいぜいのところ、少くとも日本の参謀本部と陸軍省があらかじめ知っていないで、このように広汎な規模で作戦行動が行なわれたということは、ありそうもないということだけである。この事件が発生してから間もなく、当時総理大臣であった平沼は、陸軍大臣板垣から、この事件の発生を知らされた。本審理前の訊問の際に、かれは板垣に対して敵対行為を中止するように要求したが、『何等の指令も出すことはできなかった』し、また『軍部は違った見解をもっていた』といっている。従って、この紛争のごく初期の段階において、平沼も板垣も事態を充分に承知していたことは明白である。しかも、両人の中のどちらかが、この紛争の継続を阻止するために、何かしたという証拠は少しもない。
ハサン湖事件の場合と同じように、日本軍は完全に敗退した。もし日本軍が勝ったとした場合、その後どんなことが起ったであろうかということは、まったくの想像に属する。しかし、日本軍が敗れたという単なる事実によって、この作戦行動の性格がきまるものではない。これらの作戦行動は、四カ月以上の期間にわたる大規模なものであった。第六軍司令官の布告から見てわかるように、明らかに日本軍が慎重な準備の後に企てたものであり、その意図は、日本軍に対抗する敵の軍隊を殲滅することであった。従って、この事件が対立する国境警備隊間の単なる衝突であったという主張は、成り立たない。これらの状況のもとにおいて、本裁判所は、この作戦行動は日本側によって行なわれた侵略戦争というべきものであると認定する。
宥恕の防禦
ハサン湖とノモンハンの両戦闘に関する弁護側の補助的主張は、どの戦闘も、日本とソビエト連邦の両政府の間の協定で解決されたということである。一九三八年八月十日に、重光とモロトフによって署名された協定で、ハサン湖における戦闘は終った。双方とも敵対行為が開始される前にそれぞれが占めていた位置に後退し、その後は平静が回復されたのである。
. ノモンハンで戦闘が終ってから長い間経って調印された一九四〇年六月九日の東郷・モロトフ協定で、日本とソビエト連邦は、外蒙古と満洲との間の境界線について協定した。これらの協定に続いて、一九四一年四月に、日本とソビエト連邦との間の中立条約によって、一般的解決が行なわれた。
これらの三つの協定に基ずいて、弁護人は、二種類の協定−一つは特殊的、一つは一般的−が結ばれた以上は、これらの問題を今になって再び取り上げることはできないと述べ、それによってこの点に関する弁論を結んでいる。弁護側の弁論の基礎になっているこの三協定の中のどれにも、まったく免除の特権が与えられておらず、刑事上またはその他の責任の問題も取扱われていなかった。従って、本裁判所は、これらの協定は、この国際裁判所で刑事訴訟を行なうことに対して、少しも妨げになるものではないという見解をもつものである。国内的のものにせよ、国際的のものにせよ、刑事責任の問題については、どのような裁判所であっても、明示的にせよ、黙示的にせよ、犯罪の宥恕を黙認することは、公の利益に反することになるであろう。
蒙古が独立していなかったとの防禦
被告東郷の弁護人は、大体に訴因第二十六に対する弁論の中で、『いわゆる蒙古人民共和国』が一九四五年までは中華民国の不可分な部分であって、主権国家ではなかったということを理由にして、この訴因は証明されていないと主張した。本裁判所は、外蒙古の地位に関心ももっていないし、それについて決定する必要があるとも考えない。われわれは意図が最高の重要性をもつ刑事問題を取扱っているのであって、蒙古人民共和国の地位を正式に承認した日本政府の文書による約束を今になって弁護側が否認することを許すことはできない。被告東郷が日本の名において署名したソビエト連邦と日本の政府との間の一九四〇年六月九日の協定で、満洲と外蒙古との間の境界線を確定するための規定が設けられた。すなわち、締約国は、それぞれ蒙古人民共和国と満洲国のために、その協定に同意するということを述べたのである。
このように明白に外蒙古の主権国としての地位を承認した以上、またこれに反する証拠がない以上、今になって被告がこの点は証明されていないと申し立てても、それは聞き入れられるものではなく、外蒙古が一九四五年までは中華民国の不可分な部分であった事実を、裁判所が裁判上顕著な事実として認めるように申し立てても、これも聞き入れられるものではない。
北方領土問題の先頭ページへ | 北方領土問題関連資料のページへ |