北方領土問題に関する 私の独り言 

ぶつぶつぶつ






日本漁船の不法操業事件(Blogから転載)

 8月16日、歯舞沖で密漁中していた日本漁船が、ロシア警備隊から銃撃を受け、漁船員1名が死亡する事件がありました。

 ロシアは、これまで経済不振のため、沿岸警備艇の燃料も、ままならない状態にありました。北方4島周辺海域の密漁船対策も、おろそかになっていました。経済の好調に伴って、ようやく、密漁船対策が取られてきたようです。北方4島周辺海域は、領土問題があるので、日ロ双方の主張が異なるところですが、密漁船対策と資源保護は、日ロ双方共に、きちんとやって欲しいものです。

 今回、密漁が行われた海域は、北海道の規制でカニ漁が禁止されています。このため、今回の密漁船は、日本の国内法の違反でもあるわけで、そういう意味では、責任のすべては、密漁船、特に船長に有ります。しかし、北海道規制をまもらせることができなかった、日本の警備当局にも落ち度が無かったとはいえません。本当は、お盆で、日本の警備が手薄なときを見計らって、密漁に出たのでしょう。

 この海域には、かつてレポ船と呼ばれる漁船がありました。レポ船とは要するにスパイ船です。日本の情報をソ連に渡す代わりに、不法操業をお目こぼし、してもらう船です。日本の情報ではなくて賄賂の場合もありました。レポ船は用済みになると拿捕されることが有りました。レポ船は、次第にソ連が必要としなくなり、姿を消してゆきます。
 そのうち、特攻船といわれる漁船が現われました。高速エンジンを積んで、見つかると、高速で逃げ切る船です。特攻船は、資源破壊につながり、日ロ双方が手を焼く、犯罪船です。特攻船の場合も、ロシア側は、かなり正確に情報をつかんでいたそうです。
 日ロ貿易が盛んになると、これらの船の話もあまり聞かなくなります。

 レポ船や特攻船の船主は、地元では「やくざ」だったことがあったそうです。丘では「やくざ」、海では「犯罪船」。今回の密漁船長がどのような人だったのかは、今のところ情報がないので分かりません。
 北の漁師のごく一部には、密漁(国内法違反)で大もうけしている不心得者がいることは確かです。しかし、圧倒的大多数の漁師は、法を遵守して、まじめに漁をしています。密漁は、漁業資源に悪い影響を与えるので、まじめな漁師にとっては迷惑な行為です。


日本の法律は、北方領土に及ぶか:
 今回の密漁事件に対して、「北方領土は日本の領土なので、日本の法律で裁くべきであった」との意見があります。この問題に対しては、1966年の北島丸事件が参考になります。

 1966年8月21日、北島丸は、クナシリ沖に於いて、ホタテの密漁をしたため、日本の警備当局に逮捕されました。この1審判決が、1968年3月29日、釧路地裁で言い渡せれています。現実に統治権の及ばない南千島海域での行為は、日本の法律を適用できないとの判断で、被告全員に対して無罪判決が言い渡されました。
 北島丸事件は、その後、札幌高裁の控訴審で、「漁業法は資源保護の立場から無許可の操業を禁じており、わが国の統治する海域に限られるべきではない」との理由で、逆転有罪となり、この判決が確定しています。控訴審判決は、現実に統治権の及ばない海域での行為に、日本の法律が適用できるか否かの判断を避けています。

 今回の密漁は、北島丸事件の控訴審判例によれば、日本の法律(漁業法)で裁けると言うことになりますが、現実に統治権の及ばない海域での行為であっても、日本の法律が適用できるとの判断がない以上、「日本の法律で裁くべき」問題とは言えないでしょう。 (2006年08月19日)


ロシアの密漁取り締まり(Blogから転載)

 8月16日、歯舞沖で密漁中していた日本漁船が、ロシア警備隊から銃撃を受け、漁船員1名が死亡する事件がありました。

 ロシア近海では密漁が盛んです。ロシア経済が苦境に立たされていた頃は、警備艇の燃料もままならない状態で、密漁は野放し状態でした。このような状態が続いたら、漁業資源が枯渇してしまいます。幸い、経済の立ち直りにしたがって、密漁を取り締まれるようになってきたようです。

 少し古いのですが、2003年のノーボスチ通信の記事によると、ロシア船と中国船による密漁取締では、航空機による、射撃も行われています。

@2003年7月31日、サハリン北端沿岸水域でパトロール中の警備艇は不審船発見、しかし不審船長は警備艇の呼びかけにも応えず、高速で中立水域への逃走を図った。不審船の捜索には国境警備隊所属の航空機An-72型哨戒機も加わり、約1時間後に同船を発見、停船命令を呼びかけたが、不審船はなおも逃走を継続した。哨戒機は威嚇射撃をした後、照準を合わせ、本格的な射撃を開始した。射撃が開始された後初めて密漁トロール船は停船した。不審船は、ロシア船籍の密漁トロール船「グラント」号で、乗組員のうち3名が負傷した。

A2003年8月19日夜、太平洋で操業中だった中国の密漁船に対し、ロシア国境警備隊の航空機が威嚇射撃をおこなった。
 ロシア領海内の太平洋で操業中だった中国漁船には、何の認識票もなく、船尾にも国旗が掲げられていなかった。パトロール中の国境警備艇に気がついた同密漁船は、高速で逃亡を図ろうとし、また同船の船長は警備艇が発する国際信号にも応答しなかった。長時間の追跡劇の後、An-72型哨戒機が飛来し警備艇を支援。密漁船がようやく停船したのは、威嚇射撃を受けたあとのことだった。 (2006年08月19日)






日ソ中立条約 (Blogから転載)

 ソ連の対日参戦を日ソ中立条約違反とする主張があります。国際法や国際政治の専門家ならば、それぞれいろいろな考えがあるのでしょう。法的には、次のようになります。裁判では、唯一の確定判決である東京裁判で、ソ連対日参戦は正当なものと認定されている。政治的には、日ソ共同宣言で、正否判断無しに、解決済みの問題である。
 なお、ソ連対日参戦は米大統領ルーズベルトの提案によるものですが、提案者米大統領を不当と非難する意見を日本であまり聞きません。


まず、日ソ中立条約は、四条よりなる、短い条約です。

 第一条 両締約国は 両国間に平和及友好の関係を維持し 且 相互に他方締約国の領土の保全及不可侵を 尊重すべきことを約す
 第二条 締約国の一方が 一又は二以上の第三国よりの軍事行動の対象と為る場合には 他方締約国は該紛争の全期間中 中立を守るべし
 第三条、第四条 (有効期限に関する条文)
 

 ソ連の対日参戦を日ソ中立条約違反とする主張の根拠には、大きく分けて次の3つがあるようです。

 @第一条違反とするもの、あるいは第一条前段違反とするもの
 A第一条前段を訓示規定とみなして、第一条後段違反とするもの
 B第二条違反とするもの

 @の主張は、東京裁判で弁護側が行ったものです。判決では、完全に否定されています。関東軍特別大演習をみれば、「両国間に平和及友好の関係を維持し」に日本は違反していたことは明白でしょう。
 第一条前段違反は、日本もソ連も同じでした。詳しく数えると、双方共に200回以上の第一条前段違反があるそうです。

 Aの主張は、@の主張が否定されたために考え出されたものと思います。第一条に「且」の文字が入っているので、前段を訓示規定、後段を実質規定とみなしうるのか、こような解釈がそもそも可能なのか、疑問です。
 さらに、「締約国の領土」とありますが、締約国の領土とは、ソ連から見たら日本の領土であることは自明です。満州は含まれません。このため、満州関東軍相手の戦闘が第一条後段違反との主張には無理があるでしょう。もっとも、ソ連の宣戦布告は日本国に対して行われたので、このあたりは、どのように解釈すればよいのでしょう。

 Bの主張は無理だと思います。「第三国よりの軍事行動の対象と為る場合」とあるので、他国から侵略を受けた場合のことを言っています。積極的に他国を侵略した場合は、第二条の適用範囲外です。このため、第二条を根拠とするためには、米国が日本を侵略したとの主張が必要になり、戦後の政治情勢を考えたら、このような主張は不可能です。

 ボリス・スラビンスキー氏は「日ソ中立条約」の中で、東京裁判の判決を批判しています。判決では、日本が第一条に違反していたことが指摘されていますが、スラビンスキー氏はソ連も同様に違反していたと主張しています。しかし、この主張は、無意味です。日本が違反していたか否かが、ソ連が不当か正当かに関係してきますが、ソ連が違反していても違反していなくても、ソ連の対日参戦の正当性には関係が無いことです。

 敗戦濃厚になってきた日本政府は、ソ連に対して対米講和を斡旋しようと試みます。この時点で、すでにソ連とアメリカとは、ソ連対日参戦の合意ができていたので、日本の望みはかなうはずも無かったわけです。敗戦間近の侵略国家に、講和を斡旋することがあろうはずも無いので、その点からも日本の望みがかなうはずも無かったわけです。あまりにも甘い日本政府の見通しにはあきれるばかりです。日本政府の甘い見通しに対して、ソ連外務省は明確な態度を示さず、ソ連対日参戦の準備を感ずかれないように情報統制を図っていました。戦争の準備としては、ごく当たり前のことでした。戦争とは敵国を欺瞞するものです。戦争準備期に、正確な情報を与えないことは、ごく当たり前のことです。
  


 作家の、半藤一利氏は、「ソ連が満州に侵攻した夏(1997.7 文芸春秋)」のなかで、次のように書いています。

 ソ連の侵攻にたいして、いまなお多くの人は中立条約侵犯を厳しく告発する。本文中にその点については明確にしておいた。が、書きづらいことながら、昭和十六年夏「関特演」作戦計画の実施か否かが真剣に論議されたとき、陸軍中央も外務省もほとんど日ソ中立条約を考慮にいれていない。当時の軍や外交のトップは政治や外交は本質的に揺れ動くものであり、約束が紙くず同然になることは百も承知していた。それが世界政治の現実なのである。その非をソ連にだけ負わせるわけにはいかないのである。
 紀元前一五〇〇年から紀元一八六〇年までのあいだに、八千四百の条約が結ばれたが、その寿命の平均は二年であった、という(ジャン・バコン『戦争症候群』竹内書店新社)。この調査以後の百年、平均寿命はもっと短いかもしれない。不戦の誓いは脆いのである。

(2005年06月20日)



日本は国後・択捉を放棄していた(Blogから転載)

 現在、日本国内では北方領土問題と言うと、北方四島の問題です。このため、日本は最初から四島返還を求めていたように、誤解されがちです。実際は、1951年のサンフランシスコ条約締結当時、日本政府の主張は、二島返還論でした。
 現在のような四島返還論になるのは、1956年以降です。(実際にはもう少し早くて、1955年12月から、日本政府内部においても、四島返還論になっています。)
 この間の政府の説明を簡単にまとめて見ました。

 1951/10/19、国後・択捉両島は、サンフランシスコ条約で放棄したことを、西村条約局長は明白に説明しています。西村答弁は、日本国内の四島返還論にとって都合が悪いので、「西村条約局長は混乱してこのような答弁をしたのだ」とか、「まだ、日本は占領下だったので、本当のことが言えなかったのだ」などと、ごまかしが行われます。しかし、実際は、西村答弁だけではなく、草葉答弁や島津答弁も同じように、千島には国後・択捉両島が含まれていると説明しています。さらに、サンフランシスコ条約が発効し、日本国が占領を脱した1年後の、1953/3/5の下田答弁でも、日本の領土問題は歯舞・色丹と竹島だけであると、国後・択捉が日本の領土で無いとの認識を示しています。
 下田氏は外務省退官後、長い間、最高裁判所の判事を務め、最近は、プロ野球コミッショナーだったので、ご存知の人も多いでしょう。

 四島返還論は、日ソ国交回復を控えた、1955年終わりから1956年はじめに起こった、政治的主張です。政治の都合で変化してしかるべきものです。再び二島返還論に戻るのか、あいだを取って、三島返還論になるのか、さらには、威勢よく、全千島返還論になるのか、今後の政治情勢で、変化しても不思議の無いことです。


1946/1/29 SCAPIN-677
 日本の行政を停止する地域として、『千島列島、歯舞群島、色丹島』との記述。千島列島には国後・択捉島は含まれるが、歯舞群島・色丹島を含まれないとの考えは、ここから生まれている。

1950/3/8 島津答弁
 『ヤルタ協定の千島の意味でございますが、いわゆる南千島、北千島を含めたものを言つておると考えるのです』

1951/9/8 サンフランシスコ条約調印
 『日本国は、千島列島…に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する』

1951/10/19 西村答弁
 『条約に千島とあるのは、北千島及び南千島を含む意味である』

1951/11/6 草葉答弁
 『国後及び択捉の問題は…これはやっぱり千島と…解釈を下すのが妥当であります』

1952/4/28 サンフランシスコ条約発効

1953/3/5  下田答弁
 『現在のところ只今御指摘の歯舞、色丹両島とこの竹島以外に何ら紛争の発生が現実にございませんし、又ありそうな島もないわけでございまする』

1953/7/7 領土に関する決議
 『平和条約の発効以来、歯舞及び色丹島等の復帰を図ることは、わが国民あげての宿望』
 (この時期は、国会決議においても、歯舞及び色丹島等となっており、国後・択捉は返還要求をしていない。ただし、『等』と付いているのは、国内には根強い四島返還・全千島返還要求があったことを反映している。)

1956/2/11 森下答弁
 この答弁が、四島返還論の統一見解とされている。これ以降、日本政府は四島返還論になっている。(実際は、数ヶ月前から四島返還論である。)

1961/10/3 池田首相答弁
 『私は条約局長の言っておることは間違いと思います』。
 池田首相は、1951/10/19の西村答弁を、このように否定した。


(2006年02月18日)



岩下明裕/著『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』(Blogから転載)

 中公新書から岩下明裕/著『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』が出版されました。
 北方領土問題の解説本の多くは、四島返還論を主張するものです。そして、四島返還運動をいかに広げるかを説明するものです。ところが、この本は、もっと現実的な解決を目指しています。
 著者は、ロシア・中国国境画定問題の研究者として知られています。この本では、前半で、ロシア・中国国境が、お互いの妥協によって確定されたことを説明しています。後半では、この経験をどのように日ロ国境画定に生かすべきかを考察しています。
 北方領土は、どのように解決すべきなのだろうかとの視点で、問題を考える場合には、たいへん、参考になる書籍です。

 日本では、四島返還以外は絶対に受け入れるべきではない、との主張をする人が多いのが実情です。このような主張では、領土問題の解決はありえません。外交は交渉ごとなので、一方の主張が100%通って、他方の主張が0%の可能性は、戦争以外にはありえないことです。もし仮に、日本が、長い間、全千島返還を主張し、交渉の結果、四島返還に落ち着くのならば、四島返還の可能性がなかったわけではないでしょう。しかし、日本は、四島返還を主張しているので、交渉の結果、四島返還になったとしたならば、ロシアの政権がロシア国内世論の激しい批判にさらされ、政権が崩壊します。そのような解決はありえないことです。
 
 岩下明裕氏は、お互いにハードルを下げるべきと説きます。解決を目指すのであるならば、当然の主張ですが、では、なぜ、これまで、ハードルを下げなかったのかの考察がありません。そもそも、北方領土問題は本当に解決すべき問題なのでしょうか。戦後60年、一貫してソ連・ロシアの領土だったところです。北方領土返還運動には、政府の補助金がつくので、それ自体がビジネスになっている面があります。さらに、北方領土問題を、自己の政治主張(反ソ・反ロ宣伝など)に利用している勢力が存在することも事実です。岩下明裕氏の著書では、こういった側面に触れられていません。北方領土問題とは、そもそも解決すべき問題なのだろうか、それとも、なるべく問題のまま永続させるべき問題なのだろうか。−−本を読み終えて、このような疑問が残りました。(2006年1月)





プーチン=小泉会談は日本外交の行き詰まりを象徴している(Blogから転載)

 11月21日、プーチン=小泉会談が行われました。この会談では、北方領土問題で、具体的な進展は無く、共同声明も見送られました。さらに、日本側が求めていた、東シベリア産原油を東アジアへ運ぶパイプライン計画の「太平洋ルート」の優先着工も合意できませんでした。

 一方で、プーチンに同行したロシア経済人100人は、日本で活発に行動し、さらに、プーチン自身、経団連会長と会談するなど、ロシア側は着実な経済外交の成果を上げた模様です。

 日本は、これまで長い間「政経不可分(政治と経済は分離しない)」を主張していました。しかし、本来、経済は双務的で、お互いに利益が無ければ成立しないもので、お互いの利益が大きければ規制は難しいものです。これまで、日ロ間での経済関係が少なかったのは、経済交流のメリットが大きくなかったためです。旧ソ連時代、東西の経済関係は希薄でした。ソ連崩壊にともなうソ連・ロシアの混乱期は、日本側のメリットがあまりありませんでした。現在、原油高で、ロシア経済は潤っています。このため、日本としては商品販売の市場として、また、原材料・原油の供給基地として、さらに、工場生産拠点として、ロシアとの経済交流が欠かせなくなっています。日本だけ、政治の都合で、ロシアとの経済関係を停滞させるわけにはゆきません。

 外交は二国間だけで済むものでは有りません。日ロ関係は、日中・日韓関係とも関連しています。もちろん、日米関係とも関係しています。現在、日本外交は、靖国参拝問題などで、中・韓から痛烈な批判を浴び、膠着状態に陥っています。

 18日のニュースによると、ロシア外務省のカムイニン情報局長は「日本の歴史教科書では、韓国の占領や第2次大戦前後の中国における軍国主義者による残虐行為は犯罪ではないとされている」と指摘。さらに「中国や韓国など日本の近隣諸国は、日本指導部による公式謝罪が未来志向の関係発展のための前提条件とみなしている」と述べた、そうです。完全に足元を見られた発言です。
 日中・日韓外交の停滞が、日ロ外交でも日本側に不利に影響しています。(2005年11月22日)




プーチン来日(Blogから転載)

 プーチン=小泉、首脳会談のため、本日、プーチン大統領が来日しました。小泉首相としては、北方領土問題で何らかの得点を稼ぎたいところでしょうけれど、今回は難しいとの見方が、もっぱらです。

 現在、日本は、靖国問題・教科書問題などで、中国・韓国と対立状態にあります。このような日本外交の行き詰まり状態に対して、ロシアからは足元を見られてるようです。報道によると、『ロシア外務省のカムイニン情報局長は「日本の歴史教科書では、韓国の占領や第2次大戦前後の中国における軍国主義者による残虐行為は犯罪ではないとされている」と指摘。さらに「中国や韓国など日本の近隣諸国は、日本指導部による公式謝罪が未来志向の関係発展のための前提条件とみなしている」と述べた』、そうです。
http://www.usfl.com/Daily/News/05/11/1118_014.asp?id=45848

 北方領土問題では、日本政府は、1993年の東京宣言を、日本に都合の良いように解釈し、その結果、膠着状態に陥っています。鈴木宗男衆議院議員が、このあたりの事情を、分かりやすく説明しています。

 『過去三年間、外務省は「東京宣言至上主義」という陥穽に自ら落ちていった。その結果、北方領土交渉は膠着状態になった。「東京宣言」(一九九三年)で日露両国は北方四島の帰属問題を解決して平和条約を締結することを約束した。過去三年間、小泉総理、川口順子前外相は「東京宣言に基づき四島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」との言明を繰り返した。
 しかし、「四島の帰属問題の解決」と「四島の日本への帰属の確認」は本質的に異なる。「四島の帰属問題の解決」ということならば論理的には五つの場合(日4露0、日3露1、日2露2、日1露3、日0露4)がある。もちろん四島の日本への帰属を確認して平和条約を締結するというのが私の一貫した立場だが、「東京宣言」を何百回確認しても四島が日本に返還されることにはならない。今回、プーチン大統領が出したシグナルは、「露4、日0という形で帰属問題を解決すれば、無償で色丹島と歯舞群島と貸与する」という案で、日本としては受け入れることができない。しかし、このような提案も「東京宣言」に違反しているとはいえない。外務省が「東京宣言至上主義」に陥っていることを逆手に取り、ロシアはこのような逆提案をつくったのだ。(朝日ヘラルド・トリビューン 2005.10.10)』 (2005年11月20日)



ソ連の対日参戦は正義か否か(Blogから転載)

 政治に対して、どのような評価を下すかは、それぞれ個々人によって異なります。ソ連の対日参戦は正義と見る人も不正義と見る人もいるでしょう。
 ソ連が勝者の側であることは明白です。ソ連対日参戦は米国の要請・英国の支持・中国の歓迎と協調の元に行われました。戦後、国連安保理常任理事国はこれら4カ国とフランスが勤めています。国連安保理常任理事国のうち1カ国でも反対すると決議案は成立しません。常任理事国のうち4カ国までもが、ソ連対日参戦に一体となっているのだから、戦後政治でソ連対日参戦を不正義とする考えが受け入れられる余地はないでしょう。
 なお、ソ連対日参戦は米大統領ルーズベルトの提案によるものですが、提案者米大統領を不当と非難する意見を日本であまり聞きません。

 ソ連の対日参戦に対して、どう考えるべきか、中国東北部・南樺太・千島でそれぞれ異なると思います。
 中国東北部は中国が評価すべきことです。中国は、ソ連軍を中国解放のための協力者と評価していますので、私はその考えに従っています。
 南樺太・千島はどうでしょう。そもそも、評価すべき正当な主体は誰なのか、よく分かりません。
 ソ連対日参戦の大部分は中国東北部であるため、ソ連対日参戦を大雑把に評価するならば、中国の認識に従って、「正義の解放者」は正しい認識でしょう。この認識は、南樺太・千島には当てはまりません。どのように評価すべきなのか、評価すべき正当な主体は誰なのか、良く分かりません。


北方領土(あるいは千島・南樺太)の領有は日本とロシアと、どちらが正義か:

 千島や樺太にはもともとアイヌの人たちが住んでいました。北からはロシアが、南からは日本が侵入し支配しました。北から侵入するのと、南から侵入するのとでは、どちらが正義かといったところで、全く無意味です。

 以下の、和田春樹氏の考えは全く正当です。
 『クリル諸島とサハリンというアイヌの土地に攻め込んだロシアと日本は支配したところを自らの領土としようとして、互いに争いあった。第二次大戦後はソ連がサハリンもクリル諸島もすべてをわがものとしてしまったのに対して、日本はそれではあんまりではないか、すこしは日本によこしなさいと言っている。理屈はいろいろつけているが、赤裸々に言えば、そういうことである。だから、争いがあっても、本質的対立にはならない。 』
 http://www.wadaharuki.com/

 北方領土問題は、お互いにいろいろと理屈をつけていますが(日本のほうがずっと多いですね)、要するに、お互いの力関係から見た場合、どこに線引きしようか、それだけのことでしょう。(2005年07月06日






サンフランシスコ条約(Blogから転載)

 全然タイムリーな話題ではないのですが、最近ちょっと気になったもので。

 日本の領土問題には、戦後占領下のGHQ命令SCAPIN-677とサンフランシスコ講和条約が深く関係しています。このうち、サンフランシスコ条約の解釈で、混乱する余地はないはずなのに、なぜか混乱している人が多いので不思議です。

日ロ関係:
 サンフランシスコ条約をソ連は批准していないので、南樺太・千島はソ連・ロシア領ではないと、誤解している人がいます。
 日本はサンフランシスコ条約で南樺太・千島を放棄しました。このため、サンフランシスコ条約は南樺太・千島が日本領でないことの根拠になります。これは、日本の問題です。
 ソ連とかロシアとか何も書いていないので、サンフランシスコ条約はロシアが南樺太・千島を領有する直接の根拠にはなりません。ソ連が領有するか否かはソ連の国内問題です。ソ連が領有する根拠は、一九四六年二月二日付ソ連邦最高会議命令です。サンフランシスコ条約で日本が南樺太・千島を放棄した事実は、ソ連邦最高会議命令が不当でないことの根拠にはなります。

日韓関係:
 日本はサンフランシスコ条約で朝鮮の独立を承認しました。朝鮮独立の根拠がサンフランシスコ条約であるかのように誤解する人がいます。サンフランシスコ条約は、日本が朝鮮独立を承認する根拠になりますが、朝鮮独立の根拠にはなりません。
 朝鮮独立の根拠は、朝鮮人自らが国家を建国し、政治を運営している事実です。

注)かつて、日本は竹島を領有したとき、他国との調整をすることも、連絡することもしませんでした。それどころか、官報に記載さえしていません。島根県庁に張り出した、たったそれだけのようです。日本と領有権を争っている朝鮮は、当時、日本が領有を宣言したことを全く知りませんでした。朝鮮に竹島領有を伝えたのは、朝鮮の外交権を完全に乗っ取った後の事です。日本政府の説明では、国際法的には、こんなのでも領有は有効になるそうです。
 ソ連が南樺太・千島を領有宣言したことは、当時から、日本政府もGHQも十分知っていました。しかし、ソ連に対する抗議はしていません。(2005年06月13日)





国際司法裁判所(竹島=独島問題に関して)

 不思議なのですが、日本で竹島返還を主張する人は、問題を国際司法裁判所に提訴することを主張する人が多いようです。北方領土問題では国際司法裁判所の提訴を主張する人はあまり多くありません。
 国際司法裁判所は、国際法に基づき、厳密な判決をするところではなく、かなり政治的なところでしょう。
 国内の裁判では、職業裁判官が判事ですが、国際司法裁判所は、官僚だった人などが、その国の利益のために、裁判官になっているように思います。実際、雅子様のお父上が、日本の外務省方針に反した判決をするとは思えません。現在、国際司法裁判所長官は中国人の史久繧ナす。この人が、どのような考えで、裁判を行うのかわかりませんが、かつての日本を侵略国と認定した立場で、訴訟指揮をする可能性も否定できないと思います。
 国際的な日本の地位と韓国の地位を比較したら、日本の地位のほうが断然高いので、長官がどのような訴訟指揮をしたとしても、マダガスカルのような小国や、貧しい国には経済援助で本国から裁判官に圧力をかければ、容易に日本は勝訴すると思います。しかし、経済援助による圧力無しに、本当に容易に日本が勝訴するのか、私には、はなはだ疑問です。
 さらに、政府の説明によれば、日本人が北方領土にロシアの領土であるかのごとく入域すると、我が国の法的立場を害するおそれがあるとのことです。と言うことは、日本人おばさん向けに『ヨン様と行く独島ツアー』を実施したら、日本の法的立場が弱められるのでしょうか。もし、そうだとすると、日本の法的立場は、それほど強固でもないように思います。
 実際には、竹島問題は、1954年に国際司法裁判所提訴を韓国に持ちかけた以外、1960年代に外相会談で話題にしたことがあるらしいくらいで、政府内部で検討したことはあまりなさそうです。
 なお、北方領土問題でも、国際司法裁判所提訴を求める請願が国会になされることが、たまにありますが、いつも保留(要するに棄却)です。
(2005/5/9)



プーチン発言の真意

Asahi.comの記事です。
 日露通好条約150周年、プーチン大統領が祝辞(2005年04月16日22時17分)
 ロシアのプーチン大統領は16日、静岡県下田市で開かれた日露通好条約締結150周年式典に祝辞を贈り、その中で同条約を「恒久平和と友情を宣言し、両国関係の発展に特別な役割を果たした」と高く評価した。
 1855年2月に下田で結ばれた同条約は、平和的な交渉を通じて国境を、千島列島のウルップ島と北方領土四島北端の択捉島の間に引いた。この交渉態度についても大統領は祝辞で「忍耐と善意のもとに妥協を達成しようという意思が双方にあった」とたたえた。
 さらに祝辞は、条約交渉中に地震の被害で沈んだ全権プチャーチン提督の軍艦の代替艦が日本側の援助のもとに建造されたことにも触れたうえで「我々はこうした先人たちの高潔な志を想起しなければならない」と強調している。


 新聞の解説では、プーチンの発言を、千島列島のウルップ島と北方領土四島北端の択捉島の間に引いた条項をたたえたかのような記述になっています。NHKのニュースでも同様でした。このような報道に接すると、北方領土が変換される可能性があるのかなーとの印象を受けるかと思います。
 しかし、プーチンの発言は、「忍耐と善意のもとに妥協」と言っています。
 日本が北方領土の領有を主張する根拠は、最近は『固有の領土論』です。交渉するまでもなく、日本の領土だったから、正当な日本の領土である、というような主張ですが、これは、史実に反した捏造と言っても良いかもしれません。実態は、日露双方が領有を主張したけれども、交渉の結果、「忍耐と善意のもとに妥協」したものだったとのでしょう。プーチンの発言は、日本の固有の領土論に対して反駁を加え、国後・択捉の返還の意思がないことを改めて強調した発言であるとも考えられます。

注意)日本政府が主張する『固有の領土論』は、たとえば、以下のものです。
第104回国会 外務委員会における小和田恒条約局長答弁:
…歴史的にも日本の固有の領土であるという意味では一八五五年の条約にも明らかなように、もともとこれは日本の固有の領土であって、一八五五年の条約のときにおきましてもロシア側があれが日本の領土でないということを主張したことはなかったということ、つまり歴史的に見てずっとこれは日本の固有の領土であったということが五五年の条約でも七五年の条約でも明らかである。それ以降も他国の手に渡ったことがないということ…

 1855年の条約は今から150年も前のことなので、詳細が分っているわけではありませんが、はじめ、プチャーチンは択捉島がロシアの領土である事を主張したと言われています。小和田発言は、おそらく、国内向けに政府が正当であるかのような宣伝をしたのだと思います。プーチン発言は、日本による歴史の捏造に対して、拒絶を表明しているとも解釈できます。
 なお、小和田恒条約局長は皇太子妃雅子の父親です。
(2005/4/18)



われらの北方領土

 外務省国内広報課発行のパンフレット「われらの北方領土」の2004年版をいただきました。2003年版とほとんど同じですが、若干異なったところもあります。全体総括とも言うべき「1.はじめに」を比較すると以下の違いがあります。

2004年版で削除された部分
・(クラスノヤルスク合意により)平和条約締結の具体的な時期について目途をつけることができ、東京宣言からの実質的かつ重要な前進が図られました。
・東京宣言並びにクラスノヤルスク合意及び川名合意に基づき、平和条約交渉を加速させることで、一致しました。

2004年版で追加日露された部分:
・日露両国は1855年に平和的話し合いの結果、日魯通好条約に調印し、国交を開くとともに、択捉島とウルップ島との間に両国の国境を画定しました。2005年は、同条約の調印から150周年に当たります。この日露関係にとって歴史上の重要な節目となる時期に向け、北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する、という一貫した方針に基づいて交渉を進めていく考えです。

 削除・追加された部分を見ると次のことがわかります。
 クラスノヤルスク合意などを日本政府は自分に都合の良いように解釈し、あたかも四島返還が間近になったような国内向け政治宣伝をしていました。しかし、現実には領土交渉は一向に進展しておらず、国内向け政治宣伝には、なんら真実が含まれていない事が明らかになってきました。このような現実を踏まえて、記述が削除・追加されているのでしょう。
 ところで、2004年版にあるように、今年は日魯通好条約調印から150年にあたります。同時に、日魯通好条約の効力を完全に失わせる事になった日露戦争の停戦から100年にあたります。(2005/3/12)



(以下は、以前、掲示板等にに書いたものに多少の修整を加えたものです。)



プーチン訪問延期
 今日のニュースによると、北方領土問題で両国に隔たりが大きいことを理由に、プーチンの訪日が年内は困難になったとのことです。これまでは、経済優先のロシアと、政経不可分の日本だったのに、日ロのバランスがちょっと違ってきたかもしれない。日本はこれまで領土ばかり言っていたのに、最近は石油・天然ガスを言うようになった。ロシアはこれまで経済的に苦境に立っていたのに、最近は経済が好調。これらはすべて原油価格の高騰が原因です。北方領土問題の解決が、そう簡単では無いことは、変わりないことですが。(2005/03/06)




ソ連対日参戦
 日本では、第2次大戦末期のソ連対日参戦を不法行為であると主張する人がいます。「大東亜戦争は侵略戦争でない」と言う人もいるので、それ自体珍しくないのですが。。。
 第2次大戦末期のソ連対日参戦は不法行為なのでしょうか。だいぶ以前、林健太郎・家永三郎の論争の話を聞いたとき、条約解釈はとても素人が手を出せる問題ではないと感じました。難しすぎる。この問題に関する、唯一の有効な裁判である、東京裁判判決では、日本のソビエト連邦に対する侵略的な企図が認定され、ソ連の対日参戦は正当なものとされているので、ソ連が正当であったことは、世界の通説です。
 異説があるのは構わないのですが、素人判断で簡単に東京裁判判決を覆せるほど単純な問題ではないでしょう。。。
 東京裁判判決の関連部分を掲載しています。
 http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/1948Toukyousaiban.htm
 ここに掲載してあるものは、判決文の一部だけです。ソ連対日参戦を不法行為であると主張する人は、検察側意見と弁護側意見を読んだ上で、それ以上の議論をしてほしいと思います。
(2005/03/06)




上野界隈
 最初は東上野の源信寺で高橋景保・伊能忠敬の墓参。つぎに不忍池反対側にある大正寺で川路聖謨の墓参。さらに、向丘の西善寺で近藤重蔵の墓参。地下鉄で王子に行って、滝野川の正受院にある、近藤重蔵の石造を見学。
 川路聖謨は、小さい墓でした。昔の人の墓はもっと大きいのが普通なのだけれど。みつからなくて苦労してしまった。川路は、今から150年前に締結された日露和親条約の交渉当事者です。択捉領有における川路の功績をもっと評価しても良いと思うのですが。。。
 「エトロフ島は交渉する前から日本の固有の領土であることは明らかだった」これが、北方領土の根拠の一つになっているようです。本当は、ロシアが領有を主張する可能性は十分に有り、事実、そのような主張がなされたのですが、交渉の結果、日本領と決まりました。必ずしも事実ではない根拠を持ち出した副作用として、川路の功績が過小に評価されているのではないだろうか、そんな懸念を持ちました。
(2005/02/05)



Залив ИЗМЕНЫ
 国後島の一番南側の湾を日本では「泊湾」と言います。また湾奥の町を「泊」といいます。ロシア語ではそれぞれ「ZALIV IZMENY」「Golovnino」。ZALIV=湾 IZNENY=裏切り です。
 沖に停泊して、交渉を求めたGolovninは日本の背徳的裏切りで捉えられたので、このような名称が付けられました。日本からすれば、レザーノフの海賊行為があったので、裏切りは当然との考えだったと思います。
 日露関係・北方領土問題は、日本外交黎明期以来の問題なので、お互いにそれぞれ、もっともな主張があるところです。そこに政治家の票集めが絡むから、たちが悪い。
(2005/01/29)




日本の官僚は優秀です
 北方領土問題の啓蒙資料として、外務省は冊子「われらの北方領土」を無償配布しています。この中の記述に、、、

 わが国はロシアより早く、北方四島、樺太及び千島列島の存在を知り、既に一六四四年には、クナシリ島、エトホロ島等の地名を明記した地図が編纂され、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。わが国の松前藩は、十七世紀初頭より北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。
 これに対しロシアの勢力は、十八世紀初めにカムチャツカ半島を支配した後にようやく千島列島の北部に現れてわが国と接触するようになりました。一七九二年にはロシアの使節ラクスマンが北海道の根室に来訪してわが国との通商を求めています。
…しかし、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。

 これを読むと、歴史的に見ても日本に正当な領有権があるように思うでしょう。しかし、よく読むとおかしなことが書いてあります。「わが国」「日本人」に対して「ロシアの勢力」になっています。択捉島は、日本人が認識⇒ロシア人が認識⇒ロシア人が到達⇒ロシア人が一部支配⇒日本人が到達⇒日本人が完全支配、の順になります。だから、「日本人」と「ロシアの勢力」を比較したら、日本が先だけれど、「ロシア人」と「日本の勢力」を比較すると、ロシアが先になります。
 外務省冊子では、「日本人」と「ロシアの勢力」という、異なったものを比較して、あたかも日本が先であるような印象を持つように細工されています。良くこんな、姑息な手段を思いつくものだと、日本の役人の優秀さには感心します。
 こんな姑息な細工を見る限り、日本の北方領土の取り組みは、国家の利益ではなく、政治家個人の集票、役人個人の出世、こんなレベルに過ぎないのではないかと。
 北方領土問題は理解すればするほどに、バカらしくなってくる。
(2005/01/10)



ソビエト侵攻
 第2次大戦末期のソビエト侵攻がポツダム宣言違反と考える人がいます。
 千島への侵攻・占領は8月下旬からなので、ポツダム宣言受諾後のことになります。特に、歯舞群島の武装解除・占領は停戦後です。ここをもって、ポツダム宣言違反で不当だとの主張があるのかと推察していますが、残念ながら、国家としてのどの行為がどの条文に違反しているのか、その論拠は何か、これらを聞いたことがありません。
 実は、北方領土問題で言われる事のうち、一番理解できないのが「固有の領土論」です。2番目が、「侵攻・占領がポツダム宣言受諾後」の問題です。(後者は何が問題なのかが分らない。)
 国会議事録を調べると、ポツダム宣言違反を問題にした討論は結構多いのですが、日本再軍備やレッドパージなどが問題として取り上げられていることが多く、ソ連を取り上げているものは、比較的少ないという印象です。では、どんなことが議論されているか、こんな感じです。(見つけ方が良くないので、探せばもっといろいろ有ると思います。)
@ソ連侵攻自体をポツダム宣言違反としているもの
 ありませんでした。
A占領をポツダム宣言違反としているもの
 ありませんでした。
B占領が継続していることをポツダム宣言違反としているもの
 1件、見つかりました。
 26年2月5日参議院外務委員会で斎藤秀雄参考人は、千島占領をポツダム宣言違反と供述しています。ポツダム宣言では北海道は日本の領土になっています。ポツダム宣言英文ではこの場合の北海道とは、単一の島のことであることが明白なのですが、日本語訳は行政区域と誤読の可能性があります。参考人はこの部分を誤読し、誤解により主張していることが明らかです。
C捕虜帰還問題でポツダム宣言違反ありとしているもの
 24年11月19日衆議院外務委員会で中曽根代議士が主張しているのを始め、いくつもの議論があります。
 このうち、昭和31年3月27日衆議院外務委員会では、かなり突っ込んだ議論がされています。ポツダム宣言「違反あり」と「違反無し」の両説が論議されているようです。
D北方四島の領有問題
 31年以降、日本政府は北方四島を日本の領土であると主張しています。その立場に立てば、いまだに返還されていないのは、ポツダム宣言違反との主張も成り立ちます。しかし、ソ連以外とはサンフランシスコ条約が、ソ連とは共同宣言があるのだから、中間宣言でしかないポツダム宣言を持ち出すことも無いという気がします。
 北方四島の領有問題でポツダム宣言違反との主張は、51年10月12日衆議院内閣委員会でなど、最近のものが幾つかあります。
 結局、「ソビエト侵攻・占領をポツダム宣言違反」とする主張の根拠はわかりませんでした。そのような主張自体見つかりませんでした。
 また、捕虜帰還問題では、単純にポツダム宣言違反なり国際法違反なりと主張する人が居ます(多い)が、国会議事録を見ていると、それほど単純・自明なことではないようです。この問題は、法律の問題なので、国際法廷における判例がないと判断が出来ません。残念ながら、日本は敗戦国で戦勝国を国際法廷で裁判する権利が無かったので、そのものズバリの判例はありません。類似案件を探すのは、法律の素人の手におえませんので、私には手が出ません。
 ところで、北方領土問題で理解できないことの3番目は、「ウルップ以北とは異なり、四島は日本の固有の領土であることを、ソ連も認識していた」との政府の主張の根拠です。
 ウルップまでを占領した部隊はそれより南下せずに、四島の占領は樺太占領部隊によって行われています。この事実を根拠としているようです。しかし、分っていることは、ウルップまでを占領した部隊には、ウルップ以南を占領する命令が与えられていなかったために、南下しなかったということです。なんで、「日本の固有の領土であることを認識していた」となるのだろう。根拠を聞いたことがありません。
 日本政府説を聞く前は次のように思っていました。(根拠はありません。)ウルップ以北には民間人がほとんど居ないので赤軍と少数のKGB将校で足りるけれど、樺太やエトロフ以南は民間人が多いので、KGBの管轄になり、KGB将校が多い部隊が必要だったのだろう。 
(2004/12/01)





「ロシア大統領、2島返還で決着示唆 交渉の主導権狙う? 」
 こういう新聞記事があります。日本の世論に対する揺さぶりなのか、本気で解決したいのか、色丹島がお荷物になっているのか、真相は定かではありません。
 思えば、二島返還が実現しそうになったのはフルシチョフ時代でした。その後は日ソ冷却時代が続いて、再び対話の機運が生まれたのはゴルバチョフ時代になってからです。そして、プーチン時代に、何らかの前進があるかもしれません。フルシチョフ・ゴルバチョフ・プーチン、共通する点は---ハゲです。
 北方領土問題がホットニュースなためか、私の北方領土問題のページも最近クリック数が増えています。読み返してみると、細かいことをごちゃごちゃ書いている割に、固有の領土論(北方領土は日本の固有の領土であるという主張)には、ほとんど触れていません。現在、北方領土返還論の最大の論拠が固有の領土論です。実は、固有の領土の意味が良く分らないのです。
(2004/11/16)






北方領土宛郵便料金
 小学生の頃、郵便局に行ったら、窓口に料金表がありました。
「北方領土宛て郵便物は当分の間、外国郵便として扱う」このように書いてあったと記憶しています。愛国少年だった私は「ソ共・中共・朝共がぐるになって、日本の国益を盗み取っているのだ」そのように感じました。少年の頃、露西亜・シナという言い方が嫌いでした。共産主義の脅威から目をそらして、単に相手を馬鹿にしているだけのような気がしたのです。なぜ、ソ連・中共と正しく言わないのか、愛国少年だった私には、不真面目極まりないと感じていたのです。(一体どういう教育を受けていたのだろう。)
 中学生くらいになると図書館の本を読んだり(町に本屋がなかったのです)・・・だんだん考えも変わってきました。
 しかし、郵便局にあった「北方領土宛て郵便物は当分の間、外国郵便として扱う」の記述の記憶には誤りがなく、日本政府は一丸となって、北方領土返還を主張していると、つい昨日まで思っていました。ところが、郵政庁のページを見ると、「北方諸島」と書いてある。これでは、日本の固有の領土との主張が無いではないか。
http://www.post.japanpost.jp/service/intel_service/ko_johken/185/185h.htm
 少年の頃に見た料金表も「北方諸島」となっていたのだろうか?
 外国郵便の世界は、UPUが取り仕切っているので、日本政府の勝手には出来ません。北方領土宛て郵便物の値段を内国料金としたり、引き受けを拒絶したりすることは出来ないのです。しかし、北方領土と書くことも出来ないのかなー。不思議です。役人の考えることは微妙です。
(2004/10/01)




地図教科書
 最近の小中学校の教科書は、すべて、択捉・ウルップ間、北海道・樺太間のほかに、千島・カムチャツカ間、樺太中央と、合計4本の国境線らしきが入っています。
 自分が使った教科書には、どのように記されていただろうかと記憶をたどると、小学校で使った地図には4本線は無かったように思います。北海道・国後間と択捉・ウルップ間に国境線が入っていたかも知れない。私が小学生の頃、日本最北端は宗谷岬でした。今の子は、択捉島が日本最北端です。宗谷岬は日本最北端ではないのです。自分の教科書はどうだったか覚えていますか。(戦前は、はっきりしていますね。)
 教科書出版社の東京書籍株式会社にこのあたり、どうなっているのか聞いてみたところ、やはり以前の教科書地図は現在のような4本国境線ではなかったそうです。
 ところで、北方領土に観光旅行をした人は、いらっしゃいますか。今は、サハリン経由で普通に観光旅行できるそうですが、日本人向けツアーを募集していないので、ロシア語が出来ないとちょっと大変かも知れません。(日本政府は北方領土観光旅行に行かないように要望しているようです。公務員のかたは、もし、北方領土の観光旅行をしたとしても、黙っていた方が良いかと思います。)
(2004/08/25)




千島返還を求めている人たちへ
 ここ2ヶ月ばかり、北方領土に関する本を数冊読んだのですが、いろいろとわからないことがあります。一般に『この土地は自分の先祖が開墾したんだぞ』と言った場合、先祖は領主なのでしょうか。不在地主なのでしょうか。小作人なのでしょうか。日雇い労務者なのでしょうか。国後択捉の漁民が全員漁業のライセンスを持っていたとは思えないので、このあたりどう考えたらよいのか良くわかりません。それから、返還を叫んでいる人が多い割には、返還後のビジョンが見えてきません。返還を叫んでいる人たちの多くは、千島に住んで、漁民になりたいのかなー。返還されっこないって思っているのかなー。
(2004/05/07)



8月9日
 1945年8月9日0時、ワシレフスキー参謀総長率いるソ連軍は、ソ満国境を突破し、中国東北部(満州)駐留日本軍との、戦闘を開始した。広島原爆の3日後のことであり、この数時間後には長崎に原爆が投下される。

 このとき、ソ日間には不可侵条約が形式的に存在していたので、そのことをもって、ソ連の不当性を宣伝する人がいるので、このような欺瞞を真に受けている方も多いことと思う。もともと、日ソ不可侵条約は当時の政治的動機により締結された欺瞞的条約である。中国東北部(満州)は中国の不可分の領土であり、日本が傀儡政権を樹立したことが、すでに犯罪行為であり、その前提に立って、中国と無関係に締結された不可侵条約は、もともと不当なものであった。
 実際、日本政府にもこの条約を正直に履行する気などさらさら無かったことは、関東軍特別大演習(関特演)を実施し、独ソ戦で極東ソ連軍が手薄になったら、ソ連に対して武力を行使しようとしたことからも明らかであった。(なお、このとき、日本の侵略準備を見抜いたスターリンは極東部隊を手薄にすることは無かったので、日本の武力行使の機会はなかった。)それにもかかわらず、日ソ不可侵条約がその後も存在したのは、日ソ双方ともそれぞれ南方、西部での戦線に勢力を取られていたためである。独ソ戦が終了した時点で、日ソ不可侵条約は、その欺瞞的な存在意義さえ失っていたわけである。

 さて、1945年8月9日のソ連進攻に話を戻そう。ソ連の中国東北部進攻は、延安の毛沢東指導部はもとより、重慶の蒋介石の了解するところであり、国際法的にも、道義的にも何ら問題ないばかりか、中国解放という視点から見ると、人道上の行為であった。すなわち、中国東北部を不当に侵略して、中国人を弾圧していた、日本軍の掃討作戦であるので、たとえて言うならば、隣家に強盗入ったときに、隣家に加勢して強盗を逮捕したようなものである。
 ソ連と蒋介石政権の間には、戦争終結後3ヶ月でソ連が撤退するとの条約があった。1945年12月3日が撤退期日になるが、蒋介石の再三の申し入れにより撤退は延期される。1946年3月12日、ソ連は蒋介石に対して事前の通告なしに、瀋陽から撤退を開始し、その後長春、ハルピン、チチハルなどからも相次いで撤退し、ついに5月3日には旅順・大連に一部を残し、完全に撤退した。このことから見ても,ソ連の目的は侵略軍(日本軍)の掃討(中国東北部の解放)であり、不当な領土的野心でなかったことは明白であった。
 中国東北部に傀儡政権満州国を樹立して中国人を弾圧していた日本軍やその統帥者であった天皇裕仁を神聖視するまり、中国人を人と思わない誤った視点で歴史を認識してはならない。再び強調しておこう。中国東北部は中国の領土である。外国軍が支配・弾圧することは許されない。

 参戦したソ連兵の中には、ならず者や犯罪者も結構いたようであり、ソ連兵のモラルは決して高かったとはいえない。実際、戦闘の初期段階においては、ソ連兵による略奪や強姦が一部報告されている。ただし、当時の日本人はそのことに対して抗議を行ってはいないようである。これは、占領地での日本軍人の略奪・強姦は日常的なものであったため、当時の日本人社会では「兵隊とはこういうものだ」という諦感があったためある。しかし、ソ連兵による不当行為は奉天入場後は殆ど起こっていない。これは、ソ連兵のモラルが向上したためではなく、奉天日本人長老会が慰安婦を集めて、ソ連兵相手の慰安所を設置したためであった。当時の日本兵には慰安所が欠かせなかったようで、現地女性に売春を強制していた。日本兵相手に徴用された慰安婦を集めてソ連兵相手の慰安所に鞍替えしたものであった。なお、ソ連には慰安所など無かったので、ソ連兵に慰安所は大変好評だったそうである。
 戦闘の初期段階における、日本人の犯罪被害は、ソ連兵が犯人ではなく、現地中国人が犯人であることが多い。ソ連進攻を好機到来とばかり、日本人に対する積年の恨みを晴らさんとばかりに、日本人に暴行を働いたり、略奪したのである。このことを、ソ連の責任であると、責任転嫁する日本の論調があることはあきれた次第である。中国人が略奪したものは、本を正せば、中国人から日本人が略奪したものではなかったか。満州に傀儡政権を作った天皇裕仁の政策の責任を覆い隠そうとするあまり、中国人を弾圧していたと言う事実を無視するような態度をとってはならない。(2002/8/9)

扶桑社「新しい歴史教科書」シベリア出兵の記述と、その問題点
(2001.7.19)



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