扶桑社「新しい歴史教科書」シベリア出兵の記述と、その問題点

 最近、一部教科書の、記述の誤りが外交問題になっています。何が問題なのか、今話題の、扶桑社「新しい歴史教科書」を読んでみました。はっきり言って、歴史教科書として読む価値のあるものではありません。
 外交問題になっている部分は、朝鮮・韓国に関する記述と、中国に関する記述ですが、それ以外も歴史教科書に値しないひどいものです。ここでは、シベリア出兵の記述を取り上げます。

 なお、ここで使用した教科書は市販本です。実際の教科書は、多少の修正が入っているようですが、シベリア出兵の記述は変わっていないと思います。


原文(検定前の記述で、教科書とは異なる。白表紙本のこと。)

シベリア出兵
 第一次大戦中、ロシアを攻めたオーストリア軍の中には、オーストリア領に属するチェコスロバキアの民族部隊もいた。彼らは独立を求めて、敵国ロシアに投降したが、そこで革命がおきてロシア領内で孤立してしまった。1918年日本はチェコ部隊救出を目的に、アメリカなどと共にシベリアへ共同出兵した。目的達成後、アメリカは撤兵したが、1922年まで日本は共産軍と戦い、兵を引かなかったので、アメリカの疑念を招いた。
日米両国には、新たにおこった共産主義に対する危機感に相違があった。長年、南下するロシアの脅威にさらされていた日本は、革命勢力に対して警戒感を強めていた。同様の恐怖心をいだいたヨーロッパ諸国も、軍を送って革命阻止の干渉戦争を行った。(対ソ干渉戦争)


検定意見 指摘理由

 アメリカの疑念の意味が説明不足であり、またシベリア出兵の目的を共産主義に対する脅威に対抗することのみと誤解するおそれのある表現である。


修正文(検定意見を受け入れて修正したもので、これが教科書の記述になっている。)(市販本P246,7)

シベリア出兵
 第一次大戦中、ロシアを攻めたオーストリア軍の中には、オーストリア領に属するチェコスロバキアの民族部隊もいた。彼らは独立を求めて、敵国ロシアに投降したが、そこで革命がおきてロシア領内で孤立してしまった。1918年日本はチェコ部隊救出とシベリアへの影響力拡大を目的に、アメリカなどとともにシベリアへ共同出兵した。やがてアメリカは撤兵したが、1922年まで日本は共産軍と戦い、兵を引かなかったので、アメリカの疑念を招いた。
 長年、南下するロシアの脅威にさらされていた日本は、共産主義の革命勢力に対しても、アメリカ以上に警戒心をいだいていた。同様に共産主義に対する恐怖心をいだいたヨーロッパ諸国も、軍を送って革命阻止の干渉戦争を行った。 


解説(修正文の問題点)

  
1)最初の「第一次大戦中、...ロシア領内で孤立してしまった。」について。
 史実に反する。岩波書店「歴史教科書何が問題か」の解説を掲げる。

 ロシアに抑留されたオーストリア軍の捕虜の中からチェコスロバキア人を集めて、軍団が編成され、パリの本部の指示のもと、シベリア鉄道経由でヨーロッパ戦線に送り込まれることになったが、10月革命後、ヴラジヴォストークへ東進中の軍団は、18年初夏にシベリア鉄道沿線の各地で反乱を起こし、その地のソビエト政権を打倒した。


2)次の、「1918年日本はチェコ部隊救出とシベリアへの影響力拡大を目的に、」について。 
 チェコ部隊救出は、出兵の口実であり、目的ではない。
 −チェコ部隊救出を口実に、シベリアへの権益確保と、内政干渉を目的に出兵した。−というのが、事実である。
 実際、革命の帰趨がまだ必ずしも明らかでない、1917年11月中旬に、参謀本部は「居留民保護ノ為極東露領ニ対スル派兵計画」を策定しており、すでに以前から出兵準備を進めていたことがうかがわれる。


3)次の、「アメリカなどとともにシベリアへ共同出兵した。」について。
 誤りではないが、故意に誤解を与える表現になっており、日本の悪質性を隠蔽しようとする意図が感じられる。実際、アメリカの派兵は9000人余りなのに対し、日本の派兵は1918年10月末時点で、およそ7万2千人にのぼっている。アメリカの派兵に比べ、日本が異常に大規模であり、出兵の主体であった、というのが事実である。


4)次の、「やがてアメリカは撤兵したが、」について。
 これ自体は正しい記述である。しかし、前の記述と合わせて読むと、チェコ部隊救出の目的達成により、あたかもアメリカは、すぐに撤兵したかの誤解を受ける表現である。実際、チェコ部隊本体の撤兵は1918年にはほぼ終了しているのに対して、アメリカの撤兵は1920年にずれ込んでいる。アメリカの撤兵は、内政干渉が不可能と判断した時点まで、おこなわれなかったのである。


5)「1922年まで日本は共産軍と戦い」について。
 「共産軍」の用語は正しくない。「ソビエト軍」、あるいは通称「赤軍」である。
 右翼系の人の中には、相手をののしる時に、「共産」や「朝鮮人」という言葉を使う傾向がある。そういったのりで、日本の不当性を隠蔽する目的で、「共産軍」の言葉を使ったのであろうが、正しい用語ではない。
 (本当は、極東共和国などもあり、日本が戦った相手の所属はもっと複雑である。)


6)「アメリカの疑念を招いた。」について。
 これ自体は正しい記述である。しかし、アメリカのみの疑念を招いたかの、誤解を与える表現である。アメリカの他、シベリアに派兵した、イギリス・中国・イタリア・フランスはすべて1920年中には撤退を完了している中、日本のみが1922年まで居座ったのであるから、世界中から疑念を招いたのが実情であった。


7)最後の、「長年、南下する...革命阻止の干渉戦争を行った。」について
 史実に反する。この部分も、岩波書店「歴史教科書何が問題か」の解説を掲げる。

 ロシア脅威論は日本の中でも日露戦争に勝利したとみたときから、薄れ、ロシヤヤバンコクの意識が生まれた。1907年には日露協約が結ばれ、ロシアは日本の同盟国となった。したがって、10月革命後のロシア革命恐怖、共産主義恐怖をロシア脅威論と直結するのは正しくない。アメリカが撤兵したあと、日本が残るにさいしては、朝鮮満州への共産主義の影響を防ぐという目的があらたにたてられた。この記述は不適切である。


 更に付け加えると、ヨーロッパ諸国の撤退はアメリカ同様、1920年中には完了している。このため、シベリアへの派兵に関して、ヨーロッパとアメリカの意識に違いがあったとはいえない。
 事実は、シベリアに出兵した国の中で、日本の出兵が、規模・期間ともに飛びぬけている点に、特徴があった。もっと言うと、シベリアへ出兵した国々で、日本以外は、「混乱に乗じた内政干渉」が目的であった。これに対して、日本の出兵の目的は「権益の確保」、平たく言えば「混乱に乗じた火事場泥棒」だったわけである。



 このように書いてみると、「問題なし」部分は「(日本は)兵を引かなかった」の部分だけで、余りにひどい内容す。執筆者一覧を見ると、漫画家の小林よしのり氏の名前がありますが、まるで、マンガです。
 ところで、原文の方を見ると、「共産主義は恐い。共産主義に対抗する十字軍として出兵した聖戦だった。」と書きたい心情があるように思えます。
 しかし、このような教科書が執筆される原因を考えると、歴史教育の目的は何か、という点に関して、基本的な認識の違いがあるのだと思います。私などは、「事実を理解して、個人個人が、価値判断をできる様になる。」ことが歴史教育の目的だと思っています。しかし、一方で、「青少年の心情に訴えて、体制に従順で、上の人間の命令に忠実に従う人間を育てる。」ことが、歴史教育の目的だと考える人もいるようです。事実、戦前においては、天皇中心の虚偽の国家観を教えて、国家に従順に戦死することのできるこ国民の育成を目的としていた面がありました。
 扶桑社「新しい歴史教科書」が、国民を再び侵略に駆り立てようとしているものであるとは思えません。しかし、戦後50年以上を経た現在にいたるも、なお、「事実を理解して、個人個人が、価値判断をする」事を恐れる人たちが存在し、日本国内において一定の勢力を占めているという事実は、私には驚きです。したがって、日本の歴史教科書・歴史教育に対する、韓国政府、中国政府の懸念は、当然のことです。しかし、それにしても、日本人自身で解決すべき問題が、今なお解決できずにいるという現実は、日本人として情けないことです。

 ドイツ国民がヒットラーを、イタリア国民がムッソリーニを否定したのと同じように、日本国民も裕仁を処刑すべきではなかったのかと思えてなりません。


おまけ。

扶桑社「新しい歴史教科書」昭和天皇の記述の関して(市販本P306)

「崩御の日」の中に次の記述がある。
 皇居前では、さらに全国各地では、若者、老人、主婦、サラリーマンなどさまざまな人々が、昭和天皇の時代のもつ意味に静かに思いをめぐらせた。


 これは、きわめて単純化した一方的で浅薄な記述です。この日、私も、皇居前広場に行って、記帳をしてきました。皇居前広場には、たくさんの人がいて、中には、「静かに思いをめぐらせた」人もいたと思いますが、多くの人は単に物見遊山のようで、カメラを持っている人が多いのに驚きました。(物見遊山と言ったら失礼かもしれません。多くの方は、歴史の転換点に立ち会いたかったとも思えます。実際、東京中央郵便局には昭和最後の記念として、消印を押印する人たちで、ごった返していました。)

 なお、「何人の人が記帳した」との報道がされますが、一人で何人もの名前を書く人がいるので、実際の記帳者の数とは違います。私の前で記帳していた方は、結構たくさん書いていて、なかなか終わらないので、じれったいし寒いしで、本当にいやになりました。私のように自分の名前1つしか書かなかった人は少数派のようでした。ポチとかタマとかも書いておけばよかった。
 雑誌のSPAだったと思いますが、当時の表紙の写真に、皇居に向かって合掌する僧侶の姿がありました。かなり下から仰ぎ見るアングルで撮っていました。もし、仰ぎ見るアングルで無いとすると、実はニコニコした私の姿が入ってしまっていたのです。

(2001.7.19)