「リラックスのためのボディラーニング法とダンスセラピー」

講演要旨*  葛西俊治**


* 「ストレス対処実践講座 (7/1, 2000)」の講演会からの引用抜粋
** 2004年以降、札幌学院大学人文学部臨床心理学科教授。

[リラクセイションについての研究論文など]
[リラックスできないときに]



●リラクセイションという謎


 リラックスすること―リラクセイション relaxation―には、いろいろな落とし穴があります。よくあることなのですが、「なるほど、こうするとストレスに対処できるのか」ということで「一生懸命にリラックスしようとする」人たちがいます。
 心身に関するワークショップなどで「からだゆるめ」と呼ぶ方法を用いて、長年リラクセイションを指導してきましたが、そういう集まりに参加する人たちの中には「一生懸命にリラックスしようとする」人たちが少なくないのです。必死にがんばってリラックスしようとする図…というのはかなり笑える風景ですが、本人はもちろん本気で一生懸命なのです。

「リラクセイションにおける第一の罠」
「リラクセイションに『一生懸命…』というアプローチは似合いません」

 「必死にリラックス…というのは、なんか変ですよね」とお話しすると、はたと気がついて笑い出してくれるとありがたいのですが、「こんなにがんばってリラックスしようとしているのに…」と、努力型の枠組みから抜け出ない方に遭遇することもあります。リラクセイションに関心を持つ人は、一般に自分ではリラクセイションが苦手と思っている方が多いのですが、そのためか「何とかしてリラックスしたい」というアプローチになりがちなようです。

 といったような体験を経ながら、私は「リラクセイションに関わる認識と心身のメカニズム」を研究と実践の対象にしてきました。以下でお話しする内容は、現在進行中の実践的探求に基づくものなのでいくつかの仮定や想定を含んでいますが、私の体験とそれに基づく見方が聴衆の方々の「ストレス対処」のヒントになればと願うものです。

想定1 「リラクセイションは意識的・知的なプロセスではない」

リラクセイションはからだとこころとで深まるものなので、知的な理解― 頭であれこれと考えること― は、その準備としては意味があるけれども、それ自体がリラクセイションと結びつくものではなく、考えているときにはリラクセイションのプロセスは進みません。つまり―

想定2 「リラクセイションは、からだの感覚に関わるプロセスです」
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物理学的生理学的にみたときのカラダを「身体」と書いて、ひらがなで表記する「からだ」とは区別しておきます。解剖学や生理的な機能から「身体」を認識しようとすると、それは知的な認識活動なのであって、「からだの感覚」を感じていくリラクセイションとは全くの別物であることを知っておきましょう。
生理学的あるいは医学的な知識を身につけることと、実際にリラクセイションのプロセスに入ることとは別のことです。

想定3 「リラックス状態として、浅いものと深いものとがある」

のんびりと露天風呂につかったり、スポーツの後に冷たいものを飲みながら伸び伸びすること…しばしば「あー、リラックスしたなあ」というよう感じます。しかし、それとは別に「心身のリセット」と呼ぶ方がふさわしい、かなり深いリラクセイションがあります。これは体験的なことですが、この二つを区別して挙げておくことは、リラクセイションに関してはかなり重要なことだと考えています。


「リラクセイションにおける第二の罠」
「感じようとする<意図的努力>は、感じるプロセスを邪魔することがあります」

 さて、リラクセイションを深めるようとするために、「からだを― 実際に― 感じること」が大事です。しかし、その反面、「カラダを感じようとする」注意集中や、そのようにしていこうという意志や努力が、「感じる」プロセスを邪魔することがあります。
 ここには「感じるための意図的努力」という落とし穴があります。「感じようとする」意図的な試みは、注意を感覚に向けて探索するという一種の意識的知的活動であって、注意を感覚に集中しようという試みが結果的にリラクセイションを邪魔する可能性があるのです。


●「腕の脱力」の研究から


 では、人は例えば身体の力を抜くときに一体どうやっているのか―。それを明らかにするために、「腕の力を抜く・腕の脱力」という課題を用いて調べてました。簡単そうな課題の見えますが、実はひどく困難な課題であることが分かったのです。おおむね7−8割の人は、腕の力があまりよく抜けない…のです。

「腕のぶら下げ」についての研究論文

*なお、「腕のぶら下がり」というレッスンで腕の脱力がひどく困難であることを指摘したのは、「竹内レッスン」で有名な竹内敏晴氏(宮城教育大学、南山短大等々元教授)です。参考>『からだとことばのレッスン』(講談社現代新書)

そこで、課題の参加者はどのようにして力が抜けるようにしているかを調べてみると―

1)「意識集中」
「一生懸命に・何とかして腕の力を抜こう」とする試み
2)「意図的な制御放棄」
一生懸命に力を抜こうとする代わりに、「腕を無視する・違うことに注意を向ける・自分は自分の腕と関係ない」などのように、脱力しようとする腕を意識することをやめようとする試み。
3)「目的の無視・矮小化」
「何となく適当にする・脱力などはどうでも良い・脱力にはさしあたり意味はない」などのように、脱力という課題から離れることにより、結果的に力が抜けるようにしようという試み。
4)「目的的行為からの超越」
「腕の力を抜こうとする」というような「目的に向かって何かをする」という図式そのものを乗りこえて自然に「腕の力が抜けている」というあり方で、「言われるままに力が抜けた・特に力が入らなかった・静かな気持ちでいた」という状況。

 という、主に4種類の次元のあることが明らかになりました。ここで注目すべきことは、1〜3は脱力しようとする「試み」であり、4は脱力している「状況」だということでした。

 詳細な議論は省きますが、ここから出てきた一つの仮説は「脱力は意図的努力によって到達できるのではなく、そのような意図的行為と、結果としての脱力状況との間には大きなミゾがあるのではないか」ということでした。簡単に言うと、「脱力しようという意図は、結果としての脱力状況とは関係ないかもしれない」ということです。

 困りました。事態は一種の禅問答になってきたからです―
「腕の力を抜きたくば、腕の力を抜こうなどとは思わず、また腕の力を抜いてもいけない?!」らしいからです。

 しかし、これは禅問答ではなく筋肉の働きから考えてひどく当然なことだったのです。
筋肉が活動するとき、それは常に「縮む」ことでしかないからです。「筋肉が伸びる」のは、その筋肉自体の能力ではなく、反対側にある筋肉の作用だったり、「縮むことをしない」ことの結果だったりだからです。リラクセイションが筋肉の弛緩と関係していることは当然なので、筋肉の弛緩をどのようにしたら有効にすることができるか…というテーマが浮上してきたのです。

(このあたりの事情については、アレクサンダー・テクニックという心身調整法について、その有効性に関する筋肉神経系の解剖学的研究が行われています。
参考>『アレクサンダー・テクニークにできること: 痛みに負けない「からだの使い方」を学ぶ』D.キャプラン著・芳野香・和田実恵子訳、誠信書房)

 「何々をしないこと」…。「する」という意味の英語doと反対の意味を持つundoという言葉は「しないでいる」ということですが、同時に「もどす・ゆるめる・ほどく」という意味も持っています。

 では、「しないでいる」ということを、どうやってするのか?

 禅問答ではありませんので、ナゾナゾの中にとらわれている必要はなく、厳密な答えはともかくも、さしあたり進むべき方向は非常にはっきりとしてきたのです。それは―

「意識的知的活動」から離れて「体験的活動・感じること」に向かうこと―。
「間接的な筋肉の弛緩」をテーマとすること―。

さて、ようやく本論のための準備ができました。


『リラックスのためのボディラーニング法とダンスセラピー』


 ボディラーニング法 Body Learning Methodとは、「体験的なレッスンによって自分自身のからだをより深く感じること、さらに、そのような体験を通して、からだそのものが自らを学習していくこと」を目指すものです。これは、私の15年近いワーク指導体験と舞踏活動を元にして組み立ててきたもので、現在、国内・海外で指導しているものです。

*ボディラーニング法とButoh Dance Mehtodについては、以下の英文及び仏文の解説があり、インターネットのサイト http://www.ne.jp/asahi/butoh/itto/ から入手できます。

*Kasai,T. "A Butoh Dance Method for Psychosomatic Exploration"(English),"Une methode de danse buto pour l'exploration psychosomatique"(French) The Memoirs of Hokkaido Institute of Technology, Vol.27, 309-316, 1999

*Kasai,T. "A Note on Butoh Body"(English), "Une note sur l'utilisation du corps en buto"(French) The Memoirs of Hokkaido Institute of Technology,Vol.28,353-360, 2000

*ダンスセラピーの正式名称は、ダンス・ムーブメント セラピー Dance Movement Therapyといいます。アメリカ・ダンス・ムーブメント・セラピー協会 America Dance/Movement Therapy Associationは今年、35回目の年次大会がシアトルで開かれる予定です。

*国内では、「日本ダンスセラピー協会」が1992年に発足して活動を展開しており、ダンス・ムーブメントセラピストの資格発行を行いつつあります。

*1999年秋から、札幌市内での精神科クリニックのディケア・プログラムとして「リラクセイション」(ボディラーニング・インストラクター:竹内実花)と「ダンスセラピー」(2000年4月から)の指導をしております。前者は、「リラクセイションのためのボディラーニング」によるもので、後者は、現時点では「ムーブメント・セラピー」を主な内容としています。このほかにも小さなレッスンの場を持っていますので関心のある方はご連絡ください。


 さて、ボディラーニング法とダンスセラピーについてですが、リラクセイションを追求するうちにそのような方向に展開する必要が生じてきたのです。その理由は次のようなことでした―



1)緊張と弛緩・脱力には、対人関係における反射・反応が深く結びついていること


 一人でお風呂につかっているときや、運動の後の心地よい疲れの中ではリラックスできるのに、人と一緒にいるときや他者との関係が重要である場ではどうしても緊張する人が多いのです。接客する仕事などでは、人と接したときに笑顔反射が起きてしまうこと、自動的に心身を固めて対応しようという、ある種の「社会的条件付け」が身体に組み込まれていると考えられるのです。そして、ボディラーニングのレッスンによって、このことに気がつくことができるようになっていきます。

 たとえば、エライ人の前でカラダをゆるめていると「失礼だ」という周囲からの反応や、そうした自覚があるとき、筋肉は弛緩せずリラックスできるはずがありません。さらに、これが意識的な反応であるというのではなく、すでに心身に組み込まれた一種の「反射」になっていることが多いのです。

 したがって、問題は広い意味での「対人関係技能・社会的技能 interpersonal relation and social skills」のテーマを含むことになってきました。そして、こういった社会的条件付け・対人的条件反射のような無意識的で自動的な行動をゆるめていくために、良い意味での「脱・社会化」を図る必要が出てきたのです。
 ここでの「脱・社会化」とは、対人関係などの社会的な要因にからめ取られてしまっている自分の心身を、自らのものとして取り返していく試み、のことを指します。
 他人の目や「世間」からの評価…という自らの心身に内在化された監視システムを合理的にゆるめることで、自分自身がより自由に自在に振る舞えるようになること― 。これは、「反社会的」なのではなく、良い意味での「脱・社会的」な試みなのだということに気がつく必要があります。 このような「脱・社会化」の基本は、実は非常に単純で、「感じること」につきるのですが、このことが難しいのです。それは「感じる」前に、社会的反応が作動してしまうためです。

2)人としての「穏やかさ・美しさ・たくましさ」を創り出すこと


 二つ目の理由は、広い意味での生き方と関係しています。ずいぶん昔に「モーレツ」という流行語がありました。「猛烈社員」という過激な生き方が当たり前とされていたとき、「モーレスからビューティフルへ」という流行語が出てきたことがありました。
 ボディラーニングによって獲得していく「美しさ」とは、カラダとして生きている我々の「たたずまい」― 姿勢やしぐさや発声や呼吸など― その意味での生き方の「優雅さ」という意味です。美術品やブランド品や名声などのように外部にある物体や外部からの評価の話ではなく、「からだとして生きている私自身」のあり方の「それ自体としての優雅さ」ということです。

 ところで、不思議なことに、ボディラーニングの方法に基づいて「感じること」のレッスンや基本的なムーブメントの練習をしていると、特に意図したわけではないけれども、ある種の創作舞踊やモダンやコンテンポラリーダンスの一場面のような優美な時間を体験することがあります。ダンスや踊りを特に目的としていないのに、からだを感じ学ぶためのムーブメントは、自然にある種の「踊り・ダンス」へと変容することがある…ということです。

 このような「ムーブメントが踊りやダンスへと変容する」プロセスが、実は「心身の脱社会化」と通じていることが分かってきたのです。照れたり恥ずかしがったり、あるいはその反対に「軟弱…」として拒絶するような、「踊り・ダンス(広い意味での)」の体験によって、四角四面に「社会化」されて仕事や立場の役割によってしか生きられなくなった我々のあり方が、相対化され癒される…そういうメカニズムが存在するのです。

 また、ダンス・ムーブメントセラピーにおいて、しばしば、「からだ遊び」「からだ遊びゴッコ」のようなレッスンが登場することがありますが、それも、幼児や少年のころの素直さ・自然さ、あるいは率直な友達関係を再体験することによって、ホコリにまみれてくたびれきった自分自身を相対化する働きもあるのです。

 なお、当然のことですが、ムーブメントは優美なものには限られません。
実のところ、怒りや悲しみや嘆きや絶望や諦め…などの重く暗く否定的な感情と結びついているムーブメント・動きも存在していて、しばしばこのような「心身の深み」の要素の方が強い影響を与えていることも事実です。
 そのような心身の深みを誠実に見つめようとするとき、ヨサコイ・ソーランのような元気・はつらつ・若さ・喜び・躍動・前進…といったムーブメントやダンスだけでは到底届きようのない世界が存在していることを無視するわけにはいきません。そこで― 

3)心身の「深み」と誠実に応答すること―
「闇の深さの中でこそ、光の輝きがよりまばゆいものとなる」


 1960年代、土方巽(ひじかた・たつみ)によって「暗黒舞踏」と呼ばれる前衛的で過激な踊りの様式が創始されました。三島由紀夫や渋沢達彦などの文壇から「暗黒舞踏」と呼ばれ始め、のちにその名称が一般化したものです。1980年代に山海塾が海外公演に成功して以来、現在では海外においても日本発のダンス様式としてButoh danceの名前で知られ、バレーやモダンダンス、コンテンポラリーダンスなどの舞踊界やアートの世界にも深い影響を与えてきています。

 我々にとってつらく苦い体験の多くは、無意識の世界に押し込められて抑圧されていきます。それを思い起こしたり再体験すること自体さらにつらいことなので、我々は自分自身の暗がりに遭遇することを避ける傾向にあります。(生老病死としてお釈迦様がみてとった我々の根元的な「苦」は、高齢化社会の機軸となり、それを超える試みが現代の医学・心理学・福祉…においてなされていますが、それがどうしても「苦」であることに本質的に変わりはありません)

 もちろん、準備状態や必然性が生まれる前に、抑圧されたつらい体験やトラウマ(心理的外傷体験)などと無理に触れる必要はありませんが、そのような固い結び目(complex)がほどけてきてくれるならば、それは自分の内部に滞っていたエネルギーを自分のものとして獲得できるという利点とともに、心身の深化と成長を促してくれる貴重な体験ともなるのです。

 私は1988年以降、「暗黒舞踏」の舞踏手(小樽・万象館を拠点とした「古舞族アルタイ」、現在は「偶成天」主宰)として、舞踏の公演活動を行ってきました。舞台上で演じられる踊りや動きは(「演目」としての制約はあるにせよ)、観客の心身に深く作用して暗く重いショックを与えることもたびたびでした。しかし、そのような体験によって、自らの「弱さ・悲しさ・怒り・絶望…」とおずおずと接する機会を与えられたとき、人はそれによって常に癒されるわけではないのですが、自分自身にも他者にも、またなんらかの運命に対してすらも、ふと優しくなれる…そんなことがあるのです。
生身の心身を持つ脆弱な存在としての私…という事実にあらためて気がつく、ということでもあります。
 そして、幸いにもそういう体験を得たとき、ひどく深い次元において「生きていること」のもつ緊張がゆるめられ、深いレベルでの「リラクセイション」(想定3)へと進み出ることができるのです。


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*無断転載を禁じます。 (C)葛西俊治 Jul.1, 2000.