ドメスティック・バイオレンスから逃れて



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 そのころもまだカウンセリングには通い続けていましたが、主治医にもこの状態は話せませんでした。見えるところに痣ができてしまったときなどは、それが消えるまで行かないこともありました。
 家族との私の問題に、本当に親身になって向き合ってくれていたその医師に対して、私は(患者のくせに)これ以上心配を掛けたくないなどと思っていました。先生のお陰でここまで回復できたのだから、その私が自分で選んでしまった生活の中で起きてしまったこの事は、なんとか一人でカタを付けようと。
もう、治療にいくというより、信頼できる友人に会いに行く、という感じになっていた、週に一度のその時間があることが救いになって、私はなんとか持ちこたえていました。

 9X年の中頃から私は絵を描くようになりました。
もともと油絵を習ったり、美術の学校に通っていたけれど、描く事からはすっかり離れていました。でも、そんな生活の中だからこそ表したいことはたくさん在って、日記など文章だと読まれてしまう恐れがあるけれど、絵だったらそこに込めた思いは描いている人間にしか分からないから、安心して目分の気持ちをぶつけることができました。

 そのうち、平面の絵では飽き足らなくなって、ボックス状の額の中に立体的な絵を創って、箱庭のような自分の世界をつくるようになりました。
 翌年、それらの作品を学校の友人たちとの展示会に出品しました。それからも、同棲相手を刺激しないように、目を盗んだり拝みたおしては作品をつくり、展覧会などで出会つた人達と交流を持つようになりました。
私の作品を見て何かを感じてくれる人がいる。そんななかで私は自分に対する自信を取り戻し始めました。つまり、私は馬鹿でも気違いでもない、いろいろなひとと、こうして心を通わせることの出来る、ちゃんとした人間であるということ。

 その次の年の2月、私の主治医が病院を移ることになり、私もその病院を「卒業」することにしました。薬はまだ手元にありましたが、お守りのようなもので、殆どのまずに済んでいました。週に一度のその時間がなくなるのは不安ではあったけれど、私には「つくること」があるから大丈夫だ、とも思いました。

 同じ頃に、通院し始めた頃に転職してから惰性で続けていた仕事も辞め、もう少し自分が楽な気持ちで働けそうな仕事に移りました。
 今から思うと、自信や判断力や麻痺していた感覚を取り戻し、本当の意味での自立をする準備を始めていたのかも知れません。

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* 作成 by T,kasai (7/28,2000)   無断転載禁止