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  脳死は人の死か


 この回の授業では、1997年4月に衆議院を通過したばかりの臓器移植法案について、脳死を死として認めるかどうかの視点から考えました。授業では、脳死のしくみや各国の臓器移植の状況を解説した後に、テレビニュースの録画を見ました。
 
ビデオ
 
●1997.4.22TBS「ニュース23」臓器移植法案と脳死のしくみ
●1997.4.24TBS「ニュース23」臓器移植法案、衆議院で可決
 
解説・脳死のしくみ (2003年10月に加筆修正)
 
 「脳死」というのは、脳の機能すべてが停止した状態のこと。脳死になるケースは交通事故で頭を強打した場合がほとんどで、死亡する人のうち100人にひとり程度の割合で発生する。「植物状態」とは異なり、意識がなかったり大脳が機能していないだけでなく、脳幹や小脳もふくめて脳の機能がすべて失われた状態をさす。自然状態では、脳幹が機能しなくなると呼吸もできず、まもなく心臓も停止する。しかし、人工呼吸器をつけて強制的に呼吸させ続けると、脳が完全に機能停止した後も数時間から数日の間、心臓は動き続ける。その間は、体温も維持され、つめや髪の毛も伸び続ける。ただし、完全な脳死状態になった場合は蘇生することはない。また、人工呼吸器をつけていてもその間に内蔵は劣化していくため、脳死から数日たち完全に心臓が停止した状態では、ほとんどの臓器は移植には使えなくなってしまう。今後、医療技術が発達すれば、脳死から心臓停止までの時間はさらにのびることが予想される。

 欧米のほとんどの国では、脳死を死と見なしており、脳死状態からの臓器移植が可能になっている。日本では1997年に成立した臓器移植法によって、脳死段階からの臓器移植が可能になった。ただし、脳死を一律に死と見なさない点が日本の臓器移植法の特徴で、本人があらかじめ臓器提供の意思表示をしており、かつ家族の同意があった場合にのみ、脳死判定が行われ、脳死を「死」と見なす。本人に臓器提供の意志がない場合や家族が拒否した場合は、脳死判定は行われないため、いままで通り脳死状態かどうかに関わりなく心臓停止によって死亡とされる。欧米の病院では、脳死の疑いのある患者に対しては、臓器提供の意志の有無にかかわらず一律に脳死判定を行っており、それと比較すると日本のやり方は脳死を死と見なすことに消極的といえる。これは脳死を死とすることに抵抗を持つ人が多いという国内世論に配慮したためであるが、一方で、この方式では移植用臓器の不足は解消されない。日本での脳死状態からの臓器移植は、臓器移植制定後も年5件程度しか行われておらず、依然として移植を希望する患者の多くが海外で手術を受ける状況が続いている。そのため、移植を待つ患者や家族をはじめとして臓器移植の推進を求める人たちからは、より積極的に脳死を死と認めてほしいという声が上がっている。
 
 
 生徒のレポート
 
脳死を認める立場
 
●もし、自分が脳死になったとしたら、何も考えられず、機械の力を借りて息をさせてもらうような状況で、ただ命をつないでもらうということはして欲しくない。
 私たちが死を悲しむのは感情があるからで、脳死になったら、そういう感情もなくなってしまう。感情もなく、「自分」という意識もなく、感覚もなくなってしまったら、それはもう人とはいえないのではないか。少なくとも、自分がそうなったら「私のことを忘れてほしい」と思う。
 
●いくら体が生きていたとしても、自力で呼吸もできず、人工呼吸器によって生かされているだけだ。ただ、家族がそれでも生きていてほしいと願うのなら、それはそれでかまわない。
 
●自然の状態ならば死んでいる人を人工呼吸器をつけてむりやり心臓を動かすのはかわいそうだ。
 
●脳死が認められることで、移植手術ができるようになるのなら、それはすごくいいことだと思う。
 脳死を死と認めるかを法律で決めずに、家族や関係者が個別に判断すればいいという意見がある。しかし、個別に判断できればいいが、法的な基準がなければ医療現場は混乱におちいると思う。
 具体的にいうと、脳死を認め、書類にサインしていたにもかかわらず、いざとなったら反対したり、移植手術が済んだ後になってから「あの時は医者に無理矢理すすめられて……」と言い出して、裁判沙汰になることも予想される。だから、個別に判断するのは無理だと思う。
 脳死が死と認められることで、移植手術を待っている人たちを救うことができるのだから、早く脳死を認める法律が通ってほしい。
 私は、自分はもちろん、家族や親しい人が脳死になったときでも、この考えを変えるつもりはないし、むしろすすんで脳死を認めていきたいと思っている。
 
●脳死になった人を生かし続けるには、たくさんの医療費がかかるだろうから、よほどのお金持ち以外は、そうまでして生きてもらいたくないと思います。それに、脳が死んだ人を生かし続けるのは、本人にとっても生き地獄だと思う。
 だから、脳死の人を生かし続けるよりも、臓器を移植して他の人に役立ててもらった方がいい。自分だったらそうする。
 
●脳死は人の死だと思う。だから、中山案に賛成だ。
 もし、自分が脳死になったとしたら、臓器をあげてもいいと思う。人工呼吸器なんていらないから、臓器移植で生きられる人にあげたいと思う。
 ただし、臓器移植については、脳死になったら無条件にやるというのではなく、本人が臓器移植を望んでいる場合にだけに限るべきだと思う。(とはいうものの、脳死が死と認められて、ある日、「あなたは脳死になったら、自分の臓器をあげますか」なんてアンケートが来たら、ちょっと怖い気がする。)
 「脳死を認めることは脳を特別扱いしている」という意見があったが、心臓が止まることを死とすることも心臓を特別扱いしているのではないか。心臓だって脳の指令で動いているわけで、独立して生きているわけではないのに。何で「心臓死」が「死」なんだろう。
 もし、自分が脳死になったとしたら、どんな気分なんだろうか。気分も何にもないのかな?でも、やっぱ、死ぬのってコワーイ。何でだろう。
 
脳死を認めない立場
 
●まだ、体にぬくもりがあって、心臓も動いている人を「死んでいる」と法律で決めてしまうのはおかしいと思います。
 そもそも、医学というものは、人間が生きることをサポートするもののはずです。それを脳が死んでいるからといって、そのサポートをやめてしまうのは、医学の道からはずれていると思います。脳死の人も生きているのだから、最良のサポートをするというのはあたりまえのことで、それをやめてしまうのは、医師が医療を放棄してしまうのと同じことだと思います。
 臓器移植については、脳死を死と法律で決めなくても、患者本人や家族の意志によって、できるようにすればいいと思います。脳死を死と決めてしまったら、医師が最後までできる限りのサポートをしないで、患者を投げ出してしまう危険性が生じると思います。それに、ぎりぎりのところで努力している医師たちのやる気をなくしてしまい、医療技術の進歩にとってもマイナスになると思います。
 
●私自身は脳死を認めない。というか、認めたくない。なぜそう思ったかというと、脳死と判断されても、もしかしたら助かるかも知れないからだ。
 私の身内にこんなことがあった。ある日、風邪をひいて倒れてしまい、意識もなく、体も動かせなくなってしまった。後で聞いた話では、運動神経が死んでしまったということだった。しかし、私が数ヶ月後に見舞いにいくと、徐々に回復していた。「やっとスプーンが持てるようになったのよね」と話していた。私は心から安心した。
 もし、「脳死が人の死だ」と法律で決められてしまって、脳死だと誤診されてしまったら、もう取り返しがつかないことになる。
 
●自分が脳死状態になった場合を想像すると、死を選び、臓器を提供しようと思う。
 でも、家族が脳死状態になったとしたら、たぶん、死と認めることはできないだろう。心臓は動いているし、肌もあたたかい。見ただけでは眠っているのと変わらない様子に、いつか起きてくれるのではないかという希望にすがってしまうに違いない。
 一方で、僕が臓器移植を待っている患者だとしたら、脳死を死と認めてくれたほうが問題はなくなるし、臓器提供の門も広がるだろうから、諸手をあげて賛成するはずだ。
 このように、立場によって考え方が違ってくるので、今の段階で、脳死を法律で固定してしまうのは時期尚早ではないだろうか。もう少し医療の発達を待って、もっと色々なことがわかってから、慎重に決めていくべきだと思う。
 
●脳死といっても、心臓が動いている人から臓器を取り出し移植手術をするというのは、その人から命をうばうことになると思います。臓器移植自体が不自然なことで、生まれついての体で生きていくべきだと思います。
 
保留・その他
 
●脳死については保留だ。まだ、心臓停止を死としておいて、結論は待った方がいいと思う。
 脳死を死と断定することには、脳死状態になった患者の家族は納得いかないだろうし、一方で、脳死を死ではないと決めてしまえば、臓器移植を待っている人々の希望を絶つことになる。
 誰だか忘れたが、「肉体は精神のおもちゃにすぎない」といった。たしかに、そうかも知れない。脳にダメージを受た人が人工呼吸器をつけることで体は生き続けても、意識も人格もなければ、体はただの肉でしかない。しかし一方で、肉体だってその人の一部であり、その人そのものだという気もする。僕の考えは今、振り子のようにゆれている。
 脳死を死とするか否かは、当事者の家族が個別に判断するしかないのだろうか。もっと深く考えていこう。これがひとまず僕の意見だ。
 
●この問題はむずかしすぎる。つまり、意見は保留だ。
 でも、どちらかというと、認めない側だ。理由は、資料の中にひとつだけ納得できる意見があるからだ。それは「医学が進歩すれば、脳死の人を回復させることも可能になるのではないか」という意見だ。脳死を死としてしまったら、その可能性はゼロになってしまう。
 とはいうものの、「死」という問題は法律で決めるものではないと思う。それぞれ個人で判断するのが一番いいと思う。
 ところで、ビデオにでてきた政治家の人たちは「脳死と植物状態との区別もつかない」と平気な顔で言っていたけど、こういう人たちが国会で法律を決めているのかと思うと不安になる。少しは調べてから国会に出席してほしい。
 
●私は保留の意見です。
 理由は本当に単純なことで、例えば、自分の大好きな人が脳死になって、髪も伸びて、体もあたたかいのに、その体から臓器が取り出されるのは耐えられない。でも一方で、自分が脳死になったら、そんな生きているかどうかわからない、何も考えられず夢も見れないような状態なら、死んだほうがましだと思うからだ。
 
●脳死は人の死かどうか、そんなことは僕たちが決めることでも、法律で決めることでもないと思う。そのすべての権利は患者とその家族にある。
 臓器移植についてもそうだ。脳死を死と患者が認めていても、移植するかどうかはまた別問題だ。脳死状態になったからといって、医師が勝手に移植手術をすることは許されないことだ。患者とその家族が認めなければ、臓器移植は絶対に行ってはならない。そのことで、移植を待っている人が死んだとしてもだ。
 だから、脳死が人の死かどうかは、その時々によって違うものだ。他人がとやかく言う余地はどこにもない。
 
●法律で決めてしまうよりも、それぞれの家族が決めるべきことだと思う。
 
●脳死状態を死体とは見なさず、あくまで生きている人として接しながら、臓器移植を可能にする方法はないだろうか。
 
●今、脳死脳死とさわいでいるが、人間の意識はやがてコンピューターに置き換えることができるようになると思う。今に、超大容量の記憶装置が発明されて、その人の考え方、記憶、感情といった精神活動のすべてが、そこに記録できるようになると思う。そうなれば、脳死も関係なく、人間の意識は永遠に生き続けることが可能になるはずだ。

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