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  臓器移植法


 この回は、1997年6月17日に成立した臓器移植法について考えました。この法律の特徴とあわせて、現状で日本人が臓器移植を受ける場合にどのように行われているか、日本と西洋との生命観の違いについても考えました。
 
臓器移植法の特色
 
1.脳死判定より先に、家族に臓器提供の意思があるかどうかを確認する。
2.本人や家族に臓器提供の意志がなければ、脳死判定は行わない。そのため、脳死を「死」とする人とそうでない人とがでてくる。
3.本人に、脳死段階での臓器提供をする意志があるかどうかを書面で確認する。それにあわせて、ドナーカード(臓器提供カード)が発行される。
4.日本より手続きが簡便な欧米でも臓器提供は不足している。日本の法律では、はじめから臓器提供が不足するのはあきらか。
5.日本人は西洋人に比べて、死体・遺体に強いこだわりを持つ人が多い。たとえ死後何十年たっていても「お骨を拾う」行為は重要な意味を持っている。死体を魂の抜けたただの物体とする西洋社会とは対照的だ。この法律はそういう日本人の生命観に配慮して、脳死判定に世界でもっとも厳しい基準を設けている。
 
 
 生徒のレポート
 
●今回決まった臓器移植法は、あいまいでよくわからない。でも、日本と欧米との生命観の違いとか考えると、一番いいのかもしれないと思った。
 ところで、移植はOKになったが、やっぱり問題は臓器提供者の不足ではないかと思う。だいたい、私自身、「ドナーカード」というものをこの授業で聞くまで知らなかった。だから、ドナーカードをもっと広めていく必要があると思った。
 
●私の意見はもう決まっている。私はどちらかというと、外国のやり方に賛成だ。理由は……
1.今回、日本で決まった法律には、ドナーカードの普及など、問題点が多いこと。
2.外国のやり方のほうが、多くの移植希望者を助けられること。
3.ドナーカードという紙一枚で、法律上の死がずれてしまうというのは、人の命を軽く扱っている感じがすること。この3つだ。
 3つめについては、もう少し説明したい。もし、私が脳死になったとする。そのとき、ドナーカードを持っていなければ生きていて、持っていれば死んだことになる。私が脳死だという事実は変わらないのに、カード一枚で死体か重体か変わってしまう。私は、自分が脳死になったら、臓器提供をしたい
し、死んだと見なされたいと思う。自分が人工呼吸器をつけて生かされるというのは、「ウソの生命」をもらっているという気がする。私は、今、まんがを読んだり、友達と話したり、音楽をきいたり、こうしてレポートを書いたりして、考えたり、楽しんだり、悲しんだりしている。脳死状態で生かされても、一人で孤独にベッドのうえで呼吸だけしているというのは、生きているとはいえないように感じる。今回の法律で、最初に脳死判定をしないで、まず、臓器移植をするかどうかから確認していくというやり方は、現実を直視しようとしないで、脳死の問題を逃げているだけだ。私にとって、「友達」とはその人の中身が好きだから友達だ。私がその人のことを好きなのは、外見や身体ではなく、「なかみ=こころ」が好きだからだ。だから、もし友達が脳死になった場合でも、もうなかみのない身体にはこだわらない。少なくとも、そうありたい。
 ちょうど、今から1ヶ月前、祖父が亡くなった。私はその翌日から修学旅行で、お通夜にも行けないので、死んだばかりの祖父の顔を見せてもらった。
 祖父は脳死ではなかったが、祖父の遺体も、脳死になって「ウソの生命」で生きている人たちも、同じだろうなと思った。もう呼びかけても、二度と返事をすることはないのだ。
 だいたい、こんなところである。
 
(村田 ただし、遺体と脳死状態の身体との決定的な違いは、心臓が動いていて身体があたたかいということだ。理屈としては脳死を理解していても、いざそうなった時に、心臓がトクトクいっていて、身体が温かい人を本当に死んだと割り切れるだろうか。僕にはあまり自信がない。)
 
●日本の臓器移植法はわかりにくい。脳死判定を最後に行い、本人や家族に臓器提供する気があるかを最初に確認する。これによって、脳死をめぐってふたつの死ができてしまった。あいまいだ。まず最初に脳死判定をして、脳死ならば「死体」として、次に臓器提供の意志があるかを家族に聞くという順序のほうがはっきりしているし、わかりやすい。また、ドナーカードの普及もむずかしいと思う。ふだんから脳死について考えて、ドナーカードを書こうという気になる人はごくわずかだろう。今回の法律では、あいまいさばかりが際だっている。このあいまいさが、医療現場や死の認識に混乱をもたらすのは必至ではないだろうか。
 
●臓器提供の意志を確認してから脳死判定するというのはおかしい。なぜ、脳死判定をはじめにやらないのか。今回の法律のやり方だと、本人と家族の言葉によって、生と死が変わってしまう。それでいいのだろうか。疑問に思う。私は、まずはじめに脳死判定をして、脳死を受け入れられる家族はそれでいいし、脳死を死と認められない場合はその後も医療を続けてもらえばいいと思う。ところで、ドナーカードを普及させるために、自動車の教習所においたらどうだろう。脳死のほとんどが交通事故で起こるといっていたし、教習所で脳死と臓器提供についての授業も義務づけるといいと思う。ともかく、ドナーカードが普及しないことには、今回の法律は何の意味もなくなってしまう。
 
●別にいいんじゃないでしょうか。どっちにしろ、今はまだ医学の発達の途中だし、助かってもらいたいから臓器移植をするわけだし。それに、移植手術に失敗しても、医者側には大きな損害はないだろうし。
 
(村田 これはよくわからない意見だったんだけど、「医学はまだ発展途中だから、脳死についての法律があいまいになってしまうのはしょうがない」という意味なのかな?それならわかるけど。あと、移植手術は今後とうぶん注目されるだろうから、明らかな医療ミスをおかしたら、医者は致命的なダメージを受けると思うぞ。相当な損害賠償も請求されるだろうし。)
 
●臓器移植についてはいいと思うし、今回の法律でも一歩前進だと思うが、やはり、あいまいだと思う。なぜ、もっとはっきりと脳死判定して、臓器移植の意思を確認するというやり方にしないのか。今回の法律では、まだまだ小さな一歩にすぎないと思う。
 
●僕はこの移植法には反対です。先生が言っていたように、かぜで病院に来たような人が、ドナーカードに記入するとは考えられない。ドナーカードが普及しなければ、この法律は意味のないものです。それだけでなく、脳死判定をめぐって、医療現場での混乱が起きるのはあきらかです。欧米のように、もっと臓器提供ができるような形に法案をあらためるべきではないかと思います。今回の法律では、臓器移植が必要な人たちを本当に救えるようにはならないと思います。
 
●いかにも日本人らしい中途半端な法律だと思う。脳死判定、臓器提供までの流れも、時間と手間がかかり、とてもめんどくさくなりそうだ。それに、このようなあいまいな法律では、病院でも混乱が起こると思う。欧米のやり方のような法律にすれば良かったのにと思う。
 また、ドナーカードを持っていなければ、本人にいくら臓器提供の意志があってもダメなのは残念。こういうやり方では、臓器提供者が不足するのは目に見えている。欧米ですら不足しているのに、日本ではどうなるかはもうみんなわかっていると思う。なのに、なぜ、こんなややこしくて、中途半端な法律にしたのだろうか?やっと臓器提供に向けての法律ができたと思ったのに、これでは以前とほとんど変わらないではないか。臓器移植を待っている人が大勢いるというのに。
 
●こんなやっかいな法律では、逆に、臓器提供しようという人の気持ちをじゃましてしまうのではないか。今回の法律では、あってもなくても、今までとあまりかわらないだろうと思う。私は、欧米のように、先に脳死判定をするべきだと思う。
 
 
【授業担当者より】  今回の臓器移植法について、生徒の見解は圧倒的に批判的でした。あいまい、わかりにくい、臓器移植を待っている人たちを救えないなどなど。
 ただ、個人的にはあらかじめ本人がドナーカードを持つというやり方はなかなかいいんじゃないかと思っています。あらかじめ本人に選択の自由があるというのは、やり方しだいで理想的なものになるんじゃないかという気がするのです。ようはどれだけ普及するかです。今回の授業のようなものを義務教育のカリキュラムの中に入れていくとか、みんなの意見の中にあったように、自動車教習所での授業にも義務づけるとか、成人式の時に必ず臓器移植とドナーカードの話をするとか、色々あると思います。そうやって、この問題に日ごろから関心を持つ人がふえ、賛否双方が意見を言い合い、その結果、日本人の3割くらいがドナーカードを持つようになったら、この社会もなかなかのものじゃないかなという気がします。

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