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  生活の豊かさって何だろう


 この回は、夏休みの宿題として、「生活の豊かさってなんだろう?」というテーマで作文を書いてもらったものをまとめたものです。生徒たちには次の会話文を読んでもらい、それを参考に自分の考えを書いてもらいました。なお、会話文に登場する「土取さん」は、青年海外協力隊員として2年間、太平洋の南の島・ソロモン諸島で教員をしてきたという方です。1学期の授業にお客さんとして来てもらい、スライド写真を使いながらソロモンでのくらしや国際援助・南北問題などの話をしていただきました。
 
 
■土取さんとの会話
 
 以前、授業でソロモンの話をしてくれた土取さんと、授業が終わってから、こんな会話をしました。まず、次の会話を読んでみてください。
 
「どうだった、久しぶりの日本の中学生は?ソロモンの生徒とくらべて」
「そうねえ、ソロモンの子供たちの方が、いきいきしていた気がするな。まあ、一日学校に来ただけじゃあ、わからないけどね」
「でも、それは日本の社会全体に言えることなんじゃないの。いそがしく働いて、お金もモノも情報もたくさんあるけど、なんとなく毎日がおもしろくなくて、将来に不安があってと言うのは。例えば、オウム真理教の事件だって、そういう不安を感じていた若い人たちが、宗教に救いをもとめた結果と言えるんじゃないかな?」
「そこまで言い切れるかはわからないけど、少なくとも、ソロモンの人たちの方が、毎日を楽しんでいるって感じがしたな。日本みたいにモノはあふれていないけど、海も山も豊かで、大人も子供もそういう自然にあわせてのんきにくらしてて、食べ物にもこまらないし……」
「海で魚をつかまえて、森で木の実をとって?」
「そうそう。基本的に、彼らの社会は、「北」の国々が資源をりゃくだつしなければ、豊かな社会なんだから」
「まあ、たしかに、そういうくらしの方が、自然環境には良いけど……」
「だからさ、村田さんが書かせてた南北問題のレポートさ、多くの生徒たちが『豊かな先進国が、貧しい発展途上国を援助してやる』っていようなことを書いていたでしょう。あれ良くないよ。ああいう考え方だと、南北問題なんて、永遠に解決しないと思うんだ」
「というと?」
「南北問題って、「南」の国々をアメリカや日本みたいなモノがあふれている社会にすることじゃあないと思うんだ。もしも、世界中の国が、日本やアメリカみたいなたくさんのモノであふれた社会になったら、資源の不足と環境汚染で、それこそ地球に人が住めない状況になっちゃうわよ」
「たしかに、豊かな生活は、大きな家に住んで、高級車を乗りまわすことだけじゃないね」
「でしょう」
「でもさ、そうは言っても、いったん近代文明の物質的な豊かさを味わっちゃうと、そういう生活を捨てるのはすごく難しいんじゃないかな?例えば、「くみとり便所」って言うだけで、便秘になっちゃう人だっているわけだしさ。土取の『便所にイグアナがでた』って話聞いて、げんなりしていた生徒もいたよ」
「あはは……」
「それに、ソロモン諸島みたいなところだってさ、確実に、近代文明の波が押し寄せてきているわけだよね。伝統的な生活や儀式は少しずつ失われてきて、首都に行けば、自動車だって走っているし、ビルだって建っている。だから、いったん、近代文明の便利で楽ちんな生活にふれちゃうと、たとえ時間に追われるいそがしさや将来への不安や社会へのいきぐるしさを感じていても、そういう生活からぬけ出せなくなるんじゃないかな」
「そうねぇ。たしかに近代文明の便利さを全部捨てるのは不可能よね。でも、できることから少しずつ変えていくことは、無理じゃないと思うんだ。例えば、『いっさい車に乗るな』っていうのは無理だけど、排気ガスの少ない小さい自動車に乗りかえたりっていうようなことは可能だし。いまどき、大きくて豪華な車をありがたがる人自体、少なくなってきているでしょう」
「なるほど」
「それに、何も近代社会の何もかもを否定しようって言うわけじゃないのよ。例えば、学問や教育は大事よ。大事だと思っているから、ソロモンまで行って、理科の教師をしてきたんじゃない」
「あはは……たしかにそうだ」
「だから、近代文明の良いところ残しながら、違う文化の良いところを認められるようになるといいと思うんだ」
「でも、そんなに都合良くいくものかな?」
「少なくとも、色々な社会があって、色々な豊かさや未来のあり方があるんだってことを知っていれば、未来には、このまま近代文明をまっしぐらに進む以外にも、色々な可能性があるんだって考えられるでしょ。例えば、ソロモンの社会は、「おくれた社会」でも「未開の社会」でもなくて、違った文化と
違った可能性を持っている社会だと思うんだ。だから、「南」と「北」の関係にしても、『豊かな先進国が貧しい発展途上国を援助して、近代文明をつたえる』っていうような一方的な関係じゃなくて、逆に、日本人とか西洋人とかが、近代文明の社会にいきぐるしく感じた時に、「南」の人たちから、別の生き方や社会のあり方を教えてもらうって考えるべきじゃないかな」
「なるほど」
 
 
 生徒のレポート
 
●会話の中に、ソロモンはおくれた社会ではなく、違った文化をもっている社会とある。確かに、そう言うと聞こえはいいが、実際には貧富の差は開く一方だと思う。
 しかし、逆に貧富の差をなくそうとして、世界中がアメリカや日本のような社会になってしまったら、会話の中でも言っているように、資源不足と環境汚染で人が住めなくなってしまう。どちらを選んでも解決しない難しい問題だと思った。
 
●僕の考える豊かさというのは今の日本社会だ。人間は常に楽になりたいと望んでいるし、いまさら今までの便利な生活を捨てることは無理だと思う。
 確かに、地球が住めなくなったら、今のところ人間は生きていけない。その意味で自然は大切だ。しかし、それと同じくらい、僕にとって文明生活は重要だ。
 
●正直なところ、私には、今の日本の大人たちがつくった社会はいいとは思えません。豊かな社会にたどり着くには、今のままでは無理だと思います。
 この社会では、競争ばかりで、いったんそこからはずれてしまうと、便利なものにかこまれた生活どころか、住むところも仕事もなくなってしまいます。新宿の地下道には、そういうホームレスになった人がたくさんいます。
 私たちはおいしいものを食べて、学校に行けて、色々なものに囲まれてくらしていますが、そういう生活は、一歩まちがったら何もなくなってしまうようなすれすれの競争の上に成り立っているんだと思います。
 
●私はこの夏休みに二週間ほどオーストラリアに行って来た。
 オーストラリアは、人口が少ないわりには土地が広い。土地が広いので、当然、家も公園も学校も広い。広い教室に20人ぐらいの生徒で、校庭もサッカーコートが二つくらい入りそうな広さで、そこでひとクラスの20人がフットボールを楽しんでいた。オーストラリアの中学生はとても元気だった。何となく今を楽しんでいるように見えた。
 学校の授業にしてもそうだった。授業中でも笑いが消えたことがなかった。先生も同じで、生徒の頭につめこむことより、生徒の関心をひいてしっかり学ばせようとしていた。だからかどうかはわからないが、宿題も少ない。一週間に一つでも出れば多いほどだ。そして、当然、塾なんていかない。
 オーストラリアの中学生は、時間を持てあましているように見えた。みんな運動が好きなので、放課後も公園に遊びに行って、家の中ですることはほとんどない。だから早く寝る。他にすることもないし。
 逆に、日本の中学生は、勉強が好きかどうかは別にして、家に帰ったらすぐ塾に行き、夜おそくまで帰ってこない。そのゆとりのない生活の中で色々しなければならないから、みんなつかれ気味なんだと思う。
 
●父から聞いた話だ。
 ある貯水池には、雨があまり降らず、干上がってしまい、底が見えるほどになってしまった。すると、そこにキャンパーたちが集まってきて、ドドッとテントを張ってしまった。それは十組、二十組と増えていった。当然、人が住み着くということは、ゴミが増える。排泄物もその場所にうめられ、たき火の後もそのまんまだ。やがて、貯水池には雨が降り、水がたまった。その水を僕たちは飲んでいる。僕は、まるで、日本などの豊かな国を象徴した出来事だと思った。
 貯水池にテントを張った人たちは、夜中に集中豪雨が降り、貯水池に集まってきた水で流されてしまうことなんて、きっと思ってもみないだろう。おおかた、誰か(レスキュー隊など)に助けてもらえると考えているに違いない。そのあまい考え方も僕たちの社会のようだ。なんとかなるというあまい考えで、地球上で好き勝手にやってきた僕らの社会も、いつか水に流されてしまうときがくるのではないだろうか。
 物があふれ、生活が楽になる世界、そんな物は豊かなんていえないと思う。逆に、それこそ貧しいことだと思う。表面上は豊かでも、本当はとても貧乏な国、それが北の国々ではないだろうか。たくさんの物を山に持ち込み、ゴミをまき散らしているキャンパーと同じで、無駄づかいに他ならないと思う。
 豊かな生活をするには、自然や地球に対しての良心と気くばりが必要ではないかと思う。土取さんの言うとおり、北が南から学ぶことはたくさんあると思う。
 
●私たちの未来はそれほど明るいものだとは思えない。私たちは、今の生活になれてしまって、いろいろ問題があることはわかっていても、もう離れられないと思う。ただ、今の便利さを保ちながら、少しずつ変えていくことはできると思う。
 そのためには、教育が大事だと思う。勉強というとテストの点とか通知表が思い浮かぶかもしれないけど、もっと広い意味で、何かを考えたりやったりする意欲のことだ。そういう意欲を持っている人はすごいと思うし、学校はそういう人を育てることを考えて欲しい。そんな人たちが大人になって次の時代をつくったらすごいと思いませんか?
 だから、小学校、中学校、高校はその種をうえていって、高校、大学で、それに水をあげ、社会に出てのばしていく。そうして、少しずつ社会の問題を解決していって、豊かな社会にしていく。それが私の願う未来の世界です。
 
●土取さんは日本の中学生はいきいきしていないと言っているけど、それは違うと思う。僕たちも、毎日がこんなにいそがしくなくて、受験勉強もなくて、自然がもっときれいなら、いきいきしていると思う。それに、いじめとかもなくなると思う。
 
●私も南の島へのあこがれをもっている。土取さんの言葉に「ソロモンの人たちの方が毎日を楽しんでいるっていう感じがしたな」とあるが、私もそう思うからだ。
 以前、「世界ウルルン滞在記」というテレビ番組で、南の島の生活をやっていた。そこは、先進国のようにスーパーがあったり、道路を高級車が走っている風景はなく、便利な物も豪華な物もないが、なんというか、生活そのものが楽しそうなのだ。朝になれば、収穫物を布に包み、それぞれがもってきた物を広場のようなところで売買しあって、こちらからみれば大した金額ではないかもしれないのだが、彼らは大切そうにそれをもって帰る。
 私は彼らの楽天的なくらしが豊かだと思う。豊かな生活とは、なによりも「楽しい」と思って生きられることじゃないかと思うからだ。
 
●「豊かさ」というのは、一人一人考えが違うと思う。だから、一人一人が自分なりの答えを出せばいいことで、本当の意味とか、客観的な正解なんてこういうものにないと思う。
 
●違う文化の良いところを認められるようになるのだろうか?
 僕は認められないような気がする。僕たちは、それほど深く近代文明につかっている。少なくとも、僕自身は絶対に無理だと思う。
 
●便利なものに囲まれた生活というのが、豊かだとは思わない。
 私たちは、生活にあると便利だというものをどんどんつくることを良いことだとしてきた。だけど、人間がほんらい持っている能力をなくすようなものは、自分たちの判断でやめていけばいいと思う。でも、これは無理だ。だから、自分でできることは、機械にたよりすぎないように心がける必要がある。でも、これも本当にできることなのかわからない。
 
●私も、「南」の国をアメリカなどの先進国のような社会にしてしまったら、資源がなくなり、酸素も不足して人類は滅びると思う。
 私は、「南」の発展途上国の伝統的な生き方と「北」の先進国のバランスをとることはできると思う。また、そのために行う援助活動は悪いことじゃないと思うし、「南」の人たちが本当に望んでいるような援助をするべきだと思う。
 
●僕は、豊かな生活とは平和だと考えている。豊かな生活は、世界が平和になってはじめて実現する。しかし、人間の歴史の中で、平和が実現したことはない。人間はずっと戦争をしてきた。だから、空想上の幸せを「平和」という言葉で表現しているのだと思う。
 それに現代のように富や設備のかたよりや科学技術が発達したままで、世界に平和は実現しないと思う。物質的な豊かさをそのままにして、平和で豊かな生活を手に入れようとするのは都合が良すぎるのではないか。
 
●一方的な考えかもしれないけど、先進国が発展途上国を援助して、近代文明をつたえるしかできることがないと思います。今から先進国が発展途上国の良いところを学べと言われても無理だと思います。
 「できることから少しずつ変えていく」ということは、不便なことをがまんするのではなく、科学が進歩することで実現していくことではないかと思います。公害や資源の不足も効率のいい新しいエネルギーを開発することでしか解決方法はないと思います。人々の欲望をおさえることができない以上、そういう方法に期待するしかないと思います。だから、発展途上国も近代化していくしかないと思っています。
 
●僕はどの生活が便利で豊かでこんな生活がしたいとかのことはその人の好みや好き嫌いがあると思う。例えば、アウトドアが大好きな冒険家だとかの自然野郎もいるだろうし、近代生活にとりつかれて電化製品が大好きで手放せなくなってしまっている電気野郎もいるはずだ。その間でどっちでもいいという優柔不断野郎も2%?10%はいるに違いない。何が言いたいのかというと、人それぞれだと思うのだ。アウトドア野郎だったら、自然があふれていて、自然にいつでもふれあうことができる生活が一番だろうし、電気野郎は便利な生活品や電化製品がいつでもすぐ使えるそんなすごい楽な生活がいいはずだ。僕の場合は、今までの電化生活のせいと言っていいかわからないが、運動が大変苦手だ。こういうふうに運動が嫌いになってしまったら、どうするかというとテレビ番組を見るかテレビゲームをするかに決まっている。この場合、本人の根性の問題にかかっている。だって、僕は本当は宿題も勉強も嫌いだ。何が言いたいのかというと、この宿題もやりたくないのだ。だから少しでも楽にやりたいと思って、音楽をききながらやることにした。すると音楽をきいているではないか。僕の場合こういうところが根性ないと思う。実際にこれを書いている今、根性がない。僕のようないろいろなことをあいまいに考えてしまう人間がいると、これはまず解決しない問題だ……(以下、この調子でまだまだ続きますが省略。なんだか初期の筒井康隆みたいな文章。面白いけどこっちが根負けしました。降参。 村田)
 
●会話の最後に「別の生き方や社会のあり方を教えてもらうって考えるべきじゃないかな」とある。僕はここを読んだとき、「なるほど、あーそーだな」とうなづいてしまった。ソロモンの社会はおくれているのではないと僕も思う。
 
●僕自身、毎日があまりおもしろくないし、将来にも不安を感じる。
 でも、ソロモンの人たちは本当に将来の不安なんて感じていないんだろうか。彼らは彼らなりに不安なこととかあるんじゃないだろうか。ちょっと疑問に思う。
 
●確かに、南の国々は日本などとは違う文化と可能性をもっていると思うけど、それを日本人や西洋人が教えてもらうというのは、かなり無理があると思う。その逆で、彼らに近代文明をつたえることも無理だと思う。
 それは、その国の人々には、それぞれ一番なれた生き方があるからで、それを変えるのはすごく難しいと思う。
 
●確かに、それぞれの文化に違った可能性があると思う。でも、今以上に交通や通信が発達して、交流がもっとさかんになったら、世界中がだんだん同じような文化になっていくと思う。事実、ソロモンの中学生たちもナイキのTシャツを着ていた。
 というものの、だからといって、めずらしい文化をもつ人たちを天然記念物のように隔離してしまうのは良くない。じゃあどうしたらいいかというと、わからない。ただ、こういう文化の保存のために、先進国はもっと援助をしてもいいんじゃないかと思う。
 
●人間には未来を選べる自由がある。過去の人たちは、その自由な選択肢の中から、「便利さ」を選んだ。便利な社会をつくるときも、一歩一歩ゆっくりと時間をかけたんだと思う。そうしていくうちに、正しいこと、悪いこと、きれいなこと、きたないことなどの今まで見えなかったものが見えてきたんだと思う。で、今の私たちが未来を選ぶときも、一歩一歩始めていけばいいと思う。
 えっ?私の考え?!
 まだ決まりません。まだ13年しか生きていませんから。
 
●私は今の自分の生活に満足はしていない。それは、私も将来の不安や社会への息苦しさを感じているからだ。「将来いい暮らしがしたければ、今、勉強しなければだめだ」と言われる。私もそう思う。でも、今勉強したからと言って、必ずいい生活が手に入れられるというわけではない。それに、そうやって1年後がきたら、「また将来のために」そなえなければならない。5年後も、10年後も、30年後も将来にそなえなければならないとしたら、いったい私が楽しむための「今」はいつ来るのだろう。そんなふうに、将来のためにあらかじめ決められたことをこなしていく毎日がずっと続いていくのだとしたらと考えると、すごく息苦しい気がしてくる。
 
●私の親は、毎日働いて一生けん命生きている。親の世代は働き続けて、はじめて幸せを手に入れる。だから、豊かな生活のことを、いい家やいい車がある生活だと思ってしまってもしかたないと思うし、そういう人のことを批判することはできないと思う。
 
●ソロモンのような社会を、「おくれている」というみかたをする人は多いけど、そういう考え方をしていたら、本当に南北問題は解決しないような気がする。それぞれの社会の豊かさを認め合えるようにしていくことが大切なのかなと思った。いろいろな社会があって、それぞれに違った豊かさがあるから、いいんだと思う。違う文化や生活があって、それぞれに違う「豊かさ」の可能性があるんだと思う。
 
●「南」の人たちのくらしの方が楽しそうにみえる。確かに、ものはないけれど、食べ物が豊富にあって、毎日が楽しかったら、無理に「先進国」にする必要はないと思う。
 そうすると、「どんどん文明の差が開いてしまう」と言う人がいるかもしれないけれど、私は別にかまわないと思う。そもそも、なぜ、世界を同じ文明のレベルにしなければいけないと考えるのだろう。私は、その国の人が楽しくくらしていればそれで十分だと思う。
 もちろん、私には「南」の国の人たちに、「貧しいままでいろ!」なんて言うことはできないから、彼らがそう望むならの話だけど、できれば、海や山がきれいなところをわざわざ工場やビルでうめつくさないで欲しいと思う。
 
●僕はソロモンの子供たちが、どれほどいきいきとしているかは知らない。でも日本の子供もいきいきしていると思う。確かに、そうじゃない人もいるかもしれないけど、ごく一部のことを日本人全体の問題にするのはおかしいと思う。
 
●僕は、ソロモンの子供じゃないけれど、いきいきしています。「そういう不安を感じていた若い人たち」とあるけど、僕にはそういう不安なんて感じていません。
 
●僕は、日本の中学生に活気がなくてもかまわないと思う。日本の子供全般に、活気がないと言えるとしたら、それは、今の日本で子供が生きていくには、そういう性質の方が向いているからだと思う。じっとおとなしくして、いそがしさや同じような毎日にたえられる子供、そういう子供の方が今の日本の社会に適応しているんだと思う。
 だから、ソロモンの子供たちだって、日本で育てば日本の子供と同じになると思う。
 
●以前、雑誌で読んだBaby Baby(本名まどかさん)という女の子のことを思い出しました。レゲエが大好きで、中学を出た後、一人でジャマイカに渡って歌手デビューした女の子です。用意は全部自分でやって、大使館に手紙を書いたりしたそうです。
 ジャマイカは治安が悪くて、上から下まですべて盗まれたこともあるけど、ジャマイカの人たちにはみんな「JOY」があるそうです。それに比べて、日本に帰ってくると日本の人たちは「JOY」が少なく見えるということです。
 でも、だからといって、南の人たちに「豊かになると「JOY」がなくなるから、金持ちになるな」と言っても変なことです。
 どうしようもないけど、とりあえず、私は今の日本に「JOY」を取り戻すことを考えます。本当に豊かな社会というのは、「JOY」があってのものだと思います。文明や社会があっての人間ではなくて、人間があっての社会や文明でなければいけないと思います。
 
●豊かさって、お金があることかな。自由なのんびりした時間があることかな。それとも両方あることだろうか。でも、両方あっても、それは本当に豊かなのかな。私たちの社会では、お金を目指して、秒刻みのいそがしいスケジュールをこなしている。人々は足並みをそろえて会社へ向かう。毎日それをくり返している。大変そうだ。
 では、自由にのんびりくらすのはいいかな。気ままで、楽で、何も気にかけないでいいし、それに、南の島なら食べるくらいならどうにでもなるみたいだし……。でも、何かものたりなさそうだ。責任もない分、充実感もなさそうだ。あと、二つの社会を行き来するのも、きりかえが難しそうだ。
 「北」でも「南」でもない、別の生き方ってないのかな。
 このまま、別の第三の道をだれも見つけられないでいると、二つの世界の差はどんどん開いていって、世界はゆがんでしまうんじゃないだろうか。
 
●すべての人に共通した豊かさというのは、自分が幸せに暮らせるということだ。それ以外のことは、人それぞれに違っている。
 だから、もし、ある時、自分が豊かだとしても、まわりの人みんなが自分と同じ豊かさを感じて欲しいと考えるのは間違っている。その人その人によって、豊かさの意味は変わるからだ。
 でも、その一方で、すべての人に共通する本当の豊かさというのがあるのかもしれないって考える。それがどんなものかも想像できないけれど。
 
●この会話を読んで、見かけだけでわかったふりをしてはいけないなと思った。
 よく、テレビに出てくる東南アジアやアフリカの国では、病気や食糧不足や戦争で人々は苦しんでいるというイメージがあり、僕も、前のレポートでは、「豊かな国が貧しい国へ援助をしてあげればいい」と書いた。
 だが、会話の中の「南北問題は南の国々をアメリカや日本みたいなモノのあふれている社会にすることじゃあないと思う」という意見を読んで、そういう考えもあるんだとおどろいた。僕は南の国を経済発展させて、先進国みたいにすることしか考えていなかったからだ。
 やはり、その国の実状やその国が何を求めているかを理解しないで、援助物資を送っても、良いことをしたような気になるだけの自己満足になってしまい、意味がないと思う。役に立つ援助をするためには、まず相手の国を理解することが大切で、そのためには、日本はもっと人を派遣するべきだと考えた。
 
 
【授業担当者の感想】
 
■1学期の授業で、土取さんに話をしてもらったとき、生徒たちの多くは、ソロモンの社会を「おくれた」「かわいそうな」社会ととらえていたようです。確かに、経済問題や国際関係について考えるとき、しばしば「豊かな社会」「貧しい社会」という言葉が使われます。この視点から南北問題を考えると、「豊かな」先進国が「貧しい」発展途上国を援助して、進んだ文化や技術を伝えることがよりよい国際社会をつくっていくことになるということになります。
 
■ しかし、このような近代文明万能の考え方は、あきらかに100年前の歴史観です。一歩間違えると、植民地の肯定や人種差別にもつながりかねません。現代は近代社会の長所ばかりでなく、その問題点も明らかになっている時代です。例えば、毎日がこまかくスケジュールで決められた生活の忙しさや圧迫感、環境の破壊や資源の不足、貧富の差の拡大、兵器の発達や増加する戦争など、いくつもその例を挙げることができます。そして、これらは生徒自身が日常的に体験していたり、知っていたりすることでもあります。そこで、あらためて彼らに、「豊かさってなんだろう」「社会の進歩って何だろう」「違う文化の人とつきあうってどうすればいいんだろう」と問い直して欲しいと思い、夏休みの宿題に設定しました。とまぁ言うわけですが、本音では、夏休みのようなひまなときに、こういう答えのでないことを考えてもらうのもいいかなと思ったのです。
 
■ アメリカ人の使う表現に「大学二年生のしそうな質問」という言い方があります。例えば、「世の中にはなぜ貧富の差があるのか?」「なぜ戦争はなくならないのか?」というような、答えの出そうもない、大人になったらしなくなるような青くさい問いかけのことを指します。日本の大学生はあまりこういう問いかけはしないので、日本語にはなりそうもない表現です。大学生に限らず、日本では中学生くらいから、こういう問いは口に出さなくなります。その一番の原因が、学校で学ぶことの多くが、すでに答えの出ている問題を効率よくおぼえることに集中しているからではないかと思っています(僕の授業も含めて)。しかし、現実の世界では答えのあることの方がまれですので、これはあまりいい傾向ではありません。
 
■ 今回のレポートは、テーマ自体が漠然としていて、論点も一つではないので、生徒のレポートも論点を明快にして討論するという性質のものではありません。そのため、生徒からも、豊かさなんて一人一人考え方が違うのにそれを論じることに意味があるのかという意見が多くありました。これについては、一人一人考えの違うものほど一人一人が意見を言う必要があるのではないかと思うのです。言わない限り、人が何を考えているかわからないからです。それにもしかすると、すべての人に共通な何かがあるかもしれません。そして、論点が明快でないぶん、逆に、レポートには生徒たちの今の社会に対する素朴な疑問が散りばめられていて、興味深く読みました。こういう素朴な疑問は、ものごとを考える出発点なので、もっと大事にされていいんじゃないかという気がします。

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