クロ箱 index   このサイトは?   演習授業 index   サイトの制作者   メール送信



  スミソニアン原爆展論争 原爆の使用は正しかったのか?


 この回の授業は、第二次世界大戦末期に広島と長崎に落とされた原子爆弾をどう評価するか、スミソニアン博物館の原爆展論争を振り返ることで考えました。授業では、以下のビデオや参考意見を見た後に、原爆の使用は「正しかった」「まちがっていた」のどちらかの立場からレポートを書いてもらいました。
 
【ビデオ】
 
●1995.9 NHK「映像の世紀?第二次世界大戦の記録」より原爆投下の様子を抜粋(約3分)
 B29によって原子爆弾が広島・長崎に投下される様子と巨大なキノコ雲の様子、被爆直後の広島・長崎の風景が撮されている。
 
●1995.8 テレビ朝日「戦後50年特集・ヒロシマ」より被爆者の証言を抜粋(約4分)
 広島で被爆した人たちの証言。キノコ雲の下で被爆した人たちがどのような目にあったかが語られる。
 
●1995.9 NHK「ETV・スミソニアン原爆展をめぐるジョン・ダワーの活動」
 
 アメリカのスミソニアン博物館は、世界有数の設備と権威をそなえた博物館だ。この博物館で、第二次世界大戦終結50周年を記念して、1995、核兵器が現代の社会にとってどのような意味があるのかを問う特設展が企画された。この企画では、広島・長崎の被爆の様子も大きくとりあげ、被爆者の様々な遺品も展示される予定だった。アメリカではほとんど知られていないキノコ雲の下でおこった悲惨な出来事にも光をあてることで、核兵器の全体像をとらえようという意図だった。しかし、この企画はアメリカ国内で大きな反発をまねいた。多くのアメリカ人にとって、第二次大戦は正義と民主主義を守るための「よい戦争」であり、原爆の投下は戦争の終結をはやめたと考えられているからだ。そのために、B29とキノコ雲は、勝利と栄光のシンボルだと思われている。スミソニアンの原爆展への反発は、やがて、保守派を中心に議会や大統領までまきこんでの大きな動きとなった。その結果、原爆展は、50年前に勇敢に戦ったアメリカ兵を侮辱するものだとされ、中止に追い込まれてしまい、B29だけを展示するものにさしかえられてしまった。
 
 歴史学者のジョン・ダワーさんは、保守化するアメリカの世論を「英雄的なアメリカ」のイメージにしがみついて、キノコ雲の下で起きた惨事や加害者としてのアメリカを考えようとしないと批判する。そして、現代史の専門家たちとともに、アメリカでの原爆展の実現のために活動を続けている。しか
し、その一方で、ダワーさんは、日本人は大戦末期の空襲や被爆でひどい目にあったことばかりを強調して、第二次世界大戦の全体像をとらえていないと語る。多くの日本人は加害者としての側面に目をそむけ、まるで自分たちこそが戦争の犠牲者であったかのように考えているという。そして、日本軍によるアジア各地での虐殺や捕虜への残忍な行為は、欧米やアジア各地ではよく知られているにもかかわらず、日本国内ではいまだに否定しようとする動きがあることを指摘する。最後に、ダワーさんは、アメリカ人も日本人も自分たちが傷つくことを恐れて、歴史を正しく見ようとしない限り、再び、愛国心と民族主義によって国際関係がゆがんでしまう可能性があると語りかける。
 
 
【参考意見】(新聞、テレビ等で見られる代表的な意見を村田がまとめたもの。授業時に紹介。)
 
原爆の使用は正しかった
 
●日本政府は、原爆を落とされたことによって、敗戦を認める気になった。だから、原爆の使用は第二次世界大戦を終わらせるのに役立った。
 
●戦争末期の日本軍は、勝てる見込みもないのに、体あたりや自爆をくり返して、全滅するまで戦争を続ける気でいた。そのため、1945年4月からの沖縄戦は、住民をまきこんでの地上戦となり、3か月間で、20万人以上が死んだ。もしも、原爆が使われていなかったら、戦争はもっと長引き、日本本土での地上戦となって、より大勢の犠牲者が出ていたはずだ。
 
●日本人は、第二次世界大戦の体験というと、空襲や原爆でひどい目にあったことばかりを強調する。それではまるで、日本人が戦争の犠牲者のようではないか。しかし、先にアメリカに攻撃を仕掛けて戦争をはじめたのは日本だし、アジアを侵略したのも日本だ。そういうことをした日本人が、自分たちを犠牲者のように言うのはおかしい。
 
●日本軍は、戦争末期になっても、朝鮮や中国、東南アジアを支配していて、現地の人たちにひどいことをしていた。だから、アジアの人たちにとって、アメリカによる原爆の投下は、日本の支配からの解放をもたらしてくれるものだった。そういうアジアの人たちの気持ちを考えずに、日本人が原爆や空襲でひどい目にあったことばかりを言うのは、歴史を正確にとらえていない自分勝手な発言だ。
 
●当時、広島も長崎も、大きな軍需工場のある都市だった。それに、民間人といっても、当時の日本人は何らかの形で戦争に協力していた。だから、広島・長崎に原爆を落としたのは正しかった。
 
●原子爆弾を特別に悪者あつかいするのはおかしい。原子爆弾で一瞬に10万人殺すのと、ふつうの爆弾で少しずつ10万人殺すのと、どちらがよりひどいかなんて決めることはできないからだ。実際に、東京の空襲やドイツのドレスデンの空襲では、ふつうの爆弾によって、10万人以上の死者が出ている。だから、広島・長崎の被爆を特別に悲さんな事のよう に言うのは、まちがっている。
 
原爆の使用はまちがっていた
 
●広島でも長崎でも、一発の原子爆弾で十万人以上が死んでいる。しかも、犠牲になった人のほとんどが、兵士以外の子供や女性、老人といった民間人だった。このような兵器の使用を認めることは、人類が絶滅することにつながる。
 
●原爆を戦場で使うのならまだしも、民間人の住む都市に落としたのは卑怯なやり方だ。それは民間人を人質にとるのと同じことだ。
 
●被爆した人たちは、放射線の後遺症によって、ガンになったり、手足がマヒしたりして、51年後の今でも苦しんでいる。このような戦争が終わった後も犠牲者を苦しめる兵器は、どんな理由があっても使うべきではない。
 
●第二次世界大戦の末期、日本はもう戦う力は残っていなかった。そういう相手に原爆を使う必要はなかった。それにもかかわらず、アメリカが原爆を投下したのは、戦争を早く終わらせるためだけでなく、アメリカの軍事力を示すことと原爆の人体実験がしたかったためではないか?
 
●戦後、日本政府はアメリカに気をつかって、広島や長崎の被害を世界にアピールしてこなかった。そのため、世界の多くの人たちは、今でも、核兵器の使用がどれほど悲さんな結果をもたらすかわかっていない。「原爆の使用は正しかった」と言う人は、キノコ雲の下で広島や長崎の人たちが、どれほどひどい目にあったかを知らないのだ。それを知れば、そんなことは言えないはずだし、核兵器を使おうと考える人もいなくなるはずだ。だから、日本はもっと広島や長崎の被爆の様子を世界にアピールしていくべきだ。
 
 
 生徒のレポート
 
原爆の使用は正しかった
 
●私は、アメリカが広島・長崎に原爆を投下したことは「正しかった」と思う。原爆は戦争をはやく終わらせてくれた。もし、原爆が落とされなかったら、日本は全滅するまで戦っていたかもしれない。「まちがっていた」と主張する人は、住民を巻き込むことを「ひきょう」だと言うが、当時の日本人は、民間人でも「ほしがりません勝つまでは」と言っていて、戦争にどっぷりとつかっていたのではないか。そうやって国民全体が変なふうにまとまってしまっていた所をアメリカが原爆を落として目を覚ましてくれた。「大勢の人が死んだ」とか「心も傷つけられた」とか言っているひまがあるなら、当時の状況を冷静に考え直してみるべきだ。今の日本人にはそれが必要だと思う。ただ、当時、自分の意見など言えなかった子供たちのことを考えると、彼らに責任はないし、かわいそうだと思う。
 
●アメリカにとっては、原爆の使用は日本攻略の上でベストの方法だったのではないか。日本は戦争を終わらせる気もなかったみたいだし、自分の国の兵士の犠牲をさけるためにも、原爆投下はしかたなかったと思う。ただし、(スミソニアンの)原爆展については、原爆投下もキノコ雲の下でおこったことも事実なのだから、目をそむけずに、やるべきだったと思う。
 
●原爆投下は正しかったと思う。でも、投下する場所は、人の住んでいないような所にすれば良かったと思う。例えば、原爆を海に投下して、「アメリカはこんなすげーものがあるよ」と示せば、日本も降伏したのではないだろうか。
 
●今回、資料の両者の主張を読みくらべて、原爆投下は正しかったと思った。正しいと主張する側に意見はもっともだと思うし、もし、日本が逆の立場だったら、アメリカに原爆を使っていたと思う。
 
●結果的には良かったと思う。当時、日本の政府は国民に事実を知らせず、「かならず勝つ」とくり返していた。そんながんこな日本を納得させるには、原爆を使う必要があったと思う。
 
●原爆の投下について、「まちがっていた」「正しかった」と評価が対立していたなんて、今までまったく知らなかった。私はどちらかというと、「正しかった」という意見に賛成だ。その理由は、原爆を落とされなかったら日本は戦争をやめなかったろうし、戦争をはじめたのも日本だからだ。私は戦争を
経験していないし、当時のつらさなどわかっていないけど、今、幸せに暮らせているのは、日本がアメリカに負けて、二度と戦争をやらないと決めたからだと思う。
 
●どちらかといえば、私は良かったと思う。当時の日本人は強情で、原爆のようなきっかけがなければ、戦争をやめなかったのではないかと思うからだ。ただし、アメリカは実験でもするかのように原爆を落とした感じがすることは気になる。今では、多くのアメリカ人が原爆投下を「日本のために良いことをした」言っているけど、当時はそんなことは考えていなかったと思う。だから、(スミソニアンの)原爆資料の展示を取りやめたのは、自分たちにつごうの悪いことをかくそうとしたのだと思う。原爆の問題というと、日本とアメリカだけのの問題のようになっているけど、そういうことじゃなくて、世界中の人たちに原爆の恐ろしさを知ってもらうことが大切だと思う。
 
●もし、原爆を使わずに、日本本土で沖縄戦みたいな地上戦になったらと考えると、原爆の投下は正しかったのかもしれないと少し思うようになった。でも、二回も原爆を投下したのはひどいことだと思う。広島に投下された一発の原爆で、日本には戦う力は残されていなかったはずだ。だから、二発目の投下はまちがっていたと思う。あと、ちがう形の原爆を二つ使ったということも、二種類の威力を実際の戦争で試したといわれてもしかたないと思う。アメリカの多くの人々は、原爆を戦争を終わらせてくれた科学の結晶だと考えているようだった。でも、この爆弾で、どれだけの人が苦しんだかを知れば、考えが変わるはずだ。
 
原爆の使用はまちがっていた
 
●確かにアメリカの原爆投下により世界の平和が早まったのかもしれないが、それによる被害も考えてほしい。世界の平和を取り戻す方法はほかにもあったはずだ。
 
●たった一発の爆弾で、10万人以上もの人がなくなってしまったのだ。こんな恐ろしいものは、いくら勝つためでも使うべきではなかったと思う。
 
●私は「まちがっていた」と思う。原爆がもしかしたら人体実験をするために使われたのだとしたら、ゆるせない。今のアメリカ人を責めてもしょうがないけど、原爆投下を命令した人は殺人犯だ。何万人もの人々のくらしを一発の爆弾で消し去ってしまったことは許せない。(被爆の後遺症で)いまだに
苦しんでいる人がいるのに、「原爆は正しかった」なんて言える人の気が知れない。
 
●原爆の被害は、後々まで後遺症が残り、何年もたって死ぬ人もいる。ふつうの爆弾ではこういうことはないはずだ。
 
●まちがいだと思う。戦争は軍人がやるものなのだから、民間人までまきこんではいけないと思う。
 
●たとえ戦争をはやく終わらせるためだとしても、戦争と関係ない人を殺したのはひどいことだと思います。それに、アメリカの人たちにも、キノコ雲の下でおこったことを知ってほしいと思います。
 
●たとえ、原爆の使用によって第二次世界大戦が終わったのだとしても、十万人以上の人が被爆して犠牲になったことを「正しかった」とは考えられない。原爆の使用を正しかったとする側の意見はどれも、被爆した人たちを人事としてしか考えていない意見だ。自分自身が被爆することを考えれば、原爆の使用が正しかったなんて言えないはずだ。被爆した人たちの立場から考えずに、原爆を使う立場からしか考えない人が大勢いるから、いまだに、フランスや中国みたいに核実験をする国があるんだと思う。
 
●どういう理由があっても、あれほど大勢の人を殺す兵器は、つくるべきでも、使うべきでもなかった。また、そういう兵器を英雄のように見るアメリカ人も良くない。彼らにはその兵器でたくさんの人が死んでいることが見えていない。しかし、その一方で、当時の日本政府は状況が悪化しても戦争をやめずに、民間人を犠牲にして戦争を続けていた。だから、民間人はアメリカ軍と日本政府の両方からの犠牲者だと思う。
 
●私は原爆の使用はまちがっていたと思う。8月6日と8月9日は、夏休みだったので、テレビで被爆者の霊をなぐさめる光景や被爆当時の様子を放送しているのを何度か目にした。その時の印象は、「かわいそうだな」「大変だったろうな」というぐらいのものだった。しかし、今回、授業で見たビデオは、当時の出来事をリアルに記録していて、自分がその場にいる気さえした。まず、おどろいたのは、広島・長崎に落とされた原子爆弾の大きさである。先生が黒板に書いた爆弾の大きさを見て、これ一発で十万人もの人が死んだんだと実感した。あの大きな爆弾を落とせば、その下で何がおこるか、アメリカ軍はわかっていたはずだ。確かに、原爆が落とされたことで、戦いの決着がついて、より大勢の犠牲者が出なくてすんだのかもしれない。しかし、被爆した人たちにとって、心の傷はいまだに癒やされていない。それに、人間に対して原爆が使用された事件として、歴史上、消えることはないと思う。
 
●何があっても使うべきではなかったと思います。原爆の使用は残酷すぎたと思います。
 
●原爆で亡くなった人たちの中にも、私と同じくらいの子がいると思う。そういうことを考えると、かわいそうでしかたなくなる。子供たちは別に悪いことをしたわけでもないのに、殺されてしまったのだ。きっと、そういう子供たちにも、将来の夢や希望がたくさんあったろうと思う。
 
●私は三年前まで、広島に住んでいた。小学校の頃、被爆した人に学校に来てもらって、話を聞いたことがある。黒い雨が降ってきたことなどを話してくれ、その後で、ビデオを見た。気持ち悪いと言ってはいけないかもしれないけど、気持ち悪かった。今回も、あの場面が目に浮かんだ。
 なぜ、アメリカは二回も投下したのか?
 戦争は原爆を使わなければ終わらなかったのか?
 疑問ばかりが出てくる。私は日本人も犠牲者のような気がする。それは、被爆によって、戦争と関係ない人が苦しんでいるし、戦争が終わった今でも後遺症で苦しんでいるからだ。(スミソニアン原爆展の)ビデオには、原爆投下を「良いことをやった」と言っているアメリカの元軍人が出てくる。よくそんなことが言えるなあと、ちょっと信じられない気持ちがした。日本はもっと原子爆弾の恐ろしさを世界の人にアピールして行くべきだ。そうすれば、アメリカ人の原爆に対する考え方もかわっていくと思う。ただし、日本人も第二次世界大戦で自分たちがやった罪を認めなければ、こうしたアピールは説
得力がない。まず、日本人が戦争でやったことの罪を認めることからはじめていく必要があると思う。
 
●僕は絶対反対だ。無実の人を殺して、何が正しいのか。原爆使用を正しいという人たちは、日本も戦争中ひどいことをしていたという。たしかに、それはその通りだ。もしも、原爆に反対している人たちが、原爆のことだけを批判し、アジアを侵略したことを見ようとしないのなら、それはまちがっている。ただ、だからといって、原爆を使ったことが正しいことになるわけではない。
 
●原爆の使用はまちがっていた。アメリカは原爆投下の様子を撮影なんかしていて、戦争の終わり頃には「楽勝」と思っていたはずだ。それに、二発も落とす必要はない。「原爆は戦争を終わらせた」というのは、あくまで、結果のことで、なんか言い訳のような気がする。原爆は放射能の後遺症もすごいみたいだし、世界のすべての人を焼きつくす恐ろしいものだ。こんなものを人間がつくるなんて、自分で自分たちの首をしめているってかんじ。
 
●姉に聞いたら、原爆を投下した本当の理由は、当時、日本をねらっていたソ連などにアメリカが自分たちの強さを見せつけようとしたと言っていた。もし、姉の言ったことがまちがっていたとしても、もう日本に力がないこともわかっていたはずなのに、わざわざとどめをさすようなことをしなくてもよかったと思う。
 
●私は日本人だからかもしれないけど、原爆の使用はまちがっていたと思う。原爆で多くの人が死んだし、今でも放射能の後遺症で苦しんでいる人がいることを考えると、「正しかった」とは思えない。ただし、はっきりと言っておくが、私は日本だけが犠牲者だという考えではない。日本人もアメリカ人もそのほかの国の人も戦争にまきこまれた人はみんな犠牲者だと思っている。だから、アメリカで行われる予定だった原爆展は(本来の形で)やるべきだと思う。どっちが悪いとか、日本を犠牲者に見せるとかいうんじゃなくて、原爆の恐ろしさを見せてほしいと思う。
 
●原爆を投下したことは「まちがっていた」と思います。ただ、日本は原爆投下のことだけをさわいでいてはいけないと思います。戦争中に自分たちのしたひどいことを認めなければいけないと思います。その上で、原爆投下について考えるべきだと思います。私が広島に住んでいたとき、大学病院には被爆した人のための診察室があり、たくさんの人が今でも後遺症をみてもらっていた。こうした今でも苦しんでいる人がいることを(原爆は正しかったという)アメリカの人たちにも知ってもらいたいと思います。戦争を終わらせるためといっても、もっとほかの方法をとるべきだったと思います。
 
●日本が降伏して、最初にアメリカの占領軍が来たのは広島と長崎だと聞いた。彼らは原爆でけがをした人の体をしらべただけで、治療はしてあげなかった。アメリカは戦争を早く終わらせるために原爆を落としたのではなく、実際の戦争で試してみて、人体にどんな影響があるのか知りたかっただけではないのだろうか。私は、原爆をつくったこと自体、まちがいだと思う。
 
●戦争が早く終わったからといって、原爆の使用が正しいとは思わない。こんなに大勢の犠牲者が出たのに、正しいはずがない。
 
●いくら何でもひどすぎる。ふつうの爆弾で十万人殺すのと、原爆で一瞬に殺すのとでは意味が違う。それに、原爆の場合は後遺症で後々まで被爆した人たちを苦しめることになる。
 
●日本が戦争をしかけたのには(正当な)理由がある。アメリカがイギリス、中国、オランダと手を結び、日本を経済封鎖し、日本がとうてい受け付けられない要求をしたたからだ。そのため、日本はしかたなく真珠湾を攻撃をした。それに、戦争末期には、日本でも戦争を終わらせようという動きがあっ
た。ソ連を仲介して、連合軍へ和平交渉をはたらきかけていた。日本が連合軍の降伏要求を無視したのも、ソ連をはさんでの和平交渉に期待をかけていたからだ。しかし、ソ連は中立の立場を変え、日本に参戦してきた。そういう中で、アメリカは原子爆弾を投下して、大勢の市民を殺したのだ。これは虐殺であり、正当なものではない。
 
保留・その他
 
●今回の授業を聞いて、原爆の使用がまちがっていたのか、正しかったのか、わからなくなってしまいました。何年か前に『はだしのゲン』を見たときは、気味の悪い映像や被爆で苦しむ人々の様子に、原爆を使ったことはひどいことだと思っていました。しかし、そういう日本が、当時、アジアを支配していたと知って、一方的に被害者だとはいえないと思いました。
 
●私は日本に生まれ、日本で育ってきたことで、原爆の問題について、日本人を被害者としてしか見れない。それは、原爆を落とされ、一瞬で、焼きつくされた人たちの悲劇しか知らないからかもしれない。だけど、(日本人とアメリカ人とが)お互いの気持ちを理解するのも必要だと思う。それは「正しかった」とか「まちがっていた」と言い合うことではなく、二度とくり返さないように理解し合うことだと思う。
 
●私はどちらの意見にも賛成なので、原爆の投下について、正しかったのか、まちがっていたのか、わからない。ただ、ビデオの中で、「日本人は戦争の犠牲者だとばかり言っている」とあったが、そういう部分はあると思う。今、私が読んでいる『忘れられた島へ』という本も、戦争のことについて書いてある。この本でも、アメリカは何千機もの飛行機で日本を攻撃し、町や人々が被害を受けたことがえがかれている。けれど、最初の攻撃をしかけたのは日本だ。戦争で何百万人もの人が死んでしまったのは、日本が悪かったのではないだろうか。
 
●なぜ、当時の日本政府はあんな戦争をはやくやめなかったのだろう。そうすれば、原爆を落とされることも、原爆症でいまだに苦しむ人が出てくることもなかったはずだ。だから、悪いのは日本の政府と昭和天皇だと思う。
 
●「原爆は絶対にいけないことだ」とずっと思っていました。しかし、今回、両方の意見にそれぞれにもっともな所があり、原爆が正しいのか、まちがいなのかわからなくなってしまいました。だけど、一つだけはっきり言えることがあります。それは「原爆はもう二度と使ってはいけない」ということです。昔、原爆が使われたことは、私には正しいかどうかわかりません。でも、そのことの判断より、原爆で苦しんだ人たちのことを考えて、これから先に原爆を使わないようにすることの方が大事だと思います。
 
●私も今までずっと原爆はひどいものだとばかり思っていました。しかし、考えてみれば、ふつうの爆弾でも大勢の死者が出ているのだから、小さい爆弾を落とし続けて、戦争が長引くより、(一発の強力な爆弾で)戦争が終わらせることができれば、その方が良かったと思います。そもそも、当時の日本のえらい人たちが勝てないとわかっていながら、戦争を続けたことが、たくさんの人の命をうばったのだと思います。
 
●俺はどちらにも賛成しない。ただ、当時の日本の考え方はめちゃくちゃあまかったと思う。
 沖縄に行って、戦争の話を聞いたとき、はっきり言って、日本はバカだと思った。「降参は絶対にするな!」なんていって、敵に体あたりでつっこんだり、ふざけんじゃねーよ。天皇だか誰だか知らねーけど、命令出した奴がてめーでやってみろってんだ、バカ。
 
●原爆だけをとりあげて批判するのはどうかと思う。戦争そのものが悪いのであって、原爆投下もその殺しあいの一つの出来事にすぎない。
 
●たしかに、アメリカのいう原爆が戦争を終わらせたということは正しいかもしれないけど、原爆を投下する前に、一度、警告するべきだったと思います。それに、二度も落とすことはなかったと思います。多くのアメリカ人は原爆というと上空のキノコ雲を思い浮かべるといっていましたが、その下で何がおこったかもみてほしいと思いました。それに、現在では何千倍もの核兵器があることを考えると、恐ろしい気持ちになります。
 
●まちがっているとか正しいとかよりも、広島や長崎の人の「痛み」が無視されていると思う。「原爆が落とされて大勢が死んだ」という事実にもっと目を向けるべきだ。
 
●私はずっと日本は戦争の被害者だと思っていた。だけど、それはちがうなと思い直した。今回のビデオを見て、日本も当時、ひどいことをしていたという事実を知ったからだ。ただ、原爆の投下が戦争を終わらせたというのは、なんだか納得がいかない。本当に、戦争が長引いたのかわからないわけだし。あと、(ビデオに出てきた)弁当箱は、前にもテレビで見たことがあったけど、悲しい気持ちになった。
 
(注・村田 スミソニアンの原爆展では、被爆者の遺品の一つとして、熱で半分溶けた弁当箱が展示されるはずだった。弁当箱は、広島の爆心地にあった小学校跡から見つかったもので、女の子の名前が書いてある。持ち主の女の子は爆弾の熱線で焼かれ、遺体すら見つからなかった。ジョン・ダワーさんはこの弁当箱に注目し、次のように解説している。
「軍の関係者や評論家たちはこの弁当箱の説明を読んだときにあることに気づきました。もし、この弁当箱が展示されたら、エノラ・ゲイよりも観客たちに強い印象を与えるということです。彼らが偉大だと思っている飛行機がこの小さな弁当箱に圧倒されてしまうのです。この弁当箱のもつ力はあまりにも大きいものでした。この弁当箱は学校で被爆して死んでしまった女の子の運命を物語っています。ほかの展示室では、軍人や政治家をあつかっているのに、観客は、これによっていきなり子供や女性といった民間人が原爆の犠牲になったのだということを思い知らされてしまうのです」)
 
●(スミソニアン原爆展の)ビデオを見て、アメリカの人たちは、広島や長崎の被爆のことをほとんど知らないということにショックを受けた。しかし、戦争中に、日本が中国などでやったひどいことを僕たちはほとんど気にしていないし、日本で展覧会が開かれることもめったにない。アメリカの状況と同じだと思う。
 
 
【生徒のレポートを読んでの感想など】
 
■被爆した人たちの証言は、強い衝撃をもたらします。そのために、日本人にとって、原爆の問題は、しばしば共感の問題として語られます。こうした共感は、人々を結びつけ、社会を動かしていく力にもなります。しかし、今回、資料として紹介した賛否双方の主張は、あらためてみると、原爆の使用は正しかったとする主張にも一理あるのではないでしょうか。実際のところ、アメリカやアジアの国々では、原爆の使用は正しかったと考えている人の方が多数派です。共感が強いことは、考え方が違う人に対しては、マイナスに働くことがあります。思い入れが強いために冷静に話すことが出きず、相手をにくんだり、無視してしまったりすることもあります。
 昨年、たまたま見ていたテレビの討論番組では、原爆の評価をめぐって、広島の市民団体とアメリカの退役軍人会とが、互いの主張に固執し、すれ違いをくり返すばかりだったことをおぼえています。「正しかった」とする側にも「まちがっていた」とする側にもそれぞれのスジの通った主張があるわけですから、共感だけでは解決しない問題だと思うのです。双方の主張をひとつひとつ確かめながら、冷静に判断していく必要があるのではないでしょうか。
 
■広島・長崎への原爆投下を考えることの意味は、たんに51年前にあったことを振り返るというだけではありません。現在、数万発ある核兵器をどう評価するかということでもあります。当時の使用を「正しかった・しかたなかった」と判断することは、将来、ある条件を満たせば、再び核兵器の使用を認めるということでもあります。「強力な爆弾を使えば戦争を終わらせることができる」という考え方はその代表的なものです。そういう意味で、過去の原爆使用を評価することは、未来の世界を考えることでもあります。
 
■今回、生徒のレポートの中に、第二次世界大戦で日本は悪くなかったという意見がありました。いくつかの世論調査によると、日本人の3割くらいがそう考えているようです。(昭和ひとけた世代のうちの父親もそうでした。年輩の方ほどそう考える傾向が強いようです)。
 この考え方の根拠は、当時の日本は経済封鎖をされてしかたなく戦争をしたのであり、アジア各地での虐殺や残酷な行為は事実ではないというわけです。このような考え方からは、日本の戦争責任という発想は生まれてきません。しかし、この考え方は日本国内だけで通用しているものです。そのため、日本の政治家が当時の戦争を肯定する発言をする度に国際問題に発展しています。日本人が内向きの愛国心にとらわれて、客観的に歴史を認識しようとしない限り、この問題は解決しないと思います。
 
■生徒の意見にもありましたが、日本で南京虐殺や従軍慰安婦の展示をおこなうことには様々な抵抗があります。まして、スミソニアンのような国立の博物館でそうした展示を行おうとすれば、日本でも大論争になるでしょう。そういう意味でも、今回のスミソニアン原爆展をめぐる状況は、「アメリカ人は傲慢だなあ」と人ごとですませられる問題ではありません。

●●
●●

・ 演習授業 index ・ ・ クロ箱 index ・