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この授業は毎回ひとつの社会問題を取り上げて考察していくという演習授業です。
各テーマは多岐にわたりますが、できるだけ具体的に考え生徒が自分なりの考察をするという点では共通しています。授業の進め方は、私が資料のビデオや新聞記事を提示しながら解説し参考意見を紹介した後、生徒の考えを聞き、レポートを書いてもらっています。また、時間的に余裕のある場合には討論をすることもあります。
言うまでもないことですが、社会科の授業の役割は社会を理解することを手助けすることにあります。歴史や地理・政治・経済といった科目は、現実の社会を理解するための手段にすぎません。たしかにそれらは便利な道具ですが、あくまで本来の目的は現実の社会にありますので、現実の社会現象にせまることを放棄してしまったら、無意味なものになります。ところがしばしば、実際の授業では知識の暗記と理解が目的となってしまい、科目の中だけで完結してしまいがちです。その理由として、授業があまりにも制度化してしまい、教師も生徒もその制度をなぞるのが自らの役割と考えていることがあげられます。そこで、知識の体系化にはとらわれず、知識は自らが考えるための素材にすぎないと割り切り、現実の社会現象をできるだけ具体的に考えていく授業ができないものかと思うようになりました。このページはそうした試行錯誤の記録です。もちろん、こうした授業では知識は断片的なものになってしまいますが、知識の閉じた体系化よりも考察が教室の外へ開かれていることのほうが重要ではないかと考えています。
そういう意味で社会科の授業は美術の授業と同じではないかと考えています。美術で色の三原色や遠近法を学びますが、そうした知識は作品に生かされてはじめて意味を持ちます。逆にいうと作品がダメだったり、作品をつくることを放棄してしまったら、いくらそうした美術的知識があってもまったく無意味です。同様に社会科で学ぶ様々な知識、政治の知識や歴史への理解といったことは、社会問題について自分なりの判断をするための道具・材料です。キーボードを叩けばいくらでも情報を引き出せる現在において、ただ知っているだけの知識は、安いパソコン程度の価値しかありません。私たちがパソコンよりも上等な所は、その知識をつかって自分なりに考えを組み立てることができることにあります。もちろん、社会問題はパズルではないので、考えるための材料として知識は必要です。例えば自衛隊のPKO参加の是非を考える時、国連による集団安全保障体制とその限界性、憲法9条と戦後の日米安保体制といった知識は不可欠です。しかし、それらの知識はあくまで自ら考え、判断するための材料にすぎません。したがって、自ら判断することを放棄してしまった者には、いくら政治や歴史の知識があっても、それは作品に生かされない三原色の知識と同様に無意味です。入試には有利になるかもしれませんが、そこにはパズル程度の価値しか存在しません。
授業の手法として、明らかに答の出ている問題を生徒に問いかけることがありますが、私はあのわざとらしさが嫌いです。明確な答があり、こちらがそれを知っているのなら、解説すればいいだけのことに見えます。答えのでていない問題こそ自分の頭で考えるべきです。そこでこの授業では、私自身が疑問を感じている事柄についてのみ取り上げることにしました。自分自身、奇妙に感じ、答の見いだせない問題について、生徒たちにも考えてもらうというスタンスです。「こんな奇妙なことがおきているけどあなたはどう考える?」というわけです。ずいぶん自分本位のような気がしますが、他人を巻き込んで何かをやるときに、自分自身がそれを面白いと感じているかどうかがその「何か」を決める唯一の尺度ではないかと思います。自分自身が取るに足らない退屈なことと思っているものをつき合わせるのは、あまりにも失礼な話です。また、自分が答を見いだせない問題を取り上げることで、自分の独善を生徒に押しつけることへの歯止めになります。教師が自分の社会観や政治思想を優先させて生徒の多様な声に耳を傾けようとしないのならば、このような演習形式の授業をやる意味はないと考えています。もちろん、生徒の中にはこうした授業に興味を示さないものもいます。つまらなそうにしている生徒を見ると、授業とはいえ無理矢理こちらの疑問につきあわせて申し訳ない気分になってしまって、なかなか叱る気になれません。かといって学校の授業なので、「興味なかったら帰っていいよ」ともいえませんので、授業のたびに毎回つなわたり気分を味わっています。
様々な社会問題は合理的判断と各自の利害の調整の両者から導かれます。信念や願望は人それぞれですが、事実や論理性を無視して独りよがりの思いこみを抱えていても仕方ないので、各自の考えを表明し検証していく必要があります。この授業でやっていることもそうした検証作業のひとつといえます。しかし、その検証作業は自らが望む社会を見いだすための地ならしにすぎません。論理という共通の土俵の先には、無数の好みや願望が存在します。例えば、社会保障制度が充実すれば平等な社会になるというのは誰もが認める単純な論理ですが、そういう北欧型の平等な社会を良しとするかアメリカ型の競争社会を良しとするかは好みの問題なので人によって千差万別です。そこが面白い所だと思います。同じ社会に暮らしていながら、人によって向いている方向や見ているものはまったく異なります。授業のたびにつなわたり気分を味わいながらこうして続けているのは、その違いが面白くて仕方ないからです。このページを読んでくださっている皆さんも、生徒たちのレポートも読んで楽しんでいただければ幸いです。(1999)(2005加筆修正)
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