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Stadthuysとキリスト教会の間の道に軒を連ねる露店。このちょっと広場は平穏な休日を楽しむ現地の人々で賑わっていた。
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St.Paul Churchがある小高い丘を公園と逆側に降りると、そこには古い赤茶の大きな建物がまるでこのマラッカを象徴するかのような面持ちで堂々と立っていた。Stadthuysという名のこの建物は1641年〜1660年にかけて建造された東南アジア最古のオランダ建築らしく、今は歴史博物館と民族博物館になっていた。ここはさすがにわずか2RMだが入場料もとられたし、館内での写真撮影は禁止だった。中は広く、非常に奇麗な造りでとても350年以上前に建てられたと思えなかった。内容的にも歴史的遺産が展示されていたり、昔この地域で生活していた人々の生活の風景を再現していたりと、なかなか見応えがあるものばかりだった。Stadthuysを出て階段を降りるとそこは円形の広場になっており、休日を楽しんでいる人たちで溢れていた。これまた赤茶一色でできた特徴的なキリスト教会があり、教会とStadthuysの間の道には先ほどの公園と同じようにいくつも露店が軒を連ねていた。まさにマラッカの休日の昼の風景といった感じなのだ。みんな心から休日を楽しんでいるように見える。やはりここマラッカは非常に気持ちのいい街だ、素直にそう思った。
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オランダ広場からチャイナタウンへ続く小さい橋の上からの風景。川の水は奇麗とは言えなかったが、どこか生活感ある暖かみのようなものを感じさせた。
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その広場から小さい橋を渡ると小さなチャイナタウンに入る。その橋を渡るとき私はふと川の方を見た。そこにはかすかに今広場で楽しんでいた人たちとは違う、少し貧しい雰囲気を漂わせた光景があった。しかし、決して貧しい国を特集したテレビ番組で見るようなスラムの雰囲気ではなかった。川は決して奇麗と言えるものではなったが、濁ったその色が逆にこの街に住む人たちの暖かみみたいなものに見えてきて落ち着く感じだった。チャイナタウンと言っても、もろに中国な訳ではない。どちらかというと貿易拠点として栄えたこの街は舶来品が多く入ってきたのだろうか、いくつもの骨董品屋が軒を連ねていて、その間に小さいいくつかの寺院があるといった感じだ。私は骨董品を眺めるのが好きだ。特に歴史に詳しい訳ではないし、骨董品は以前の持ち主の怨念のようなものが宿っていると気持ち悪がる人がいるが、私はただその歴史の移り変わりと長い時間を味わってきた物品の渋さに惹かれてしまう。新品には絶対に出せない「味」というものを感じるのだ。学生時代に古着にハマり、1着数万もするヴィンテージスウェットを購入したりしていたが(今はパジャマと化している)そのときと同じような感じでいくつもの骨董品屋のウィンドウショッピングを楽しんだ。途中腹が減ったので、小さな普通の食堂でナシゴレンを平らげ、さらに骨董品屋巡りを続けた。チャイナタウンが終わるというところにある老夫婦がやっている骨董品屋で、値段も手頃で渋いお面を見つけ購入した。このチャイナタウンにはババ・ニョニャ・ヘリテイジという1896年に中国移民の富豪ババによって建てられた建物があったが、前を通りかかっただけで特に中には入らなかった。
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チャイナタウンのほぼ中央に位置するババ・ニョニャ・ヘリテイジ。マラッカを代表するスポットらしいが、私はここよりその周りにある骨董品屋に夢中になってしまった。
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橋を渡って海沿いの道を歩いていると船の模型のようなものが見えてきた。ここは海洋博物館で宝石を満載したまま沈没したポルトガル船フローラ・デ・ラ・マール号を模した建物だということだった。やはり2RMというチケット代を払い私は早速この博物館に入ってみた。なるほど、中も船の作りになっているものの、特に広くもなくあまり印象には残らなかった。この程度のものなら横浜などにもありそうだ。そんな感じのものだった。それから公園の方に戻り、今は門だけが残るかつての要塞、サンチャゴ砦へ向かった。こちらはSt.Paul Churchと同じく入場料などはなく、開放的に展示されていた。門は非常に素晴らしく時代を感じさせるものだったが、その周りの風景があまりにも奇麗に整備されすぎているように感じてしまったからだろうか、それほど印象には残らなかった。
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独立広場の奥にあるサンチャゴ砦。門のみ残されるこの遺産はそれなりに歴史を感じさせてくれたが、周りがあまりに奇麗に整備されすぎていて少々不自然さを感じた。
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マラッカという街は総合的に見て非常に豊かな街だと思った。舗装された道も、外を出歩く人たちの様を見てもそれは感じ取れた。確かに文化遺産などはそれほど目立たない街だが、確かにゆっくりマイペースで暮らすには非常にいい街かもしれない。昼前から散歩を続けていた私は少々歩き疲れたため一度ゲストハウスに戻ることにした。天気も良かったし、ペナン島よりかなり南下したせいか、幾分か汗もかいていた。ゲストハウスに戻って早速シャワーを浴びた私は、すぐにこのゲストハウスの屋上に出た。屋上には物干しスペース兼休憩用スペースのようなものがあって、手作りのベンチのようなものが設置されている。私はそこでタバコを吸いながら考えた。残りの旅程からいって、明日にはクアラルンプールに移動しなければいけない。もともとこのマラッカに来たのはペナン島のジョージタウンで佐々野さんにマラッカの夕日を勧められたからである。天気は良い。結構な夕日が見れるかもしれない。見るとしたらやはり先ほどSt.Paul Churchがある丘から見えた橋のような道路の場所だろう。でももしかしたらもっといいスポットがあるかもしれない。私は屋内に入り、ベランダで選択をしていたAziziに夕日が見たいんだがベストな場所はどこかと尋ねた。彼はすぐに私が想定していた橋を教えてくれた。やはりあの場所なのだ。時間は15時を回ったところ、夕日を見に行くには少々早い。私は私だけの部屋のベットで夢を見ることにした。
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マラッカ海峡へ落ちていく夕日。決して美しい景色に囲まれている訳ではないが、何か哀愁のようなものを感じさせてくれた。
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ところが夢は全く見なかった。それほどぐっすり眠ってしまったのだ。まだ外は明るかったが明らかに陽が落ち始めているという雰囲気だ。時計を見ると17時近くなっている。まずい。私は急いでカメラを持って、居間にいたHarryに「夕日を見に行ってくる」と告げ、ゲストハウスを飛び出した。空が広い場所に出てすぐ上を見上げた。まだ陽は高いところにあったが、かすかに雲が出始めていた。少々不安になりながらも私はAziziも言っていたベストスポットである橋へと向かった。ゲストハウスから橋までは10分強くらいで、十分日の入りまでに間に合った。何人かの現地人も車やバイクを止めてこのスポットでマラッカの夕日を見ようとしていた。橋の下の埋め立て地にも何人かの現地人がいた。やはり、現地の人たちにとってもこの夕日は素晴らしいのだろう。ただ、空を覆ううっすらとした雲は私がゲストハウスを出たときより多くなっていた。期待と不安の両方を抱きながら私はその煌煌と輝く瞳が落ち始めるのを待った。やがて陽は落ち始めた。こうなると早い。目で見てわかる早さでその瞳は落下し始めた。ところが、不安は的中してしまっただ。それは雲の裏側に隠れてしまい、美しい丸い形は見えない。ただそらの一部が極端に明るいというだけだ。なんということだ。マラッカの夕日を見るためにペナン島から8時間というバス旅行をしてきたのに。確かにマラッカという非常に雰囲気の良い街を体験できた。しかしやはり夕日を見なければ。肩を落としながらも私はその場を動けなくなっていた。するとしばらくして、その目が雲多い高さから姿を現し始めたのだ。決して大きい訳ではない。バトゥフェリンギで見たような海と砂浜とマッチしたよくある夕日でもない。しかし、何百年も前からここに貿易で訪れた異国人が見ていた、何か哀愁の漂う夕日がそこにはあった。なんだろう。横浜でも見れそうな夕日だ。しかし、私は間違いなく友人たちに「マラッカの夕日はいい!!」と伝えるだろう。なぜだろう。そんな不思議な気持ちを抱きながら、雲の中から姿を現した美しく輝く瞳がマラッカ海峡へ落ちていくのを見守っていた。
つづく