「1オクターブの天使」14




 朝から御伽は出かけていた。
 昨夜はそのまま海馬邸に泊まったのだが、ゆっくりなどせず早く起き出して朝食をご馳走になるとそのまま空港まで城之内の兄である自分の友人を出迎えに行った。海馬邸から車を回してもらえるため、バスや電車を乗り継ぐ必用はないから手間はいらないが、それでも空港は遠かった。
 御伽が海馬邸まで帰って来たのはもうすぐ午後になる直前だった。
「克也……!」
 扉を開けて入ってきた人物は城之内を認めると駆け寄って力一杯抱きしめた。
「遊戯……」
「心配したんだぞ、すごく……」
 その態度だけで彼が武藤博士の息子であり城之内の兄代わりである存在であるとわかった。城之内より若干高い身長に細身の身体だが弱そうな印象はまるでなく、それよりずっと存在感がある人物だった。
「うん、ごめん」
 城之内は兄の背中に腕を回して謝る。
「記憶喪失になったって聞いて驚いて心配して、また浚われそうになって殺されそうになった聞いて時は心臓が止まるかと思った……」
 城之内を抱きしめながら、吐き出される声は悲壮さがにじみ出ていた。
「ごめん、本当にごめん……、ごめんな遊戯」
 心配を死ぬほどかけたと自覚があるため、城之内は心から謝った。
 すぐ近くにあるルビー色の瞳をまっすぐに見つめ頬に手を伸ばして、大切な大切な家族の存在を確認する。
「無事だから、いい。父さんも心配してる。本当は自分も来たかったみたいだけど、どうしても今来られないんだ……。研究で海外に行ってて、克也が見つかったって知らせたから即刻帰国するって言ってた。早く顔を見せて安心させてやらないとな」
 城之内は頷いた。
 本当の父親のように自分を愛してくれているのだ。心配をこれ以上かけたなくない。いつもいつも心労が耐えないようであるし……。
「おい、遊戯。感動の抱擁はいいんだけどさ、そろそろ挨拶くらいしないか?」
 御伽は悪友に突っ込んだ。
 何より城之内が大切な彼であるから、わかっていたけれど少し常識を持って欲しい。普段は見たとおりの好青年らしくまっとうな常識を持っているとわかってはいるが、城之内が絡むとそれが綺麗さっぱりとなくなるのだ。
 二人以外にもこの部屋には数人いて兄弟のやり取りを見つめるているとわかって欲しい。御伽はやれやれと肩をすくめて疲れた表情を浮かべた。
「ああ、そうだな」
 やっと彼はその気になったようである。城之内を抱きしめてその存在を確認したせいだろうか。一旦城之内から腕を離して進み出た。
「はじめまして、私は武藤遊戯と言う。克也の兄代わりだ」
 にこりと笑いながらそれでもどこか挑戦的な目付きで遊戯は手を差し出した。もちろんその先は海馬である。
「はじめまして、海馬です。武藤博士のご子息だそうで……、お父上にはいつもお世話になっております。よろしくお伝え下さい」
 海馬は社長らしくそつない言葉を吐き、握手に応じた。
「それはお気遣い頂いて。父には海馬社長からよろしくとあったと伝えておこう。今回は克也を保護してもらったようで、感謝に耐えない。ありがとう」
「いいえ。当然の事をしたまでですよ」
 言葉だけ聞いていれば、友好的であるのにその間には青い火花が散って見えた。
 互いに、一目で敵であることを認識したらしい。
 御伽は、予定通り過ぎる反応だなあと心中こぼす。大層、わかりやす過ぎる人間達だ。もっとも、遊戯と互角な人間など滅多にいないけれど。
 過去に葬り去ってきた人物達は、遊戯の強烈な瞳を見ただけで後込みしていた。彼には瞳に力がある。見つめられると従わざる得ない気になるのだ。それをカリスマと言っていいのかわからないが、常人とは異なる趣を持つ雰囲気と瞳をしていた。
 御伽は遊戯と悪友だと自覚があるが、面倒はごめんといいながら付き合っているのはその先にあるものを見てみたい気にさせるからかもしれないと思う。
 だから、どちらかというと遊戯に味方したい気もするが、こればかりは城之内本人の問題であり御伽は城之内を可愛い弟だと思っていたので、片方に加担する気にはならなかった。城之内がしたいようにすればいいし。選べばいいのだ。
「海馬社長には、どうお礼をしたらいいか見当も付かないくらい感謝している。私にできることがあれば何でも言って欲しい」
 まるで、それで今回の事は帳消しだと言わんばかりである。
 大企業の社長に向かって一個人がお礼をできるのか、と普通は思われるかもしれないが実際のところ遊戯は武藤博士の資産をすでにある程度譲られていた。それを学者肌の博士よりずっと上手く運用もしている。その上、極秘だが英国本社の社長の後継者にならないかと誘われている程なのだ。
 御伽は二人の背景に炎を撒き散らす白竜と異次元を呼び込むような黒衣の魔術師が見えた。遊戯は武藤博士の息子らしく「M&W」の相当な強者だった。息子として有名になりたくないので、公に明かしていないが「One's own」の持ち主なのだ。
「そんなお気遣いは無用です」
 海馬はきっぱりと拒否をした。全くもって、にべもない。
「噂に違わず欲がないな」
 遊戯はにやりと笑う。
 それははっきりとした、嫌味である。
 海馬は社長としてやり手だ。
 御伽がこの不毛な会話を止めるのは俺の役目なのだろうかと、うんざりしながら見ていると二人にとって一番有効な人物が口を挟んだ。
「海馬」
 城之内は遊戯の横に並んでお礼を言う。
「本当に、ありがとう」
 今更だけどと海馬に照れたような表情を浮かべて微笑むと、ついで遊戯に顔を向ける。
「すっごくすっごくお世話になったんだ。執事の奥村さんやお医者さんの伊藤さん、メイドさん達や、たくさんの人に……」
「そうか」
「うん!」
 城之内の輝かんばかりの笑顔に遊戯は頷く。
 その笑顔を見れば記憶がなくともここでどれだけ楽しく過ごせたのかわかるだろう。皆がどれほど城之内に暖かく接してくれていたかわかって遊戯はそれには素直に感謝しておかなくてはならないだろうと心中思う。
「たくさんお世話になったから、後でみんなにお礼を言わなくちゃな」
 城之内は今までこの屋敷で過ごした時間を思い浮かべるように目を細めて笑った。
「ああ、喜ぶだろう」
 海馬は城之内に向けて優しい声で同意した。遊戯に対するものとは大きく違い過ぎる態度だ。もっとも互いが互いに城之内には優しくて相手にだけ敵意を向ける点は限りなく似通っているのだが。
「うん。本当に、本当に……ありがとうな」
 城之内は目の前の海馬に一歩近づき抱きついた。背中に両腕を回し顔を近くに寄せ満面の笑みを浮かべる。その余りに親しい、気を許している態度を遊戯は眉間にしわを寄せ目を眇めながら睨み付けた。
 城之内は誰にでも打ち解けやすい人間であるし友好的であるけれど、誰彼も同じではない。兄として長い年月一緒に暮らしてきた遊戯には、違いがはっきりとわかった。
「ああ」
 海馬も城之内の腰に一瞬腕を回して抱擁した。
 まるで恋人同士の別れであるように客観的に見えて、御伽はそっとため息を漏らす。後で自分が遊戯に何があったのか、と問いつめられることは必至だろう。
「モクバも、ありがとう」
 海馬から離れると、城之内はモクバに向き直り抱きついた。
「ジョーノ……、あ、城之内」
「いいよ、ジョーノでも。どっちも俺の名前だろ?」
 モクバが思わず呼んでしまった名前は城之内の愛称だから、問題はない。それにずっとモクバにはジョーノと呼ばれていたからそちらの方が違和感がない。が、海馬には城之内と呼ばれた方が違和感がないという事実の違いに、城之内は深く考えもしなかった。
 モクバは逢えなくなる城之内を力一杯抱きしめ、その笑顔を記憶に刻もうと思った。手を離したら行ってしまうんだと思うと悲しい。
 漠然と天使は飛んで行ってしまうんだな、と思った。
「またな」
「うん、またな、モクバ」
 未練が残って、またと口から飛び出た言葉に城之内は同じように返してくれた。また、と言ってくれる城之内にモクバは頷く。約束は守られるだろうとなぜだか思えるのだ。多分、予感のようなもので。城之内が再びやってくるだろうと、モクバには思えた。

 そして、城之内はお世話になってありがとうと屋敷の使用人に挨拶をして笑顔を残し去っていった。
 



 
 クリスマス商戦まっただ中である海馬コーポレーションの社長は多忙を極めていた。
 本来なら休みなど返上であった日程を詰めて詰めて組んでいたしわ寄せが来て、海馬社長は仕事に忙殺されていた。
 やらなかればならない仕事はありすぎる程あり。
 新商品開発会議、定例会議、重役会議、取引先との接待、打ち合わせと立て続けにこなした。
 会社と屋敷を往復する毎日に休む時間もなく、少し前は庭園を散策したりお茶をしたりしていた事が嘘のようだった。
 余裕のない時間は確かに余計な事に気を回す暇を与えなかった。
 見かけは毎年恒例の1年で一番の劣悪で極悪な時期を過ごしていた。

 やがて。
 雪が降り。
 冬が来て。
 彼がいた秋が通り過ぎた。
 仕事に忙殺されゆっくり考える時間などないというのに、心にぽっかりと穴が空いたようで。
 屋敷からあの笑い声が途絶え日溜まりみたいな笑顔が消えて、海馬邸は元のどこか冷たい雰囲気に戻っていた。ただ、残り香のような実態のないあやふやな存在があり、それに触れる度、誰もが彼の笑顔を思い出していた。
 



 
 それは、海馬が珍しく早く帰宅した日、毎日深夜に渡っていたため日が暮れていても十分に早いのだ……のことだ。
 これから連夜でパーティに出席せねばならず、疲れが押し寄せ弟のモクバから今日くらいは早く帰って休むようにと言われていた。弟の気づかいに頷いて屋敷に戻ると、どこか雰囲気が違うと感じた。
 一応、屋敷もクリスマスらしく広い玄関には煌めく飾りや電飾によって大振りなもみの木がディスプレイされていて季節感を醸し出しているのだが、それが早い帰宅のため深夜には付いていない電飾に明かりが灯っている。そのくらいの変化しか認められないというのに、出迎えた執事の表情が殊更嬉しそうだ。
「おかえりなさいませ」
 控えめに頭を下げて主人を迎え入れる執事の目が微妙に細められている。
「ああ」
 海馬は軽く頷く。
「夕食の用意ができておりますから、後で食堂へおいで下さい」
 部屋に戻り着替えをしてから食事をするのが海馬の常であったから、それはおかしな事ではないのだが、何か腑に落ちない。しかし、何かあれば執事はすぐに報告するだろう。
 海馬はそのまま私室に歩いていった。
 
 しかし、部屋に近付くと聞き覚えのある声が聞こえた。
 細くて、綺麗な。
 伸びやかな、歌。
 
 Is the moon or a star visible to a distant sky?
 The thing in the end of darkness is the empty of a morning glow.
 Don't give up, although it becomes that it is likely to be drunk by despair.
 Since it is surely.
 That for which you wait Light of hope.
 It will be what that this it is previously. Are they war or peace?

 海馬の私室の隣の部屋の扉が僅かに開いていて、そこから歌声が漏れている。
 海馬は、そっと近寄り扉を開けた。
 
 Only for itself, choosing is.
 Believe and find your power.
 A true door opens.
 What will appear.
 
 明かりの付いていない部屋は開放した窓から月が差し込んでいた。
 暖房が付いているはずであるのに、外から冷気が立ちこめているせいで室内は凍えそうに寒い。
 月明かりの下、背中を向けていた金色の天使が振り向いた。
 撒き散らした黄金色の髪に琥珀の瞳、うっすらと笑みを浮かべる紅色を帯びた唇。白い肌は透き通る程で暗闇に浮かんで見えた。
「海馬……」
 久しぶりに聞く、自分を呼ぶ彼の声だった。
「……」
「海馬……!」
 いつの間にか城之内が海馬の前に立っていた。
「城之内?」
「そう。何だ、もう老眼か?」
 俺が見えないのか?、とくすくす笑いながらからかう城之内は、自分の知る彼そのものだ。
 天使がやって来た。
 どうりで屋敷の中の雰囲気が違うはずだ。執事が温かい目で見ているはずだ。
 ひょっとしたら、モクバも知っていたのかもしれない。今日に限って早く帰れとはタイミングが良すぎる。
「驚いたな、いつ来たんだ?」
「今日だぜ、午後過ぎくらいかな?海馬を驚かせようと思ったけど上手くいったな」
「驚くだろう、普通……。それより、なぜ着いたらすぐに連絡しなかったんだ?」
 悪戯が成功したような子供の顔で笑う城之内に、海馬は説明を求める。
「え?今は忙しいだろ?」
「……それでもだ」
 モクバが気を使ってくれなかったら、海馬の帰宅時間は深夜に及ぶのだ。予め聞いていなければ、どれだけ城之内を待たせたか知れないだろう。
「う〜ん、あのさ。モクバがそのまま待っていろって言ったからなんだけど」
「モクバが?……モクバにいつ連絡を取ったんだ?」
 自分とは連絡も取らず声も聞けない状況だったというのに、弟とは親しい関係を続けていたと知って海馬は憮然とする。
「いつって、最初から。メールのやり取りしてたしさ。日本に行くって言ったら今日がいいって誘われて。海馬は全然知らなかったのか?」
「知らんわ」
 少し、そっけない口調になる海馬である。メールのやり取りなど全く聞いていない。自分がないがしろにされたような気になってしまい自然に口の端が曲がる。
「……海馬、まさか拗ねてるのか?」
 普段感情をあまり表に出さない海馬が珍しく面白くなさそうに、眉間に皺を寄せて眼光鋭く睨んでいる。が、恐ろしさが漂う厳しい表情ではなく、複雑そうな色を瞳に浮かべていた。
「海馬?なあ、機嫌直せよ」
 城之内は海馬の腕を甘えるように引いた。
「それより、聞いて欲しいことがあるんだけど。ずっとっていう訳にはかないんだけど、短期でこっちの大学に留学しようと思うんだ。だからさ、ここに置いてくれる?」
 海馬の目を見上げて城之内は小首を傾げた。
「ここに住むのか?」
 まさかそんな予想外に嬉しいお願いを聞くことになるとは思っていなかった海馬は目を見開いた。
「そう、駄目か?」
「駄目な訳なかろう。大歓迎だ」
「良かった!」
 城之内は満面の笑みを浮かべ海馬に抱きついた。
「これでも、説得するのすっごく大変だったんだぜ。だから、置いてくれないって言われたら諦めるとこだった」
 城之内はそう言ってぺろりと舌を出した。
「武藤博士や兄代わりがよく了承したな」
「ああ。最初は絶対駄目だって言われたけど。危険だとか誘拐されたらどうするって言われて、安全な場所があればいいんだなって思ったから海馬のとこならいいだろうって説得した」
 海馬は彼らの心配と複雑な理由を推し量る。
 多分、日本では海馬邸程の条件を備えた場所は他にないだろう。セキュリティも財力も会社としての繋がりも全てにおいて好条件だ。それであるのに、あの兄代わりは海馬の側になど絶対にやりたくなかったに違いない。敵意を隠さなかった瞳の色は海馬が逢ったことのある人物の中で人一倍強烈だった。
 過保護な保護者達を日本留学という理由でよく説得できたと思われた。自分が逆の立場なら絶対反対だ。
「それでも、相当反対されなかったか?」
「だって、俺日本に来たかったんだもん。英国も好きだけど日本が俺の母国だからさ。それに、海馬が春に咲く庭園の花を見に来いって言ってくれたし。今から楽しみなんだ〜」
 多分、彼らは母国へ行きたいという希望を無下にできなかったのだろう。幼少の頃に英国へ行ってしまった城之内が母国で過ごしたいと言われて、いくら保護者でも反対仕切れるものではない。
 城之内の嬉しそうな笑顔を受けて、海馬も段々実感が沸いてくる。
「いつから、来るんだ?春には間に合わせるのだろう?」
「もちろん!梅桃桜に連翹、木蓮、花水木。絶対見たいからな!ってことで、海馬一緒に花見しような」
「いいだろう」
 海馬は城之内の魅力的な申し出に頷いた。
 春になれば、この屋敷に城之内が帰って来る。こんなに嬉しい事はない。腕の中の城之内を抱きしめながらこれ以上のクリスマスの贈り物はないだろうと思う。
 
 そう、その日はクリスマス・イブの前夜だった。
 クリスマスには天使が空から降って来るものらしい、海馬にしては空想的な事を胸中呟いた。
 
 


 クリスマスには奇跡が起こる。


 
                                                  END
 
   



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