「1オクターブの天使」13





 夜中を過ぎても、月のせいで明るい。
 雲がないせいか空気が澄んでいるせいか、月は大層大きく見え銀色の輝きは神秘的な光を撒き散らしていた。
 そこにあるのは、静かな静かな時間。
 夜はその大きな帳で何もかも包み込み、優しく隠してくれる。
 癒すようなその漆黒の密度は、人間など飲み込まれてしまうほどに大きく濃い。全てを飲み込む事が可能な闇は太古から不変的に存在している。
 だからこそ、人間は、動物は夜眠るのかもしれない。
 優しいゆりかごに抱かれて。
 目を閉じて。
 一時の夢に身を任せる。
 

 
 城之内は、その闇に包まれ月光を浴びていた。
 庭園の四阿、作りつけの椅子に毛布を巻き付けてもたれながら、腕を流麗なカーブを描く石の柱の縁に置き顎を乗せる。
 夜中の凍えるような冷気は指の先まで体温を奪う。
 でも、しばらくここにいたかった。
 毎日散歩して昼寝して転がって過ごした庭だ。秋だから緑濃く茂るというのとは少々違い、季節柄色付く紅葉が美しかった。銀杏が金色に輝いて、ひらひらと舞い散る扇型の葉が映画みたいだった。思わずその下で埋もれて寝てしまった事もある。
 昼寝にちょうどいい木の枝も見つけた。
 その度に海馬に怒られたような気がする。怒っているくせに、探しに来てくれるのだから、笑える。
 モクバもお茶の時間だご飯だと探しに来てくれた。
 天気のいい日はテラスがいい。暖かな太陽の下で皆で他愛ない話をしながらお茶とケーキや軽食を楽しむ時間が殊更嬉しかった。
 屋敷の主人とここに務める人達。
 誰もがいい人で、城之内は大好きだった。
 思い浮かぶのは、優しくて暖かい笑顔ばかりで城之内を幸せにする。
 吐息を付くと闇の中白く染まって消えた。城之内はその行方を探すように暗闇を見つめた。今は見えないけれど、明日にはまた太陽の光で隅々まで庭園が見えるだろう。
 その様が思い浮かぶようで目を閉じた。
 瞼の奥に、この景色を焼き付けて置くのだ。忘れないように……。
「何をしている、城之内」
 良く知った声が背後で聞こえて、城之内は振り返った。見なくてもわかってしまうくらい馴染んだ声だ。
「海馬?」
 予想通り目の前には海馬が立っていた。
 なぜ、ここにいるんだろうか。自分はまた物音でも立てて彼を起こしてしまったのだろうか。城之内そんな海馬の意図とは外れた事を考えた。海馬邸の部屋の壁は完璧なる防音で些細な物音くらいでは漏れる事はない。つまり、海馬はわざわざ来たというのに、その意志は残念ながら伝わっていない。
「お前は、自分の体調がわかっているのか?」
 険を含んだ声で海馬は城之内を睨み付ける。
「え?別に、もう大丈夫だぜ?風邪も引いていないし」
「馬鹿者。何を根拠に大丈夫などと言えるのだ?伊藤から大事にするように言われているだろう?休養を睡眠を取るように言われていないか?」
 記憶が戻ったからといって何でも良い訳ではないと、伊藤は言ったはずである。今日遭遇した事件だけで十分にトラウマになれる体験のはずだ。精神に与える影響を考えれば普通大人しく寝ているものではないのかと海馬は疑問に思う。
「そうだけど、結構寝たぜこれでも。意識失ってからと、一度目覚めてからまた寝て、皆と別れてからさっきまでも寝ていたし」
「それを十分な睡眠とは言わん」
「もう、寝るのも飽きた」
 全く自分の事に頓着していない城之内に海馬が眉間にしわを寄せながら大股で近づき長い腕で抱きしめた。毛布の上から暖めるように力強く胸に抱き込むと、鼻先に金色の髪がかすめ甘い香りがした。
「心配させるな」
 憮然と言い放つ海馬の声に、城之内は海馬を見上げた。
「海馬?」
「なぜ、お前はこんな夜中に出歩くのだ?意味があるのか?」
 何か別の意味で心配していることがわかって城之内は首を振った。
「見納めかなって思って、見ていただけだ。特別な意味なんてない」
 きっと海馬は城之内の思い出せない記憶を思いやっているのだろう。話した事は別に後悔はないけれど、あんまり気遣って欲しくない。
 遠い記憶は、子供が大人になる時間が経った今では過去のモノだ。それに、両親をなくした当時とは明らかに違い自分を囲む人たちがいるのだ。だから、大丈夫なのだと思う。
 城之内は記憶について医者のように詳しくないから自信はないが、昔の記憶が戻っても今なら受け止められると思うし、今回にしてみてもきっと一時的なものだったのだろうと思う。殺人現場を目撃しても犯人に殺され掛けても自分には大切な人がいるから大丈夫なのだ。トラウマになったりなんてしない。勝手にそう思う。
「見納めなのか?また見に来れば良かろう?」
 海馬は城之内の表情を目を眇めながら観察して、逆に問い返した。
「いいのか?」
「何だ、二度と来ないつもりだったのか?」
 からかうように海馬に見つめられ城之内は口ごもる。
「だって……」
 自分がそうしていいなんて、思えない。
 拒否されるとは思わないけれど、大歓迎と自分で言い切れる程自信なんてないのだ。
「ここが気に入ったなら、いつでも好きな時に来ればいい。春になればたくさんの花も咲く。英国にはない日本の木の花は清廉で艶やかだ。紅梅白梅、桃、桜なら染井吉野に八重、木蓮に連翹、花水木。春を迎えると次ぎ次ぎに咲き誇り、それは見事に花開くだろう。……見たくはないか?」
 誘うように、耳元で海馬は囁く。
「いいなあ……」
 顔を綻ばせてうっとりとため息を唇から漏らせた城之内に海馬は自身にしては珍しく微笑を口元に刻んでいた。
「お前が来れば、皆喜ぶだろう。執事もシェフも庭師もメイドも。そしてモクバも……」
「海馬は?」
 目の前の男の名前がないことに、すかさず城之内は突っ込んだ。
「俺もだ」
「本当に?」
「ああ。来い、待っている」
 城之内は嬉しさがこみ上げて、満面の笑みで頷いた。
 海馬は嘘を付かないし、自分自身を保証してくれるくらい信用できる。だから、彼が待っていると言うのならそれは本心だ。
 普段機嫌が悪そうでも、彼は自分に対して嘘偽りを言った事はなかった。言うことは全て事実だ。
 城之内は海馬の胸に顔を埋めてぎゅっと自分から抱きついた。
 暖かくて、安心できる場所だった。
 なぜ、海馬はこんなに優しいのだろうか。そう、ずっと最初から彼は自分に優しかった。
 理由なんてわからないけれど、彼は時々懐かしそうに自分を見る。
 その視線は何とも言い難く、嬉しいような切ないような感情を呼び起こす。
 聞きたかったのだ、どうしてなのか。
 今なら聞いてもいいだろうか。今なら聞けるだろうか。
「海馬。何で、そんな目で見るんだ?」
 城之内は率直に聞いた。抱きしめられた胸に顔を寄せて視線だけ上げて海馬を見る。
「……そんな目とは?」
 海馬は、お前こそそんな目で見るなと思いながら問う。真っ直ぐに見上げる瞳は一切の濁りなく澄んでいる。その瞳を海馬は反らせない。
「懐かしそうな目。時々、そんな目をしてる」
「……そうか」
 思案するように思い出すように一度だけ視線を遠くにやって戻すと、海馬は城之内の髪に指を入れて梳いた。何度か梳いてゆっくりと口を開く。
「昔、天使に逢った事がある。……天使なんてこの世にいるわけないって知っているくらいの子供だった頃だ。小さな天使は天上から落ちてきたんじゃないかと思うくらい可愛いくて。少しだけ話して……行きたい場所まで連れていって別れた」
 思い出を語る海馬を城之内は目を見開いて見つめた。現実的な海馬が天使の話をするなんて驚きだった。
「それは、本当にほんの少しの時間だった。そして、それ以来天使には逢えなかった。金色の髪に大きな琥珀の瞳だったな。お前にそっくりだ」
「俺に?」
「そうだ。成長していれば、今のお前そのままだろう」
「だから、懐かしそうな目で見るのか?その天使を思い出しているのか?」
 城之内は、その事実にどうしてか胸が痛む。
 海馬が見ているのは、俺じゃない。懐かしい思い出なんだ。だから最初から優しかったのだ……。瞬時に気分が落ち込んで来る。誰かの代わりは嫌だと思ってしまう。
 城之内は海馬の上着をぎゅっと握って俯いた。
「城之内?どうした?」
 海馬はいきなり俯くと耐えるように唇を噛みしめている城之内の顎を掴んで上げさせた。
「……だって」
 城之内は視線を彷徨わせる。
 優しくされて、その理由が自分にないからって嫌がるなんて子供だと思う。その人が優しくする理由はその人だけのもので、誰にも左右されるものじゃない。
「城之内?何がそんなに悲しい?理由を言わんとわからんだろう?」
 頬を両手で包んで海馬の蒼い瞳が自分を覗き込む。
 綺麗な色だなと思っていた空の色を持つ瞳は、自分ではない誰かを見ていたのだ。
「城之内……」
 海馬は理由を言わずに、悲しそうに瞳を揺らす城之内に困惑する。どう慰めていいのか、さっぱりとわからない。天使に似ていると言ったのが不味かったのか。その直後から急激に機嫌が降下したけれど……。
 海馬は慰める言葉を持たずしばらく躊躇すると、心の欲求のままに従って両手で包んでいる頬に小さく唇を落とした。前髪をかき上げて白い額、伏せた瞼の上、鼻の上、細い顎の先、再び滑らかな頬と順番に唇で辿ってキスをして、最後は赤い唇へ。
 そっと撫でるように、啄むように。
 何度か触れるだけのキスをした。
 城之内は全く抵抗をせずされるがままだったが、唇が離れると一粒涙をこぼした。涙の雫は頬を伝って顎まで届く。海馬はその涙を唇ですくい取る。
「なぜ、泣く?」
「……」
「嫌だったのか?」
 首を振って否定する城之内に、海馬はますます愛しさがこみ上げて抱きしめる腕に力を込める。
「海馬は小さい頃に逢った天使が忘れられないんだろ?だから、だから、俺にも優しくしてくれる」
 苦しげに言葉を紡ぐ城之内の声は震えていた。海馬は予想外の展開に思わず目を見開いた。
「は……?なぜ、そうなる。確かに小さな頃に逢った天使は多分俺の初恋だろう。カードの天使『ジョーノ』を見た時は、そのまま成長した姿かと思った。一度会ってみたかった。お前が倒れている時、ジョーノだとわかっていたから連れてきた。うちは「M&W」の専売契約を結んでいるから本国の会社との付き合いもある。けれど、それだけでここまでお前に振り回されはしない。お前を一人にしたくなくて、俺は屋敷にいただろう?一人で食べるのが嫌だというから食事してお茶をしただろう?一緒にいただろう?俺が普通そんな事に手間暇掛けるように見えるか?」
「……」
「お前だからだ。外見だけじゃない。思い描いていた姿だけでは、俺はお前を好きになどならなかった」
「……好き?」
「そうだ」
 海馬は城之内の小さな呟きに鷹揚に頷いた。
 あの日出逢った小さな愛らしい天使には幸せでいて欲しかった。無邪気に微笑む姿はこの世の汚れも罪も存在していなかった。堕れなき天使は自分の中の希望の欠片みたいなものだった。
 フィルムで天使のジョーノを見た時も、それを思った。光を集めたみたいな存在で、自分とはなんと住む世界が違うのかと思った。
 海馬剛三郎の養子になった自分は、あらゆる汚い方法を用い手段を選ばず会社を経営している。最終的には彼を蹴落とし死に追いやった。自分で手を下していなくても自殺に追いやった事に変わりはなく、今でも人殺しと影で言われていることを知っている。
 天使のようなジョーノとはあまりに人間として遠すぎた。決して手の届かない場所にいる存在なのだと思った。
 けれど、城之内と短い時間を一緒に過ごして。
 綺麗な笑顔や声は文句なく人を惹き付けて。
 穏やかな顔をしながら庭園で昼寝しているから、自ら広い庭を探して。
 やることは結構考えなしで大ざっぱで、いきなり木の上から飛び降りるくらい無鉄砲。 どこでも寝こけるくらい無頓着。
 それなのに人を気遣うし、意外に聡い。
 素直で率直で嘘が付けず、人を簡単に信じすぎて無防備だ。
 あんな、憧れただけの人間ではない「天使」を心の奥底から好きなんてなれないだろう。
 笑って泣いて怒る生身の人間だからこそ、これほど欲するのだ。誰にも渡したくないと思うほど。帰したくないと思うほど。
 天使には、決してこんな欲など感じないだろう。
 同じ世界に住む生身の人間だからこそ、手を伸ばしたくなる。身体を抱きしめたくなる。しなやかな肢体に触れたくなる。口付けたくなる。心の奥底から情欲が沸き上がるのだ。
 しかし、己の心を無理に押しつける事はできない。
 人間の欲は一歩間違えば、破滅だ。歯車が狂えば精神をも狂わす。
 城之内にはそれは酷だと思う。それに、いくら本人が大丈夫だと言っても、今は精神的にかなり参っているだろう。
 今回の事にしても、トラウマになって欲しくない。
 彼を傷つける事はしなくない。
「海馬が、俺を?」
 城之内はひっそりと呟いて、驚いたように瞳を瞬く。
 実感が沸いていないのか、小首を傾げて海馬を真っ直ぐに見つめて来る。やがて、しっかりと本当の意味で理解できたのか、頬を染めた。
「ああ。俺はお前が好きだ」
 海馬は城之内の心に響くように耳元に真摯に愛を囁いた。
 城之内はびくりと身体を振るわせると、海馬の胸に逃げるように顔を埋めた。羞恥のためか耳が赤い。海馬は口元に笑みを浮かべながら城之内を抱き込む。
「今すぐ、答えて欲しいとは言わない」
「……」
 城之内は海馬の言葉に顔を上げた。蒼い瞳が真剣に見ている。
 優しく髪を撫でる海馬の長い指が心地良い。うっとりと身体を預けたくなる。
「今度、逢った時返事を聞かせてくれ」
「海馬……」
 城之内は、こくんと頷いた。
 返事をすぐに迫らない海馬に胸が詰まって、広い背中に腕を回して抱きついた。
 嬉しい、と思う。
 ここは、安堵できる場所だ。
 それだけは、城之内の中ではっきりとしていた。







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