「1オクターブの天使」12




 現場に戻れという格言通り、城之内を拾った場所に行ってみたら、ずっと彼を捜索してい御伽に出会い。
 次いで、『ジョーノ』を狙っている犯罪組織に襲われて。城之内を逃がすために二人が暴れている最中、海馬の車まで走る途中で城之内がまたまた殺人鬼に殺されかけたと。
 怒濤の展開としか思えない、人生これほどに密度の濃いというか激しく危険な1日があっていいものか。
「詳しい話は本人でないと、わからないと思うけど……記憶がないから聞いてもわからないだろうけどな、城之内に殺人現場を見られたんだってさ。その犯人。当然、記憶をなくした日のことだ。で、城之内を始末しようと追いかけて、結局逃げられた。途中まで追っていて、なんと海馬社長が城之内を拾うのを影から見ていたらしい。この街で別格の高級車に乗った人間で顔を見てみれば街中で知らない者がいないKCの海馬社長だったものだから、その場は一旦諦めて。でも、屋敷とかは反対に探さないでもどこにあるか、誰でも知っているから城之内が外に出るのを待っていたんだってさ。それで、様子を狙っていて、一人になった所を襲ったと、供述していた。もっとも犯人は城之内がまさか記憶がないんだんて思いもしなくて、なんで警察に通報していないのか不思議だったらしいけどね」
 御伽は単純明快な理由だねと苦笑した。だからといって、人を殺そうとした理由を許しているわけではないのは目を見ればわかった。人が良さそうな笑顔なのに、目が冷えている。
「その犯人は、警察に突き出した」
 突き出すというと聞こえはいいが、怒れる海馬にとんでもない力で殴られ気を失ったのだが。それについて、御伽もあえて何も言わなかった。自業自得だと思うし、城之内に何かした人間は大概にしてそういう憂き目にあっている。
「それで、今寝ているの?」
「殺されかけたからね、首を絞められて。気を失ったきり、まだ目覚めていない」
「……そんな目にあったんだ。ショックだよな……」
 モクバは酷い体験をした城之内を思う。只でさえ記憶を失っているのにそんなショッキングな事に耐えられるのだろうか。
 そして、モクバの心配事は他にもあった。
 城之内の、保護者代理だと言った御伽がここにいるのだ。当然城之内を連れていくつもりであろう。それが普通だ。
「それで、城之内をどうするの?」
「連れ帰る、って答えるのが普通だと思うけどね。記憶がないなら、余計に。住んでいる場所にいるのが一番安心できるし、思い出す可能性が高い。家族と共にいるべきだね」
「……」
 モクバは唇を噛みしめる。
 いつかは、こんな日が来るとわかってたけれど。それでも城之内がいなくなってしまうのがこんなに辛い。
「……明日、あいつの兄貴が迎えに来ることになってる。でも、俺には城之内がここにいたいって言うような気がする。記憶がなくても、城之内はこの屋敷で随分暖かく包まれていたみたいだしね。大事にされてるし。……けど、俺は保護者代理であって、本物の言うことが優先されると思うよ。誰しも家族と共にいたいものだ。記憶なんて関係がない。普通記憶のなくなった家族と離れているなんて考えられないからね」
 慰めるような御伽の口調にモクバは顔を上げてしっかりと瞳を見た。
「うん、わかってるんだ。家に帰るのが普通なんだ。ここじゃ、記憶戻らないかもしれないし。城之内がここにいてくれたのは、本当に偶然で。いてくれただけで、奇跡的だってわかるよ。こんな事でもなければ、きっと出逢うことすらない」
 そして、家に戻って、もし記憶を無事に取り戻したら。その結果、ここで過ごした事を全て忘れてしまったら。彼の記憶に自分は存在しないのだ。
 打ちのめされそうだ、とモクバは思った。
 もし、再び逢うことが叶ったとしても全くの初対面で、はじめましてと言われるのだ。
 モクバは兄をそっと伺った。その横顔は無表情で読めないけれど、自分よりずっとずっと辛いだろうと手放したくないと思っているだろうと、簡単に想像できた。
 決して、言わないだろうけど。兄は城之内に惹かれているのに……。
「……う、んっ……」
 小さな消え入るような声でも、そこにいる3人ともすぐさまベッドを見た。正確にはベッドに寝ている城之内を。そして、枕元に近寄った。
 僅かに揺れる睫毛と瞼。
 見守る中で、緩く開いた瞳はぼんやりとしていて、意識がはっきりしないのか緩慢に瞬きする。
 そして、琥珀の瞳が景色を映し出すとそこには、蒼い瞳と黒い瞳と緑の瞳があった。
 6対の瞳に見られて、城之内はぼんやりとした意識が徐々に色を変え、目を見張った。
「……え?っ……えっと」
 混乱してるようで、目まぐるしく表情が変わる。
「落ち着け」
 海馬は城之内の髪をくしゃりと撫でた。
「海馬……」
 城之内のなぜか不安でいっぱいだった心が海馬の声と仕草で安堵する。そして、改めて見た顔の中に、緑の瞳があることを認め口が勝手に動いていた。
「……御伽?」
 一瞬だけ、3人の間で時が止まった。
 しかし、御伽はすぐに聞き返した。
「俺がわかるのか?城之内」
「……御伽、だよな。……あれ?」
 城之内は、上手く頭が働かない事に気付く。混乱というか、記憶が噛み合わない。首をひねりながら思案げに視線を漂わせる。
「今はまだ、無理だ。お前はショックから抜けきっていない。いいから、もうしばらく寝ろ。すぐに医者に診てもらうから」
 海馬は城之内の頭に一度手を置いて、枕元に取り付けてる内線で別室にいる医者の伊藤を呼んだ。すぐに飛んできた伊藤は簡単な診察をして、もうしばらく睡眠を取るように告げた。
 周りで見守るようにしていた3人は、城之内が目を閉じて健やかな寝息を立てるようになるまで、静かにしていた。
 そして、再びソファに座り直す。気遣うように声は潜めながら伊藤の言葉を待った。
「……混乱しているようですが、記憶が戻り掛けているようですね」
「そのようだな。俺やモクバもわかっていたけれど、この男の名前もわかったみたいだぞ」
 海馬は御伽を視線で示す。
「今度目覚めた時には、もう少し記憶の情報が整理されているでしょう。人間は眠っている間に取り入れた莫大な情報を整理分類しているのですから。それによって、全て思い出すのか今までのことを忘れてしまうのかわかるでしょう。まあ、現時点での記憶はあるようですので、大丈夫なような気がしますが。もちろん、希望も混じっていますから、あまり信用しないで下さい」
 伊藤はそんな無責任な事を医者のくせにさらっと言った。
 
 



 再び城之内が目覚めたのは、数時間経った後だった。
 皆で集まり、話を聞くことになった。
「……思い出したんだ」
 城之内は、記憶を取り戻していた。そして、海馬もモクバもここでの生活も忘れていなかった。そのことに一番安堵したのは誰であるのか、判断が付かないくらい皆喜んだ。
「霧が晴れたみたいだ。薄ぼんやりとしていたものが、はっきりとわかる感じ。自分の中の確かなモノを捕まえてるような気持ち」
 なんと言っていいかわからないけれど、再び目覚めてみれば自分の事がわかった。
 自分の名前が何であるか。
 どこ住んでいるのか。
 どうやって過ごしてきたか。
 記憶にあった。
 海馬やモクバ呼んでいた「ジョーノ」は元々愛称のようなものだったから、全く違和感がない訳である。
 そして、生活にしても緑豊かな自然の中で気ままにしてお茶をしたり話したりする事は例え記憶がなくても同じ事をしていたようだ。生活が身に付いているからなのか、本人はそう簡単に変われないだけだろうか。
 城之内は、記憶に残る欠片を思い出しながら話し出した。
「あの日、一人でぼんやりとしていて。少し歩いていたらどこかに紛れ込んだみたいで。そうしたら悲鳴が聞こえた。急いで聞こえた場所へ走ったら、あの男がナイフを振り下ろしていた。すでに何度か刺した後だったみたいで、赤く染まっていた。倒れている人も、ナイフも男のシャツも……。血の赤が瞼に焼き付いている。もうすぐ夕日になりかけた太陽のオレンジ色の光が余計に赤色をまがまがしく見えていた。その時、声も出なくて足も動かなかった。そしたら男が、見たなって言って迫ってきた。驚いて、逃げて、逃げて。でも一度つまずいて掴まった。腕を掴まれて木に叩き付けられて、無我夢中で闇雲にその手に触れたモノを、多分木の枝か何かだと思うけど、男の手に刺して逃げた。走って、走って、その後はわからないんだ」
 夢で追いかけられていた相手はあの男。
 銀色に光るのはナイフ。
 赤い赤い、視界を染めるのは血の赤。
 逃げていた自分。
 その時の恐怖を思い出したのか、城之内は自分を抱きしめるよう身体に腕を回した。
「どなたか親しい方をなくしていた所に殺人現場を目撃して犯人に襲われ殺されかければ、打ち付けたショックで記憶もなくすでしょう」
 伊藤が眼鏡のツルを人差し指で押し上げて神妙に頷いた。
「うん……」
 城之内は沈んだ目で、視線を上げて苦しそうに微笑む。
「俺、今でも、思い出せない事があるよ」
「何ですか?」
「両親がなくなった時の事。そこだけ、全く記憶にない」
 どこか諦めたようななんとも微妙な表情を城之内は浮かべた。精神の不安定さを感じて、伊藤は眉を寄せる。
「交通事故だったんだろ?3人で車に乗っていて対向車線から来た車にぶつかって両親は即死だったけど、お前だけ奇跡的に助かったって」
 唯一城之内の過去に詳しい御伽はそう返した。
「表向きは、そういうことになってる。でも、違うんだ」
 城之内は言いだし難そうにしながらも、否定する。
「違うのか?」
 御伽はそう聞いていた。両親を事故でなくして、そのショックで最初話せなかったと。
 もっとも、御伽が城之内に出逢った時はすでに症状も快方に向かっていて、普通に話して笑っていたけれど。
「……殺されたんだ」
 呟くような小さな声だったが、衝撃的な言葉にその場にいる人間が息を飲む。
 城之内は自分の手を見つめる。軽く握ってそっと開く。
「俺は、遠足で出かけていて家に戻ってきたら、二人とも酷い状態で血を流して死んでいたらしい。らしいってのは、確かに見たはずなのに全く覚えていないし思い出せないからだ」
「……、知らなかった」
 御伽は声を詰まらせる。
「うん、表向きは事故って言ってるから。ほとんどの人は知らない」
 初めて聞く事実に、御伽は驚愕する。
 そして、改めて納得がいった。
 なぜ、日本ではなく外国に引き取られたのか。
 なぜ、あれ程までに武藤博士も兄貴代わりの息子も過保護で溺愛するのか。
 なぜ、武藤博士は自分の息子ではなく城之内のためにカードゲームを作ったか。
 日本にいれば、居たたまれないだろう。両親を殺されて、マスコミだって噂だって放っておいてくれないだろう。子供には耐えられない事だ。
 まして、壮絶な現場を目撃してショックで記憶をなくす程であるのに。
 傷つけたくない。これ以上、心に傷を負って欲しくなかったのだろう。
 だから、外国である英国で暮らすことになったのだ。もちろん武藤博士が強く希望したのだろうけれど。
 過保護で溺愛するのは、当たり前だ。愛情を注ぐのも当然だ。
 少しでも笑って欲しくて、悲しいことを忘れて欲しくて、武藤博士はカードゲームを作ったのだ。城之内のために。城之内のためだけに。
 息子だけのためには、決して作らなかっただろう。あれでも、それなりに有名な哲学者なのだから。他にもやることや研究がたくさんある。
「……どうして、って聞いていい?どうしてそんな事になったの?」
 モクバが唇を噛みしめながら、切り出した。
 両親が殺された理由なんて、言いたくないかもしれない。それを聞くことは配慮に欠けているのかもしれない。それでも聞かずにはいられないかった。モクバの両親は城之内が表向きの理由にしている交通事故だ。それが殺人だったらと置き換えて考えるだけで、胸の内から苦しいモノが沸き上がってくる。
「……俺も、人に聞いた事しかしらないけど。母さんを好きだった人らしい。好き好きで溜まらなく好きだったんだって。けど、父さんがいるから振り向いてもらえないと思って殺そうと思ったらしい。母さんが殺されたのは、自分を受け入れなかったからって弁護士の人は言ってた。子供の頃はよくわからなかった事もあるけど、今なら弁護士が言ってたことがわかる」
 城之内は、淡々と思い出すように首を傾げながら話した。
 モクバはいかな理由であるうと聞いたことを後悔した。
 そんな理由を城之内の口から語らせてはいけない。
 無差別や物取りも救われないけれど、怨恨どころか愛憎。勝手な都合のいい愛を押しつけた結果が、一方的な恋敵と一方的な想い人を二人とも殺す事になるなんて。
 その思いが錯綜した現場は、見ていなくても想像を絶するほど悲惨であったろうとわかる。見えるようだ、血に染まった惨劇が。
 城之内の記憶がなくなるはずだ。
 それを覚えている方が余程問題だったろう。
 口が聞けなかったなんて、当たり前だ。
「……ごめん」
 モクバは謝った。謝らないではいられなかった。しかし、城之内はそんなモクバの態度に苦笑する。
「モクバが謝る事じゃないだろ?だって、俺が自分で話したんだ。それに、聞いた話で俺は覚えていない。覚えていないものをどうしようもない。だから、モクバがそんな顔する必用ない」
「うん」
 モクバは俯いて拳を握りしめる。
「俺、思ったんだ。記憶は思い出だけど、思い出よりずっと大切なものってあるよな。何も覚えていなくても、俺は俺だったし。忘れてしまうのは怖いけど、何度だってやり直しは利く。生きていける。生きていたら、たくさんの人に出会える。モクバにだって、出会えただろ?海馬やこの屋敷の人達とだって逢えた。俺は良かったと思うから」
 どうしたら自分の気持ちを伝えられるだろうかと城之内は懸命に話す。
「うん、俺も城之内に逢えて良かった。すっごく良かったよ。記憶がある城之内でも記憶がないジョーノでも同じだ」
 モクバは真っ直ぐに城之内の瞳を見つめて、にこりと笑った。
「ありがとう」
 城之内も微笑み返した。そんな二人のやり取りを見ていた人間達は口を挟めなかった。無闇に挟めるような内容ではなかった。
 トラウマになって当然な経験をもつ城之内が、こんなにも綺麗に楽しそうに笑えるようになったのは、間違いなく家族や周りの愛情のせいだろう。
「もう、大丈夫だと思います。でも、何があるかわかりませんから、用心はして下さいね。くれぐれも高い所に登らないように。落っこちたらとんでもありませんから」
 伊藤は城之内の様子を観察して、保証する。ついでに、釘も忘れない。
「え?それは……海馬!お前、言ったな」
「当然だ。また、頭をぶつけたら余計に馬鹿になるぞ」
 焦る城之内に海馬は至極当然といった顔で頷く。途端、空気が変わって穏やかに流れ始める。それを感じて室内にいる誰もが安堵した。
「あ、お前の兄貴、明日来るぞ。城之内」
「え?……そうなんだ。心配しただろうなあ」
 暢気な城之内に御伽はため息を付く。
「心配したに決まってるだろ?覚悟しておけよ。さすがに怒られるだろ?怒るっていうか、しばらく家から出してもらえないかもな」
「うわ、やっぱり?」
「当たり前だろ、忘れたのか?ちょっと前に誘拐されそうになって大学だって休んでるっていうのに、今回のが加わったんだ。俺はもう取りなしはできないからな。一人で説得しろよ」
 御伽に突き放されて、城之内大きな吐息を付いて肩をすくめた。
 一人で説得するのは、骨が折れるだろう。その行動は全て自分を心配している事に由縁するため、強気に出られないのだ。
「さて、そろそろ休んではいかがですか?かなり話をしましたから疲れていませんか?城之内さん」
 伊藤が病み上がりと言って差し支えない状態の城之内の話を切り上げるように促した。こういった時の医者の意見は絶対だ。
「そうだな、しっかり寝てろよ、城之内」
「十分に休んでね」
「大人しくしていろ」
 それぞれ大層らしい言葉をかけて、3人は部屋から出ていった。最後に残った伊藤が脈と熱を計って現時点の状態を確認する。
「落ち着いているようですね。それでは、私も失礼しますね。……何か気持ち悪くなったりおかしいと思ったら連絡を下さい。今日はこちらに泊まっていますから」
「はい、ありがとうございます」
「いえいえ。それでは、お休みなさい」
「お休みなさい」
 伊藤の後ろ姿を見送り、城之内はそのまま目を閉じた。
 






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