「1オクターブの天使」11




 ジョーノはすぐに車で海馬邸まで運ばれて、医者に見せられた。
 ベッドに寝かされて、目を瞑っている顔色は紙のように白くて、強くかき抱いたら壊れそうな気になる程儚げな雰囲気を纏っていた。
 何より細い首にくっきりと指の跡が赤く付いていて痛々しい。それは両腕も同様で握られた指の跡がくっきりと浮かび上がっている。その上、首筋には包帯が巻かれている。ナイフで切られた跡は出血はすぐに止まったが細く長く赤い線が肌に残っていてしばらく消えないだろう。ジョーノにこんな仕打ちをした人間に思わず殺意を覚える事は致し方なかった。その人間は、今は当然警察に収容されている。
 


「それにしてもあんたが海馬コーポレーションの社長、海馬瀬人だとはね。驚いたよ」
 御伽は用意されたお茶を飲んで一息入れてから、吐息を付いた。
 海馬と名乗った青年が、まさか、あのKCの社長本人であるなんて普通は想像もしないだろう。
 寄りにもよって、彼に拾われ保護されているなんて。
 御伽から言わせてもらえれば万分の一どころか、1億分の一、もっと低い確率ではないのだろうか。
 海馬に城之内が拾われた状況を聞いて、しみじみと運の良さを噛みしめる。
 偶々飛び込んだ車が、多分保護される場所として日本中を探してもここほど大層都合が良く安全な場所はないだろうと思われた。
 大企業の社長宅らしい万全なセキュリティ、居心地の良い広い豪邸は庭園が見事で町中にあるとは思えない緑豊かな環境、「M&W」の日本でも専売契約者という深い繋がり。事を荒立てる事なく内密に処理させなければならない必要性の認識と実力を併せ持つ。
 御伽の見た限りでは、城之内は随分海馬に心を開いているようだった。
 この屋敷の居心地はとても良く、皆に親切に大切にされていたようだと御伽は感じた。意識なく運び込まれた城之内を心配そうに気遣っていたメイドや執事や運転手。
 どこでも誰にでも愛される天使の効力は偉大だ。
「ふん、それでお前は誰なんだ?」
 海馬は無表情で顎を上げて問う。
「俺?俺はさっき言った通り御伽龍児。城之内とは知り合いって言うか古馴染みって言うか……。保護者と親しいおかげで、今回日本に一緒に付いて来たんだ。俺は大学をあっちにしただけで、住んでいたのは日本だから実家だって日本にあるし。城之内一人では不安だったから、日本に詳しい俺に白羽の矢が当たったって訳さ」
「あっちとは、英国か?」
 住んでいるだろう国は、ほとんど確信してる事実だ。
「そうだぜ。城之内は英国に住んでいる。でも、生まれは日本だし小さい頃に向こうに行っただけだから、国籍だって日本だ。だから、今回だって入国じゃなくて、帰国なんだぜ?」
 御伽は茶目っ気たっぷりに笑った。
「日本国籍だったのか」
 海馬はそれについては驚いた。
 日本語が堪能だとは思った。ひょっとして日本で暮らした事があるか、日本人に育てれたか、よほど親しい人物に日本人がいたのだろうと予測していた。しかし、彼は日本人なのだ。すると、当然日本には帰国になるのだ。
 実は入国者でジョーノらしき人物の足取りを探ったのだが、全く出てこなかった。それもそのはずである、日本人なのだから。
 それに、パスポートを携帯している訳もない。彼はこの日本の国民なのだから国内では必用ない。
「見えないだろう?西洋人っぽいもんな、だから英国でも違和感ない」
「そうだろうな」
 海馬が頷くので、御伽は苦笑しながら話しを切り出した。
「城之内が記憶喪失になってるなんて、本当びっくりだ。海馬社長は『ジョーノ』だってわかったから、保護したんだ?」
「当然だ。ジョーノを放置しておくなど俺が、海馬瀬人ができる訳がない。そう思わんか?」
「KCの社長さんが、ジョーノを無下にするなんて絶対にないと思うけどね」
 御伽は大きく納得する。
 海馬はわかっていたからこそ、すぐに保護して面倒を見ていたのだろう。「M&W」の本社である英国企業とKCの関係上それは必用なことだ。企業同士の関係とはいえ、『ジョーノ』をあそこまで大切にしているのは、全く好意だろうけれど。
「それにしても、ジョーノだってわかっていたら、預かってるってあっちに連絡入れてくれれば良かったのに。海馬社長なら、あっちの社長へでも直通で連絡つくんじゃないの?俺、すっごくすっごく探したんだよ」
 帰ってこない城之内を待って、待って。翌日本国と連絡を取り合って探すことになって。見つからなかったらどうしようと思いながら、何かトラブルに巻き込まれたか、誘拐されたかと心配で居ても立ってもいられなかったのだ。
「……お前なら信じるか?いきなりジョーノは預かっている。記憶喪失だと言って。疑われるのがオチだな」
「……誘拐みたいだな、そう言うと」
 がっくりと御伽は肩を落とす。
 おかげで自分はずっと生きた心地がしなかったのだ。ため息も付きたくなる。
「それに、あそこの社長は食えない奴だし、ふざけていて、虫が好かん」
 眉間に皺を寄せてきっぱりと言う海馬に、御伽は頭をかかえたくなる。実際頭を片手で支えて大きく息を吐いた。
 そう、御伽も逢った事があるが、あの社長は一癖も二癖もあるのだ。人をからかうのが大好きで、裏で手を回して準備万端にしてから相手を潰すくらい容赦ない古狸なのだ。
 海馬が嫌がるものわかる。
 わかるけれど、嬉しくはなかった。またまたため息が漏れる。
「……はあ」
 項垂れる御伽には少々同情を禁じ得ないが、海馬はそれとなく情報を引き出そうとしたのだ。それをやんわりと断ったのは、向こうである。
「でも、未成年なんだから、保護者代理としては情報は欲しかったよ……」
「未成年ね。それで、やつは何歳なんだ?学生ではないのか?」
 ぼやく御伽に海馬は突っ込んだ。
「城之内は18歳。今年大学生になったばかりだ」
 城之内について何も知らない海馬に、そういえばそうだったなと御伽は思い直して説明することにした。
 海馬には知る権利くらいあるし、御伽としては知っておいて欲しいと思うからだ。
 これからのために、是非。
「まず、城之内の事について話そうか。城之内克也てのが本名で歴とした日本人。ただ、母親がフランス人なんだ、だからハーフ。父親は日本人だけど爺さんがアメリカ人だったから、海外の血が混ざってああいう形になったんだと思うよ。親子3人日本で暮らしていて、城之内がまだ小学生になったばかりの頃に両親が事故で亡くなった。身よりのなくなった城之内を引き取ったのは英国にいる父親の親友、武藤博士だった。武藤博士は知っているかもしれないけど、『M&W』の制作者である哲学者だ。そもそも何で哲学者がそんなカードゲームを作ることになったかと言えば、両親を亡くして沈んで口も聞けない子供を少しでも笑わせるため、楽しませるためだった」
「城之内のためなのか?」
 ジョーノではなく、城之内と海馬は呼んだ。
 なんとも不思議な音だ。ジョーノという名前が頭から離れない。それでも、彼の本当の名前であるのだから、海馬はそう呼ぶべきなのだと思う。
「そう。城之内だけのためっていうと語弊があるけど。最初は子供のために作ったんだ。それが企業と話をして共同製作することになって、原型が作られた」
 その原型が英国で発売された初期のセットである。
「武藤博士は今でも基本は子供のためにカードを作っている。その中の一番に城之内がいるのは間違いないけどね。あいつ溺愛されてるから」
「ふん」
 さもありなんと、海馬は鼻で笑う。
「今更隠す必用もないけど、城之内が天使『ジョーノ』のモデルだし、宣伝フィルムで天使に扮装しているのも城之内。当たり前だけど博士が城之内をモデルにして作った。何枚もスケッチして描いた自信作だってさ。育ての親が子供を描いたんだからいいできだったろ?」
 愛情の詰まったカード。一目で惹かれずにはいられないカードだ。
 城之内のデッキに「Classic」が多いのはそのためだろう。
 彼のために、作られたカードなのだ。「Classic」はその中でも幼い彼のために作った愛情のこもったものに違いなかった。
 後に明らかになった事であるが、天使「ジョーノ」のカードももちろん城之内は所持していた。普段デッキに入れることはなく家に置いてあるらしい。もっとも天使のカードに限らず全種類のカードが家には揃っているといっても過言ではない。なにせ、制作者のデザイン画から保管されているのだから当然と言えば当然である。
「とてもいい絵だった。希少価値まであったおかげで「One's own」だ」
「やっぱ、そうだろう?海馬社長に言わせるんだから大したものだよな?でもなあ、そのかわり認知度が上がって厄介な奴に狙われるんだ」
「グールズか。今までも狙われているのか?」
「強烈なストーカーとか居たよ。誘拐騒ぎもあったし、今回のグールズは一番たちが悪いけどなあ」
 国際的犯罪組織は質の悪さはピカイチだろう。個人のストーカーなどよりよっぽど対処か厳しい。動かせる金額も人も規模が違うのだ。
「武藤博士の屋敷は、この海馬邸とは少々違うけど当然大きいんだ。英国の屋敷は郊外の田舎にあって周りは緑に囲まれた自然豊かな土地だ。英国は庭園を大切にするから、そこのも立派で大きな庭園があって、環境は素晴らしいと言える。屋敷自体はそんな大きくなくてこじんまりと家族が過ごせる大きさなんだ。それでも、客間とか入れると結構部屋数あるけどな。……でも、問題はそこじゃない。唯一とんでもないのは、屋敷を囲む広大な自然が全て私有地だってことだ。別に金が有り余ってるから買ってみた訳じゃない。確かに博士は「M&W」で莫大な財産を得ている。そのため、財産狙いの人間がいても不思議じゃない。そして、城之内はこれまた危険に晒される可能性が高い。命がというよりその身体が危ない。身代金目的の誘拐ならまだましで……博士は城之内が無事に帰ってくるならどんな大金でも払うだろうし、城之内本人を目的とした輩から狙われる危険性があまりにも高すぎるんだ。で、防犯の都合というか、他人が近寄れないように周りの土地を買った訳。かなり多くの土地は森や林なんだけどしっかりと管理されていて、警備もされている」
 実際警備体制は並ではない。
 許可なく立ち入ることができない場所は、美しい自然に囲まれいるのに見ることが叶わなくて密かに『哲学者の聖域』とも『迷宮の森』とも言われている。
 あそこに入れる人間は住人が認めた限られた者だけだ。
「だから、英国の屋敷にいる時は手出しができないというのだな?グールズは城之内が外に出るのを待っていた?」
「そういうこと。屋敷だって絶対じゃない。屋敷に進入しようとした奴いたし、少し外出するにしても追いかけられて浚われかけた」
「……よく、今まで無事だったな」
 海馬が珍しく、感嘆する。
「そりゃな、並々ならぬ努力がある訳よ。武藤博士はそりゃ過保護で、親友の忘れ形見だから、溺愛しまくり。ついでに俺もちょっと小耳挟んだんだけど、昔、城之内の母親に惚れてたんだってさ。城之内、母親のカトリーヌにそっくりだろ、そりゃ大切にするよなあ。まるで、娘みたいに可愛がってる」
「惚れた女と親友の忘れ形見?」
「そうそう。でも武藤博士もちゃんと結婚したんだ、今は離婚して一人だけどな。それでもって、武藤博士の息子が目下最大の核爆弾だな」
「息子?」
 海馬は首をひねった。今まで話に出てこなかったのが不思議だろうと思う。それは意図的なものであるのか、御伽は面白そうに揶揄するように目を細める。
「俺と同じ大学行ってる、専攻は違うけど同じ学年。城之内の兄貴みたいなもんだな、あいつは」
「それのどこが、核爆弾なんだ?兄弟仲が悪いとも思えんが」
 海馬は腑に落ちない。
 城之内は誰とも仲良くできる性格だ。そして、誰からも絶対的に好かれる。
「……真逆。血は繋がっていないけど本当の兄弟みたいに仲がいい。良すぎるくらいなんだよな。博士は過保護で溺愛してるけど、あいつはこの世の誰よりも城之内が大事だから。城之内を害するものにこれっぽっちも容赦がない。あらん限りの権力と財力を使って世にも恐ろしい報復をしてる。……俺はとばっちりで手伝わされる」
「……」
「仕方ないんだけどな、諦めているし。俺の親父と武藤博士が親しくて子供の頃から休暇の度に英国に連れられて来てた。おかげで、兄貴の方とも城之内とも自然に遊んでたから俺にとっても城之内は弟みたいなもんだしな」
 親愛の情を見せて微笑む御伽に嘘はない。
 可愛い弟なのだ、城之内は。
 昔から容姿も人一倍可愛くて、性格はこれまた素直で愛らしい。幼い頃から誰にでも好かれて、子供の独占欲でさえちょっとした取り合いになるほどだった。その度に救済に入って……。懐かしい思い出だ。
 そして、自分以上に。何よりも代え難く思っているあいつがいる。御伽はさて、どうしたものかと内心思う。
「大学が家からちょっと遠いから普段は大学の近所にアパート借りて一人暮らししてるんだけど、休暇の度に戻ってきて城之内を大切に大切に囲い込むように愛情を注いでる」
「……兄としてか?」
「ううーん、難しいとこだよなあ。兄としてなのかそうでないのかは、俺が判断する事じゃないし。わからないな」
 御伽は鼻の頭にしわを寄せる。
「それで、本当だったらあいつが同行するんだろうけど、どうしても研究のために身体が空かなかったんだ。城之内の日本にいる唯一ずっと連絡取っていた知人のじいさんが危ないって聞いて急遽帰国する事になったんだけど、一人で外出させるには問題ありまくりだったから俺にその役が回って来たんだ。どうにか死に目にはあえたんだけどな。翌日通夜にひっそりと出て。俺も途中まで同行してたけど、ショックが大きかったみたいで、一人にして欲しいって言われて。……その後戻ってこなかった。まさか、そこで記憶喪失になってるなんて思わないって」
 消えてしまった城之内を探していた。
 自分が一応なりとも守るつもりだったのに……。
 あの辺りを何度も見て回った。何か手がかりはないかと、今日も赴いた。そして運が味方したのか、出会えた。
「さっき連絡したから、明日日本に来るって。居ても立ってもいられなくて、元々研究をどうにか始末して明後日当たりに来るつもりだったんだけど、見つかったって連絡したら研究は任せてすぐに飛行機に乗るって言ってた。安心してたけど、半分悲壮感漂ってたな」
 明日あいつが日本へ来る。
 しかし、この状態をあいつはどう受け止めるのだろうか。
 自分を知らない城之内。
 自分の全てをかけている相手に忘れられた恐怖。
 それでもショックが大きいのに、城之内は海馬に心を開いている。
 海馬、と呼んで助けを求めた。
 御伽の記憶がないのだから初対面の人間だと思い警戒するのは当然だ。それでも、グールズに襲われた時、殺されそうになった時、城之内は誰でもなく海馬を呼んでいた。
 助けて、と叫んだ声は唯一縋るものは、思う浮かぶ者は一人だと聞こえた。安堵するように意識を失った城之内を海馬が大切な者を扱うように丁寧に抱き上げた時、来るべき時が来たと感じた。
 城之内にそういう意味で近付けた者はいない。あいつが大事に守ってきた、と言えば聞こえは良いが城之内に言い寄る人間を全て追い払って、誰も寄せ付けなかった。おかげで、城之内に恋人ができた事がなかった。
 幼い頃ならともかく英国に引き取られてから好きな相手がいたとは御伽も思えない。好きになるような相手との出会いもなかった。それでも学生であれば人と逢う機会があるはずなのだが、如何せん本人にそういう気がない。
 そして、先日起こった誘拐騒ぎのせいで……無事に取り押さえた、少しの間大学へ行っていなかった。
 しかし、時は変化を見せる。
 いつまでも変わらないなんて、いられる訳ないんだ。御伽はそう自分の友人に心中話しかけた。
「兄さま……!」
 ばたん、と大きな音を立てて扉が開いたと思うと、モクバが珍しくノックもしないで、慌てて部屋に入ってきた。
「ジョーノが倒れたって聞いたけど?襲われたんだって?」
 モクバはまくし立てる。
「モクバ、落ち着け」
 海馬が弟をいなす。
「ジョーノは?」
「モクバ、ジョーノは大丈夫だ。今、寝ているから」
 静かにしろと、視線をベッドに向けた。部屋の隅にある天蓋付きのベッドでは城之内が眠っていた。
「……本当?」
 モクバは口に手を当てて黙ると、ベッドの上の城之内を認め心配そうに兄を見上げた。
「ああ」
 海馬は安心させるように肩に手を置いて頷く。そして、御伽に視線をやって。
「弟のモクバだ」
 ちょうどいいと、紹介した。
「へえ、じゃあ君が副社長なんだ。はじめまして、御伽です」
 御伽は噂はかねがね、と笑いながら握手を求める。
「はじめまして、モクバです」
 モクバは愛想のいい男の手を握りながら、不思議そうに問う。
「御伽さんは……?」
「俺は、城之内の知り合い。それでもって、今は保護者代理」
 御伽はにこりと微笑んで答えた。
「城之内?それって」
「ジョーノのことだよ、もちろん。本名は城之内克也。日本国籍のああ見えて日本人。現在は英国在住の大学生。何か質問はあるかな?」
 からかいを含んだ口調で御伽はモクバに簡潔に説明する。
 見ただけで、とても城之内を心配している様がわかって御伽からして微笑ましい。
「城之内?日本人?大学生?」
 初めて聞いた事実に、モクバは驚く。
「城之内……」
 名前を口に乗せてみて、実感が少しずつ沸いてくる。
「それで、一体何があったの、兄さま」
 モクバは今日学校にいて、先ほど知らせを聞いたのだ。ジョーノが襲われて倒れたと聞き、すぐに帰宅する事にして車に乗り急いでここまで来た。
「これから話すから、座れ」
 海馬がモクバを促す。立ったままで話すことではないだろう。
「うん」
 モクバは海馬の隣に座った。すぐにメイドがモクバのためにお茶を入れる。
「何から話すかな……、海馬社長?」
「お前の部分は割愛していい」
「酷いなあ。まあ、いいけど。モクバ君、ちょっと長くなるけどいいかな?」
「はい」
 モクバは頷く。
 自分がいない間に事態が激変している事だけはモクバにもわかった。事実目の前には城之内の知人がいて、城之内の素性がわかっているのだから。
 モクバは一言も聞き漏らさないように、耳を傾けた。
 







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