「1オクターブの天使」10





 彼は誰だろう。
 見覚えがない。
 ない記憶を探っても、全くわからない。
 でも彼は自分を知っているようだった。
 心配したと、どこにいたんだと、連絡しろと言われた。
 つまり、記憶を失う前。彼と共にいたのだろう。
 「ジョウノウチ」と呼ばれた。
 それは、誰?
 今の自分はジョーノだ。ジョウノウチじゃない。
 海馬が彼と話しているのを後ろでぼんやりと見ているせいか、二人の会話が耳に入ってこない。
 俺、逃げてるのか?わからなくて、逃げているのか?
 過去から逃げていられないってわかってるのに。
 知ったら、何があるのだろう。
 記憶のある自分はどんな人間だろう。
 彼の口から聞けるだろう自分はどんな性格をしている?どこに住んで、何をしている?何を考えて暮らしていたんだろう。
 見つけた自分が、受け入れられない自分だったら、どうしたらいいだろう。
 不安がないっていったら、嘘だ。
 怖いと思う。
 でも、駄目だってわかっている。
 海馬が保証してくれたから、海馬の名前にかけてくれたから、だから信じられる自分を。
 信じないと、申し訳ない。
 
 



 ジョーノは話している二人から少し離れた場所で心を落ち着けていた。
 大丈夫、大丈夫だ。
 胸に手を当てて、小さく呼吸する。
「ジョーノ」
 足を踏み出そうとした矢先に、声をかけれた。
 ジョーノという名前で呼ばれた事に驚いて振り向くと、そこには見も知らぬ男が立っていた。
 長身のまだ若い男だ。黒いスーツを着た男の顔は整っている上どこか甘さがありさぞかし女性にもてるだろうと思われた。が、薄茶の髪に薄茶の瞳という柔らかな色彩をしているというのに、その目はぞっとするほど酷薄だった。
 男はにやりと口元で笑って、ジョーノに手を伸ばし細い腕を掴む。男の肩越しには何人もの強面の男が見えた。
 とてつもなく不穏な空気を持っている人間達。男達の瞳の奥がぎらぎらろ底光りしている。ジョーノの背筋にひやりとした冷たい汗が流れた。
 不味いことになりそうだと気づき抵抗しようとした時にはすでに遅く己の腕を取られていて、咄嗟のことに反応ができなくて男の胸に引き寄せられる。そして、逃がさないようにと力強く腕を回された。
「本物だな……」
 男はジョーノの顎を掴んで上向かせ顔をじっくりと覗き込む。
 何が?何が本物なんだ?
 ジョーノは男の感嘆したような声音に不審を覚える。
 この男も元々の自分を知っているのかと思ったけれど、違うのか?何がどうなっているのか?さっぱりとわからなかった。
「俺のジョーノ。俺の天使。俺だけのもの」
 耳元でうっとりと語る声が気持ち悪い。吐息のような生暖かい声が首筋にかかって鳥肌が立ちそうだ。
「離せっ」
 腕を振っても身じろいでも男の手は外れない。抱き込まれたままどこかにずるずると引っ張られている。どこからこんな力が出ているのか不思議なほど馬鹿力だった。
「嫌だ……!」
 益々力を込めて抱き込もうとする男に抵抗すると、男はハンカチのようなものを口に当てようとする。つんとした匂いが漂って来てそれがふさがる瞬間に叫んだ。
「海馬……!」
 ジョーノは力の限り大声で叫んだ。
 そのジョーノの声が届き瞬時に海馬が振り返り状況を察すると駆け寄った。すると囲んでいた屈強な男達が立ち塞がり海馬を殴ろうとする。
 海馬は眼光鋭く睨み付けると、目前にいる男を蹴り上げ投げ飛ばしジョーノを抱き込んでいる男まで距離を一気に縮め顔面目掛けて拳を出した。
 男がそれを避ける瞬間を狙って、足をかけて重心が不安定になったところを蹴り上げる。男の腕が緩んだ隙にジョーノを片手で掴んで自分の方に引き寄せる。
「海馬……」
「大丈夫か?ジョーノ」
「うん」
 胸に抱きつくジョーノの背中を海馬は安心させるように撫でる。
 蹴り上げ倒れた男は、不機嫌そうに起きあがり海馬を殺気を込めて睨み付けた。
「やれ」
 男は一度沈められた程度では大した影響がないようだ。周りにいる男達へ冷酷で獣めいた視線を向け命令する。その命令通り体躯の良い男達が殴りかかってくる。それを海馬はジョーノを背後の庇いながら避ける。相手の狙いはジョーノである。このまま背後に庇ったままでは安全とは言えないだろう。けりを付けるには少し時間が必用だ。
「城之内!」
 御伽も男を一人伸してやっと追い付いて来た。
 そして、海馬の背後に立ちジョーノを挟むようにして守る。殴り掛かってくる男達を避けつつ、反対に蹴りを入れる。人数が多いせいで、次から次へと襲いかかってくる。
「城之内、あっちで非難してろ」
 御伽は公園の端を指差す。ジョーノは自分が足手まといであることを認識していたから、頷いて走り掛けた。そこで、すかさず海馬が叫ぶ。
「車まで行け!」
 ジョーノは小さく頷いて車が待つ公園の出口の先へ全速力で走り出した。
 海馬と御伽はその後ろ姿を見送って、本格的に屈強な男達を片付けることにした。
「……あー、グールズが出てくるのは、厄介だろ」
 御伽は緊迫した状況でありながら、口調はのんびりと呟いた。
「何者だ?」
「あー、『ジョーノ』の熱狂的なファンっていうか、俗に言うストーカー?何て言っても『ジョーノ』には世界的なファンがいるから。グールズが狙ってるって噂本当だったんだな」
「……ゴミが」
 海馬は吐き捨てた。
 海馬でさえ、グールズという組織の悪名高い噂は知っていた。
「はは。日本に来てるのばれてたんだな。随分タイミングがいいから、俺が見張られていたか……。参ったな」
 御伽は頭をがしがしと乱雑にかきながら、向かってきた男の拳を避けて腹に一発入れる。腹を押さえて呻いたところを膝でお見舞い。男は地面に転がった。
 海馬はその横で、ジョーノを追おうとした男の首を掴み、瞬時に一本背負いの要領で投げ飛ばした。地面に転げ落ちた男を全体重をかけて押さえると、急所目掛けて足を振り下ろす。
 彼らが戦っている相手、グールズとは国際的犯罪組織だ。本拠地はアメリカにあると言われているが本当のところは定かではない。
 基本的に金になる事なら何でもする。
 薬、誘拐、密輸、兵器売買、人身売買、殺人恐喝、暗殺と世の中の悪事の全てを請け負う。依頼を受けて仕事をする事もあれば、グールズが中心になって大きく稼ぐ事もある。
 仕事の大きさに応じて彼らに危険が付きまとうのは当然であり、それを承知で仕事を受ける。だから報酬の金額もそれ相当になる。しかし、彼らの仕事がなくなることはないのだから、いかに彼らを必用としている人間が多いことか。そして、莫大な報酬を即金で払える能力があるか、とも言えるだろう。
 金持ちほど、彼らを必用とする。
 彼らの優良な取引先は、大概資産家や大金持ちだ。裕福な者ほど邪魔である人間がいれば抹殺したくなるし、欲したモノを何が何でも手に入れたがる。
 さすがに世界中にファンを持つ「M&W」の天使『ジョーノ』である。彼らのターゲットになり得るのだ。こうして誘拐するために人員が派遣されてくるのを見ると、グールズがいかに依頼があれば誰か構わず拉致するかわかるというものだ。
 海馬がジョーノの事を知らないなりに、あれだけの人気と容姿なら狙われる事くらいあるだろうと立てた予測は正しいと言える。
「普段全く手が出せないからって、日本で襲ってくるってのも考えたものだよな。っていうことはずっと機会を見計らっていたって事か。……また、叩きつぶすのかな、あいつ……」
 ため息を落とし、御伽はぼやく。
 初めてではないのだ、こういうジョーノ絡みの騒動は。
 だから自分が今回も付き添いで来たのだから。
 ストーカーが出現する度、誘拐騒ぎが起こる度事件をもみ消し犯人を潰してきた過去がある。御伽はそれに付き合わされていた。不本意ながら手を貸していた。
 彼の保護者は一切の容赦ない。妥協もない。気持ちはわかるけど……そうだとしても、迂闊に頷けないのだ。
 御伽はまた起こってしまった事態に頭を抱えていた。
 頭ではそんな事を考えていても、手も足も動く。襲ってきた相手には当然やり返す。
 蹴り飛ばした男が起きあがる前に踏みつける。
 苦しい息を吐き出して歪めた顔を晒す男を容赦なく撃沈させる。
 手加減は無用だった。こういう相手にそんなものをする気もなかったが、できる相手ではなかった。かなりの手練れ達なのだ。
 海馬も御伽も暴れた。彼らは国際的組織を相手にして負けない程強かった。
 

 


 ジョーノは走った。懸命に走った。
 やっと公園の入り口まで来て、視線の先に黒塗りの車が見えた。運転手は見知った佐伯だからジョーノは急速に安堵する。
 海馬が車に行けと言ったのは、あの場から遠ざけるためだけではなく乗用車が海馬使用になっていたからだ。海馬は仕事柄敵が多く何が起こるかわからない。そのため、防弾のガラスと車体に加え、あらゆる機能が車には搭載されていた。
 そして佐伯はそういうきな臭い経験がある。海馬の運転手は何が起こっても対処できなくては務まらない。銃撃戦に巻き込まれようが、胡散臭い連中に追いかけられ車を当てられようが、運転手は海馬を乗せて生き延びている。だから海馬はジョーノを車に乗せる事が一番の安全だと理解していた。
「さえきさっ……」
 ジョーノが見つけた車に走り寄ろうとすると、後ろから腕を取られて同時に片手で口元を覆われる。声を塞がれ誰何しようと頭だけで後ろを振り向くと、銀色のナイフが首筋に翳された。ジョーノは驚愕で眼を見開く。
 ジョーノより幾分か高い背で髪がぼさぼさしていて、目が血走っている。異様な容貌と口を塞いでいる手の不釣り合いな白さと刺したような傷跡に畏怖を感じる。
 異質な雰囲気を纏った男はそのままジョーノを引き吊り人目のない公園脇の低木林の茂みに連れ込み地面に押し倒した。腰と頭を打ち付けた衝撃でジョーノは呻く。男はそんな状態に躊躇なくジョーノの上に馬乗りになってナイフを見せつけながら、ジョーノの両手を片手で掴み頭上に縫い止めた。
 ジョーノは息を詰まらせた。目も閉じることができずそのナイフを見つめる。
 男はジョーノにのしかかりながら、ナイフを下ろした。首筋の横に刺さって土を貫いたナイフはジョーノの視線の間近で銀色に光っていた。ジョーノは男をにらみ上げる。
「何するっ」
「……」
 ジョーノが叫んでも男はにやりと笑い狂気の目で見るだけだ。まるで獲物を追いつめたような肉食獣のような目は、底知れないくらい暗くて深い。
 男はナイフに力をゆっくりと込めてジョーノの白い首筋に当て、軽く引いた。
「……っ」
 首筋に熱い痛みが走る。しかしジョーノは声を立てなかった。
 ナイフを当てた場所から赤い雫が流れながら一筋の線を作る。男は面白そうにそれを見て、ナイフを地面から抜きジョーノの血が付いた刃を舌で舐めた。
 血をナイフから舐める愉快そうな顔は血に酔った獣のようだ。
 狂っている。
 ジョーノを見下ろす男は絶対的な有利な立場を確信していて、獲物をいたぶる事が楽しくて仕方ないと愉悦の色を目に浮かべた。
 ナイフの銀色が鈍く光る。
 そこには赤い血が滴っている。地面に吸い取られる赤い血。
 男がにやりと暗い目で笑う。あざ笑うかのような狂気を帯びた目。
 ……!
 ジョーノは覚えていない情景が頭の中でフラッシュバックする。
 目の前の男が銀色のナイフを振り上げて、人を殺そうとする瞬間を。
 赤く染まったナイフ。流れる赤い血。男は何度かすでに動かなくなった体を刺して、ぎら付いた眼で振り向いて自分を見た。
「見たな……」
 ぞっとする声と瞳。恐怖が沸き上がった。
 襲いかかる男から自分は逃げた。逃げて、逃げて。もつれる足に一度つまずき。
 追い付いた男が近くの樹木へ自分を叩き付けた。自分は闇雲にその手が触れたモノを……木の枝だろうか、掴んで男の手を刺して、逃げた。
 
 思い出した。
 こいつが、こいつが。
 
 ジョーノは一瞬にして浮かんだ情景に気を取られてしまった。我に返り目を見開いてほんの僅かの距離にある狂気の男を見上げた。
「殺してやる……」
 男はにたりと笑いそう告げた。
 そして、ジョーノの首に両手を回して首を絞める。ぎゅっと力を込められて、圧迫感が襲う。
 息が、苦しい……。
「もうすぐ、楽になる」
 男はその瞬間を待ちわびているようだ。事切れる瞬間が彼にとって極上の味わいなのだろうか。
 ジョーノは闇雲に暴れた。足と手をばたつかせて暴れる。動くと余計に体力をなくすとわかっていたが、首を振って抵抗する。
 そして、男の手が緩んだ隙に。
「……海馬!海馬、海馬……!」
 叫ぶ。
 ただ一人を。
 助けて。
 助けてくれるだろう人物の顔は一人しか思い浮かばなかった。あの不機嫌そうでいて、実は優しい蒼い瞳が瞼に浮かぶ。
 たった一人しか呼べなかった。
 記憶がない自分にはそれ以外呼びようがないけれど。でも。
 きっと自分は彼以外呼べない。
 海馬……。
 首を絞めている男の手を外させようとその上から掴みながら、段々と力が抜けて来る。意識が薄れる……。
「ジョーノッ」
 海馬の声がした。
 苦痛に潤んだ視界にぼんやりと見間違うことなどない蒼い瞳が映る。空の蒼さを切り取ったようなブルー。ジョーノの好きな色だ。
 先ほどまで圧迫していた重みはすでになく急に身体が自由になって、息ができるようになる。
 大量の酸素が一気に肺に入り込み、ジョーノはせき込んだ。
 苦しくて、苦しくて。
 それでも息をしている。乱れた心臓が波打つ。
 安堵感が鈍い身体全体に襲った。
「ジョーノ」
 海馬に優しく抱きしめられた身体から力が抜け落ちた。
「かい、ば……」
 意識が途切れた。
 






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