その日は珍しく、ジョーノは海馬と共に外出した。 海馬邸に来てからのジョーノは一歩も外に出ることがなかった。広大な海馬邸にいれば、外に行く必用なんてどこにもなかった。 広い庭はジョーノが昼寝したり散歩したりするのに打ってつけだったし、食事もお茶も一流シェフの手によるものだ。洋服や身の周りのものだって、滞在することが決まった翌日にはなぜか揃えられていて、ゲーム、パソコンでネットだって何だって可能だった。 必然性がないせいで、ジョーノは街へ赴くことがなかったが……海馬も今まではそれを安易に良しとしなかった……今日は海馬に連れられて気張らしがてらに繁華街へ降り立った。そこまでの交通手段は当然佐伯が運転する黒塗りの高級車で、近くのパーキングで停めて待機している。 街では、もの珍しげに見て回るジョーノを海馬が背後から見守る姿が見られた。 街中を歩くだけとはいえ、一応目的地があってそこへ向かっていた。海馬がジョーノを連れてきたのは12階建ての前衛的な建築物として一際目立つファッションビルの6階、紳士服売場だ。このファッションビルは先頃オープンしたばかりで、今一番の話題のスポットだった。女性客を確保するため、有名ブランドや新進気鋭の若手ブランドが2階から5階まで軒を連ね、若手でも手が出るだろうリースナブルなものから高級志向御用達、プレタポルテまで揃えられ世の女性を虜にしている。見るだけで楽しいということで、連日女性が詰めかけていたため玄関を入った1階のフロアは女性客でいっぱいだった。化粧品や香水の匂いがひしめいていて気分を害しながら海馬はさっさとジョーノを連れエレベーターに乗り6階で下りる。 その活気溢れる女性や街の光景を海馬に連れられたジョーノは絶えず面白そうに見ていた。 紳士服売場は、どのデパートでも同様でそれほど混んでいない。 が、あらゆる一級品のモノが揃うというビルのコンセプト通り、紳士服も世界のブランドや国内の有名店が揃っていて、スーツからカジュアルまで何でも選びたい放題だった。 海馬はフロアを迷うことなく歩き、ある店の前で立ち止まる。 「これはどうだ?」 すでに冬物がディスプレイされていて、暖かそうなダウンジャケットやロングコート、セーター等が目に入る。素材はアンゴラ、カシミア、ウールやファーやコーディロイ等。色あいは白、黒、グレー、茶色の定番に加え暖色系が豊富だ。綺麗な差し色に最適なオレンジ色やレモン色がある。 海馬が徐に指差したのは、薄手のコートだった。 綺麗なクリーム色で汚れたら一変で台無し、という代物は見た目には確かに柔らかそうで気持ちよさそうだ。 「……これ?」 「そうだ」 ジョーノは小首を傾げて思案げに眺める。 「……海馬のイメージと少し違うけど、着てみれば?」 「馬鹿者。俺ではない。お前だ、ジョーノ」 「俺?」 「着てみろ」 海馬はピントのずれた事を言うジョーノは無視して店員を目で呼びつけるとジョーノの背中を押してディスプレイのコートを指差す。 「これを」 「……海馬っ」 「行って来い」 店員に腕を取られ顔だけで振り返るジョーノに海馬は鷹揚に頷いて突き放した。 「コートにあわせて、スーツも見繕ってくれ」 海馬は店員に付け加えた。店員は上客ににこやかに微笑むと畏まりましたと小さく頷いた。 やがて試着室へ追い立てられたジョーノがしぶしぶ着替えて出てきて海馬の前に立った。 「海馬」 海馬の前で真っ直ぐに見返すことが照れくさくて、ジョーノは視線を彷徨わせる。 「……ふむ」 海馬は居心地悪そうなジョーノを上から下まで見て取って満足そうに口元を和らげた。 「いいだろう」 クリーム色のコートは薄手のハーフでAラインに裾が広がっているためジョーノの手足の長いしなやかな肢体によく似合った。インナーにあわせたスーツは濃いチャコールグレーで光線の加減で細いストライプが見える。細身のため身体のラインが流麗に出て腰の細さが強調されている。 仕立てたようにジョーノに似合う様を見て、自分の目に狂いはないと自画自賛する。 「これをもらおう。このまま着ていく」 「海馬?」 ジョーノが海馬を目を見開いて見上げた。しかし、海馬も店員も無視だ。 「畏まりました。それでは、着ていらっしゃった洋服を袋にお入れしておきます」 「ああ、それでいい。……これで」 海馬はポケットからカードを出した。もちろん、ゴールドカードだ。 「失礼します」 店員は満面の笑みを浮かべしばらくお待ち下さいと下がった。その際他の店員に賺さずお客様の洋服のタグをお取りするように、伝える。 店員ははさみをもって現れ、失礼しますと言いながらジョーノの着ているコートやスーツから値札等を外した。 「海馬っ……」 「何だ?」 「何だじゃなくて、さ」 「気に入らんか?」 「そんな事ない。そうじゃなくて。……何で?」 困ったように瞳を揺らめかせるジョーノに海馬はにやりと目を細め口角を上げた。 「不満じゃないなら、構わんだろう?もらっておけ」 「もらうって、これいくらすると思うんだよ?」 「さあ、もう忘れたな。……第一屋敷にあるものは全てそれなりの物だぞ。……金など使わんと意味のないものだと思わんか?」 ジョーノは詰まる。 海馬邸にあるものが高級なものであるとはわかっていた。ジョーノのために揃えられた洋服等も仕立てのいい物ばかりで、ブランド名や相場はわからなかったが値段は忍ばれた。 それに、お金の価値にしても。 貯めるという意味としては、資産であるが。そこにあるだけでは、只の紙幣であり、コインである。それを使い物を買うからお金としての価値があるのだ。 人間が作った貨幣は自然界では意味がなく使用しなければ何にもならない。 「……そうだけど。……ああ、もう、わかった。もらっとく」 ジョーノは苦笑して、了承した。 そして、一歩海馬に近寄ると胸に片手を当て伸び上がるように顔を寄せ、触れるか触れないかの間を開けて小さく囁く。 「thank you」 「ああ……」 海馬はその衝撃を一瞬だけで踏みとどまり、表面は冷静に頷いた。 やはり、ジョーノには人に感謝を示す時にこの癖があるようだ。そして、時と場所も選ばない。多分ジョーノにとっては感謝の挨拶として普通の事なのだろうが、やはり日本では目立つようだった。 見目麗しい二人が寄り添うようにしている姿は注目を浴びていた。 海馬は支払いのためにサインをして即刻ビルを後にした。 その後はまた車でジョーノが倒れていた高級住宅街へ移動した。 今日の一番の目的は、現場に戻ることだった。 このままではいけないという決意をしたジョーノと相談して、倒れた場所をもう一度見て、近辺を歩いてみようということになった。 「ここだ」 「……そっか」 二人並んで佇む場所は、高台にへ向かう高級住宅街の一角だ。閑静な佇まいは通行人が少ない。大きめの家が多く塀が高いため、どんな人間が住んでいるのか一見わからない。つまり、ジョーノを見かけた人間は少ないだろうということだ。 緑地計画のためか緑が多く、少し歩くと公園がある。また、児童公園なら反対方向にあるのが見えた。 「見覚えはあるか?」 「わかんねえなあ」 ジョーノは前髪をかき上げながら、視線を上げて広がる住宅街を見た。 全く覚えていない、街並。 ここがどこであるのか、わからなかった。 この場所は自分の知った場所だったのか?よく見た景色だったのか? それならば、思い出せないだけで懐かしい気持ちになったりしないのだろうか。記憶喪失の知識は薄いが、何らかの手がかりになるものはないのだろうか。 どれだけ周りを見ても、全く何も感じなかった。 そう、あの真紅眼黒竜のカードを見た時のような確信はない。 自分が確かに知っているだろうという強い思いや意志は伝わってこなかった。 「少し、歩いてみるか?」 「ああ、そうだな。歩いてみるか」 晴天とはいかないが、時折雲が太陽を隠すのみで晩秋にしては天気も良く割合に暖かい日だった。二人が並んでゆっくりと歩くと、影が重なる。でこぼこした影は、長く伸びているのが海馬でそれより随分小さいのがジョーノだった。影は少しの差でも大きくなるせいだろうか。実際の身長差よりも差が大きく見える。 なんだか、大人と子供みたいで癪に触るな、とジョーノは思う。 社会的立場からすれば、年齢に関係なく確実にジョーノより海馬の方が大人でるのだが、この際ジョーノはそれを無視した。 本当に年齢なんて知らないけれど、多分、海馬よりは年下だろう。そして、モクバよりは年上。海馬の落ち着きはとても21歳には見えないから、自分が太刀打ちできるとは思えないけれど、モクバも年下のくせに落ち着きまくりである。 敵わないな、と思う度少しだけ悔しい。 悔しいと思う事自体、自分の意志であるはずなのに。それはどんな精神構造から来るものだろうかと疑問に思う。 本来の自分は、何をしていたのだろうか。 出来過ぎた兄弟程何かを成功させていたとは思えないから、何の変哲もないどこにでいる人間だったのだろう。学生だろうか?それとも社会人? 想像すると変な気分だった。 「お前は、喪服を着ていた。だから、あの日葬式や法事がなかったか調べた。しかし、何もめぼしいものはなかった。喪服一つとっても意味合いは多い。葬式なら葬儀場を調べればいいが、法事となると個人的レベルだから調べるのは難しい。それに葬式より多いだろうな。そうでなくても、初七日、四十九日なら、もっとわかり難い。喪服だが誰かの墓参りだったら、それは他人には全くわからない。……今のところ、何も見つかっていない」 海馬は事実をありのままに、まるで会議で意見を述べているように語った。 「そっか、調べてくれたんだな」 「当然だろう」 「うん」 それでも、何もわからない厄介者である自分に親身になってくれるのだから、海馬は優しいとジョーノは思う。 歩いても、歩いても何も思い出せない。 少しくらい覚えているか、記憶に引っかかるものがあるかと僅かな期待をしていただけに、落ち込みたくなる。 「俺、どこから来たんだろう……」 ぽつりと、疑問が口から出る。 憔悴感というのか、焦燥感というか。 「俺って、何?」 自分が自分でわからない、不審。自分が一番信用ならない。隣にいる海馬の方がよっぽど信頼に値する。 「ジョーノ。お前はお前以外の何者でもない。そうは言ってもお前には慰めに聞こえるか?……それなら、俺が保証してやろう。お前を、俺、海馬瀬人が責任をもって保証する。信じられないか?」 ジョーノは首を振る。 「俺は、お前の信用に値しないか?」 「そんなことある訳ないだろ。お前が言えば信じられる。でも、お前自信家だけどな。嘘を付かない自信家だ」 ジョーノは嬉しそうにはにかんで笑った。 「俺は自信だけではない。実力を備えた実現者だ」 「そうだな」 異論はない、とジョーノは破顔した。 「座ってろ」 「うん」 海馬はジョーノを公園のベンチへ座らせた。 歩いてみても全く手がかりは得られなかったため、近所の公園で少し休憩を取ることにした。公園には時間帯のせいか、人がほとんどいない。 遊具や砂場があるスペースと木々が植えられ散歩や憩いが目的のスペースとに別れていて、住宅街の真ん中にしてはそれなりに広い。 「珈琲でいいか?それとも紅茶か?」 「え?じゃあ、珈琲」 わかったと頷いて、海馬は公園内にある自動販売機へ向かった。 それをジョーノはぼんやりと見つめる。 少し離れた視界の先に海馬の後ろ姿がある。 見上げるほどの長身に均等の取れた痩身は背広を着ている上からでもわかり、容姿は蒼い目が印象的な端正な造りで完璧なる美丈夫だった。 そんな事は知っていたというか毎日見ていたから理解しているつもりであったが、外で見たせいか、今頃気になった。気になったというかその事実に今頃驚いた。 俺って、実は頭悪い?元々記憶力が悪い?とジョーノはふと不安に思った。 「城之内……!」 突然、せっぱ詰まった声で走り寄る男がいた。 ジョーノに向かって来て、目の前に立ち肩を捕まえられた。 「城之内!」 「……誰?」 ジョーノは強く肩を掴まれ揺すられても、全くわからなかった。 「お前、滅茶苦茶心配したんだぞ?どこにいたんだ?何で連絡しないんだよ?」 「……」 「城之内?」 困惑しているような、何を言っているかわからないという色を覗かせた瞳。男は自分の言った言葉に反応が薄い事に疑問を覚えて首をひねった。 「……城之内?どうしたんだ?」 男は端正な顔立ちで、長く伸ばした黒髪を無造作に一つで縛っている。スーツ姿と落ち着きから自分より若干は年上、海馬と同じくらいであろうことは想像できた。 でも、わからないのだ。 誰だか、わからない。覚えていない。 「海馬、海馬、海馬!」 ジョーノは沸き起こる恐怖に男の手を払いのけて立ち上がると逃げるように海馬の方へ走った。 「ジョーノ?」 海馬は走り込んできたジョーノを胸に抱き留めて、何が起きたかわかっていない困ったような途方に暮れた表情をして自分達を見ている若い男を不機嫌そうに鋭く睨む。 「待ってろ」 ジョーノを安心させるように頭を優しく撫でて海馬は男へ振り向き近寄った。 「お前は、何者だ」 「……それは、こっちの台詞なんだけど」 「こいつを知っているのか?」 海馬は視線でジョーノを示した。 「知ってるも何も……そういうあんたは?」 「……」 どこまで信用できる男か見極めるように、海馬は冷たく見下ろした。男はそんな海馬の態度に肩をすくめる。 「……俺は、御伽。御伽龍児あんたは?」 「海馬だ」 疲れたように手を広げて名乗る男に海馬は端的に自分も名乗る。しかも名字だけだ。 「なあ、何であいつは俺から逃げる訳?どうなってるの?」 海馬に頼っている姿を見てしまった御伽としては、怯えている理由が知りたい。 「……奴は、お前を覚えていない」 見た限り人の良さそうな顔からは、害を感じない。 どうやら御伽という男はジョーノの知り合いらしいと納得して、海馬は口を開く。 「……は?」 「記憶喪失だ」 御伽は衝撃を受けた。緑色の眼をこれ以上ないくらいに見開き、口を間抜けにぽかんと開けて唖然とした。 それは、どこの魔法の言葉でしょうか、と言いたい気分だった。 |