走る。走る。 追いかけられている。誰か。 逃げる。逃げる。 銀色に光る。 狂気の目。 急いで。急いで。 赤い。赤い。それは……。 「海馬」 弾んだ声は疑うことなくジョーノのものだ。この屋敷で海馬と呼び捨てる人間は一人しかいない。そして、気軽にコンコンとノックして躊躇することなく入ってくるのも、彼だけだ。使用人はもっと静かに入室し主に失礼がないように気を配る。弟のモクバはジョーノよりもっと躾がなっている。 にこりと笑顔で書斎へ入ってきたジョーノは手ぶらではなかった。キャスターが付いた銀色のトレーを押している。 「何だ?」 「そろそろ休憩にしようぜ」 「……」 海馬は机に広げたパソコンのキーボードに置いた手はそのまま画面から視線だけを外してジョーノを見る。 「お前、全然休憩してないじゃん。ある一定で休憩を取った方が効率がいいんだぜ?」 「知れた事を」 「あー、なんでモクバはできるのに、兄貴ができないんだ?不思議だな」 ジョーノはにやりと笑った。 「忙しいんだ。手を離している時間などない」 「たかだか15分の休憩が取れない仕事の仕方なんて、するな。そんなに根を詰めてると血管が切れるぞ。血だってどろどろになるんだぞ、ストレスとか栄養偏ったりとかすると。詰まって脳卒中や脳梗塞、クモ膜下出血とかになって倒れて身体が麻痺するぞ。怖いんだぞ、若いからって侮ったら駄目だ!」 ジョーノは海馬の忙しい発言など無視して力説する。 「……テレビでやってたのか?」 その興奮した言い様に海馬はかなりの確率で推測した。きっとテレビの特番で健康についてやっていたに違いない。 「やってた!怖いぞ、成人病はっ。血はさらさらじゃないとな!」 そうなんだよ、とジョーノは頷いた。 近年動脈硬化や脳血栓についてクローズアップされている。健康や美容に対しての情報番組が何本も放送されているせいで、偶々ジョーノが目にしたのだろう。 「海馬もそれくらいは知ってるだろ?わかるだろ?な、休憩にしよう」 海馬の理解が得られたと思ったらしいジョーノは嬉々としてお茶の準備をし始めた。すでに彼の中では決定事項らしい。海馬は小さくため息を付いて、掛けていた眼鏡を外した。 「今日のお茶はハロッズのアフタヌーンティ。それで、お茶請けは海馬でも食べられるようにスコーンなんだ。焼きたてだから、一緒にクロッテッドクリームとラズベリーのジャムをたっぷり付けると絶品だぜ。甘さが控えめだから、絶対海馬も食べられるって」 ジョーノは白磁のポットからティカップに琥珀色の液体を注いだ。そして、白い皿に乗ったスコーンにナイフを置いて横にクリームとジャムの入った小さなココットを添えた。 テーブルにそれらを並べて準備すると海馬に振り向き呼ぶ。 「海馬。できた」 嬉しそうに言われると海馬も今更断れない。仕方なくソファに座ってカップを掴んで一口飲む。それを向かいに座りジョーノはじっと見守っていた。 「どう?……美味しい?」 「まあ、普通だな」 上目遣いで、結果を待っていたジョーノは海馬の評価に安堵した。海馬が普通だというのなら、不味くはないのだろう。決して世辞は言わないから。 「良かった。それ、俺がいれたんだぜ?」 「お前が?」 「ああ」 「なぜだ?」 「へ?だって、いれたかったから。海馬に休憩して欲しかったし、俺が海馬に何かしたかったから。俺、何もできないからな」 照れくさそうに、ジョーノは金の髪をくしゃりとかき混ぜた。 「そうか」 「うん」 ジョーノは自分のカップから紅茶を飲んでスコーンを掴むと半分に割る。焼きたてで暖かいスコーンはさっくりとしていてクリームとジャムの相性は抜群だ。 「美味しい。海馬も食べないと冷めるぜ?」 顔を綻ばせて、舌包みを打つジョーノは幸せそうだ。これだけの事で手軽に幸せになれるジョーノが微笑ましい。 海馬は自分のスコーンを手に取り同じように半分に割り、ジョーノお勧めのクリームとジャムを塗り口に運ぶ。 さくりとした触感と甘くない濃厚なクリームと酸味が効いたジャムが絡み合って確かに絶妙な味わいがある。 「やっぱり、スコーンにはクロッテッドだよな。それで、ジャムはラズベリー。ストロベリーとかブルーベリーとかマーマレードとかあるけど、一番はラズベリー、これに限る!それでもって、お茶は1杯目がストレートで2杯目がミルク!」 キュウリのサンドウィッチとかもいいけど、俺はスコーンが一番好きだ。ついでに、ケーキはチョコレートだと主張する。 並々ならぬ意気込みというか、拘りを見て、海馬は思った。 英国は確かアフタヌーンやハイティの国だったなと。紅茶とスコーンやサンドウィッチやクッキーやケーキで何時間もお茶の時間を過ごすのだった。 ジョーノのこれは、それのせいだろうか。 やはり、英国育ちなのか?英国在住なのか? 海馬は思わぬところで、頭を悩ませた。 「美味しくない?海馬」 ジョーノが海馬の顔を覗き込む。反応の薄い海馬に不安そうだ。 「それなりだ。甘くないしな」 「だよな。シェフの塩崎さんって、天才〜」 クリームとジャムをたっぷりと塗ったスコーンをぱくぱくと美味しそうに頬張り租借して飲み込んで味わうと、至極満足そうにシェフの腕を誉める。 「……ジョーノ、付いてる」 海馬は口の端に付いたクリームを長い腕を伸ばし人差し指で拭った。ジョーノは目を瞬いて海馬の行動に驚くが、小さく笑いながらありがとうとお礼を言った。しかし、海馬は眉をしかめて、その指を頬に伸ばしてジョーノの顔を上げさせる。 「顔色が悪い。……目の下にクマがあるようだが?」 「え?そうか?」 ジョーノは慌てたように頬に手を当てた。 「どうした」 海馬は追求の手を緩めない。 「眠れていないのか?」 「そんなことない。昼寝するくらいだぜ、俺」 「昼寝ではまとまった睡眠は取れぬわ。……何かあったのか?」 「……何もないって。本当に。昨日だって早く寝た。……本当だって。俺眠れないなんてないもん」 言い募るジョーノを海馬は疑わしそうに睨んだ。 「本当だって。俺、嘘なんて付いてない」 ジョーノは顎を引いて首を振る。別にジョーノを追いつめたい訳ではないので海馬はその場は納得した振りをした。しかし、しっかりと釘は刺す。 「……何かあれば、すぐに言え」 「うん」 ジョーノは視線を落として頷いた。 誰かが、後ろにいる。 自分の後方にいる、誰か。 暗くて顔は見えないけれど、追いかけて来る。 急がないと、駄目だ。 早く、早く。掴まる前に、逃げなけらばならない。 どうしてだろう?なぜ、追いかけて来る? 闇の中で銀色に光る鋭利なモノ。 目の奥が、ちかちかする。 危険だ。危険だ。 前へ向かって走れ。後ろなど振り向かないで。振り向いては駄目だ。 でも、気になって見た先には。 赤。 視界が赤く染まる。 嫌だ……。助けて……。 自分の悲鳴で飛び起きた。 汗を全身にかいている。嫌な汗だ。 夢を見た。確かに、見た。 昨日も見た、夢。 はっきりとは思い出せない、けれど思い出したくないくらい不気味で気持ちの悪い夢。 何かに追いかけられている自分は、一体全体何に怯えているのだろうか。 動悸が激しく、心臓がどきどきと今だ波打っている。 怖かった。 ぎゅっと胸の上を上着ごと握って落ち着かせようとするが、まだ手が振るえている。手繰るようにシーツを抱き寄せてみても、安心できない。 ジョーノはベッドからそっと下りると窓辺に寄ってカーテンを開けた。見上げる闇夜には星が瞬いている。やや下方に三日月が浮かんでいて、銀色の光が月明かりとなって自分を照らし、その影が床に落ちていた。 月に手を翳した。 掌から、こぼれるような月光がある。 薄ぼんやりとした、月の欠片はこの地上まで届いて消えるのだ。 ジョーノは肩に引っかけていたシーツをそのままに、きびすを返して部屋から出た。 音を立てないように廊下を歩いて1階へ下りテラスの両開きの扉を開いて外へ出て、裸足のままふらりと歩き出した。 何かあれば言え、と海馬に言われていたけれど、とても起こす気にはならなかった。 外気に触れてさすがに冷たいと思う。晩秋の夜中は大層冷え込むようで、吐く息が白く濁る。 それでも、寒くても、凍えそうでも、身体で空気を大地を感じたくて一心に歩いた。 やがて、噴水まで到着した。 闇の中大理石が白く浮かび上がる姿は幻想的だ。そこから水が沸き上がって雫を撒き散らしているため、きらきらと青白く輝いている。 その波紋を織りながらゆらめく水面に月が映っている。 銀色の輝きは、自然のあるがままの美しさで。あの嫌に鈍く銀色に光る人工物とは明らかに違って安心する。 これは、失った記憶と関係があるのだろうか。そうでなくて、なぜこんなものを見るのか。 今まで、記憶がなくてもそれほど怖くなかった。焦らなかった。 どうしてだと聞かれたら、保護された先が良かったとしか言い様がない。 海馬とモクバ兄弟。屋敷の人たち……執事にメイド、庭師にシェフに運転手。皆いい人ばかりだ。 素っ気ないのに、実は優しく最後には決して突き放さない海馬。睨まれても怖くない。鋭く睨んでも、目つきが悪いだけだとわかるから、平気だ。 一緒にいると、溜まらなく安堵する。 不思議なことに、彼の手は安心するのだ。どうしてだろうか。 あんなに絶えず不機嫌そうにしているのに、口も悪いのに、そう感じる。 あの蒼い瞳のせいだろうか。どこか懐かしいような眼で自分を見る。 自分より年下なのに、弟みたいに可愛いのに、年齢よりずっと頼り甲斐も社会性もあるモクバは、兄より性格が良く一緒にいると楽しい。 その二人が側にいてくれたから、案じてくれたから、だから自分はこんなにも安心していられたのだ。記憶がなくても、毎日楽しくて、笑っていられたのだ。 いくら自分が楽天的でも、過去が一切ないのに悩まないなんておかしいだろう。 自分はとても恵まれていたのだ。改めて、そう感じた。 でも、いつまでもこのままでいていい訳がない。 記憶は取り戻さなければならない。何があっても、逃げてはいられないのだ。 二人に迷惑ばかりかけていては、いけない。 ジョーノは纏っているシーツの端を握った。 ふと、暖かいもので包まれた。 背後から抱きしめられたのだ。振り向かなくても、誰かわかった。 海馬だ……。 全く気配がなかったけれど、安堵する暖かい腕に捕らわれてすぐに身体より心が理解した。逃げる必用のない相手。安心していい相手だ。 「海馬?」 ジョーノは後ろを振り向いて名前を呼んだ。 「……海馬ではないわ。こんな夜中にどうした?」 「ごめんな、起こしたのか?」 自分がいる客間は海馬の私室の隣であるからひょっとして物音がしたのだろうか、とジョーノは思った。 「謝るくらいなら、心配させるな」 「うん……」 はっきりと自分でもわからなくてジョーノは困惑する。心配させたい訳じゃないのだ。 きっと失った記憶と関係している、この奇行。 夜中にふらふらと歩き回るのは明らかにおかしい。楽しんで月見をするならいい。けれど今の自分は不安からくる衝動をどうにかしたかったのだ。癒される自然の中にいたくなったのだ。 何か、何かがある。 あの夢に。 「ジョーノ。どうした?何があった?」 「わかんない」 「……」 「自分でもわかんねえ」 それは事実だ。 「話せ。わかるだけでいいから、話せ」 「……夢を見たんだ。でも起きると忘れていて途切れ途切れにしか覚えていないから、正確には何を見たのかわからない。多分、としか言えないけど。何かに追いかけられているみたいだ。俺は逃げている。逃げて、逃げて……」 一度細く吐息を付く。海馬が回している腕に自分の手を添えて勇気をもって話しを続ける。 「ちかちかする。銀色のちかちか光るモノがある。怖い。怖いんだ。……そして、視界が赤く染まる。赤というか、オレンジっぽい色もある。はっきりとはわからない。走って走ってその先にあるものが何なのか……」 ひどく漠然としているのに、掴みにくい幻みたいなモノなのに、恐怖を感じる夢。 ジョーノは一度強く瞼を閉じる。そして、唇を噛みしめながら目を開ける。 「俺、このままじゃ、いけない。忘れていたら、駄目だ。逃げていたら駄目だ」 ぎゅっと腕を握って呟くように決意を秘めた声でジョーノは海馬に己の気持ちを伝える。 「こんな風に、怯えているのは柄じゃない。すっげー癪に触る。……いつまでも、こんなままでいたくない。いたくないんだ……!」 「ジョーノ。わかった。わかったから、大丈夫だ」 海馬はジョーノの腰に回している腕により力を込めた。 「見つければいい。ジョーノがその気なら見つければいいんだ。しっかりと見据えれば、嫌でも見えてくるものがあるだろう。己から逃げないのなら、大丈夫だ」 「うん」 「……俺がいる」 海馬はそっと囁いて、冷えたジョーノを暖めるように両腕でシーツごと抱きしめた。 |