「1オクターブの天使」7





「ジョーノ、昼ご飯一緒に食べような」
 朝食の席で向かいに座ったモクバが暖かな湯気を立てる紅茶を美味しそうに飲んでいるジョーノに、にこりと笑いかけた。
「ああ。仕事はいいのか?」
 ティカップ片手に、目線を上げてジョーノはモクバを見上げる。
「いいぜ。人間なんだから休憩は必用だろ?効率的に仕事をするなら、目を休めたり休養を取る事を心がけないと駄目なんだぜ」
「そうだよな。……でも海馬はあんまり取らないよな」
「兄さまは、なあ。……夢中になると時間忘れるから」
 モクバは苦笑する。
 兄の集中力は賞賛に値するが、如何せんし過ぎは何事も良くない。休憩どころか睡眠も取らずに正に不眠不休で働くのだから、いつか脳細胞の血管が切れるのではないかと心配になるし、人間の三大欲求より仕事や研究が好きなのではないかと思える節まである。
「でも、最近はそうでもないんだぜ。ジョーノと一緒にご飯も食べるし、休憩も取ってるだろ?」
 素晴らしい変化である。
 それは屋敷に務める使用人達も驚くくらいの劇的変化だ。それまでの海馬は人間として生きるため仕方なく食事をし睡眠を取っているのだろうと思われた。もし、食事も休憩も必要なく生きていけるのなら、全くそれに心を砕かないだろう事は必至だ。
「あれで?」
「ああ、うん。前に比べたら雲泥の差だぜ」
「ふうん」
 自分の威力をまるでわかっていないジョーノは首を傾げる。全然腑に落ちないと顔に現れている。ジョーノにしてみたら、あれくらいの休憩が雲泥の差って何だというところだろう。
 しかしモクバは内心で、あれでも本当に滅茶苦茶すごい事なんだよ、奇跡的なんだよ呟いた。この意見に賛同してくる使用人は屋敷全員であろうとモクバは確信があった。
 
 その日は兄がいなかった。
 多忙を極める大企業の社長であるから本当なら会社に詰めているのが普通のクリスマス商戦まっただ中な時期。それを無理して最近は屋敷内の書斎兼執務室で仕事をしていたのだ。現代はパソコンという有能で多機能を備えた機器がある。コンパクトであるのに会社のホストコンピュータと繋がり、莫大な情報量を納め、光の早さで通信ができる機器の存在のおかげで、どこでも作業と指示が可能だ。携帯電話を片手にすれば、例えどこにいても24時間連絡が付く。その現代の機器の賜物で割合屋敷において在宅勤務ができていたのだが、本日はどうしても出社を余儀なくされた。
 会議と打ち合わせと取引先の商談。
 海馬なくしてはできない重要な仕事だった。
 結果、丸1日広い屋敷に海馬はいない。
 必然的にジョーノが一人になるはずだったが、今日はモクバがいた。高校生の彼には平日は当然授業がある。
 勉学が仕事のはずの高校生。が、彼は普通の高校生ではなかったので、仕事は勉学ではなく海馬コーポレーションの副社長業務だ。必用なら海外へ出張にも行くし、会議なら学校も休む。それでもできうるだけは学生として授業へは出席していた。
 ジョーノが一人になると知った時点でモクバは学校は自主休校を決め、屋敷にいることにし兄にその旨を告げた。モクバも屋敷内の自室の書斎で仕事はできる。近々やっておこうと思っていた事を片付けながら、ジョーノと食事やお茶をすればいいと思った。
 モクバの自主休校を海馬は咎めなかった。
 高校生の弟は海馬の庇護下にあるが、副社長としての立場からすればどのように仕事をしようと文句などあるはずがない。第一もう、いい大人だ。海馬が今のモクバの年齢の時にはすでに前社長を蹴落として社長へ納まっていた。一般的には子供の年齢でも海馬からすれば本人の判断で何事もできる上責任を取れる年齢である。海馬が口出しできる事ではない。
 そんな兄弟間の信頼は極一般的ではなかったが、問題は一切なかった。
「じゃあ、仕事がんばれよ」
「サンキュー」
 食事を終えて自室へ足を向けるモクバにひらひらとジョーノは手を振って見送った。
 
 



 モクバが仕事の区切りを付けたのはお昼を30分ほど回った頃だった。
 社長が出社しているように、副社長も決して暇ではない。目を通して決裁を待つ書類も山積みだが、作らなければならない書類も山積みだった。
 部下が作った書類を見て指示をすればいいだけなどという楽なやり方をモクバはしていなかった。これは兄である海馬が最初からそういうやり方をしていたのを見て覚えた事に由来するのかもしれないが、モクバも人任せにはしなかった。
 任せるべき事は任せるが……能率的に仕事をするということは部下を信じ上手く使うことだ……自身でやらねばならない事もある。
 開発に携わる事が好きというより開発畑の兄は、会社経営も巧みだったが技術開発では何者を寄せ付けない程の能力を有していたから当然それを求められた。求められなくても、元々好きな事である仕事を嬉々として取り組む兄を見ているとその分のフォローは自分がやろうとモクバは思った。
 自身もあれほど取り組みたい仕事が見つかるといいと思う。
 今はこれといって特別なものは見つかっていない。ポケットゲーム系の開発と販売促進や海馬ランドであるアミューズメントパーク経営を学んでいる。ゲームはハードの問題よりも売れるソフトがあるかないかに勝負が掛かっているため、ソフトの開発に力が入る。アミューズメントは、やらなけれならない事が多大だ。中のアトラクションの安全管理や人を呼び込むため新しいアトラクションは常に作らねばならないからその建設。飲食関係でいえば、レストランやファーストフード、屋台で売られるちょっとしたお菓子にまで及びどこの業者から仕入れるかコストはいくらかまで考える。人事問題ももっと難しい。多くの人を雇うということはそれだけ様々な問題に直面するということである。反面、雇用には貢献しているから社会的立場は有利だ。
 学ぶことはありすぎて、まだまだ追い付かない。
 
 尊敬する兄とのいつまでも埋まらない5歳の年齢の差は大きい。
 自分は果たして5年後に、兄のようになれているのだろうか。
 自分の年で社長に就任してからの兄の目覚ましい企業経営の手腕は未成年の子供とは思えないものだった。並みいる腹黒い狸や狐や甘い汁を吸うことにしか能力を生かせないハイエナを相手に一歩も引かない悠然たる態度と見惚れる程の見事な取引方法。
 それ以前から認められていた一研究者としての技術開発能力も誰も追随を許さない。大学の研究チームから引き抜きが耐えなかった。
 成人を迎えた兄は、益々もってモクバの目標として輝いている。
 とても21歳とは思えない揺るぎない落ち着きと斬れるような凄みはトップに立つ人間特有のものだ。
 走り続けている兄の背中を見て、モクバは見失わないようにいつも努力を怠らない。
 兄の弟である事に誇りを持っている。
 さすが海馬瀬人の弟だと言われる事はモクバの自慢であり自負だ。いつも兄の影で不満はないのかと問われた事があった。そんなものあるはずがないのだ。一個の人間として己を客観的に見ることができれば、自ずと答えは出ているのだ。
 あの兄の弟であるからこそ、今がある。
 兄なくして、現在のモクバは存在していない。
 上に立たなければ、意味がないような小さな価値観なんて必要ない。そんな人間は所詮潰されて消えていくだろう。
 モクバは上に立つ人間には条件があると思う。
 それを有している人間は実は少なく、会社がこの世に存在する数と対していない。条件を満たしていない人間が経営をするから内側から腐って崩壊し倒産の憂き目にあうのだ。スクラップ&ビルドとはいえ、会社の本質は利益追求であり存続することであるから、トップの人間の能力がいかに優れているかによるところが大きい。
 その点、海馬コーポレーションは恵まれた企業だ。
 兄という経営者がいるのだから。
 優れた経営者がいれば、どんなに不況でも業績は伸びる。
 投資をしなければならない点と経費を削減しなければならない点が見えている。リストラをすると冷酷だと言われるが、無駄を省かなければ企業は成り立たない。カリスマを有する人間の強固な意志の元、目標を掲げ達成するための事業計画を立て実際に展開する。
 言うなら簡単、理論も明確。しかし、それを成し遂げるか否か。
 それが一番困難な課題だ。
 企業の跡継ぎは血族に拘るものであってはならない。兄はその有能さを買われて養子になった。そこには血の繋がりは存在しない。剛三郎は人間として最低の部類だったが、会社が何たるかは知っていた。血を残す事など意味がないことを知っていた。
 モクバも同意見だ。
 カリスマを有した優秀な経営者は国庫の財産だと大げさでなく思う。
 
 だから、モクバは兄の力になりたかった。
 
 



「ジョーノ?」
 どこにいるのか。
 昼食にしようと誘うため部屋を訪れたけれど、最初からいるとは思っていなかったがやはりジョーノは客間にいなかった。先ほどまでいただろうという痕跡さえもない。
 きっと、朝食の席で別れてから、部屋に戻らずそのまま庭へ出たのだろう。
 ジョーノは庭が自然が好きだから……。
 モクバはその足で広い庭へ出るとジョーノを探すことにした。
「ジョーノ?」
 名前を呼んでみても返事もない。
 木々や花々を見て回れるように曲線を描きながら長く細く続く小道を歩いて行く。しかし、見える位置にいるとも限らない。
 噴水や四阿など居心地の良い場所、つまり見つかりやすい場所にいてくれればいいのだが、そう簡単にいかないのが世の常だ。モクバはひたすら歩いて回って木の陰やジョーノがいそうな場所を探す。
「ジョーノーーー」
 果たして、モクバは見つけた。
 とても天気がいいからだろうか、ジョーノは木の下の草が茂った上に身体を丸めて眠っていた。昼寝というには早いけれど、暖まった空気とのんびりした雰囲気が眠気を誘ったのか。
 モクバはそっと近寄ってしゃがみジョーノを覗き込んだ。
 気持ちよさそうに目を閉じていて健やかな寝息が聞こえる。少し長めの金色の髪は草の上に撒き散らし、薄手のブランケットを身体に巻き付けるようにして端を指先が掴んでいる。髪からの覗く項も指先も裸足の足も目を引くほど白い。
 これでは、天使が無防備に下界で昼寝しているみたいだ。
 モクバは苦笑しながら金色の髪を己の指で摘んでくるくると弄ぶ。さらさらの髪はモクバの手の中で太陽の光に輝いている。
「ジョーノ」
 再び呼ぶと、うっすらと目を開けた。
 琥珀の瞳がモクバを真っ直ぐに見つめて、瞬きして微笑んだ。
「モクバ。仕事終わったのか?」
「ああ、終わった。待たせてごめんな」
「いいって。仕事じゃ仕方ない。それよりモクバの方が俺に付き合わせてるだろ」
 そっちの方が悪いとジョーノは目を細めながら穏やかに微笑して腰を上げた。モクバも一緒に立ち上がり隣に並んで些か下方にあるジョーノの顔を横目に見る。
 ジョーノはモクバより背が低い。成長期を迎えているモクバはすでに180を越していた。兄には及ばないが十分に長身の部類にモクバは入る。
「行こうか」
 ジョーノが瞳を和らげモクバを見上げる。モクバも頷いた。
 ジョーノはモクバが嫌々付き合っていないことをちゃんとわかっていてくれる。だから、時間をあわせることが大変ではないかと心配をしても、止めろとは言わない。そして、自身がそれによって嬉しいと伝えてくれる。
 ジョーノはきっと人の気持ちに聡い。
 モクバはそう確信している。
「俺はジョーノとご飯を食べるのが好きだよ」
「俺も」
 笑顔を見ているとこちらまで幸せになる。
 そして、それは己だけでない。この屋敷に務める使用人の誰もが彼を見ていると楽しくて幸せになるのだ。兄とて決して例外ではない。
 否、兄こそが一番惹かれているのだろうとモクバは推し量る。
 兄の気持ちは微妙だ。
 ジョーノは、多分、確実に、「M&W」の制作者の近親者だ。天使『ジョーノ』のモデルであり、彼だけの「Little angel」を有するほどの特別な人物だ。
 つまり、日本版専売契約権を有するKCにとって彼は全権を持つ英国企業との間に波風を立てるに十分な存在である。保護しているのだから何ら臆する部分はないが、記憶を失っている点から、疑おうとすればそれだけでも疑えるだろう。
 立場上、無闇な事はできない。
 しかし、恋愛は自由だ。心を止める事などできない。
 が、もし心の想うままに振る舞ってしまったらどうなるのか。
 モクバが端から見る分にはジョーノは兄に好意はある思うのだが。こればかりは何とも言えない。ジョーノは誰にでも優しいから。それが実を結ぶのかと聞かれれば、神のみぞ知るというしかない。
 そして気持ちを打ち明けたとしても、もし、記憶が戻って忘れてしまったら。自分とのことをなしにされてしまったら、己なら立ち直れないだろうと想像する。
 モクバ医師である伊藤に聞いた。
 よく、ドラマでは記憶が戻るとその間の事を忘れるけれど、どうなのかと。
 すると、伊藤は「はっきりとした事はわからないとしか言えません。忘れる可能性も確かにあるます。けれど忘れない可能性もあるのですよ。記憶を失うということは、脳の記憶されているデータを白紙にしているのではなく、上手く引き出せないだけなのです。記録として残っているのに、取り出せない、再生できないだけです。これを「追想の障害」といいます。その状態で新たに作られた記憶が記憶機能が正常に動き出したからといって、上書きができない、なくなってしまうと考えるには無理があります。記憶を思い出すといっても一度に全て思い出せる人もいれば、徐々に少しずつ何年もかかって思い出す人もいます。当然、その間にあったことを忘れるはずありません。……個人差ですし、こうなるだろうという予測は全く立ちません」と答えた。
 つまり、わからないのだ。
 忘れてしまうか、覚えているか。
 そして、覚えていたとしても。
 記憶の戻ったジョーノは何者であるのか。もしかしたら、すでに恋人がいるかもしれない。いても全くおかしくない。彼は誰彼も惹き付けるのだから。
 恋人がいても諦めないで奪えばいい、そんな考えもあるけれど、簡単な話でもない。
 兄が何もできずに、躊躇する気持ちがわかる。
 モクバは知っていた、兄が面影をずっと追いかけていたことを。
 天使に恋した兄。その兄の恋路を応援したい弟の純粋な気持ちと自分も憧れていた天使に密かに抱く淡い想い。
 天使の『ジョーノ』を見てから、小さな頃天使に逢った時から、モクバだってずっとずっと憧れていたのだ。
「ジョーノ」
 モクバは徐にジョーノに抱きつき、ぎゅっと抱きしめた。細くてしなやかな身体が手の中にある。胸に抱きしめたジョーノからは甘い香りがした。
「どうした?モクバ?」
 モクバの行動にジョーノは不思議そうに小首を傾げる。が、全く警戒も何もなく無邪気に無防備に問いかける。
 もう少し危機感を持つとか、警戒するとか、人を疑うことを覚えないと、駄目だよ……。
 モクバは自分の事は棚に上げて、胸中複雑に呟く。そして、少しだけ力を入れて存在を確かめるように記憶するように抱きしめる。
「ごめん、しばらく、こうしていていい?」
「いいけど?」
 モクバの願いをジョーノはあっさりと受け入れた。そして、よしよしと自分より高い位置にある頭を撫でる。真っ直ぐな黒髪は癖がなくて指通りが良い。
「すっごく、安心する……」
 ジョーノは傍にいるだけで人の気持ちを暖かくする。一緒にいると優しい気持ちになる。癒されるのだ。心も、身体も。
「疲れてるんだな、モクバ」
 ジョーノはそうモクバの行動を理解して、慈愛の笑みを浮かべる。
 綺麗な笑顔はモクバが焦がれるものだ。
 ごめん、兄さま。今だけ……。
 モクバはそう心の中で兄に謝りながら、目の前にある金の髪と琥珀の瞳を記憶に焼き付けて肩口に顔を埋めた。
 
 





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