「1オクターブの天使」6





「まず、記憶機能はについてお話しましょうか。記憶機能は「記銘」「保持」「追想(あるいは想起)」の3段階から成り立つとされています。「記銘」機能により覚え込み、「保持」機能で維持し、「追想」機能によって思い出すわけです。コンピュータに例えれば、データの入力作業が「記銘」、ハードディスクなどにデータを保存しておくのが「保持」、データを検索して取り出すのが「追想」というわけです。実際に確認できるのは「追想」だけですが、理念上はこのように考えられています。これにあわせて、記憶の障害は、大きく分けると記銘の障害と、追想の障害とに分けられます」

「記銘力障害は、新しく物事を覚え込む能力の障害です。正常者でも、疲れてボーっとしている時などには記銘力が落ちます。歳を取って、昔のことは良く覚えているけど、最近のことはなかなか覚えられないと言うのは、加齢に伴う生理的な記銘力低下です。病的には、意識障害や痴呆の際に典型的に認められ、その他の精神障害でも、注意・集中力や意欲の失われているときに、記銘力の低下が生じます」

「追想の障害には、「記憶増進(病的に亢進している)」、「記憶減退(病的に低下している)」、「記憶錯誤(事実とは違って変形された誤記憶、事実ではない偽記憶)」があります。「記憶増進」は、てんかんの一種や催眠状態の時などに見られます。「記憶錯誤」は、精神分裂病やその他の精神障害の際に見られることがあります。一般的に良く認められるのは、「記憶減退」です。正常者でも、覚えているはずのことがなかなか思い出せない「ど忘れ」という形で良く経験します。病的に、ある程度まとまった期間のことが思い出せないことを、「健忘」と言います。ある期間のことを全く思い出せないのを「全健忘」、部分的にしか思い出せないのを「部分健忘」と言います。「健忘」は意識障害に伴ってしばしば生じます。意識障害の回復後に、意識障害の生じた時点以前の記憶が失われているのを、「逆行健忘」と言います。意識障害の回復後のある一定の期間の記憶がないものを、「前向健忘」と言います。意識障害の回復期に健忘がなく、しばらくしてから健忘の時期が出現するものを「後発健忘」と言います」

 医師である伊藤はつらつらと滑らかに専門用語を述べる。
 いつもは人を食ったような笑顔と端正だが派手っぽい人相で、白衣を着ているため医者にどうにか見えるような風貌の彼だが今日は誰が見ても医者らしかった。銀縁の眼鏡が窓から差し込む光に反射して、よく表情が見えない。
「それで?」
 海馬はそんな伊藤の説明を椅子にどっかりと座り肘を付いて先を促した。
 ここは海馬の書斎である。お話がありますとやってきた伊藤は座りもせず窓際まで歩いて行って広がる空と緑を眺めながら、徐に切り出したのだ。

「次は、「解離性健忘」についてお聞き下さい。これは、強いストレスやトラウマなどによるつらすぎる体験を忘れることや逃げ出すことによってやり過ごそうとするものです。名前や住所などの重要な個人情報を思い出すことができず、それがあまりにも広範囲に及ぶために通常の物忘れでは説明できないことを特徴とします。「解離性障害」では健忘はすべて機能性(心因性)で脳に障害があるために起こるのではありません。解離性障害での健忘は個人情報を思い出すことができない、記憶の想起障害です。ぼけなどの器質性健忘は一般知識や日常生活動作についての知識が失われていくという点で違います。軽度の健忘としては、夢の健忘、子供時代の健忘、ど忘れ、薬物や宗教的瞑想によるトリップ状態などがあります」

「記憶障害のタイプは4つあり、1つは、「局在性健忘」。ある限られた期間に生じた出来事を想起することができません。その期間多くは、とても混乱させる出来事の直後の数時間です。例えば、自動車事故で家族全員を失い、自分だけが無傷で生き残った場合、その人は事故発生から二日間に起きたことを何も思い出せないなどです。2つ目は、「選択的健忘」ある限られた期間内のいくつかの出来事は思い出すことはできるが、すべてを思い出すことができない状態。簡単に言えばひどく酔った次の日のような状態です。退役軍人が一連の激しい戦闘体験のうちいくつかの部分しか思い出せないなどがこれにあたります。3つ目は「全般性健忘」全人生をまったく思い出せません。とても珍しいです。4つ目は「系統的健忘」ある範疇の情報に対する記憶の喪失です。例えば、家族や特定の人物に関するすべての記憶を失うなどです」

「原因は今まで何度も出てきたようにストレスやトラウマから起こります。思い出したくもないような嫌な出来事を思い出さないために起こります。解離性ヒステリーの範疇に入っていましたので転換性障害などと同じく、疾病利得がえられるからです。症状は心の底で疾病利得を期待しているためにあらわれているため、それらのプラス面がなくなるまで症状は続きます。解離性健忘になりやすい人は高い催眠感受性を示すともいわれています。経過と治療ですが……。幼い子供から成人までどの年齢にでも起こる可能性があります。解離性健忘を体験した人はその後の外傷的な環境に対して健忘を生じやすくなります。また、健忘に関連した外傷的環境からはなれると、急性健忘が自然に解消することがあります。自然に思い出すことは一般にあまりありません。「忘れていたいから忘れている」ため、忘れていることにある種の意味があるからです。治療では、催眠療法や薬物で抑圧を弱めて自由に話せるような状態にして、抑圧された記憶を回復させます」

「何が言いたい?」
 それまで黙って聞いていた海馬が鋭い目で伊藤を見据えた。
「つまり、記憶障害、健忘、その上『全生活健忘』にはそれ相当の理由があるだろということです。記憶機能の「追想の障害」に分類される訳ですが、脳は全く正常であるのに記憶されたデータを引き出すことができない。引き出せない理由がこの場合の最大の問題点になります。私が状況をお聞きした事と診た限りでは、海馬社長の車にぶつかった事が原因ではないですね。それ以前に頭をぶつけている。そして運転手である佐伯さんからの証言では何か急いでいて車に飛び込んだようだったと。つまりは、この日、数時間前でしょうか、何かが彼にあった事になります」
「そんな事は、俺でも見ればわかる」
「まあ、そうでしょう」
 伊藤は大仰に肩をすくめて頷く。
「原因として考えられる事はストレスが一番可能性が高いのです。忘れたい何かがあったと考えるのが妥当です。彼は喪服を着ていた。親しい人を亡くしたという考えは否定できない。喪服一つでははっきりと断言できませんけれどね」
「そうだろうな。喪服と言っても年単位の法事かもしれない。葬式に出席した場合でも親しい度合いはわからない。付き合い程度なのか親しい友人なのか親類なのか。親しくても葬式ではなく、初七日、四十九日とすでに日が過ぎている場合もある。……可能性は否定はせんがな」
 海馬はあの日倒れていたジョーノを思い出す。喪服姿の金髪青年が倒れていたら普通インパクトがあり過ぎるだろう。運転手の佐伯が驚愕し困惑していた。
「どこで頭をなぜぶつけたのか。また、とても慌てていた事。何かから逃げてきたのかもしれませんね。トラブルでしょうか」
「あの日、あの近辺で何も起こってはいない。ニュースの限りはな。そして葬儀だが、この街であの日葬儀があったのは6つだ。少し多いが前日が友引だとかで日を伸ばした家があったせいらしい。法事ともなると、もっと多い。第一この街の葬儀や法事とは限らんからな」
 すでにあの日の事は調査済みである。すぐに海馬は報告を受けたのだが依然として確証なるものは掴めなかった。
「ふむ。彼はカード以外何も持っていなかった。普通財布くらいは持っていると思うのですが?」
 海馬の意見を是非お聞きしたいと伊藤は質問する。
「あれは、日本人ではないだろう。日本に住んでいるようにも見えんし、住んでいない。パスポートを持っていない点としては、どこか泊まっている家かホテルに置いてあると考えるべきだろう。そして、法事か葬儀に出席していたとして同行者がいた場合、自分で持っていなかっただけ……。それとも、頭をぶつけた、つまり誰かに殴られたとしてそいつに取られたか。単なる物取りの犯行か個人を狙った犯行か否か……」
「彼はとても人から恨みを買うような人間には見えませんけれど?」
「……見えなくても、本人に意図がなくても人は人を害するものだ。俺は買いすぎだがな」
 にやりと口元を釣り上げるが海馬の目は笑っていなかった。
 敵が多い海馬の台詞は説得力がある。伊藤は見えないくらい小さい微笑みを浮かべて告げた。
「……記憶をなくして不安ではないか怖くはないか聞いたのですが、彼は笑って言いましたよ。なぜか平気だって。ここにいると、貴方や弟君といるから大丈夫だと思うそうです」
 伊藤は毎日ジョーノの診察をしている。
 特別な事はしていない。変わった事がないか、体調はどうか聞いているだけだ。そして、記憶喪失とは、心の問題なだけに問診しか今のところできないのだが、不安に思うことがないか、怖いと思う事はないか、気になることはないか等確認するのだ。
「精神が真っ直ぐで、心根の優しい青年ですね。誰からも愛される、人を愛することができる人間だ。……これは余談なのですが、彼は家族に愛されて育っただろうと想像するのは吝かではないのですが、どちらかというとファザコンに近いものがあるのではないでしょうか」
「ファザコン?」
 少しだけ意外な言葉に海馬は片眉を上げた。
「壮年の、彼の父親くらいの年代の男性に対する態度というか表情がね、違うんですよ。誰に対しても話しかけ愛想がいいし朗らかですが……特に、憧憬の念を抱いているというか、懐くというと聞こえは悪いですが甘えが出やすい。私も含めてね……」
 私も彼の父親くらいですから、と伊藤は楽しそうに笑った。
 執事の奥村、医師の伊藤、運転手の佐伯、庭師の小林、調理長の塩崎。海馬は屋敷に務める人間を思い浮かべて顔をしかめた。
 腑に落ちるのだ。
 屋敷に務める使用人達、誰に対しても分け隔て立てなく接するが伊藤の言うとおり甘えが出るのは父親くらいの年代に見える。
「あれが、ファザコンか。不思議なものだな」
「そうですね、家族仲が良くて父親を尊敬しているとか憧れているとか。または、正反対。いない場合。顕著な場合はどちらかです」
「……」
 なにげない中に伊藤は重要な台詞を入れた。
「見えないように見えて、実は見えるものがあるものです。……まあ、私は精神科が専門ではありませんから、あまり信用しないで下さいね」
「……よく言う」
 海馬に言いたいだけ語ったくせに、そんな殊勝な事を言う伊藤の人を食ったような性格にうんざりする。有能だから海馬邸の主治医に納まっているが、こういう知ったかぶりをする時だけは、決して実行しないが首にしてやろうかと思う瞬間がある。
 伊藤は話を終えてすでに扉まで向かっていたが、顔だけ室内に向け口を開く。
「……付け加えておきます。彼の記憶喪失の理由を特定する事ははかなり難しく、自然に戻るのを待つ以外は催眠状態で聞いたり不安を覗くという方法くらいしかありません。これは本人の希望がないとできませんけれどね」
「……わかった」
「では、失礼します」
 伊藤が閉めた書斎の扉の音が室内に響く。
 海馬は静かに顎を引いて椅子に深く座り直した。





 Is the moon or a star visible to a distant sky?
 The thing in the end of darkness is the empty of a morning glow.
 Don't give up, although it becomes that it is likely to be drunk by despair.
 Since it is surely.
 That for which you wait Light of hope.
 It will be what that this it is previously. Are they war or peace?

 
 どこからか、細い声が聞こえる。
 人間の声なのだろうか。耳に心地のいい、まるで鳥の鳴き声のような、この世の物とは思えない歌声。
 細く長く伸びやかに。
 弛むような、穏やかで。
 
 ジョーノがいない。また庭だろうと見当を付けて探しているが見つからなかった。いつも大概いる噴水にも四阿にもいない。
 海馬は小道を歩きながら、一体どこにいるのだろうと首を傾げる。天気がいいから昼寝しているかもしれないなと嘆息しながら、木々の間を見渡す。
 ジョーノを探すために最近庭に足を運んでいるが、これまではそんな時間を持たなかった。管理はさせているが別段庭に興味もなかった。おかげで、知らなかった事がたくさんある。
 今咲いている花、紅葉している木々。
 自然の恵みは、色鮮やかだ。吹き付けていく風も季節を感じる。自分の髪をなぶっていく風を感じて海馬は久しく忘れていた感情が溢れていることに気付く。
 

 Only for itself, choosing is.
 Believe and find your power.
 A true door opens.
 What will appear.
 
 
 歌声を辿った先は……。
「ジョーノ?」
 木の上にジョーノがいる。大きな樹木の中位の枝に腰掛けて目を閉じ気持ち良さそうにしている。枝はかなり高い位置にありどうやって登ったのか不思議だ。
 海馬は想像外の事に、目一杯驚いた。よりにもよって木の上にいるとは何事だと思う。
「海馬?」
 ジョーノは海馬の声を聞き止めて、下方にある海馬の顔を見下ろした。
「何をしている?」
「え、昼寝っていうか、なんていうか」
 だって、ちょうど木陰になっていいんだぜとジョーノは付け足した。そんなジョーノに海馬は思わず怒鳴る。
「危ないだろうが!」
「大丈夫だって」
 手をひららひらと振ってジョーノは背中を預けていた幹から起きあがった。そして、そこからふわりと飛び降りようとする。海馬は刹那手を出した。
 体重を感じさせないような、跳躍。口を酸っぱくして言ったおかげで暖かいが薄手のショールのような布を巻き付けているせいで、その布が視界に広がる。
 まるで、天使を捕まえようとしているようだ。とても一人の人間とは思えない軽い身体をそれほど衝撃もなく腕に抱き留めた。
「えっ………海馬?」
 ジョーノはびっくりして目を丸くする。
 そして自分がもたれている逞しい胸に手を当てて顔を上げ、頭上にある海馬の顔を見上げた。間近にある憮然とした蒼い瞳を認め、琥珀の瞳を数度瞬いて状況がわかっているとは思えない程暢気に笑う。
「ジョーノ。危ない真似は止めろ」
 海馬は苦虫を潰したように顔をしかめて、ぴしゃりと叱る。
「だって、大丈夫だったろ?」
「たまたまな」
「これでも、運動神経はいいと思うし、これくらい軽いもんだろ?」
「どこが軽いのか是非教えて欲しいものだな。今回は怪我もなかったからいいようなものの、また頭をぶつけては本末転倒だろう。………執事やメイドやモクバが見たら卒倒するぞ」
「俺、そんなに信用ない?」
「信用の問題ではない。常識の問題だ。わかったら、二度と止めろ」
「うーん」
 ジョーノは渋る。木の上に未練があるらしい。
「是非、絶対、お願いだから、やめてくれ。………俺の心臓を止める気か?」
「お前の心臓がそんな弱か?」
 ジョーノは海馬のらしくない言いように驚く。
「俺はこれでも普通の人間だ」
「見えないー」
 くすりと笑って茶目っ気たっぷりに目を細めた。
「……良い度胸だな」
 低い声で脅すような声音の海馬にジョーノはにっこりと見惚れるほど綺麗に笑った。そして、海馬の首に腕を回して抱きつくと頬に軽く唇を落とした。
「thank you」
 一瞬で離れて、綺麗な発音が耳に届く。
 海馬の時が一瞬見事なまでに止まった。まだ腕の中にジョーノはいる。
「海馬?」
 別段特別なことをしたという自覚のないジョーノは海馬の反応に首を傾げる。
 その日本人にはない外国人の挨拶の気安さに、海馬は心から誰彼もにしてくれるな、と思う。ジョーノの場合気軽にしていたら勘違いする輩が出るだろう、今まで問題じゃなかったのか、誰も注意しなかったのかと心配になった。
 おかげで、抱きしめている細い身体をしばらく離せなかった。
 






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