「1オクターブの天使」5





「ただいま」
 おかえりなさいませ、という執事の出迎えに元気な声で返してモクバはジョーノの居場所を聞いた。
「テラスにいらっしゃいますよ。先ほど午後のお茶にしていた所でございますから。後でモクバ様のお茶もお持ちします」
「ああ!」
 モクバはそう答えながら、すでに足はテラスへ向かい翔けていきたいのに躾の賜物かできないため、大股で歩いていった。今までなら鞄を部屋に置くくらいのゆとりがあったのだが、ジョーノが来てからは一変していた。そのモクバの年候らしい後ろ姿を穏やかな目で見送りながら執事はキッチンへ足を向けた。
「ジョーノ!」
「お帰り、モクバ」
 にこりと綺麗に微笑まれてモクバは嬉しくなる。変わらず笑顔を向けてくれる嬉しさ。まだ、海馬邸にいてくれる。記憶喪失などという不確かなもののため、モクバはいつジョーノがいなくなるのかと不安に思っていた。いきなりいなくなったりしない、と思うけれど何があるかわからない。なにせ、相手はジョーノなのだ。
 だから、屋敷に帰って来るといてくれるとわかっていても一番に顔を見て確認したくなる。
 内心でほうと、安堵しているとどこか複雑そうに声をかけられた。
「モクバ、お帰り」
「ただいま、兄さま」
 同じ場所、テラスの向かいで二人は座っていたというのに、すっかりと存在を無視された形になった海馬が、弟の態度にそれほど腹も立てず平常心で迎えた。
 モクバははっとして、兄に笑顔を向けた。
 しかし、どこかばつが悪そうに片手で真っ直ぐで癖のない黒髪を指でかいている。
 海馬は弟の気持ちが手に取るようにわかって、苦笑して小さく頷いてい見せた。海馬より遙かに素直すぎるモクバは顔に表情が現れやすい。喜怒哀楽が豊かに現れるのはジョーノも同様だが、モクバは仕事の時はしっかりと改めてポーカーフェイスを作ることができるから、問題にはならない。
 海馬がモクバの些細な態度に咎める気もなく頷いて見せたので、モクバは機嫌良く椅子に腰を下ろした。
「あ、今日はベリーのタルトなんだ。ジョーノ好きだもんな」
 白い皿に乗ったタルトは半分ほど減っていた。しかし、すでにお代わりした後である。
「うん、美味しいよなあ。モクバは嫌いか?これそんなに甘くないから海馬でも食べられるくらいだぜ」
 顔を綻ばせるジョーノは正に至福の時という感じだ。
「兄さま、食べたの?」
「……ああ、少しな」
 確かに海馬の前のケーキ皿には残りわずかの固まりがあるのみだった。
 モクバはそれを見て決して口には出さないけれど、何を言っても兄さまは優しいなあと心中呟いた。
 海馬は甘いものが好きではない。どちらかというと嫌いだ。食べれないという事はなくても喜んで口にしたくない。それなのに、いくら甘さ控えめだとはいえお茶に付き合ってあまつさえケーキを食べるなど、誰が想像するだろう。
 ジョーノは物を食べる時誰かと一緒に食べたがる。
 一人で食べるのは嫌いだとはっきりと言う。
 一人でいると、食べる気がしないのだという。
 モクバは随分小さな頃から一人で食べることが多かったから、慣れているがそれでも兄と共に食卓を囲むときは嬉しくて食も進んだ。だからジョーノの気持ちもよく理解できた。
 でも、それでも。
 ジョーノが一人で食べるのが嫌だから。
 そのために。そのためだけに、兄が共にケーキを食べたり食事をしたりするのだから。十分に特別扱いで、甘い。その自覚が兄にあるのかないのかモクバは迷うところだが、全くないのではないだろう。自分で自分の行動に不機嫌な時があるから。
 モクバはそんな兄を見ているだけで楽しかった。
「俺も、好きだぜ。一切れもらう」
 兄のらしくない行動は見て見ぬ振りをして、モクバはジョーノに笑った。
 きっと、ジョーノは兄の変化など知らないだろうと思う。ジョーノにとってはこの兄が普通の兄なのだ。何を言っても面倒を見て、世話を焼いて、お茶に付き合って、世間話をする兄。
 微笑ましいなあと感じて、モクバの顔も緩む。
「モクバさま、どうぞ」
 和やかな時間を過ごしていると執事がやってきてモクバの前に紅茶の入ったカップを置いて、皿にタルトを取り分けた。
 ベリーのタルトはさすが有名ホテルから引き抜いたパティシエが作るだけのことはあって、見た目が宝石のように輝いていた。ラズベリー、ブルーベリー、クランベリー等のベリーがクリームの中に納められているのが断面からわかる。パイ生地とクリームと赤い色のベリーの層は見ているだけで綺麗だ。そして一番上には生クリームが包み込み大粒のストロベリーが鎮座している。
 いかにもジョーノが好みそうな外見だ。
 モクバはそれをフォークで一口大に切ってぱくりと食べた。甘酸っぱい果物と甘さ控えめなカスタードクリームが口中に広がる。
「旨いぜ」
「だろ?……そうだよなあ」
 モクバの反応に自分事のようにジョーノは喜ぶ。執事はやはり口元に笑みを浮かべてにこやかにそんなやり取りを聞いていた。
 しばらくタルトを食べてお茶を飲み、世間話に花を咲かせていたがモクバが徐に切り出した。
「な、ジョーノ」
「何だ?」
「M&Wのカード持ってるだろ?あれ、ソリットビジョンで見たくない?」
「ソリットビジョン?」
「ああ、昨日説明したじゃん。兄さまが開発した立体映像技術『バーチャルリアリティ具現化システム』のことだよ。折角持ってるなら見てみたらいいかなあ、って思ってさ」
「そうだな……」
 ジョーノは思案げに顎に指を当てて、ついと海馬を横目に見た。視線を感じて海馬は眉を寄せた。
「何だ?」
「モクバに聞いたんだけどさ。『青眼の白龍』持ってるんだって?」
「ああ」
「見たいなあ……って思ってさ。駄目?」
 上目遣いでお強請りするように、見上げれて断れる人間がいたら見てみたいと海馬は内心思った。ちょっとだけ小首を傾げて金色の髪が揺れ、琥珀の瞳をきらきらと輝かせ真っ直ぐに見つめてくる。本人が己の瞳の威力を知っているのか定かではないが、これをして断られたことはないのだろう。浮かべる表情が断られると思っていないため、嬉しそうだ。
「……いいだろう。見せてやる」
「やった!」
 ジョーノは両手をあわせて喜んだ。
 モクバから海馬が「One's own」である「青眼の白龍」を持っていると聞いていたから、見たいと思ったのだ。モクバ自身も兄に見せてもらえたらいいなと言っていた。「青眼の白龍」は海馬にとって大切なカードで普段人に見せることはないのだという。昔はゲームをしていた時に見る機会はあったのだが、最近は仕事も多忙でゲームを人前ですることもなくなったらしい。
「良かったな、ジョーノ」
「うん、楽しみだなあ」
 ジョーノがそれはそれは楽しそうに浮かれているので、結局海馬も文句は言えなかった。
 



 
 その後、お茶の時間を堪能して部屋を移した。
「これが、ソリットビジョンだ。モクバから聞いていると思うが、カードの情報を読みとって本物のような立体映像を目の前に作ることができる」
 海馬はその機械というか装置をジョーノに見せた。
 立体映像は今まで特殊なメガネを使用したり、ディスプレイ画面が必用であったがソリットビションシシテムは何もない空間に立体映像(3D)を映すことができるシステムだ。
 我々は左目と右目の網膜に写った像の違いを脳内で処理して奥行きを知覚すると考えられている。左右の目は離れているため、その視差(両眼視差)は近距離において奥行きを知覚するもっとも重要な要因となっている。立体映像は、特に「両眼視差」を利用して作成されている。
 そして、実空間と再現空間の歪みや左右映像の差異、視差の大きさ、レンズ版の歪み等の問題を克服し開発された。その開発は複雑な映像化技術を利用する医療や科学といった分野にも利用されている。
 ゲームをする時使用するのは腕に取り付けるタイプのデュエルディスク(決闘盤)であるが、今はその必要性がないためソリットビジョンシステムそのものである機能が内蔵された長方形の装置がテーブルの上に用意してある。
 それ程大きくはなくコンパクトな家庭用ゲームの大きさだろうか。
 カードを差し込む口がいくつか付いていて、入れるとコンピュータがカードの情報を読みとり立体映像として空間に映し出すのだ。
 海馬は1枚カードを差し込んだ。
 海馬のカードコレクションはたくさんあって、大きな銀色のケースに収められている。しかし、本当に特別なものらしきカードは別の小箱に入っていた。黒塗りで金色の縁取り、細かな模様が細工されはめ込まれた青と赤の石が煌めいている様は宝石箱のようだ。「青眼の白龍」のカードはそこから出してきた。
 カシャンと音がして、機械の中に内蔵されたコンピュータシステムがカードの情報を読み込んだようだ。
 突如として浮かび上がった映像。
 目の前にある立体映像は二次元の物とは思えないほどリアリティに満ちていた。
「すっごーい………」
 「青眼の白龍」……ブルーアイズ・ホワイトドラゴン、と呼ばれるカードだけのことはある。というか、それ以外何と呼べばいいのか。
 純白の鱗に覆われたしなやかな肢体は銀色に輝いて見える。鋭角的な翼が綺麗に折り畳まれているものの部屋いっぱいの大きさで迫力を醸し出し、ジョーノに向かって伸びている長い首は開いている口から尖がった歯が並んでいるのが見え真ん中に赤い舌が今にも食べられそうに踊っている。そして、何よりもジョーノを惹き付けたのは蒼い蒼い瞳だ。
 意志の強そうな何者にも屈しない、まるで王者のように威圧感を与える鋭利な瞳。
 澄んだ色は、きっと濁ることなどあり得ない。
「綺麗、だ………。すっごく、綺麗」
 ジョーノは手を伸ばした。
 触れることなどできないとわかっているのに、伸ばさずにはいられない存在。
「海馬みたいだ………」
 それはジョーノの心から出た言葉だとわかった。
 海馬は僅かに瞠目する。しかしそれは蒼い瞳に魅入っているジョーノにはわからなかった。気付いたのは兄の表情に聡いモクバだけだ。
 「青眼の白龍」は海馬の「One's own」だ。世界に滅多にないカードだ。彼が持っていると有名であるし、このカードは「Classic」でもあるから、他の人間が今から手に入れることは不可能だった。
 よく、「青眼の白龍」は海馬そのものだと言われた。
 海馬の迫力があって威厳に満ちた蒼い瞳と重なるのだ。
 それでもジョーノは、ただ綺麗だと言った。嬉しそうに、魅入られたように。そんな瞳で言われたら嬉しくないはずがない。
 このシステムに驚嘆しているジョーノだが、本当のところ記憶があるならば見たことがないとは思えなかった。この表情は記憶がないからであろう。それでも、きっと初めて見た時はこのような反応をしたのだろうと推測できて、開発者として満足だった。
「気に入ったか?」
「すっごくな!」
 満面の笑みで返されて、海馬の口元も緩んだ。
「兄さまのカードは他にもあるんだぜ?見るだろ?」
 機嫌の良さそうな兄にモクバも嬉しくなりながら、豊富なコレクションをジョーノに見せたくなる。
「見たいっ」
「ああ」
 海馬は小箱からいくつか取り出してセットすると映像を映しだした。
「オベリスクの巨神兵だ」
「うわ………っ」
 大迫力の映像にジョーノは叫ぶ。
 次々に見せられる映像にジョーノはそれから驚いて、喜んで、笑って、表情豊かに反応した。これほど反応を返されたら、見せた方も甲斐があるというものだろう。
「……では、お前のカードも見てみるか?」
「そうだな」
 ジョーノは上着のポケットからカードケースを取り出し、近くにあるテーブルに置いた。
 彼が持つカードの中身を今まで海馬は確認していなかった。意識を失っている時にカードの所持だけ確認したに過ぎず、勝手に見るつもりも全くなかった。
 カードはジョーノの記憶に繋がるかもしれないが、無理矢理に記憶を掘り起こす事はできないのだ。精神とはとてもデリケードですから、無理に記憶を呼び起こそうとすると反対に傷ついてより思い出せなくなる可能性がありますから注意して下さい、と医者から言われていた。
 ジョーノはカードを丁寧な手つきでテーブルに並べ始めた。
 それを海馬もモクバも覗き込む。興味がないなんて振りも出来ないほど興味津々だった。
「あ、真紅眼黒竜」
 ふと、手を止めてジョーノが一枚のカードを見つめた。
「真紅眼黒竜か、貸してみろ」
 海馬はそのカードをシステムに差し込んだ。
 浮かび上がったのは、雄々しく漆黒の翼を広げた黒龍だった。その漆黒はあまりに深く不純物があり得ないほどの神聖なる闇色で鱗が照明に反射して艶やかに光っていた。
 伸びやかな肢体から翼が生えて、長い首がジョーノに向かって迫っている。険しく鋭い顔で怖さが際だった表情の中で燃えるような瞳は赤い赤いルビー色だ。
 目の覚めるような紅色は、炎のような激しさを秘めていて見る者を惹き付け離さない。「真紅眼黒竜」……レッドアイズ・ブラックドラゴンの名前通りの姿だ。しかし、ジョーノはそれを見て、ふわりと微笑んだ。
「真紅眼黒竜……」
 まるで掛替えない肉親のように、友のように殊更優しい声と表情で名前を呼ぶ。
「ジョーノ……、何か思い出したのか?」
 海馬はその懐かしさを含んだ声音に、もしやと思った。
「ううん、何も……」
 しかし、ジョーノは首を振る。
「ただ、知ってると思う。俺は『真紅眼黒竜』を確かに、知っている。そう思う」
 きっぱりとした口調でそれだけジョーノは言い切った。
「そうか。それだけわかれば十分だろ」
「そうだよな」
 海馬の下手な慰めをジョーノは笑って受けた。そして、テーブルに広げたカードを次々に見て行く。
「時の魔術師」
「スケープゴート」
「ベビードラゴン」
「人造人間サイコショッカー」
「天使のサイコロ」
「ルーレット」
「ギルフォード・ザ・ライトニング」……。
 天使『ジョーノ』のカードはなかったが、ジョーノのカードはどちらかといえば、「Classic」が多かった。「Classic」であるのは、「真紅眼黒竜」「時の魔術師」「人造人間サイコショッカー」などであろうか。「One's own」と言うことはないのだが、手に入れる事は難しいものばかりだ。
 それに、それ程稀でもないカードもたくさんあって、カード自体を大切にしていることがわかった。
 そんな中、小さな天使のカードをモクバは見つけた。
 モクバはそれを見た事がなかった。モクバの横で目を見開いている海馬も同様だろうとわかった。
 「Little angel」のカードは一般的なカードだ。モクバも海馬ももちろん持っている。可愛らしい天使のカードは守護力があるだけの大して強くもないカードだが、絵柄が良いので人気がある。
 が、ジョーノが持っているカードは違うのだ。
 それは、きっとジョーノの子供の頃はこうだったのだろうと思わせる愛らしい天使だった。金色の髪に琥珀色の瞳。小さな顔の頬は血色よく赤く染まっていて、背中には身体にあわせた小さな純白の羽根が2枚。出回っている天使と明らかに違う点は瞳の色。この綺麗な琥珀ではなく、どちらかというと金色なのだ。そして、天使の袖口から微かに見える腕輪に紅色の宝石が付いている。一般的なものにはこの宝石がない。
 僅かな表情や瞳の色でこれほど違うのかと言うほどその小さな天使はジョーノに酷似していた。
 海馬もモクバもカードにとても詳しい。出回ったカードについて知らないことはほとんどないと言っていいだろう。なにせ、日本版専売契約権を持つ会社の社長と副社長だ。
 一般にはない、知られていないカード。
 普通であったら、それは偽物と考えるだろうがジョーノ持っているという点と彼に酷似している点から総合すると、導き出す答えは一つしかなかった。
 多分、これは彼だけのためのカードだ……。
 海馬はそのカードを摘むと、ジョーノにいいかと聞いた。それに何の疑いもせずジョーノは頷く。
 システムにセットしてやがて映像に現れた「Little angel」。
 立体映像で見る、小さな愛らしい天使が微笑む様は、人の心を和らげる。
 そして、海馬の胸に去来する想い。
 まるで、あの時の天使が現れたようだ。
 フィルムの『ジョーノ』を見た時は、天使が成長した姿かと思った。そう思いたかったのかもしれないと、自分を分析した。
 今の自分には全く似つかわしくない、優しい思い出を大切にしたくて。
 それが、現実の形となって、生身の人間としてジョーノがここにいるのだ。
 海馬でなくても心乱されるだろう。
 この横で天使『ジョーノ』のカードを映像として並べたらどうなるのだろう。海馬はその誘惑に駆られた。きっと、誰が見ても成長した姿だ。同一人物だ。
 海馬は天使『ジョーノ』のカードを所持していた。
 名乗り出ていないため、誰も知らない。「One's own」として公に知られる気が海馬には全くなかった。あのカードは海馬だけのものであって欲しかった。
 誰もいない部屋で一人、立体映像で綺麗に笑う天使を何度も見た。
 その兄の秘密をモクバは知っていた。それでもモクバは兄の気持ちを尊重して何も言わなかったのだ。
「海馬?」
 黙ったまま映像の天使を見つめ続ける海馬に不思議そうにジョーノは問いかけた。
「何でもない。……楽しかったか?」
「ああ。ありがとう」
 海馬の深みを感じさせる瞳の色にジョーノは戸惑いながらも、わざわざ時間を作りソリットビジョンを見せてくれた事にお礼を言った。
 
 





BACKNEXT