「1オクターブの天使」3





「……記憶障害の一種、健忘。全生活史健忘。俗に言う記憶喪失ですね」
 医者、伊藤の見立ては冷静だった。銀縁の眼鏡のツルを押し上げて続ける。
「通常記憶の障害の原因は、全ての脳の障害、外傷、脳血管障害、脳炎、薬物中毒があげられますが、精神分裂症やうつ病、その他の心因性の精神障害等でも記憶障害を伴います。特殊な記憶障害が『全生活史健忘』、『全般健忘』とも言いますが、自分の名前も年齢も家族も覚えていないのに日常生活は普通にできる事です。また『一過性全健忘』は特に原因が見あたらず、意識障害もないのに急に健忘が生じてしかもそれが24時間以内に回復することを言います」
 伊藤は一度言葉を切り、青年ににこりと安心させるように微笑んだ。
「彼と話してみた結果と見た限りでは、なんらかの原因で記憶障害に陥っていると言っていいでしょう。ただ、一時的なものなのかは今の時点ではなんとも言えませんが……。様子を見るしかないでしょうね。……なに、明日になったらすっかり思い出すかもしれませんよ。『全生活史健忘』なんてとても珍しいですが、ない訳ではありません。私達だって一時的に『ど忘れ』するように、思い出せない事など人間ならままある事です。そんなに構えないようにね」
 そして、「記憶障害」などさも些細な事のように青年に笑った。
「はい」
 青年は、素直に頷く。
 部屋の隅で黙ってそのやり取りを聞いていた海馬は腕を組みながら一度吐息を付いた。
「記憶が戻るまでここにいればいい」
「でも……」
「構わん。気にする事はない。それにその状態では何ともならんだろう?」
 青年は途端に顔を曇らせる。
「捜索願が出されていないか警察に聞いてみるし、拾ったからには最後まで面倒くらいみる。幸いお前一人くらい置いておくスペースはあるしな」
 海馬は壁から背を離すと組んだ腕を解いて、青年の前まで来る。
「すぐに思い出すかもしれんし、思い出せんかもしれん。どちらにしても焦っても仕方ないだろう。違うか?」
 青年は真っ直ぐに海馬を見つめて首を振る。
「だったら、ここにいればいい」
「………うん、ごめんな」
「謝る必用なない」
「ありがとう」
 青年は謝罪ではなく感謝を言い直した。それに海馬は満足そうに見る人間にしかわからない程度に口の端を上げた。
「大丈夫ですよ、ここにいらしゃればいい。海馬社長は一度言ったことは責任を持たれる方ですし、案外いい方ですから」
 伊藤は付け足すように、さらりと暴言を吐いた。
 案外にいい方とは言い得て妙。海馬がいい人でいる相手は極端に狭いのだ。が、海馬の性格を熟知している伊藤は青年に対する海馬の態度を見て取り、早々に結論を出していた。非情と有名な海馬が珍しく優しげだと。
「はい」
 青年は、いい人だろうと疑うことなく素直に納得した。
 全く素性のしれない人間を置いてくれるのだから、そう思ってもしかたない。
「さてと、それではひとまず私は帰りますが、また明日来ますね」
「ああ」
 お大事に、と青年に声をかけて伊藤は帰っていった。
「……」
 青年は伊藤が去った扉を困ったように黙って見つめていた。海馬はそんな不安げな青年を認めて告げる。
「俺は海馬だ」
「海馬?」
「ああ。この屋敷の主だ。何かあれば俺に言えばいい。それ以外でも執事やメイドに言いつければいい」
「執事?メイド?」
 何だそれは、と青年は首をひねる。
 意識なく海馬邸まで運ばれた青年は自分がどんな屋敷にいるのは知らなかった。
「後で紹介する」
「うん」
 青年は、ひとまず後でだと己に言い聞かせる。
「兄さま………!」
 すると、突然部屋の扉が開いて一人の少年が入ってきた。少年とはいえ背が高く凛々しい顔立ちをしていて外見は大人な身体付きをしている。年齢は、ちょうど少年と青年の間くらいだろうか。
「モクバか」
「ただいま、兄さま」
「お帰り、ご苦労だったな」
「そうでもないよ。………ところで、こちらは?」
 兄の自室で寝ている青年を不思議そうにモクバと呼ばれた少年は見つめる。
「ああ、名前は、どうするかな。………弟のモクバだ」
 海馬はふむと、眉を寄せながら青年に弟を紹介した。
 青年は身元のわかるものを持っていなかったから名前も国籍もわからなかった。
「はじめまして」
 一応、ぎこちないながらも微笑みながら青年は挨拶した。それにモクバは驚愕の表情を浮かべて青年をじっと見た。
「はじめまして………貴方は?」
 青年はその問いかけに困ったように首を傾げる。
「ごめん、わからないんだ」
「………わからない?………どういうこと兄さま」
「聞いた通り、記憶障害だ」
「記憶、障害?」
「ああ」
 唖然としながら再びモクバは青年を見つめた。
 まさか、そんなことが……。出来過ぎた小説かドラマみたいだ。
 この青年が、記憶をなくしてここにいるなんて。
 モクバは内心の動揺を隠すように、唇を噛んだ。
「……ジョーノだ。今日から、お前はジョーノだ」
 海馬はきっぱりとまるで会社の決定事項であるかのように告げた。モクバもその名前にはっとする。
「ジョーノ?」
「ああ」
 青年は口の中で名前を呟いて、やがて頷いた。名前がないのは不便だ。海馬と名乗った青年がそう呼ぶと決めたならそれで異論はなかった。
「わかった。よろしく、海馬。そして、モクバ?」
 不安を追い払うように、にこりと綺麗に笑う青年に海馬もモクバも一瞬見とれた。
 
 



「兄さま……」
「何だ」
「ジョーノって、『ジョーノ』じゃないの?」
「多分、そうだろう」
「……」
 ジョーノと呼ぶことになった青年をひとまず眠らせて海馬兄弟は別室にいた。本当なら出張の報告が先なのだが、あまりにも現状が夢か幻のように現実離れしていたためモクバ思わず兄に問いかけた。
「彼が『ジョーノ』なら、あっちに聞いた方が早いんじゃないの?」
「あちらにもそれとなく探りを入れておくが、普通言えるか?『ジョーノ』を預かっていますなどと。誘拐したかと思われるぞ」
「……確かに」
 モクバも想像して、肩を落とす。
 それでなくとも、記憶を失っているのに。
 多分という不確かな、それでも、そうでないなんて思えない確証を持つジョーノの容姿。
「身元を記すものはなかったが、ポケットにカードが入っていた。『M&W』のな」
「じゃあ、やっぱり」
「カードを持っているだけでは、何とも言えん。全世界であのカードをしている人間は600万人だぞ」
「……デッキを見れば少しわかるんじゃないの?」
「そうだな、後で見せてもらうとするか」
 見ても見なくても、『ジョーノ』である確信は変わらないだろう、と海馬の態度から伺えた。
 
 『ジョーノ』とは一言でいえば、天使の名前だ。
 海馬コーポレーションで日本版専売契約権を有する「M&W」であるが、カードの所有権は英国にある企業にある。新規で発売されるカードの種類やデザインは当然ながら制作者である人物が作るのだが、その宣伝等もその企業が制作したフィルムやポスターを使う。日本版をKCで制作する事もあるが、概ねカードのイメージを大切にするため世界中で同じポスターや宣伝フィルムが使われると契約で決まっている。
 その宣伝フィルムやポスターに1年ほど前に登場したのがジョーノだ。正確にはジョーノの容姿をした人物だ。フィルムの中に登場する純白の衣装を着た天使の名前はわかっていないが、皆それがジョーノだと知っていた。なぜなら、そのフィルムが発表される半年前、あるカードが市場に流れたからだ。しかし、極端に数の少ない稀なるカード。
 「One's own」だ。
 そのカードは天使のカードだった。
 金色の長い髪をまき散らし、琥珀の瞳を輝かせ片手に大きな剣を下げもう片方の手には丸い宝玉を掲げている。攻撃力と守備力もさることながら、相手の攻撃を無効化するという強力なカードだ。
 そして、どんなカードでも同様だが、このカード単独より他のカードのコンボの方が威力がある。「光」の場のカード。そして、「天上鏡」だ。場を光にして、天上鏡で天上の光を写し取る。そして、天使が剣を振うと強力な破壊力がある。この場合「天上鏡」ではなく「精霊の鏡」では威力がかなり落ちる。
 しかし、カードの威力よりもその天使の美しさが一番そのカードの魅力だった。カードの威力なら他にも強力なカードや破壊力抜群な禁止カードが存在する。手に入る。
 その稀なカードの天使の名前がジョーノ。
 そして、ジョーノにそっくりな人物が天使の扮装をしてフィルムに納まっていたのだ。そのフィルムを見た瞬間、カードのファンは知ったのだ。あのカードにはモデルがあったのだと。フィルムの天使が、ジョーノなのだと。
 世界中から人の目を集めたジョーノのプロフィールを英国企業は公表しなかった。元々明らかにするつもりはなかったようだが、あまりにも有名になりすぎて個人情報が流れるのは本人の生活を脅かすだろうとの配慮らしかった。
 確かに世界中にファンを持ってしまった天使は、生活どころか身辺が危ない。
 今ではカードの世界で知らないものがいない稀なるカードの所有者「One's own」は世界中に知られているだけで、3人ほどしかいない。いくら何でも、カードが3枚しかないということはないはずなのだが、名乗り出た人間が少なかったのだ。
 一人はアメリカの専売契約を結んでいる企業の社長の所有だし、それ以外でもカードマニアとして有名な人物等だ。
 「One's own」は名乗りでなければ、わからないのだ。
 所持していても、ある理由によって秘密にしている人間も結構いるものだ。
 稀なるカードは当然ながら狙われる。
 アンティ(賭け札)の勝負を申し込まれることもある。
 カードを純粋に楽しみだけでは所有できなくなる。否応なしに争いに巻き込まれる。
 だから、偶然手に入れても誰にも言わないで、ゲームにも使用しないでいる人間もいる事はいる。
 そのカードのモデルジョーノ。
 フィルムに映るジョーノそっくりの記憶をなくした青年。
 海馬が名前を「ジョーノ」と決めた事は至極当然だった。彼の中では青年は正しくジョーノだった。もちろんモクバにしてもだ。
 先ほどまでその目で見ていた青年は、紛れもなくフィルムの中にいたジョーノだった。
 だから、モクバにしても異存はないのだ。問題は彼の身元確認だ。
 英国企業にジョーノの事を聞く事が一番てっとり早いだろう。が、何分、ジョーノはシークレットだった。ジョーノらしき人物を預かっていると、記憶がないなどと言おうものならどうなることやら、恐ろしい。
 こちらに何の下心もなくても、疑ってしまうくらいシークレットだった。
 なぜ記憶喪失になったのか。
 偶然にしては出来過ぎているが、KCの社長に保護されたのはなぜなのか。
 そして、どうして今この場所に日本に彼がいたのか。
 ジョーノの容姿から日本人でないことは知れていた。日本に彼が在住していれば嫌でも目立つし、KCの総力を上げれば所在は知れる。が、彼は日本に住んでいない。多分にカードの制作者の近親者だろうとまことしやかに言われていたから英国人ではないかと、もっぱらの噂だ。
 どんな理由で日本にいるのかはわからないが英国側からすれば、不測の事態であることに間違いはない。まだ、こんなとんでもない状態になっているとは知らないのかもしれない。
「多分、ジョーノは日本に縁があるのだろうな」
「日本語流暢だもんね。それに、制作者って日本人でしょ?ジョーノがその哲学者と知り合いなら十分にありえるね」
 最初、意識を取り戻し英語を言いかけて、日本語に直したことから英国圏内に住むのではないか、というのが海馬の推測だ。
「しばらく様子を見るしかないだろう」
「うん」
「記憶が戻れば、問題なくなるだろうしな」
「そうだね。………本当の名前は何ていうんだろうね」
「さあな。記憶が戻ったら聞けばいいだろう」
「………でも、俺の中ではすでにジョーノなんだよね」
 モクバは苦笑を漏らす。
 本人からすれば失礼な事かもしれないが、どうしてもジョーノ以外は考えられなかった。本当にジョーノが本名かもしれないし、愛称かもしれないし、幻の名前かもしれないけれど。
「何かトラブルに巻き込まれたのでなければいいがな。頭をぶつけているから……調べてみるか」
「俺の方でも調べてみるね」
 モクバは請け負った。ジョーノに関わる気十分だ。
 なにせ、「M&W」のカードを知る、ゲームをする人間でジョーノのファンでない人間などほぼいないと言って過言ではない。それは冷静な顔をしている兄も同様であるとモクバは知っていた。決して余計な事は言わないまでも、兄が素性も知れない者を拾ってきた事からも歴然としている事実だった。
 





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