「100カラットの恋」2





 そもそも、克也と海馬の出会いは5年ほど前まで遡る。
 当時10歳ほどの子供だった克也は両親と共に海外で暮らしていた。父親の仕事の都合でほんの小さな頃から各国を転々としていたせいで、今でも英語は大概問題なく話すことができし、それ以外も挨拶程度の簡単な会話ならフランス語、イタリア語など話すことができる。決して頭がいいとはお世辞にも言えないが、幼少の頃にたくさんの言語に触れたせいか、言葉だけは不自由しないでいる。おかげで現在も英語だけは成績が良く、語学が堪能だと誉められる。
 また、持って生まれた性格が起因しているのか、外国で気さくな人に囲まれた生活のせいなのか、全く人見知りをしなくなった。
 気軽にホームパーティを行い、友人知人、家族で集まり楽しい時間を過ごす事が常であるし、ティタイムも大切なコミュニュケーションの場だ。
 人との触れあいを殊更大切にするお国柄と人々に育まれた精神は、成長しても消えることはなく、今でも多くの友人を持ち大切にしている事から根付いていると伺えた。
 
 が、その絵に描いたような幸せな暮らしは長く続かなかった。
 ある日、両親が乗った車が事故にあった。
 克也はたまたま熱を出していて家で留守番をしていたため免れたのだ。一人になる克也を心配して誰かベビーシッターか友人に来てもらおうとした両親に一人で大丈夫だよと、笑って送り出した。もうすぐ兄になるのだからこのくらいできるよと克也が言うと、そうねと母親は笑った。最後に見たその嬉しそうな照れたような笑顔を克也は覚えている。
 そして、突然悲報が届いた。
 対向車線から飛び出してきた大型トラックを避けきれず、両親の乗った車は潰されたと。 即死だった。
 側面に激突し押しつぶされた乗用車は原型を止めてはいなかった。目撃した人がすぐに救急車と警察を呼んだのだが、潰れた車中から救助する事から困難だったらしく、その時点で息途絶えていたらしい。
 事故を起こしたトラックの運転手は酒気を帯びていたとその後の調べで明らかになった。頑丈なトラックに乗っていたため、大惨事を起こした張本人は軽傷で済んでいたのだ。
 
 最初知らせを受けた時、克也には理解できなかった。
 警察からの電話を受けたのは、近所に住み家族同士仲の良い女性だった。熱を出した克也を心配して覗いてくれていたのだ。帰ってこない両親を待っていて鳴り響いた電話を取った彼女は知らせを聞いて驚愕したが克也の前だからか、取り乱したりせず落ち着いて事実を告げた。
 克也の小さな肩に両手を置き目を見つめて、子供に告げるには残酷すぎる事実を口にした。
「パパとママは亡くなったの」
 病院に運ばれたがすでに息を引き取っていた。今から駆け付けても克也は死に目にもあえないのだ。
「事故だって。二人が乗った車がトラックとぶつかったの。病院に運ばれたけれど、即死だったんですって」
 警察から身内を寄越すように彼女は言われている。
「……兎に角、今から病院へ行きましょう」
 彼女はすぐに夫に電話をして車を回す手配をした。
 そして、ずっと物言わぬ克也を抱きしめていた。
 克也は、即死という意味を頭で理解できていても、心が受け止めきれていなかった。
 彼女が心配して話しかけてくれても、何も返せなかった。
 呆然として涙さえ出なかった。
 病院の霊安室で対面した父親と母親を克也は一生忘れることはないだろう。
 先ほどまでは優しい笑顔を向けて克也を抱きしめていた暖かい腕が、今は冷たい骸だ。体温を感じない硬くて冷たい手に触れた瞬間、言い様のない絶望を感じた。

 真っ暗で深い穴に落下して、這い上がる道筋が全く見えない。
 誰も周りにいない。
 一人で。
 たった一人で取り残された。
 明るい父親と優しい母親。そして生まれるはずだった弟か妹。
 克也の家族は一瞬にして消えてしまった。
 どうしたらいいか、わからない。
 自分が居る足下さえおぼつかない。
 己を構成していた全てのものが崩れ去り、世界が歪んだ瞬間だった。

 克也を病院まで運んでくれた夫婦は、すぐに葬儀の手を回した。
 近所に住み、家族ぐるみの付き合いだった彼らはたった一人の克也の力になろうとした。子供だけではどうにもならない事ばかりだ。彼らが中心となり手続きを行った。
 大丈夫かいと心配そうに頭を撫でてくれるおじさんに、克也はただ頷くことしかできなかった。
 動かなくなった父親と母親の遺体をこの目で見たのに。
 事故で破損している遺体は子供には酷だろうと言われても自分しか確認する肉親がその場にいないのだから、それに自分は見るべきだと叱咤して見たのに、心が認められない。
 冷たい屍が両親だなんて。
 そんなはずがない。
 事実が心を切り刻む。
 心が切り刻まれているのに、どくどくと傷口から血を流しているのに自分で知覚できない。
 一切の感情が欠落していた。
 本当なら泣き叫んでいるのが普通であろう小さな子供が人形のように無表情でいる異常性に集まった大人は心を痛めていた。しかし、どんなに慰めようとしても彼らは他人だった。どんなに親しくても、血は繋がっていなかった。
 肉親を亡くした子供が一人立っている。
 孤独と絶望の影を一夜にして背負った子供が哀れでならなかったし、何もできない事が歯がゆかった。
 事故が起こってすぐに両親の親族に連絡が入れられていた。
 父親は残念ながら早くに親を亡くしていて親類付き合いのない遠縁くらいはいたが、ほとんど天涯孤独の状況だった。訃報を受けても葬儀には出席するとの返事があっただけだ。
 母親の実家は知らせを受けて日本からすぐに駆け付けると返答があった。克也の祖父母に当たる人物が来ることになった。知らせを受けてどれだけ手早く用意し飛行機に飛び乗っても、遙か海を渡って来るのだから必然的に時間がかかった。
 その克也に残された血の繋がった親族、祖父母を取り巻く大人は切実に待っていた。
 早く来て孫を安心させて欲しいと。
 克也ももうすぐおじいさんとおばあさんが来るよと聞かされていた。
 克也自身は日本で生まれたのだが、その頃の記憶はない。祖父母に当たる人たちの記憶もない。2つくらいで海外へと渡ったため、その後祖父母に会う機会がなかったのだ。普通だったら母親が子供を連れて里帰りするはずなのだが、母親は帰らなかった。帰りたくない訳ではないと言っていた。ただ夫の傍らを離れたくないだけなのだと笑っていた。
 両親も大切だけれど、愛する伴侶が一番なのよと。伴侶と我が子がいる場所から離れることなどできないわと。
 顔も覚えていない祖父母を克也は写真でしか知らない。
 リビングへ大切に飾られた写真には祖父母と両親と赤ちゃんの自分が写っていた。写真を手にとって母親は克也にいつも話して聞かせていた。
 自分にとっての、おじいさんとおばあさんの事を。
 例え逢えなくても、母親は手紙のやり取りはしていたようだ。克也は届いた手紙を読んで聞かせてもらっていた。元気ですか、変わりはないですか、と必ず始まる文章は慈愛に満ちていた。
 その祖父母が来るという。
 そう伝えられた克也は、逢いたかった人たちとこんな形で逢う事がとても悲しかった。 もっと早く逢っておけば良かった。
 母親が一人で日本に行ってみる?と提案したのは今年の夏休みのことだ。克也に逢いたがっているわとエアメイルを見せた。しかし、克也はすでにサマーキャンプなど予定を決めていたから、またの機会にすると諦めた。
 が、1日待っても祖父母は来なかった。
 飛行機に乗ったから明日には着くと搭乗手続きが済んでから連絡が入っていたのにだ。
 元々ぎりぎりの日程であり、二人の葬儀が終わってしまう、このままであれば棺も見送れないだろうと葬儀に来ていた誰もが憂いていると、またもや訃報が届いた。
 事故とは繰り返すものなのか。
 運命とは非情なものなのか。
 克也の祖父母が乗った飛行機が墜落したのだ。突然の大惨事はニュースで報道されていた。
 生存者はわずかに1名。
 残骸となった飛行機の姿を伝えるニュースは緊迫していた。キャスターから読み上がられる乗客名簿。つまりは、死亡者だ。
 その訃報を届けた人物が急いで詳細を告げると葬儀の場は静まり返った。そして視線は克也に注がれた。
 あまりに不憫過ぎた。
 たった一人になった子供が哀れだった。
 それから克也は全く言葉を発しなくなった。両親が亡くなったと聞いてからほとんど話さなかったのだが、少なくとも返事はしていた。しかし、今度は決定的だ。
 世界を拒絶している。
 殻の中で閉じこもり傷ついた精神を守っている。
 子供が背負った運命は、誰が見ても過酷だ。
 話しかけられる言葉はわかるため、小さく頷く事はする。が、何も映していないような琥珀の瞳はいつも快活で明るく瞬いている事を知っているため、痛ましい限りだった。
 

 そして、また5日ほど時が経ち、一人の青年が克也の前に立った。
「城之内克也か?」
 克也はぼんやりとしながら足下から視線を上げる。
 そこには、視野一杯に広がるような色があった。蒼い、蒼い色が。
 克也自身ずっと喪服に身を包んでいたし、周りも当然葬儀までは喪服だった。喪服の黒は克也の心情そのままを体現していた。
 見える色はモノクロ。
 世界が無機質なものに感じ、味覚も触覚も曖昧にしか感じなかった。何かを食べても美味しいなんて思えない。何かに触れても現実感が乏しい。
 それが。
 克也を見下ろしている青年は今まで見たどんな人間とも違った。
 克也の視界を占拠した蒼い瞳は、一見鋭く冷たそうなのに嘘なんて見通すくらい綺麗に澄んでいた。克也が知る夏休みに行った湖の青よりも、イタリアで見た透けるような青空よりも、ずっとずっと綺麗だった。
「俺は海馬だ」
 海馬とは母親の旧姓だ。つまり、その母方の親族なのだろうか。克也は黙って青年を見上げた。
「お前の母親、美砂の父親と俺の父親が兄弟になる。つまり美砂と俺は従姉弟に当たる。お前は俺からすると従姉の息子という関係だ。わかるか?」
 克也は頭で家系図のようななものを描き整理しながら、頷いた。
 母親とこの海馬と名乗った青年が従姉弟。しかし、全く似ていなかった。
 従姉弟とはいえ、男女差もさることながら普通はそれほど似るものではない。同じ親から生まれた兄弟でさえ似ていない人間がいるのだから、四親等に当たる従姉弟は当然と言えば当然である。
 まして、五親等に当たる克也と彼の間には相点は見あたらなかった。
 それに、克也の母親は日本人と北欧、スウェーデンとのハーフだ。母親は克也から金茶色の髪と琥珀の瞳を受け継いだ。
 もちろん母親の容姿は祖母からそっくりと受け継いでいるらしい。つまりは、親子3代よく似ているのだ。
 幼い頃から海外で育った克也であるから違和感はなかったが、黒色黒眼の日本人の中では浮くかもしれないとは子供心に知っていた。近所には日系の家族や友人がいたが、誰もが黒い髪だったり黒眼だったりしていたから、自ずとわかった。
 しかし、目の前の青年も克也が思っている日本人からは逸脱して見えた。
 見上げるのに苦労する程の長身。整った横顔に蒼い瞳。均等の取れた身体は喪服とは微妙に違うが、黒色の背広の上からもよくわかった。
 克也がはじめて見た親族。
 回らない頭で克也は考える。
 この青年もつまりは叔父叔母を亡くして、従姉を亡くしたのだ。
 同じではないけれど、同じだと思った。
 同じ人を亡くして悲しんでいる。青年はあまり表情を顔に出すようには見られなかったが、克也にはわかった。人の死に何も感じない人間ではない。空気で伝わってくる悼む心。
 何の保証もないが、確かに克也にはわかった。
 だって、彼は自分の前にいた。
 誰もいなかった、この場所に。
 この場所に来てくれた。
 克也は俯いて唇を噛みしめた。
 感情が溢れそうだった。
 止まっていた時間が動き出した。
「遅くなってすまない。お前を迎えに来た」
 青年は膝を付いて克也と目線をあわせた。綺麗だと思った瞳が目の前にあった。
「俺と、来い」
 モノクロだった世界は蒼い色に染められ、やがて今まで見えていた色が再び広がった。
 大きな手を差し出されて、克也は思わずその手を取った。迷う暇などなかった。
 ぎゅっと縋り付くように腕に小さな手を伸ばすと、青年は克也を抱きしめてくれた。
「一人でがんばったな」
 優しく頭を撫でてくれる仕草に、克也は一粒涙をこぼした。両親が亡くなってから全く泣けなかったのだが、暖かい腕の中で次から次へと琥珀の瞳から涙がこぼれ落ちる。
 頬を伝って顎まで流れる涙の雫を青年は拭う。声も出さずに泣く克也に青年は小さな顎を包むようにして顔を上げさせ頬に慰めるように口付けた。
 優しい仕草は母親を思い出させて、余計に止まらない涙をこぼし克也は嗚咽を堪える。青年は安心させるように背中を何度も撫でる。
 ひくっと喉を詰まらせて、我慢していたもの吐き出すように泣き続ける克也を青年はずっと抱きしめていた。
 喪服の小さな少年が青年に縋るように抱きついて泣いている姿を目撃して、少年を案じていた大人は安堵のため息を付いた。
 

 そして、克也は日本にいる親類に引き取られることに決まった。正確に言うなら祖父の兄の海馬邸へ。そこには、顔も知らぬ祖父の兄と迎えに来た青年と青年の弟が住んでいるらしい。両親の葬儀は終えていたため、一度埋葬された墓地に青年と克也は向かった。海馬の墓は日本にあるそうだが、親族が誰一人としてその時いなかったため、この土地のしきたり通りに教会の墓地へと埋葬されたのだ。親族としては遺骨は日本で引き取りたいという思いがあったかもしれないが、今更安らかに眠っている人を日本に移すだけのために掘り起こす事はできない相談だった。
 墓地は家から徒歩の距離にあった。あまり会話もなく歩いてきた二人は真新しい十字架の前で立ち止まる。萎れた花とまだ枯れていない花が捧げられた墓に持ってきた花束を手向ける。

 白い花は、立派な百合だった。
 来る途中の花屋で海馬が百合を買ったのだが、あるだけ全部と店先の百合を買い占めた。二つの束をそれぞれ持って歩く姿は大層目立った。喪服の可愛らしい子供が抱えきれない白百合を大切に持ち、長身で見目麗しい青年が無造作に白百合を持つ。行く先が墓地であるのは明白で、目立ちはしても誰も余計なことは聞かなかった。
 両手で持ち切れない程の百合からは独特の香りが立ちこめていて、匂いでもって天国へも届きそうだ。
 覆うほどの純白の百合を跪いて捧げ、二人は並んで十字を切る。
 そしてしばらく無言で佇んでいた。
 日本へ行ったら、両親の眠る場所へは簡単にはやって来れなくなるだろう。しばしの別れが必用だった。克也は十字架を見つめて語りかける。
「父さん、母さん。また、来るから」
 いつになるかわからないけれど必ず来るからと心の中で付け足した。
 そして、今度見るのはいつになるかわからないだろうと、墓標を記憶に刻む。
「ああ。墓参りくらい来たくなったらいつでも来ればいい」
 さらりと告げられた台詞に、克也は海馬の顔を下から覗き込んだ。
「いつでもって?」
 海を挟んでいるこの国は、いくら飛行機を使っても日本とはかけ離れている。そんなに簡単に行き来できる距離ではなかった。時間も費用も。
 それくらいは子供の克也にもわかっているのだ。
 しかし海馬はまるで近所に遊びに行くみたいに気軽に答えた。
「いつでもは、いつでもだ」
 克也は首を傾げる。それは、許されることなのだろうか。
「でも、遠いし」
「飛行機に乗れば、半日だ。あっという間だな」
「……」
「何の問題もない」
 きっぱりと海馬は言い切った。
 それも本当に気負いなく。
 その時、克也にはわかっていなかったが、事実はその通りだった。
 海馬、という家が飛行機に乗るくらいの費用、痛くも痒くもないのだと。例えファーストクラスに乗ったとしても微々たるものに過ぎない事を。
 克也はわけがわからないなりにも、こくりと頷いた。
 墓参りを反対された訳じゃない。お金を貯めて絶対来るんだと、殊勝に決心した。それが実は無駄な決心だったと知るのは日本に行ってからだった。
 
 



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