「100カラットの恋」1



                                 ACT. 1 



 高層ビルの一番上、眼下を見下ろせば町並みや遠くにある山々まで一望できるこの街で一番高くて一番有名な場所、それがこの海馬コーポレーションの社長室だ。
 社長室に相応しい上等な造りの部屋の窓は全面ガラスであり余すことなく眩しい太陽の光を届けている。もちろん空調の行き届いた室内は快適な温度に保たれているし、一見何の変哲もないガラスに見えても防弾防音の優れた一級品である。
 室内は、その環境に相応しいほどの静寂に包まれていた。
 その静寂を愛するように最低限の音しか立てないで部屋の主である男が大きな机に向かって書類を眺めている。彼は思考するように目で文字を追っていて、そのめくり上げる紙の音だけが室内に響く。それ以外は空調のわずかな音と机の脇にある薄型ノートパソコンの立てる音だけだった。
「海馬!」
 そんな静寂を破り、部屋に似合わぬ大きな音を立てて重厚な扉を開くと社長室に小柄な少年が入ってきた。少年の金色の髪が差し込む陽光に反射して輝くのを少しだけ目を細めて青年は認めた。
「何度言えばわかる?静かに入って来い、克也」
 大きな机の向こう側で書類を片手に海馬と呼ばれた青年が、ため息混じりに吐息を付いて片肘を付く。そして持っていた書類は机に放る。もし彼の部下がこのような愚弄を犯したら即刻首であるとは少年も知っていた。少年だけが例外なのだ。また、青年に対してそんなとんでもない態度をする強者は存在しなかった。
 彼は社員から恐れられていた。
 優秀で冷酷な社長。
 能力のある者は例え若くても取り立てられるが、必用ないと見なされれば昇級はあり得ないどころではない。即刻首である。この不況のご時世、早期退職を募るならまだましで、リストラが当然なのだから。
 自分の力を挑戦したい者にとっては限りなく魅力的な会社である。
 そんな会社を取り仕切っているのが海馬瀬人。
 父亡き後、若干27歳にしてその経営手腕は日本だけでなく世界からも注目を浴びていた。
 「海馬コーポレーション」通称「KC」は世界に誇る上場企業である。元々は造船業から初めた会社は銀行等を買収し大企業へと発展し、若社長となってから益々株は上昇している。
「いいだろ、別に」
 社長の例外、克也と呼ばれた少年は言い返した。
「良くないだろう?一般常識だ」
「一般常識?」
「そうだ。ノックをするのが最低限のルールだな」
「……」
「そんな事もできないのは問題だろうな。それとも、躾がなってないのは俺の責任か?」
 ちらりと横目で海馬が克也を見つめる。無表情に近く感情が読みとりにくいが、克也には海馬が怒っていない事がわかっていた。
「海馬の責任?」
「人はそう取るだろうな」
「俺だってちゃんと礼儀くらいわかってるって。ここは特別だからさ。仕方ないだろ?」
「仕方なくない。常日頃できなくていざという時できる訳がない」
 海馬は正論を吐く。が、克也はそんな事に耳を貸さない。
「だって、ここには海馬しかいないじゃん」
「俺以外がいたらどうするんだ?」
「海馬以外見たことないもん。普通に考えて社長である海馬がいないなんてある訳ないだろ?ここに上がって来られるのってわずかだし」
 事実、この最上階直通のエレベーターに乗る事のできる人間は極僅かしかいなかった。直通エレベーターに乗るにはカードとパスが必用になるし、ガードマンも立っている。
「屁理屈ばかり上手くなりおって」
「成長したって言えよ」
 しかし、克也の戯れ言など海馬は鼻で笑った。
「……」
 克也は一瞬眉を寄せて口を引き結ぶと、真っ直ぐに歩いて海馬の前まで来る。大きな机を回り込み海馬の横でひょい身軽に机に乗り上げた。重厚な机は克也の体重などモノともしないくらい頑丈で、軋む音さえ立てなかった。
 行儀の悪い事に克也は机の上に座り片足を折り曲げて腕で抱え込むとその上に顎を乗せる。
「克也……」
 咎めるような声も克也は気にしない。面白そうにしてやったりといった表情で口元を釣り上げて悪戯っ子の顔を見せる。そしてすぐ間近にある海馬を見下ろす。
「何?海馬」
 克也は可愛らしく小首を傾げて琥珀色の瞳を海馬に向けた。
「それで、どうしたんだ?」
 海馬は諦めて問うた。
「……遊戯に誘われたんだけど、別荘に今度遊びに行っていいか?」
 克也はここに来た本題を切り出した。
「メンバーは?」
「えっと、遊戯と御伽と本田と獏良?」
 克也は親しい友人達の名前を上げる。そこに出てきた名前は海馬の知る者ばかりだった。
「いつもの奴らか。日程は?」
「2泊くらい?温泉もあるしテニスコートもあるからって。ちょうど祝日があるから2泊くらいあった方がいいって話になったんだ」
 別荘に誘われる事自体は珍しいことではなかった。克也の友人達は日本国内どころか海外にいくつも別荘を持っているし、両親がリゾートを経営している者すらいるくらいだ。だから親しい友人同士でそんな観光地や避暑地に休日に遊びに行くことは頻繁にあることだった。
「いいだろう。……それくらいなら、電話でも良かったのではないか?」
 言外にわざわざ会社まで来なくてもと海馬は付け足す。
 克也は最新式の携帯電話を持っていた。そこには社長室直通番号も海馬の携帯番号もメールアドレスも登録されているため、やり取りすることが可能だったし、よほどの事がない限り通じないなど過去になかった。
 友人との気軽な旅行を海馬が渋るとは思っていないが、一応了承に安堵しながらも克也は少しだけ肩を落とす。
「あのな、仕事ばかりしている社長さんは最近家にも帰ってこないだろ。本当なら家で言うつもりだったんだ。電話ってのも便利だけど、やっぱり保護者には直接許可を貰わないといけないだろ?第一電話だとお前許可くれないかもしれねえじゃん」
 拗ねたように克也は呟く。
 克也にとって保護者という立場の海馬にはいろんな報告の義務がある。無闇な反対はしないが、何でも許される程甘くもない。これで成績が落ちていれば、学生の本分は勉学だと言って遊んでいる暇があるのかと小言を言われるだろう事は必至だ。
「そんなに家に帰ってなかったか?」
 海馬は首をひねる。
「最近見てねえよ」
 克也はぴしゃりと答えた。
「昨日も顔は出したが、お前がいない昼間だったかもしれん」
「普通、家に顔出すって言うか?家は帰る場所だぞ?」
「……仕事だから仕方ない」
 が、克也の常識ぶった台詞を海馬は仕事だからで切り捨てた。
「仕事、仕事って、仕事ばっかりし過ぎだって。倒れても知らねえぞ、このワーカーホリック」
「そんな無様な事はしない」
「モクバは帰って来るのに……」
 克也より2つ上のモクバは海馬の弟だ。その上、学生でありながら会社の副社長をこなしている。兄弟揃って出来がいいことだと克也は思う。世間からもその経営手腕は認められている。
「モクバはまだ学生だからな。労働基準法に反する事もできんだろ………なんだ、寂しいのか?高校生にもなって」
 労働基準法なんてどこ吹く風で重点なんて欠片も置いていないくせに海馬はそんな殊勝な事を言う。克也は唇を尖らして抗議した。
「寂しくなんてねえよ!子供扱いするなっ」
「そんな所が子供なんだろう」
 海馬は苦笑する。そのいかにも子供だなという表情に克也は余計に腹が立って海馬の顔から眼鏡を奪う。
「克也」
 眉を寄せて名前を呼ばれても全く気にせず、克也は奪った眼鏡をかけてみた。
 度がそんなに入っていないせいか、視力の良い克也がかけてもそれ程レンズを通した景色は歪まなかった。海馬の端正な顔も綺麗な蒼い瞳もしっかりと写す。
「あんまり意味ないな、この眼鏡」
 自分の眼鏡をかけた克也の表情はまるで面白い玩具を手に入れた子供みたいで海馬はひっそりと笑みを浮かべた。
「視力というより乱視のためだ。後はパソコンのためか」
「ふうん……」
 顔の大きさがあっていないせいか、ずり落ちてくる眼鏡を押さえながら克也は納得したようなしていないようなそぶりで曖昧に頷く。
 いつから海馬は眼鏡をかけるようになったのだろうか。出逢った頃はまだしていなかったような気がする。普段の生活では眼鏡なしであるし、こうした仕事の時だけだから克也が見る機会は極端に少ない。
 実は知らない事ばかりだなと克也は思う。
 海馬と克也の歳の差のせいばかりではなく、社会人と学生だからなのか、それとも会話する機会が減っているせいなのか、克也は海馬の事を理解できていない事に気付く。昔はもっと近くにいたような気がしていたのだけれど。
 それは海馬が単に子供の面倒を仕方なく見ていただけなのだろうか。
 引き取られた子供だから?
 連れてきた責任から?
 そんなはずはないとわかっているのに、疑いたくなる。
 ちゃんと海馬が優しかった事を覚えているのに。
 子供だろうと興味のない者の面倒など見ない性格なのに、自分を家族として迎えてくれて確かに歳の離れた弟のように、庇護する子供のように愛してくれているのに。
「どうした?」
 ふと、暗い表情を見せた克也に海馬が問いかける。
「別に、何でもない」
 克也はふと浮かんだ思考を頭を軽く降って追い払い、彼らしい明るい笑顔を浮かべた。
「……そろそろ返せ」
 それに納得したのか、していなくても深く問うことはせず海馬は眼鏡を返すように促す。
「嫌」
 しかし克也はきっぱりと拒否した。
 そして、身軽に机から飛び降りてそのまま扉まで駆け寄った。振り向いて楽しそうに意味ありげに笑顔を乗せて。
「返して欲しかったら、今日はちゃんと帰って来いよ」
 捨て台詞にしては、随分と甘い言葉を吐いて克也は風のように去っていった。海馬は盛大にため息を付いて、仕事を再開した。
 
 
 




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