「黒猫のワルツ」2−4





「おい。誰かいるか?」
 監督の榊が部室に入ってきた。いつ見てもかっちりしたスーツを飾るのは首もとの派手なスカーフだ。そうでない榊など見たことはない。ジャージ姿など今では想像できない。
「何ですか?監督」
 鳳が聞いた。
 レギュラー用の部室には現在3年はいない。どうやら3年生は進路指導を行っているらしく、そう部長から伝達があり部員は知っていた……皆まだ顔を出していない。部室にいるのは2年と1年であるリョーマだけだ。
「不動峰の橘にこれを届けて欲しいんだが……」
 榊は大きめの封筒を持ち上げて、室室内にいるメンバーを見回した。
「不動峰って何?」
「強豪の学校ですよ。都大会シード校です。橘さんは、そこの部長です」
 リョーマは隣にいた鳳に顔を寄せて質問した。鳳は簡単に答える。
「監督。俺、いきます!」
 リョーマは、はりきって挙手し榊の前に名乗り出た。
 面白そう、楽しそうだという感情が瞳にありありと溢れていた。
「……越前か」
 榊はリョーマを見下ろし思案するように顎に手を当てて、ふむと首をひねる。
「……いいだろう。そのかわり、鳳。お前を付いていけ」
 やがて軽く頷くと、そう指示を出した。
「はい」
 鳳も心得たように頷く。
 鳳以外では、日吉と樺地しかいない。日吉は愛想が欠けている上誰かの面倒をみるような性格をしていないし、樺地は番犬には向くが無口極まりない。付き添いに誰が適任か一目でわかるというものだ。
「チョータローも?」
「ええ。リョーマ君場所知らないでしょ?」
「そっか。そうだな」
 リョーマは納得した。
 
 


 
 二人は、バスを乗り継いで不動峰高校へやって来た。
 鳳の案内で正門を潜り校舎を回って直接テニスコートへ向かった。
 都立不動峰高校は平均的な敷地面積に近年建て替えたばかりの白い校舎が並ぶ学校だ。学業は中の上程度だが、都立の中ではスポーツに力を注いでいると有名だ。そのためか、グランド等が都立にしては格段に広い。
 グランドの横、小道を挟んだ先にあるテニスコートはフェンスで囲まれている。すでに活動は始まっているらしくテニスウェアに身を包んだ生徒達がボールを打っている姿が遠目に見えた。
 リョーマと鳳はフェンス越しに練習風景をじっと見る。
「へえ……」
 日本という地で他校の練習風景など見たことがないリョーマは興味津々だ。
 そんなリョーマの様子に鳳は苦笑しながら見守る。
 すると彼らからすれば他校生であるリョーマと鳳に気がついたのか、一人の青年が近づいて来た。
「何しに来たんだ?鳳」
「神谷さん」
 神谷は不動峰のテニス部部員であり、レギュラーだ。今までに当然氷帝とも試合が当たりレギュラーの顔くらい覚えている。都内で強豪と言われる高校同士なら互いに顔をあわせている。
「こんにちは。監督から橘さんに書類を預かってきたんです」
 鳳は預かってきた封筒を見せた。
「僕は付き添いですけど」
 そう言って、にこりと鳳は邪気のない笑顔を向ける。
 どこから見ても偵察には向かない人物である。
 名の知れたレギュラーでは、元から偵察などできるはずがないのだが。
 鳳が付き添いと言ったからには、隣にいる少年のためなのだろうが。書類を預かってきたのが、見たこともない少年なのだろうか。
 神谷は不思議に思いながら、二人を観察する。
「リョーマ君、こちら神谷さん。不動峰のレギュラーなんですよ」
「へえ。こんにちは」
 鳳の紹介にリョーマはぺこりと頭を下げた。
「橘さんは、まだだ。けどすぐにくる。中入って待っていろ」
 正規の要件がある人間をここで立たせておく訳にもいかない。
 その上、一人は氷帝のレギュラーだ。すでに目立つまくりで放置しておけない。
「ありがとうございます」
「ありがとう」
 お礼の言葉を後ろに聞きながら、神谷は中に入るように促した。
 
 
 
 二人は仲良くベンチに座り見学中だ。
「あんな練習するんだね」
「そうですね」
 橘がやって来るまでここで待てと言われた場所は練習風景が見渡せる一等地であるベンチだ。
「うちではやらないなあ」
「学校ごとに違いますから。基礎は同じかもしれませんが、どんな選手が在籍するかによるのかもしれませんね」
「そうだね。人数にもよるし。氷帝は多いから、部員全員ではできないことが多いし」
「その点、不動峰は都立ですし、人数はうちよりは断然少ないと思います。それに、ここは監督がいませんから」
「いない?」
「ええ。顧問はいますけど、監督はいないんですよ」
 不動峰のテニス部の成り立ちは語り草だ。
 大して有名でもないテニス部が今の地位を築いているのは、生徒達の努力があったからだ。やる気のない先輩を追い出し、新たに部長に付いた人間がやる気と根性のある生徒を集め、それからすべての指導をし面倒を見た。
「それだと、困らない?」
 鳳は苦笑しながら、もちろん普通は困りますねと言う。
「実は、橘さんは部長兼監督もしているんです。跡部部長と同じく全国区として有名で」
「強いの?」
「はい。強いですよ」
「楽しみだね。練習見られるかな?」
 強い相手を見つけるとわくわくするリョーマは目を輝かせる。
「ね、うちと当たるの?」
「そうですね、どちらも勝ち続ければいつかきっと当たるでしょう」
 まだ決まっていないが、当たる確実は高いだろう。
 
 
 一方、氷帝の人間を視界に納めている部員達ははりきっていた。
 二人のうち一人は氷帝のレギュラーだ。無様な姿を見せるのは許し難い。それは自分たちが現在のテニス部を作っている自負のせいでもあり、部長である橘がいないのため、余計に力が入るのだ。
 また、鳳の横にいる見たこともない少年が大層人目を引いた。
 小柄な少年に高いと評判の氷帝学園制服がよく似合っていた。長めの黒髪に小さな白い顔。猫を思わせる大きな瞳が、楽しそうに自分たちを見ている。
 人間心理として、いいところを見せたいと思ってしまっても不思議ではない。
 そのどこか浮き足だった雰囲気の中、誤ってボールを飛ばしてしまった者がいた。放物線など無視した速度のある直球がベンチの二人に向かって飛んでいった。
 まずい、とコートにいた人間は思った。声に出して注意しようとした時、すでにボールはリョーマにぶつかろうとしていた。
「危ないっ」
 リョーマは瞬間気が付き手を伸ばしてボールを取ろうとするが、それより早く遮った人物がいた。大きな影がリョーマの前に飛び込む。
「おまえら、危ないだろ、気を付けろ!」
 遠くまで届く大きな声で部員に注意を促す。
 鳳と同じくらいだろうか、背の高い鍛えられた肉体だとわかる青年が前に立っていた。リョーマは自然見上げ首を傾げた。
「どちら様かな?」
 橘は、誰何した。
 制服を見れば一目で氷帝の生徒だとわかるが、橘がいっているのはそういう事ではない。
 他校生、それも我が校と同様都大会シード校のテニス部員が……一人はレギュラーだ、ベンチに座り練習をのんびりと見学しているのだ。部長として不審に思ってもしかたないだろう。
「橘さん。氷帝の鳳です、失礼しています」
 鳳が立ち上がりぺこりと頭を下げた。
 リョーマは、鳳の態度に話に聞いていた橘だと理解する。そして同じように橘の正面に立ち友好的に微笑む。
「初めまして、越前リョーマです。榊監督から、書類を預かって来ました」
 そして、書類を差し出す。
「わざわざ、ありがとう。部長の橘桔平だ」
 初めて見る顔のリョーマに挨拶して橘は書類を受け取り中身をちらりと確認する。
「確かに、受け取った。返事は後日と榊監督に伝えておいて欲しい」
「はい」
 リョーマはこくりと頷く。
「それにしても、レギュラーがこれだけのためにわざわざ来るなんて、悪かったな、鳳。付き添いなのか?」
 普通、書類などは郵送すればいいのだが、今回のものは急を要したものだ。
 だが、レギュラーは練習に残すものではないのだろうか。
 このようなお使いは、下級生にやらせそうなものである。そう考えれば、鳳と共に来た少年がそれに該当する下級生なのだろうか。
 それにしては、腑に落ちない。
 どこか、違う。
 そう橘の勘が告げている。
 橘がボールを受け止めたが、少年も逃げることなくボールを捕らえようとしていた。一瞬橘が早かっただけなのだ。動体視力がいい。
 第一、少年は見目が良過ぎた。
「はい。僕はリョーマ君の付き添いなんです」
 鳳は愛想良く断言する。そして、ねえ、とリョーマに笑いかけた。
「俺が場所わからなかったからね。……二人で来たから邪魔だった?」
「いや。こっちが礼を言う方だ。わざわざ来てもらっているんだ感謝こそすれ、邪魔なんてある訳ない」
 橘はリョーマの杞憂を否定した。
 付き添い付きで来たことを橘が聞いたせいで誤解を受けたようだ。
「じゃあ、帰りましょうか」
「え、もう?」
 用件は終わったから、失礼しましょうと促す鳳にリョーマが不服そうに唇を尖らせた。
「僕たちは部外者ですから」
「……」
 リョーマはつまらなさそうにしながら、小さく頷いた。その様子に橘は口を挟んだ。
「……見ていくか?」
 最初そんな気はなかったのだが、なんとなく、橘はそう言っていた。
「いいんですか?」
「本当に?」
「ああ」
 意気込む二人に橘は頷く。
「ありがとうございます!」
「良かったですね、リョーマ君」
「うん」
 二人が笑顔で喜ぶので、橘はいいことにした。
 
 
 
 
 結局同じ場所、コートが見渡せるベンチに二人は腰を下ろし見学していた。
 他校の練習は新鮮なものだ。
 橘が部長として、監督として指導に当たっている。一人二役は大変そうだ。
 それを見ていると、己の学校の部長だったらどう対応しているだろうかと、その姿が目に浮かぶようで、苦笑する。
 しばらく時間が過ぎて。
 突如、リョーマのポケットから携帯が高らかに鳴り響いた。リョーマだけでなく音が聞こえた人間と責任者である橘が視線を向けた。
 リョーマは携帯を取り出し、出た。
「Hollo?」
『何してるんだーーーーー、リョーマ。書類渡すだけにしては、遅いだろー?』
 鼓膜をつんざく大声に、リョーマは携帯を耳から遠ざけた。そして、顔をしかめる。
「Key?うるさいよ」
『何がうるさいだ?ああ?すぐに帰って来い!』
「えー。何でさ」
『お前には学習能力がないのか?……鳳に代われ』
「チョータロー、Keyから」
 リョーマは鳳に携帯を渡した。鳳はリョーマの様子と耳に届く聞き慣れた声から誰であるかすでに検討を付けていたのだが、神妙に携帯を受け取った。
「鳳です、部長」
『何やってるんだよ、お前は……。監督から不動峰に使いにやったって聞いたが、餓鬼の使いじゃねえだろ?遅すぎる。今どこにいやがる?』
「まだ、不動峰です」
『……何してるんだ、そんなとこで。……もう、いい。兎に角、これから迎えをやるから、リョーマを車に押し込め。いいか?首に縄付けても帰せ。部長命令だ』
「はい。わかりました」
 鳳は是の返事をした。それ以外返せない。
「すぐに帰って来いだそうですよ、迎えを寄越すそうです」
「Keyの過保護」
 跡部の指示にリョーマは呆れたように肩をすくめた。
「それだけ、心配してるんですよ。素直に従って下さいね。僕が怒られてしまいますから」
「ちぇ。他校の練習なんてなかなか見られないのに」
「また機会くらいありますよ。今回は諦めて下さい」
「わかった」
 
 リョーマから了解をもぎ取り、鳳は側に寄ってきた橘にありがとうございました、失礼しますと頭を下げた。携帯のやり取りから相手が氷帝の部長跡部であると予想が付いているだろう橘に……鳳が、相手を部長と呼んでいるから明らかなのだ……余計なことを聞かれないうちに立ち去ろうと鳳は決めていた。
 リョーマが何者なのか知られることを跡部は嫌っている。
 他校に自校の戦力を隠すのは当然なのだ。もちろん、それだけではないのだが。
「跡部か?」
「はい。さぼるなと怒られましたから帰ります。ありがとうございました。行きますよ、リョーマ君」
「うん。じゃあね。見学させてくれてありがとう!bye!」
 鳳に手を引かれながら、リョーマは手を振って笑顔を漏らす。
 
 その、一風変わった来客を静かに不動峰の部員は見送った。
 彼らがリョーマという少年の正体を知るのは、試合が行われる会場でのことだった。






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