「黒猫のワルツ」2−3





「どうしたの?」
 と声をかけてくれた少年が救いの神、というか天使に見えた。
 真田弦一郎は困っていた。とても困っていた。
 これほど困ることなど、ないほどだ。
 常勝立海大付属高校のテニス部副部長という肩書きを背負い、下級生からは畏怖と尊敬の目で見られ全国区と認められた渾名は皇帝の男が、平素は彼の一睨みで震え上がる者ばかりの高校生に見えない人相をし、性格も老成していて面白味がないと部長である同級生から常々いわれている男がだ。
 どんなに辛い練習よりも、窮地に立たされていた。
 救いの神か天使の少年は、外見もそれらしかった。身長と見覚えのある氷帝の制服は真新しいことから1年生だろうと推測された。
 己が迷子らしい少女を見つけたのは偶然だった。偶々用事があって神奈川から出かけてきたのが運の尽きであったのか、自分には全く向いていない子供の相手をすることになった。迷子を見捨てる訳にはいかなくて、泣きそうな少女に目線をあわせ出来うる限り優しく話しかけた。が、少女の外見は日本人ではなかった。
 予想通り日本語では通じない。英語ではどうだろうと学校教育の成果があればいいのにと思いながら話すが反応がない。
 益々泣きそうに顔を歪め、心細そうに口を噛む。
 万策尽きた自分を救ってくれた少年は、どうやら英語以外も話せるようで理解できない言語を口にした。
「この子、ルイーサっていうんだよ。イタリア語しかわからないみたいだから、両親がイタリア人かイタリア語を話す環境にいたんだね」
「ルイーサ?」
 教えられた名前で少女を呼ぶとにこりと笑った。
 先ほどまでは自分に笑ってくれなかったから、笑顔が見られるだけで嬉しいものだ。
「で、お前は?」
「俺?ああ、ルイーサの名前しか聞いてなかったね。越前リョーマ。リョーマでいいよ」
「リョーマ?氷帝の1年か?」
「そう。あんたは?」
「立海大付属3年、真田弦一郎だ」
「サナダ、ゲンイチロー?……ゲンイチローでいい?」
 屈託無く名前で呼ばれて、真田は内心瞠目しながらも頷いた。部内では名字で呼ばれることがほとんどで、高校テニス界の頂点に君臨する男を呼び捨てにする度胸のある人間は皆無である。唯一見かけからは伺えない食えない性格の部長である馴染みの男がからかうように呼ぶくらいで、通常名前を呼ぶのは家族くらいなものだ。
 そう考えると、新鮮な気分になる。
 自分という人間のアイデンティティに根付いているテニスというものを外すと、いったい、どんな風に見えるのだろうか。
 自分より下にある綺麗な顔を見下ろしながら、真田は考えた。
 リョーマがルイーサを抱き上げているため、右肩にテニスバッグ、左手にリョーマの鞄を持ちながら、真田は隣を歩いている。
 邪魔になるだろうと引き受けた。
 何分イタリア語ができない自分ができることは皆無だ。
 立海大付属高校は第二カ国語は英語、フランス語、ドイツ語の選択になっているが真田は英語を選んでいた。もし、英語以外を選んでいても通じなかっただろう。もし、などと思うのは意味のないこととわかってはいるのだけれど。
 街角で普通外国人から英語で道を聞かれただけで困惑する日本人が多い中、イタリア語ができる少年が現れるなんて、かなり幸運だったといっていい。
「リョーマは、イタリア語ができるのか?」
「まあ、日常会話くらいね」
 そっけない答えだが、イタリア語が出来る日本人は希有だろう。
「そうか」
 会話が続かない。
 真田は初対面の人間と打ち解けたり会話を弾せるような芸当を持ち合わせていなかった。かなり不得手といっていい。
 その間もリョーマはルイーサに安心せるように笑いながら話かけている。
 日常会話程度には見えないくらい流暢だ。
 もしかしたら、ちらりと聞いたが英語やイタリア語だけでなく他の語学も堪能なのかもしれない。
 
 
 
 歩いていると、交番に付いた。
 妙な取り合わせの3人連れに警官が珍妙な顔をしている。
「迷子なんですが」
 真田は一応最初に少女を見つけた責任感から、そう切り出した。
 椅子に座り状況を聞こうといわれ、二人は腰掛けた。ルイーサはリョーマに抱きついたままだ。
 ルイーサから話を聞くことができるのはリョーマ以外いないため、リョーマが聞いたことを告げる。
 警官から質問があれば、その度にイタリア語でリョーマがルイーサに聞くことになる。
 あらかた聞き終えた、とはいえ聞けることも少ない……警官は頭を掻いてため息を落とす。
「それは、困ったね」
 心底から、困った声だった。
 わかったことといえば、街で母親とはぐれたこと。街には車で来たこと。イタリア語を話すこと。
 情報が寄せられない限り、調べようがない。
 ルイーサの身に付けているものといえば、十字架のペンダントだけだ。
 
 何より、迷子は交番で預かるしかないのだが、ここにいる誰もがイタリア語はからっきしだ。意志疎通ができない子供を預かる不安といったらない。警察官も人間なのだから。
「お嬢ちゃん、おいで」
 警官が手を伸ばすが、ルイーサは首を振る。
 何をいっているかわからないから当然なのだが、リョーマに抱きついて服をぎゅっと掴んで離れようとしない。
 それを見てリョーマは小さく微笑する。
「あの、よければ俺が預かりましょうか?」
「いいですか?」
「ええ。ルイーサの両親が見つかったら連絡を下さい。うちに引き取りにきてもらってもいいですし、連れてきてもいい。連絡先を伝えておけば、大丈夫でしょ?」
 リョーマの提案に警官は縋った。
 交番にいれば外国人から道を聞かれることも多々ある。だから英語ならどうにか対応できるようになっているが、それ以外の言葉など無理があった。言葉がわからないからと例え本庁に応援を願っても、フランス語、ドイツ語までなら大学でも第二カ国語で習う可能性があるが、イタリア語ではほぼ壊滅だろうと想像が付く。もし、できる人間がいるとして、この瞬間協力が仰げるとは限らないものだ。その上、大きな事件ではなく、迷子だ。
 
「では、お願いできますか?わかりましたらすぐにご連絡差し上げますから」
「ええ」
 リョーマはルイーサにその旨を伝えたようだ。ルイーサが笑う。
「ちょっと、失礼します」
 リョーマはポケットから携帯を取り出すと、短縮を押して掛けた。
「Hollo、Key?……Yes。え?二人とはもう別れた。それでね、迷子預かっていい?……だってイタリア語しかわかんないんだもん。可哀想でしょ?……That is right、bye!」
 リョーマは通話を終えて、そのうち迎えが来ますからと告げた。
 
 
 やがて、10分もした頃交番の前に黒塗りの高級車が止まった。その中から老紳士らしき人物が降りてくる。運転手とは別だ。
「お待たせしました、リョーマ様」
「ごめんね、日下部さん」
 リョーマは立ち上がり、それでは迎えがきたので失礼しますというとルイーサを抱き上げて交番を出て車まで歩く。
 真田も警官に会釈してリョーマの鞄を持ち、その後を追った。ルイーサはリョーマの腕の中でわからないながらに、真田に手を振るため、真田もぎこちなく振り返した。
 そんな二人を苦笑しつつ、ドアを開け後部座席にルイーサを乗せると振り返り、真田からリョーマは鞄を受け取った。老紳士はドアの横でリョーマを待っている。
「Thanks。じゃあね、ゲンイチロー」
 リョーマは笑って手を振る。
「あ、リョーマ……」
 真田は、呼び止めておいて何と言っていいか困る。
 このまま別れたら、二度と会うことはないだろう。
 迷子のルイーサの行方も己には一切知ることはない。
 真田にしては、珍しく端切れ悪く口ごもる。
「ああ、ルイーサのこと気になるよね。ちゃんとルイーサが両親にあえたら連絡するよ。携帯の番号でいい?」
 リョーマは真田の戸惑いを、ルイーサの心配だとすぐに理解し己の携帯を取り出した。そして真田に番号を聞き登録し、目の前で掛けた。
 着信の音がして真田の携帯が鳴ると、それが俺の番号と告げた。
「ああ、ありがとう」
「こっちこそ。じゃあね!」
 今度こそリョーマはルイーサの隣に乗り込み、そのドアを待ちかまえたように老紳士が閉めた。彼が助手席に座ると車は動き出した。
 
 真田は車の姿が見えなくなるまで見送った。






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